馬に蹴られるならまだ優しい
「おはようございます」
「お疲れ様です」
世間一般で言う朝の通勤時間
こちらを見て挨拶するものもいれば無視するものもいる。
そのことに何か思うわけでもなく七海は目に入る相手には形式的に声をかけつつ行き交う人々を見送っていた。
「七海さん、今日の入出予定一覧の連絡来たんで目を通しておいてもらえる?」
声に振り向くと七海より随分小柄な男がすぐそばに立っている。
彼とは数日前に出会ったばかりだがあまり取っ付きやすいとは言い難い外見の七海にも最初から変わらず穏やかに接してくれており分からないことも聞きやすい。
良い先輩、ということになるのだろう。七海にはその肩書きで真っ先に思い浮かぶ人物が別に居たが今は関係ない。
速やかに思考を切り替えて男に返事をした。
「分かりました。一度戻りますので此処をお願いしても良いですか?」
「ああ、大丈夫だよ。昨晩は急変の患者さんが多かったみたいだから今日は追加で裏口を使う人が多いかもしれないね」
「そうですか……分かりました」
「まだ慣れないかもしれんが病院ってのはそういうものだから。ある程度は割り切ってね」
はい、と短く返事をして場を離れる。
七海の代わりに立った男は慣れた様子で通る人々に挨拶をしていた。
東京近郊の某病院
その警備員室に入職したばかりの新人、というのが今の七海の立場だ。
もちろん二度目の転職をしたわけではない。1級呪術師としての潜入任務である。
『当直仮眠室を使用する職員の一部が謎の負傷や急変を起こす』
怪異としてはありがちなものだ。
当然、病院側としては当初事件や事故の可能性を疑い調査を行ったが原因は不明。
それなのに敏感な者が異形を目撃したという話まで出てきて騒ぎは大きくなる一方で。
病院当直はアルバイトで大学病院から派遣される人材も多いためこの不可解な事態を放置していると悪い噂が立ち敬遠されるようになるかもしれず、そうなってしまうと業務継続も困難になる。
そのため理事長は慌てて新たに当直仮眠室を作り被害は一旦収まったのだが結局は力技の応急処置
新たな被害は起きていないため安堵の声もあるが起きた事件は未解決のままであるため不安の声はなくならず、少しずつ退職者が出始めて危機感を覚え呪術高専に依頼と相成ったわけである。
こうして民間から依頼されて除霊に向かうのは高専所属の呪術師として日常的なものであるがそれはあくまで一般職員の知らぬ間に現場を訪れて速やかに任務を遂行するという形。
依頼情報の精査や現場の事前調査は補助監督が行った上で資料に纏めて任務振り分け時に渡されるので今回のように呪術師が職員として潜入しながら探ることは本来そう多くない。
忙しい呪術師が調査段階からかかりきることで一つの任務に拘束される時間が長期化することは多方面で不利益なのだ。
人員不足に常日頃悩む高専側は勿論、依頼側だって報酬額の増加に繋がるので歓迎しない。
にも関わらず現実今ここで七海は病院警備員として現場潜入し5日目を迎えている。
これには当然理由があった。
「本業でもないのに申し訳ない」
七海が警備員室備え付けのパソコンで総務から送られた出入り予定を確認していると先ほどの先輩より更に年配の男性が小さく声をかけてくる。
彼の右腕にはシンプルだが腕章が巻かれており、同じ警備員制服を着ている部署内でも立場の違いを示していた。
「お疲れ様です。主任」
顔を上げて七海が新人らしく畏まって挨拶をすると彼は少し居心地悪そうに頭を掻く。
警備主任である彼は医療系の資格を持たない七海が病院という現場になるべく自然に潜り込むにあたって理事長から事情を説明された数少ない今回の内部協力者だ。
資料だけでは読み取りきれない実情や細部の説明を行ってくれたり、警備員としては不自然な動きをせざるを得ない七海の行動をフォローしてくれたりとかなり助けられている。
「これも本業のためのものですからお気になさらず」
周囲には二人以外誰もいない。
そういうことをきちんと見計らって話しかけてくる辺り、役職を任されるだけある人材である。
「うちの職員の前にしか現れないお化けってねぇ……病院に人の死は付きものだが…ここはそんなに恨まれるほど悪どい病院ではないんだがなぁ」
