ぼくらの花畑むせかえるような花の香りに包まれて眠っていた。
……沈んだ水の中から浮き上がるようにまどろみから目覚めた。
僕は椅子に座ったままだったらしい。時計の秒針の音が静かな部屋に響いていた。
時刻は午後を回ったところで、窓から差し込む光が床を照らしていた。
ここは病院だ。
「おはよう、トモル」
ベッドから声をかけられる。
そうだ、フェリさんが入院したんだった。
僕は見舞いで来て、居眠りをしてしまったみたいだ。
病院によれば風邪による喉の炎症。それから貧血。大したことないなどと本人は言ったが、喉はボーカリストの命なため、大事をとって検査と栄養剤などを注入してもらう為の入院だ。
原因は仕事やアルバイト続きだったところに雨の中フライヤー配布を長時間行ったこと。
意外って言ったら失礼だけど、この人もやると決めたことはちゃんとやるんだなぁ……。人のことは言えないけど、バイトやプロモーション活動はもっと計画立ててみんなでやらなくちゃな。
この人にまで無理をさせてしまった自分に傷付いて、みんなこんな気持ちだったのかと何重にも反省する。
「吸血鬼も風邪をひくんですね」
「トモルは僕をなんだと思っているんだい?」
ベッドの中からジトリと抗議の目線が飛んでくる。顔色は良さそうだ。
たった一日だというのに部屋はフェリさんのスクールの生徒から届いた花や果物でいっぱいだった。何か洗ってこようかと果物を物色する。
紅茶が飲みたいな、と言うフェリさんに水で我慢して下さいと水の入ったコップを渡すとひどいよトモル、と唇を尖らせていた。
「吸血鬼だったら血を飲めば治るんじゃないですか?」
僕はこの人の自称吸血鬼を信じてはいなかった。いや、信じてないのは半分、もう半分は個人的な願望だけど。
太陽もニンニクも十字架も怖くないこの人が本当に吸血鬼なら、無敵で不死身のはずだろう。
だったらさっさと治してしまえばいい。それが出来ないならやっぱりあなたは人間なんですよ。
「いります?僕、昔から健康が取り柄なんで」
袖を軽くめくって腕を差し出した。
フェリさんが大きな瞳をますます大きく開く。長いまつ毛がぱちぱちと瞬いて、じと、と音がしそうなほど見つめられ、眉と口が同じへの字に下がった。何か言いたいことでもあるのだろうか。こういう顔をしている時は少しだけ幼く見える。年上なのに。
ちょっとかわいいな、と思ってクスリと笑った。
「トモル」
フェリさんは両腕をそっと翼のように広げた。その顔は満面の笑みだ。虎春さん曰く、ロクなことを考えてない時のフェリ(さん)だ。まるで抱っこをせがむ子供のように、この胸に飛び込んでこいとでも言わんばかりだ。
「えっと、……フェリさん?」
おそるおそる椅子ごと彼の近くへ移動して、身体を寄せると、
がば!!
と音を立てて捕まった。
「ちょっと、フェリさん!何す……ていうかここ、個室じゃないんですよ!」
なるべく大声にならないように訴える。
背中に腕が回って、閉じ込めるように僕を羽交い締めにする。椅子から腰が浮き、中途半端な体勢になって逃げようにも力を入れる支えがなかった。よろけそうになって彼にしがみついてしまう。
なんて元気な病人だ。
まるで蜘蛛に捕まった蟻のようだ。ジタバタともがいても離してはくれない。
耳に息を吹き掛けられて「ひ」と声が出る。
高い鼻先で首筋をなぞられたかと思うと、そのままゆっくりと首筋に口付けられた。
「うわっ……」
この感触は初めてではない。
以前、MVの撮影の時もFELIXがLIGHTを吸血するシーンという設定で撮影して、その時も本当に噛まれた。直前にはフリだよって言ってたくせに本当に噛まれて驚いてぎゃあと声を上げてNGを出したし、噛んで吸われて跡になって翌日会社へ行くのに困ったことになった。
彼は「臨場感が出るかと思って」なんて涼しい顔してたけれど……。
……しまった、これ、また吸われてるなぁ……。
力を入れたり、甘噛みしたり、と思ったらちゅうちゅう吸い付いたり。人の首で好き勝手してる。
彼に牙が生えてくるようなことはなくて安心した。
噛まれる首はそこまで痛くはないし血も吹き出て来ないのだけど、なんていうか、その、これって、ようは、キスマーク付けてるのと同じじゃないですか?
