草輔×修次 鈴子が帰ってくる。ここに置きっぱなしだった本を取りに来るついでに、一泊するとのことだ。そう修次に告げると、彼は「分かった」と言って小さな旅行鞄に荷物を詰め始めた。
「なにをしているんだ?」
「なにって、俺はここにいたらまずいだろ。ビジネスホテルにでも行くよ」
「なんで。お前が出て行く必要無いだろ」
修次は呆れたように振り返った。
「俺はあんたの娘を騙したんだぞ。なにより母親の仇だ。居ていい理由が無いんだよ」
その通りだった。鈴子の気持ちを考えれば、そうするしかない。しかし、頭では理解できても心が拒否していた。修次をこの家から追い出すようなことをしたくなかった。ようやく居着いてくれたのだ。いま手を離したら、またこいつはふらりと姿を消すんじゃないか。そう思うと不安でたまらなくて、胸がざわめいた。
そんな草輔の顔を見て、修次はその葛藤を汲み取ったらしく、小さく微笑んだ。
「大丈夫だよ。携帯持って行くし」
「……どこに泊まるか決めてから行ってくれ。俺に教えてから……」
「はいはい」
地図のアプリを暫くスクロールした後、近所のホテルを指し示して「ここにする」と言い残し、彼は荷物をまとめて出て行ってしまった。取り残された草輔は、暫く玄関の前で肩を落としていた。
「はぁ……」
娘と久しぶりに会えると言うのに、こんな気持ちになってしまう自分に嫌気が差した。それでも修次にはここにいてほしかったというわがままな気持ちが消えない。
室内を振り返る。そこにはもう、修次がいた形跡は全く無い。鞄一つで足りてしまうほどこの家には修次の私物が無いことに気付いて愕然とした。
にわかに浅くなった呼吸を意識して深く吸い込み直し、吐き出す。気を紛らわせるために服を着替え、鈴子になにか菓子でも用意しておいてやろうと近くのケーキ屋へと向かう。
外の空気のおかげか、歩いて運動したからか、先程よりは幾分か気持ちが落ち着いてきたが、洋菓子店の煌めくショーウィンドウを眺めているうちに昔こういう店に修次と行ったっけ、と思い出してまた心が翳った。少し離れただけでここまで不安定になる自分が可笑しくなる。だいたい修次は子供ではなく、大の大人だ。いくらなんでも案じすぎだった。
店員から受け取ったケーキの箱を大切に抱えて帰宅し、冷蔵庫に収めてダイニングテーブルの席に座る。次に気付いたときには部屋全体が暗くなっていた。時間の感覚が無くなっていたらしい。仕方なく立ち上がって照明を点けた。白々しい蛍光灯の明かりが一人分の不在を律儀に浮かび上がらせる。
そろそろか、と玄関に目を向けた丁度そのとき、呼び鈴のブザーが短く鳴らされた。鈴子が帰ってきた。
久しぶりに会った父は、元気そうな、そうでもないような、不思議な雰囲気を纏っていた。ちょっと痩せたんじゃない? と訊くと、曖昧な顔で笑っている。寿司でも取ろうかと尋ねる父に「たまごチャーハンがいい」と言うと、「両方食えばいいんじゃないか?」と寿司屋のチラシを鈴子に手渡して台所に立った。なんだか接し方が祖父母に似てきた気がする。
冷凍のごはんを電子レンジで解凍しながらボウルの卵を混ぜている父の背中を暫く眺めてから、手元のチラシに視線を落とす。印刷してある写真や文字になんとなく滑らせていた目をふと辺りに向けた。自分が家を出たときからほとんどなにも変わっていない。家具の配置も、本棚の並びも、そのままだ。家電だけは幾つか最新のものに変わっていたが、それも自分がいた頃から同じだった。その他のお金のかけどころがよく分からないのだ。
だけど鈴子は、変わった、と思った。父一人になったからではない。父以外の存在……人なのか動物なのか物なのかは分からないが、それが確かにここにはあった。