「人の恨みとは得てして理不尽なものですよ」
「……なんとも言えんもんだねぇ」
主任から苦笑が漏れる。
確かに自分の職場で異形が生まれる程の負の感情が発生してると知るのは気分の良いものではないだろう。
口ぶりからして職場に愛着も持っているようであるし、自然な感情だ。
「今日の予定を確認しましたが夜の当直は主任が担当されていますね。もう一人は……」
「あぁ、君の少し前に入った子だよ。彼には外回り担当してもらって夜間の院内巡回は私がするよ」
だから安心して件の部屋に向かってくれて良いよ、とお墨付が出る。
「夜に備えないといけないだろうから今日は午前で一旦上がってね。シフト調整もしておいたから適当に話を合わせてくれるかな」
「助かります」
本当に良い職場環境だ、呪霊さえいなければ。
七海は心底から主任に礼を言った。
午前の勤務を終え、帰り際にわざと遠回りして今回の任務場所となる旧当直仮眠室の近くを歩く。
事前情報では呪霊は夜にしか出現しないということなのであまり意味はないだろうが一応異変は無いか確認しておくに越したことはなかった。
と言っても、今は使われていない上に職員からは気味悪がられている部屋に堂々と出入りするのは不審であるためこうして気配を探る程度しか出来ないのだが。
潜入した初日、仮ではあるが書面上で病院と雇用契約を結び服装も警備員のものを着て夜間に部屋で一晩過ごしてみたが標的の呪霊は出現しなかった。
仮初めの身分ではすぐに反応が出ないのかもしれない、と考え数日警備員として真面目に業務をこなしながら夜毎に訪室するが結果は一向に変わらない。
呪力の残穢は感じるので呪霊の存在事態は間違いないだろう。
事前資料には入職して3日目の研修医が被害に遭ったこともある、とあったし警備員の被害者もいたため職種がダメということもない筈だ。
彼らと七海の違いとは……職員であること、旧当直室に夜間踏み入ること、一つ一つ現時点で判明している条件を挙げてみても明確な違いは分からない。
七海が呪術師であると察して身を隠しているというのであればかなり高度な知性を備える特級の可能性も出てくるがそれにしては残穢から感じ取れる呪力は微弱過ぎる。
完全に断定してしまうのは危険だが、これまでの被害状況や七海が直接現場を見た限りでは標的の除霊は2級相当程度と推察するのが妥当だと感じていた。
と、なると次に考えられる可能性としては…
「まだ他に何か条件が……?」
潜入して今日で5日目
流石にその可能性に至るしかない。
今晩も呪霊に遭遇が叶わなかった場合はそう断定して別のアプローチを考えねばならないだろう。
先にも述べた通り元々多忙を極める仕事な上に他に比べて人数の限られた1級が一つの任務に長期間かかりっきりなのは他の術師にも負担が大きい。
何より1級の手にも余る案件と判断されれば……次に回されるのは更にその上、となるだろう。
1級の上、それはつまり……
そこまで考えてから七海は踵を翻しその場から離れる。
慣れた手つきで胸元からスマホを取り出しメール画面を起動すると電話帳から伊地知のアドレスを選択した。
同日22時03分
仮眠を取り、軽食を取って戻った七海は再び旧当直室の前に立つ。
この時間なら夜の巡回も一回目は終わっており次の深夜帯の巡回まで暫く余裕があるため多少戦闘をしても帳さえ下ろしておけば他の職員を巻き込み辛い。
とはいえ万が一の目撃に備えて服装はいつもの仕事用のスーツではなく支給された警備員服だ。
シフトに入っていないことがバレると厄介だがその辺は警備主任に話を合わせてもらえれば良いだろう。
潜入という任務形態上、いつもなら付いている補助監督が傍にいないので自ら文言を唱えるとただでさえ暗い廊下の闇が一層濃くなり静けさも増した。
静寂が辺りを包むと音と動きを発する異物の存在感は増す。
現場にいる1級術師の鋭敏な探知能力はソレを瞬時に感知した。
「……何をしているんですか…」
少しズレてしまったサングラスを掛け直しながら振り返る。
帷が破壊された様子はないので下ろしきる寸前に滑り込んだのだろう。気付かなかった己の未熟さに七海は溜め息を吐いた。