「ねえ、ちょっと、フェリさんってば!」
病室にはフェリクス以外の患者はいなかったが、入り口は開け放たれており、人の通る気配は数多くあった。こんなところ誰かに見られたら、病室でいかがわしいことをしている風にしか見えない。いや実際これはいかがわしいことをしているのかも知れなかった。
どういうつもりなんだ。何が楽しい。
僕がからかったから怒ってるのかな?
はむはむ、がぶがぶ、ちゅうちゅう、時々ぺろりと、飽きもせず人の首に噛み付いている。
あーあ……これ首の皮膚どうなってるんだろう。鏡見るのが怖いなぁ。
逃げるのは諦めて力を抜いてベッドに腰掛けて、所在ない両手を彼の背中に手を回した。
そろそろ終わりにしてくださいね、と遠慮がちにペチペチと背中を叩くが、フェリさんはゆるく頭を振ってしがみつく腕に力を込め、ますます僕の首筋にぐりぐりと食らい付いてくる。
もう、子供みたいだよ。
少しだけ……本当に少しだけ、自分の腕の中に収まって甘えたような仕草をする彼を可愛いと、胸の奥がくすぐったい感じがしてしまった。どうかしているよ、まったく……。
鼻先で揺れる彼の髪から花のような香りがする。
部屋中に溢れるマダムからの贈り物とはまた違う。いつも華やかな彼とは裏腹にどこか静寂を思わせる、凛として気高い香りだ。彼自身から香っているのかも知れない。
大学の頃の同級生や会社の女性陣からも、すれ違うたびに何やら良い香りがしたものだが、甘ったるく主張の強いそれはあまり好きにはなれず、この香りの方が自分好みだと思った。
もっと香りたくなって抱き寄せて、金色の髪の中、耳の後ろあたりに顔を埋める。すぅ、と息を吸い込むと周りの花は全て消えて彼だけになるみたいだった。腕の中の彼は温かく、彼から人並みの体温がすることにまた安心した。回した腕で後頭部や背中を撫でてやる。
そこでクスリと笑う気配があった。
仕上げにぺろりと首筋を舐めて、彼が離れる。
「……満足しましたか」
「トモルのおかげで元気になったよ」
「なるわけないでしょう。ちゃんと寝て治してください」
もう、と小言を言いながらベッドに寝かせて肩まで布団の中にしまってやる。
もう大丈夫だよ、ありがとう、とフェリさんは布団から指先を出してヒラヒラと振った。
僕はハンカチで首筋を抑えて手洗いへ向かう。
病院のトイレで鏡へ向かい、こっそりと首筋を確認した。
案の定そこはあからさまに情事の跡のような赤みがくっきり残り、明日からしばらく会社にはとっくりを着ていく必要がありそうだった。
いや、情事なんてしてないんだけどな……。
「どうせなら……」
どうせなら、なんだ?そこまで考えてぶんぶん首を振る。
濡らしたハンカチでそこを拭く。はっきりと綺麗な歯形が付いており、真ん中は広く鬱血していた。一回では飽き足らず何度も吸い付かれたそこはまるで何かの花のような形になっている。
何回か見て気づいた。
これは百合の花か。
「グッズでタトゥーシールを出したら眷属にウケるかな……」
せめて何かに活かそう。そんなことを考えて、襟を立ててからボタンを閉めた。あからさまに怪しいが、上から覗き込まれなければ大丈夫ではないだろうか。帰ったらよく冷やそう。
僕はファントムのトークルームを開き、メッセージを送る。
フェリさん起きてます。元気そうでしたよ。と。
付きっきりでいる必要もないのだろうが、退院の手続きなどを済ませる為にもう少し居る旨を伝える。
そのまま手の中のスマホを眺める。
さっき、まどろみの中で見た夢を思い出す。
夢なのか、記憶なのか曖昧なあの光景。
そこはどこまでも続く鮮やかな緑の楽園だった。
青い空と赤い屋根、そして眼下に拡がるのは広大な葡萄畑。さわやかな風が頬を撫でる、いつか見た風景。僕が初めて見た異国の景色。
僕は家族で旅行に来ていた。
父がもう古いからとくれた小さなカメラでシャッターを切る。子供の遊びではあったが、TVや映画の中でしか見ないような美しい風景を切り取って、手の中に集めるのが好きだった。世界には美しいものが溢れていて、それが全て僕のものになったような気がした。異世界にも思える美しい風景は、僕の心をどこまでも自由にしてくれた。
