シャットアウト 怖かった。
予感があった。
のんびりと他人事のように立ち尽くす二人に腹が立った。どちらかは忘れたが、背後の扉を蹴破って、道を塞ぐ人々を突き飛ばすようにして急いだ。早く外に出たかった。
あの地響きはただの地震じゃない。意味深なセリフ、招くような言い回し。知りたくなかった。でも知らなければならなかった。知っていたんだろ、と怒鳴りたくなった。
ようやく見つけた世界は、一面の青色に染まっていた。
やっぱり、と僕は思う。
空と海だけが向かい合って、一線で繋がっている。それだけ。他には何もない。
「……あ、あぁ……」
嗚咽。びしゃびしゃと何か液体が溢れる音がした。自分じゃない。
自分よりも小さい背中は震えている。背中をさすってあげる。どうせ一面水だから、好きなだけ吐いたらよかった。
世界が終わる瞬間を、僕は見たことがなかった。あの時も、その瞬間に彼女が僕を送ってくれたから、僕は死なずにいる。つまり彼女は、その身で一度滅びを体験したことになる。その時の何かを思い出してしまったのかもしれない。そんなことがなくても、この光景はいっそ夢みたいだ。現実であってほしくない、吐いてしまうくらい当然だ。……不思議と自分に込み上げてくるものはない。この世界は、まだ僕のものではなかった。
でも、事実は事実だ。
東京は沈んだ。
落ち着いた彼女の瞼にたまった涙を、指先で拭った。
ここへ来るまでに助けた亀だか蛸だか、多分悪魔のような誰かを呼び出して、僕らは水上へと出た。
水はやけに透き通っていて、水底には街がまだ見える。街は水に押し流されたのではなく、そのまますっぽりと水に沈んだ。そんな表現が一番適している。
「ねえ見て、あれって……」
彼女が指差すのは、赤い先端だ。真っ赤な三角の高層ビル。そんなはずはない。東京のシンボルだった赤い塔は、本来の高さの半分以上が水に浸かって、おもちゃみたいに水面からちょっと突き出ている。
他にも高い建物はちらほらと突き出ていて、まだ入れそうなところもある。それが余計に、この東京が埋まっていることをアピールしてくるからタチが悪い。いっそ盛大に、全部が水に浸かっていれば、底を見ないようにするだけで済むのに。見ようによっては全方向が水平線で、空と海だけの世界、いい観光スポットとして選ばれてもいいくらいだ。
「本当に都庁に行くの?」
呑気に周りを眺めていたら、彼女は不安気に首を傾げた。
「行くよ。……行かないと」
行くしかなかった。
何かすることがある方がずっとよかった。
延々と言い争いを続ける二人に、東京が沈んだと告げても、二人に感傷なんてものはなかった。それよりももっと先のこと、これからどうするか。そればかりだ。それが正しい、正しいんだろう。だから僕もそうする。
出来ることがあるならするし、殺せる悪魔がいるなら殺す。
「あっちの方角ね、きっと」
そう言って再び指差す方を見た。水面から突き出ているうちの一つは、確かに都庁だ。
目印があるのはいい。あそこまで頼む、と尻の下の亀に言った。亀は従順だ。遮るものもないので、目標の都庁まで真っ直ぐ最短距離を進む。
都庁から先に、それほど高い建物はない。だから人工物は一つも見えない。
僕は、僕は都庁の新しい入り口から、西の方を、見そうになった。
「ここから先は何もないわね。行っても意味がなさそう」
何もない。その通りだ。
滅んだ東京がさらに沈んで、もう全てが跡形もない。
あの荒廃した東京ですら、新宿から西へは行かなかった。広がっていたのは街でも跡地でもなく、森だ。三十年の時を経て、井の頭公園あたりの植物が生息地を拡大したのか、人間がいるような場所はなくなっていた。
目的もないのに、森に立ち入る手間を選ぶことはなかった。森に入るにはそれ相応の準備をしなくちゃいけない。そんな余裕はない。だから行かなかった。行っても意味がなかった。そんな言い訳をすることができた。
でも今なら。今なら全部水没している。水上からなら、行こうと思えば行くことができる。森になっていてももしかしたら、木々の間に何か残骸が、暮らしていた痕跡があるのかもしれない。吉祥寺の街並みだったものが。
……頭のギアを外した。
顔を思い切り水に突っ込んだ。水の中から、西の方角を見る。何も見えない。当たり前だった。水で光が届かない。ここから何キロも先の場所なんて見えるはずがない。
顔を上げた。袖で顔を拭った。濡れている髪から水が滴った。水はこんなに透明なのに、海の味がして、しょっぱいしべたべたする。
「何もない。先へ行こう」
何もないままでいい。
「……うん。そうしましょう」
彼女の掛け声で、亀は都庁に停まった。彼女は先に下りて、僕へ手を差し伸べる。その手を取って、都庁の窓から中に侵入した。
この階から下は全部水没しているのか。新宿の復興し始めた街並みも、全てが死んだ。中途半端に知ってしまっているから、無駄に苦しい。
だから知らない方がましなんだ。
何もない。僕にとってはそれでいい。だから行く必要もない。
──余計なことを考えていられる暇はない。侵入に気づいた悪魔がすぐさまやってくる。群れをなしながら、我が物顔で。
ヘッドギアを装備し直し、悪魔を呼び出す。
背中の剣を引き抜いて、息を整える。