分かってはいるが己と彼との実力差はこんなところでも如何ともし難い。
「よっ、お疲れサマンサー!」
少し前から気に入っているらしい冗談混じりの口上が場に響く。
帷が下りていなければ全力で睨み付けていたところだ。
「流石にアナタの投入にはまだ早いのではないですか?五条さん」
言ってはみたが実は予想出来ていない事態ではなかった。
五条専属のような立ち位置にある補助監督の伊地知に昼間連絡を取ったのは七海自身。
プライバシーという概念が死んでいる五条に首を突っ込まれる可能性は十分あり得ることである。
それを分かっていても伊地知を選んだのは彼への信頼性と仕事の確実性、そして情報が筒抜けたとしても国内…否、世界一多忙と言っても過言ではない特級術師の五条が振り当てられてもいない任務に実動することのスケジューリングの困難さをよく知っていたからだ。
七海が把握している限り、本日の五条は鹿児島湾の火山島に生まれかけている呪胎の様子を確認・必要なら除霊の任務に向かっていた筈。
「いや、完全にバッチリしっかり僕の出番なんだよねコレが」
しかし七海の言い分はあっさり否定される。
口調は相変わらず軽いが様子が思いのほか真面目で流石の七海も意表をつかれた。
「特級案件、ということですか?そうだと判断出来るだけのものはまだ無かったと思ったのですが……」
五条の出番ということはそういうことだ。
昼間、七海が伊地知に依頼したことで事態が動いたのかもしれない。
己の段階で処理するために行ったことが結果的に五条の稼働に繋がったのだとしたら組織に属する者としては正しいのだろうが、七海個人としては複雑だった。
だが七海の言葉はまたしても五条に否定される。
「あー、違う違う。呪霊自体は多分オマエの予想通り2級相当ってとこ。此処に今来て僕も”視た”上で同じ判断だね。そっちじゃないんだよ」
「『そっち』?じゃあどっちなんですか」
聞かれた途端、五条の顔がニンマリと笑う。
待ってましたと表情で語るその様子に嫌な予感がした。
実は今この状況で七海は五条を視界に入れた瞬間からあえて触れずにいたことがあるのだ。
「オマエが昼に連絡してきたから正式な依頼の流れが立ったけど、伊地知のやつは元々追加調査する気だったんだよこの任務。七海にしては時間がかかり過ぎてるから気になるってさ。ほら、アイツ大概の高専所属術師の日報閲覧権限あるじゃん?」
呪術師の勤務形態は特殊で術式や御家の関係で機密性が高いこともあって任務中のことは不明瞭なことも多くなりがちだ。
しかし国と都が公的資金を費やしている以上、その活動内容の定期報告は必須となる。
そのため高専所属者全員に課せられるのがテンプレート使用の日報と任務完了毎の報告書提出(補助監督やその他裏方には更に経費換算書や各連携機関への申請書エトセトラ……の作成義務も追加されるようだがその辺りは今は省略する)。
当然今回の任務でも七海は毎日メールで提出していたわけだが初日以降ほぼ変わり映えの無い内容であったことは入力した七海自身が誰よりも知っている。
それを補助監督の中でも権限の高い伊地知がチェックした際に違和感を覚えた。
「オマエの動向や調査方法に問題や怠慢はない。ということはそもそも判明してない事象や情報があるんじゃないかって考えたわけね」
残念ながら術師としては才を持ち得なかった伊地知だが補助監督としての才覚は卓越すべきものがある。
彼は普段、五条や五条の受け持ち生徒に付くことが多いため今回の七海の任務でも事前調査は別の補助監督が行った。
その者も決して手を抜いたわけではないのだろうが”抜け”というのはどうやっても生まれる時には生まれる。
「それで伊地知がもう少し独自に突っ込んで調べていった結果、新情報が発覚したってわけ」
「つまり、隠匿されていた情報がやはりあったというわけですか」
「そういうこと。しかも超重要事項でさぁ、伊地知もちょっと怒ってたわ。学長に言って報酬上乗せ請求するっぽいよ」
伊地知がそこまでするとは珍しい。
学生時代から直接の先輩をしている七海でもそんな風に怒りで行動に出る後輩の姿を見た記憶は無かった。