冒険心が疼いてあちこち歩き回る。
見えないところへ行くなよと父の声がする。はーい!と元気よく返事をして歩き回った。
ガイドブックに載っていない景色はないか。僕にしか見つけられない美しい花はないだろうか。
いくらか歩いて、そろそろ遠くへ来すぎたかも知れない、引き返そうかという頃、どこからか歌が聞こえた。
美しい声だ。引き寄せられるように進むとだんだんと花の香りが濃くなってくる。
何の花だろう?歌と香りに誘われてフラフラと歩いていくと、ひっそりとした場所に真っ白で大きな花が咲き乱れる花畑があり、歌はその奥から聞こえた。
背の高いその花の隙間から覗くと、花畑の中央に一人の少女が横たわっていた。
花の中で目を閉じて、美しい歌を歌う少女、西洋の絵画に出てきそうな美しさだった。
白いたゆんとしたブラウスに胸にはリボンをして、半ズボンを履いていた。どこかのお金持ちの子のように見えた。顎あたりまでの長さで揃えられた細い金色の髪がふわふわと風に揺れている。柔らかな目元に長いまつ毛がひかる。その子は歌を止め、目を開くとこちらを見た。いつから気付いていたのか。大きな瞳は菫色をしていて警戒と好奇心が入り混じり、上目遣いでこちらを見上げている。お人形みたいだと思ったが、生きているようだった。
「日本人?」
異国の住人の姿をした少女から突然聞き馴染みのある言語が出てきて僕は飛び上がった。
「そうだよ!!日本人!!日本語わかるの!?」
「少し」
まさか異国の子供と言葉が通じるとは思わなかった。興奮して花を踏まないように気をつけながらその子の元へと進む。
嫌がる様子もなく、起き上がって場所を空けてくれた。横たわっていた場所には敷布が敷いてあるようだった。
隣へ腰掛けて近くで見ると少女はますます美しかった。よく見ると、もしかしたら少年なのかも知れない。どちらなのかわからないほど、まだ幼い容姿は美貌を湛えていた。歳は僕より上かも知れない。異国の子供は手足が長く大人びていた。
「さっきの歌、いい歌だね」
「好きかい?」
「うん!やさしい歌だった」
「そう、子守唄だよ」
また歌ってくれた。この国の歌なのだろう。異国の言葉で歌詞の内容はわからない。美しいのはその声か、歌そのものか、そのどちらもだと思った。
静かで優しいその響きはまさに眠りに誘われるような暖かさを持っていた。
けど。
「少し……さみしそう」
その子は少し驚いたようで、目をぱちぱちと開いて僕を見ていた。
「あ、ご、ごめん、なんとなくそう思っただけで……」
気にしてない、という風に首を振っているが、なんだか気まずかった。
「旅行でこの国へ来たの?」
「そう……あ!大変!お父さんに見えないところに行くなって言われてたんだった!」
「早くお帰り。探しにくるよ。僕といるところを見られない方がいいよ。僕はvampireだから」
「ばん……?ばんぱいあ……?あっ!!わかった!きゅうけつきだ!」
「知っているかい?」
「知ってるよ!牙があって、血を吸って、棺桶で寝るんだって!きみもそうなの?」
「……そうだったらどうする?」
その子は含みを持たせたように笑みを作る。
「か」
「カ?」
「カッコイイ〜〜!!」
僕が目を輝かせてそう告げると、その子は思いっきり眉を顰めた。
「カッコいい?coolということ?どうして?恐ろしくはないのかい?」
「あのね、映画で見たんだよ。お父さんが見てたやつを隣で見てたの。お母さんは怖い映画だよって言ってて、お話はぜんぜんわかんなかったんだけど、なんか、マントとか、ジャーンて感じが、すごくカッコよかったんだぁ〜。君もそうなの?いいなぁ〜」
「好きなの?」
「うん!好き!」
その子はしばらく訝しげな、探るような目で僕をジロジロと見て、それから首を振った。
「……日本人てみんなそうなのかい?」
「?なにが?」
「いいや、そう、好き、ね……」
その子はため息をついた。
僕、何かおかしなことを言ったかな……?