「お父さん」
「ンー? どうした。決まったか?」
油をひいたフライパンに卵が注がれる、ジュワーという音が響く。なんでもない、と言う鈴子の声は、妙に手慣れたその作業音に半ば掻き消された。
「それ」がなんなのかは、案外すぐに判明した。シャワーから上がり、タオルで髪を拭きながらダイニングに戻ると、父はそこに居なかった。煙草かな、と見当をつけてベランダの窓を少し開けると、父の抑えた話し声が聞こえてきた。思わずそっと覗き込む。携帯電話を耳に当てている。
「ーーなのか。……そうか、良かったな。お前ちゃんと飯食ったのか。……え? 最近はそんなのがあるのか。ハハ、今度一緒に行くか。ーーん。そろそろ寝ろよ。あまり夜更かしするんじゃないぞ。……ああ。分かった。おやすみ」
隠れる間もなく父が此方を振り返る。一瞬時が止まったように見つめ合っていたが、さしたる意外性も無かったので自分の方から「彼女?」と訊いた。しかし訊きながら、「違うな」と思った。それにしてはなんというか……もっと、幼い子供を相手にするような口調だった。
父は大いに迷う素振りを見せた後、「彼女じゃない」と首を振った。
「今度、話してもいいか本人に訊いてから……鈴子にも伝える」
鈴子の目を見て、簡潔に言い切る。相手がどこの誰でも、少なくとも父の誠実さだけは信用しているので安心して頷くと同時に、父の中では自分や母と同じ位置にその人がいることを雰囲気で感じ取って、なにかを侵害されたかのような、理屈以前の反射的な不快感を覚えていた。
「風邪引くぞ。戻ろう」
そう促されて、室内に戻る。
明日、早めに帰ろうかな。なんて思いながら。
「そんなことしたら本当に縁を切られるぞ」
一生言わない方が良いことだってあるだろ。旅行鞄からパソコンのケーブルや文庫本、畳まれたワイシャツや保湿剤らしき小さなボトルを順に取り出しては収納している修次が決まり悪そうにぼそぼそ言いながら下を向く。
「ていうか、なんで付いてくるの?」
小旅行から帰ってきた修次からは、別の空気の匂いがする。
「ああ、ごめん」
数歩距離を取った先にあるソファに座って、作業を続ける修次の姿を眺めていた。帰ってきてくれた。
「お前の言う通りだな」
自分が修次と一緒にいたいと願うことも、修次が自分と暮らし続けていることも、客観的に見たらありえないことだ。
元査察と脱税犯なだけではない。妻が死んだ原因を間接的に作り、娘を意図的に陥れた人間のことなど、普通は顔も見たくないどころか復讐対象でしかない。
理屈の上では、そうだ。実際、そのような感情も大いに持っている。だけどそれだけではないことを、直接の被害者である娘はもちろん他の人間が理解することなどとてもできないだろう。自分に代わって、鈴子が修次に復讐する可能性もあるのだ。
器用さに欠ける自分と、いかにも器用そうに見えて下手すると自分よりも更に不器用な修次に、このような矛盾と秘密を死ぬまで抱えて生きることなどできるのだろうか。
結論の出ないことを考えていても無駄だ。遠くへと向かいかけた思考を引き戻して、鈴子にはこの先ずっと伝えることはしないと心に決めた。親のくせに自分勝手だが、親だからこそ意地でもそれで通すのだ。
「修次と別れる」という、全てを解決する選択肢がそれらの意識の裏にべったりと張り付いていた。直視できずに目を逸らす。
ソファに横になって瞼を閉じる。片付けを終えたらしい修次の気配がすぐ近くにあった。
「こっちにおいで」
修次が自分の傍に跪くのが分かった。その背中に触れたくて、暗闇の中、手を伸ばした。