それだけ秘匿されていた内容が…ということの証明なのだろうが、そうなると七海としてはこの空振りの4日間の労働時間を返して欲しい気になる。非常になる。
けれど時間は戻らない。これだけは唯一無二絶対の世界の真理だ。
七海は込み上げるやるせなさを抑える代わりに溜め息を出すことでどうにか気を保たせる。
果たして今日何回目の溜め息だったか。
考えたら負けな気がして話を進めることにした。
「依頼側の非で業務に支障が出ているわけですから妥当な判断でしょうね……で、そのこととアナタの格好に関連性はあるんですか?」
五条が現れてからここまで、あえて触れずに来たもの。
話の流れからしてこのままスルーで終えるわけにはいかなさそうな気がしてきた。
その七海の勘はバッチリ当たっていたようで五条が大きく首を縦に振る。
「ある。超ある。っていうかこれが隠匿情報の答えだから」
五条はいつもの黒一色のセットアップではなく彼の髪色と同じ白の上下ユニフォーム……七海もこの5日間で見慣れたこの病院の看護師が身に纏う白衣を着こなしていた。
「よくアナタのサイズがありましたね」
五条は日本人離れした長身とスタイルの持ち主である。
七海ですら任務前に警備員服を手配する際に元々あった予備品が合わず新たに手配してもらったのだからこのスクラブタイプのユニフォームだって同様の筈だ。
ご丁寧にその胸元には病院名も刺繍されていた
「僕らの後輩はそれだけ優秀だってことだよ」
言われるまでもなく知っている。
それでも七海はこの任務が終わったら伊地知に彼愛用の胃薬を差し入れることを決めた。
本当に色んな意味で今回は彼に心配と面倒をかけ過ぎている。
「それで、その格好が答えという意味は何ですか?看護師限定対象というわけではないでしょう?」
現場は当直仮眠室だ。
夜勤自体は看護師も行うが過去の被害者に研修医や警備員がいることから分かるように今回の現場は医師用に使われていたもののため看護師のフリをしないといけなかった、というのはおかしい。
当然の七海の疑問に五条はまた笑う
また待ってました、の内容のようだ。
五条はわざわざその長身を屈めて七海の耳元に口を寄せる。
二人しかいない帷の中で当然その意味は無い。
そういう話し方をしたい、ということなのだろう
「それがさぁ、もう一つの呪霊出現条件……あの部屋で『職員同士でセックスすること』なんだって」
飛び込んできた言葉に七海は耳を疑った。
「……被害者には入職3日目の研修医もいた筈ですが……」
「なかなかの大物だよなソイツ。相手は非番の主任ナースだって」
AVか、と口にこそ出さなかったが七海の思考は伝わっていたようで五条は愉快そうにまた笑う。
「旦那と別居中の女医が警備員を連れ込んだー、とか泌尿器科副部長と経理課お局様の不倫現場だったりとかもあったらしいよ」
無意識のままに事前資料で読み込んだ被害者一覧の氏名と肩書きが脳内で想起され始めた。
確かにどれも見覚えがあり、被害に遭った日時の組み合わせと合致する。
不幸中の幸いで全員重軽傷の差はあれど命に別状は無かったと記憶していた。
「…………」
「他の被害者もそういうわけな上にハラスメントだの金銭授与だの色々やばい事情が混み合いまくってる。醜聞を隠匿しようとするのは何処の業界の組織でも一緒だね」
悪どい病院ではないのだが…と被害に心を痛めていた主任の顔を思い出す。
確かに悪どいとまではいかないのかもしれないが相応に愛憎渦巻く組織ではあったようだ。
むしろ負の感情の発生と熟成に関してはよほどタチが悪いと言える。
「ま、呪霊発生現場にはありがちだよね。特にここは病院ってことで日常的に生死や臨死が行き交う場所な上に立地的にもあんま良くないから悪条件が重なったって感じかな」
「……死者が出る前に高専に依頼が来て良かったということでしょうか」
「それは割とガチにある。ここの理事長が政界と癒着しててね。こっちの世界の理解やツテがあったみたい。そういう紹介だから被害規模の割に1級案件になったってことだろ」
任務の等級割り当ては表向きは呪霊の強さに応じてだがこういう『様々な事情』を鑑みてその重要度が上下することはままある。
決して珍しいことではなく、組織運営のためにも必要な措置であるから今更何か思うこともない
ただゲンナリするというくらいのものだ。
そんな七海の肩を軽く叩いた五条はそのまま腕を引いて旧当直仮眠室の扉に手を伸ばすと彼は殊更ゆっくり振り向いて七海の眼を真っ直ぐ見る。
「さて、事情も理由も分かったことだし……条件、満たそうか?」
オシゴトしましょうね、と唇を舐めて七海を見るその仕草は寝室で何度も見たことのあるソレだった。
仮眠室に入るとシンプルなベッドが二つと作り付けのテーブルとパイプ椅子が二組、そして端にはロッカーがこれまた二つ並んでいる。
「ふーん、二人用って感じ?」
「法人化はしていますがそんなに大きい病院ではないですからね。これで数は足りるそうです。看護師や介護員はナースステーション奥や病室側の空き部屋に別で用意している仮眠場所もあるそうですし当直医も基本は緊急呼び出しに備えて医局のソファで過ごすことの方が多かったようですね」
だから呪霊の被害者がある程度限られていてもそんなに疑問には思わなかったのだ。
初日に七海自身もされた説明をそのまま言うと五条はすぐさま意味を理解した。
「ここまで来るのはお偉いさんかサボり目的ってことね。研修医よく使えたな」
「近くの総合病院の院長子息らしいです」
「本当に大物だったか」
肩書きもさる事ながら、神経の太さも。
「新しい仮眠室は割と洒落てましたよ。カプセルベッドタイプで1部屋に最大6名分、同じ形で5部屋並んでます」
「今後は職場ですんなって牽制の圧じゃんウケる……でも」
掴まれたままの腕を引かれるまま目の前に倒れこむ。
スプリングの効きが悪いベッドは体格の良い七海に呻くようにギシリと音を立てた。
「そうなると余計に此処がソレ用っぽく感じるよね…警備課の七海サン?」
長い足が七海の身体を跨いで座る。
スプリングの軋みは更に大きくなっていた。
2メートル近くの大男二人
さて、これまで色んな意味で酷使されてきたベッドは過去最大級であろう負荷に耐えられるだろうか?
「本気ですか?」
「何のために僕が来たと思ってんの」
こんな準備万端で、とその指が胸元を引っ張ると病院名の刺繍の下に真新しい名札がぶら下がっている。
「アナタいつから看護主任になったんです?」
「僕クラスなら看護部長とか師長くらいだよなって思ったんだけどねー。でも何かエロくない?主任って」
そういえば学生時代に五条から無理矢理回されてきたアダルトビデオの中にそういったものがあった気がする。
内容を観たかどうかは覚えていない。
何となく灰原にそのまま横流したような記憶があるが。
「この世の主任職の方から苦情来ますよ」
「バレなきゃセーフセーフ。本当はミニスカワンピのナース服とかにしてやった方がセクシーかなって思ったんだけどここの制服じゃないと条件合わなそうだからさ」
某有名ディスカウントストアに売っていそうなチープ素材の衣服を着る五条が脳内に浮かぶ。
想像上でも限界寸前まで引き伸ばされた安布が哀れだ。
そういう類が好きな人種もいるのだろうが生憎七海は報われない衣類の方が気になって集中出来ない側である。
そう考えると五条が意外とノリより実利を考えられるタイプで双方に幸いだった。
「フリーサイズになりやすいスクラブタイプだからこそアナタのサイズがすぐ用意出来たんだと思いますよ」
「え、オマエ服の材質特性とか把握してんの?やっぱナース服大好きだろ……」
「…………」
素直に驚き見開く眼から視線を逸らす。
顔ごと追ってこられたが意地でも多少無理な向きにしてでも交わし続ける。
図星のつもりは無かったが指摘されてみると少々気まずい気がするので。
とはいえ下手に言い訳をしても余計に悪手。ここは沈黙が正解である。
黙秘権は憲法が保障する基本的人権の一つ。七海は持てる権利を行使することに抵抗を持たないことを大人になる過程で学んだ。
「おいコラ沈黙は肯定だぞ。素直になっ…れ……ッん」
しかし相手は公園で屯する主婦より口巧者の豪胆者の五条
追及を交わしたいなら流すだけでは足りない。行動こそが有効なことを七海は経験則で知っている。
「んんッ、ちょ、待っ…ひ…アッ」
スクラブタイプの白衣はゆったり着るように作られていることが多く生地も強い。
それゆえ七海の力でこんな風に強引にたくし上げてもすぐには駄目にならずに耐えてくれる。
「オマエ、そっ、ズル…いっ、だろ…!」
唾液に濡れて常より色味を濃くする胸の頂きは簡単に膨らみを大きく尖らせている。
「相変わらず弱いですね、ココ」
直近で喋ることで吐息が当たるのか七海の声に呼応するように震える身体が揺れる。
「誰のッ…」
「もちろん私ですよ」
誰のせいだ、との非難に被せて押し潰す。無駄に惚けたところで冗談でも意趣返しでも他の人間の存在を示唆されたらダメージを受けるのは己だ。
逆にここで開き直ったことで五条の威勢が更に削げる。
魑魅魍魎よろしくの古狸達と日頃やり合う五条だからこそ真正面からのこういう”仕掛け”は効くのだ。
「――――っ!!」
言葉も無く白い頬が紅潮する様が見れて気分が良くなる。
誤魔化すために始めた筈がなんだかんだ興が乗ってきたのを自覚したところで再びスクラブをたくし上げようとすると今度は手首を抑えられた。
「ここで”待て”は不粋では?」
「……違ぇよ。そうじゃなくて…」
五条の手が手首からゆっくり七海の首もとに伸びる。
ボタンを外されたのだと気づいたのは上から順に二つ済まされてからだった。
「こっちも堪能させろってこと」
艶やかな唇が喉を甘噛みする。
ジュッと音を立てられ吸いつかれたことでそこが赤く内出血を起こしたのだと分かる。つまりはキスマークだ。
「警備員服とかスーツと変わらないだろって思ってたけど、実際見てみると結構違うもんだな」
蕩けそうな笑みを見せ、今度はさっきと少し離した場所にまた吸い付いてくる。
「そんなに違いますか?」
「思った以上に。オマエがオーダースーツ以外着てるのもサイズ合ってなくて服の生地引っ張られてるのも新鮮な感じ」
言いながらシャツがズボンから引き抜かれると胴回りが楽になった。
あまり意識はしていなかったが合わない寸法は少しずつ身体を締め付けていたらしい。
「ハハッ、ただの警備員って言い張るには身体出来過ぎ」
岩のよう、と以前一緒に鍛錬した猪野から評された上半身を五条の手の平が撫でていく。
「人のこと言えますか?」
騒つく肌のお返しに七海も同じ動きをしてやるとこちら以上に敏感に身を跳ねさせる様子は良い眺めだ。
触れる部位を徐々に広げていき、ゆっくりその身体を後ろに倒すとすぐにシーツに沈む。
「後ろ、準備してきた」
「……本当にその気で来たんですね」
「最初から言ってるだろ。こんな条件、僕以外と再現させる気ないし」
やって来て早々に自分の出番だと言った姿を思い出す。
こうして振り返るとその発言に悪い気はしない。
伊地知が突き止めた任務達成のために必要な条件を七海が自分以外と行うことを五条が拒否したということだ。
そのために鹿児島湾から飛んできたのだろうと考えると浮き上がるような気分を御しきるのは非常に難しい
「そうですね。それなら勤勉に働きましょうか」
「あ…んっ」
これまでまだ触れていなかった五条の下衣に手を伸ばす。
流石に勃ちきってはいなかったが触れば十分に膨らみを感じ取ることが出来た。
何度か揉みこむように刺激を与えながら中のものに直接触れるためズボンを下ろそうとしたところで――
「…………」
「…………」
天井からせり出てくる禍々しい気配
プロの呪術師、それも1級と特級という頂点に属する二人がその正体を分からぬ筈がない。
「……セックスしてたらじゃなかったのかよ」
「……アレ的には前戯もセックスに含まれる……ということでしょうか……」
「は?乳首舐めて触り合ってただけだぞ。童貞かよ……ねぇ、僕焦らされるの嫌いなんだけど」
「おや、私の見解とは違いますね。ですがまぁ第三者の要因で焦らすのは私も好きじゃないです」
ほぼ脱げかけていた上着の背中に手を入れた七海は馴染んだ柄を掴む。
いつもより右手に力が入るのはこの際仕方ない。
「十秒な」
軽く息を吸って吐いて、
組み敷いた下から傲慢で可愛らしい命令が出る。
「十分です」
空気の読めない乱入者を速やかに排除すべく、七海は振り返りざま鉈で一閃した。