そうか、この子は吸血鬼なのか。
だからこんなに美しいのだろうか。映画の中のような豪華なドレスが似合うだろうと納得した。
じゃあ、きっと。
僕は近くにあった花の棘を掴んだ。
「あいてて……」
「何してるの、危ないよ」
その子が僕の手を引っ張る。反対の手をポッケに手を入れて、ハンカチを出そうとしてくれてるみたいだった。
「だいじょうぶ、はい」
血の滲んだ親指を差し出す。
「吸血鬼は血がごはんなんだよね。あげる」
僕がそう言うとその子はたじろいだ。
「きみ、元気なさそうに見えたから……ごはん食べないと元気出ないんだよ。だから、早く」
傷は大きくないが、早く飲んでくれないと、指先から血が垂れてしまいそうだ。
それはもったいないし、よそいきみたいな洋服を汚してしまいかねない。
「そう……そう、だね」
その子は目を伏せて少し笑うと、ゆっくりと舌を伸ばした。
そのまま親指の根本まで咥えて、ちゅう、と吸い付いた。
びっくりして体を揺らした拍子に、親指でその子の上顎を擦ってしまう。
あふ、と息を吐いて目の前の長いまつ毛が震えると、胸がどきどきした。
目を閉じて自分の指を吸う美しい子供を見る。
きれいだ。
大きな目は目尻が柔らかく、びっしりと長いまつ毛が生え揃って鉛筆でも乗りそうだった。
頬は生毛の生えた桃みたいにフワフワとして雪のように真っ白で、吸われている親指以外の4本の指でそっと撫でるとまたはふ、と声が上がった。金色の髪は艶やかでどこかで見た西洋人形のようで、そっちも触ってみたかった。
こんなきれいな子は保育園では、いやTVでだって見た事がない。吸血鬼なら、吸血鬼の国の王子様かお姫様なんじゃないかと思った。
じっと見つめていた瞼がゆっくりと開くと、中からしっとりと潤んだ淡い紫色の宝石が出てくる。
うわぁ。声に出していたかも知れない。あまりに綺麗だった。
ちゅぱ、と音を立てて唇から指が抜け落ちる。
血の止まった傷口からまだ赤い雫を求めるように、なおも猫のようにチロチロと舐めている。プルプルのさくらんぼみたいな唇からさらに赤い舌が覗くと目を逸らせなかった。
胸のドキドキは激しくなって、おなかの底が熱くなるみたいだ。なんだろう。熱でもあるのかな。
「これで、本物のvampireだね」
「足りた?元気出た?もっといる?」
着ていたシャツのボタンを2〜3個外して首筋を見せる。日焼けしていない部分まで肌が露わになった。
「きみは吸血鬼に血を奪われて平気なの?」
「大丈夫!あ!全部はダメだけど!僕ね、保育園のとき『けんこうゆうりょうじ』の金メダル貰ったんだよ!だから、ちょっとなら平気。どうぞ」
「何を奪われても吸血鬼のことが好き?」
「もちろん!」
目の前の吸血鬼がこれで元気が出るならお安い御用だ。この子はきっと、笑うともっときれいだ。
とびきりかわいいだろう。それが見たかった。
二粒の菫色の宝石は僕の喉元をじいっと見つめたかと思うと、ぼろ。と雫をこぼした。
「わぁ!」
泣かせてしまった!どうして!?どうしよう!!おともだちをいじめてはいけませんってお母さんにも先生にも言われてるのに!
どうしようどうしよう、ポケットからハンカチを取り出そうとあたふたしていると、その子が僕の首にしがみついてきた。
ぺろり。と首筋が濡れて、ぱくりと音がするようにあっという間に首筋にかぷりと噛みつかれた。
そうか、ごはんか。
吸血鬼に噛まれるのって痛いのかと思ってたら、ちっとも痛くない。
血が出ている感じもしない。
かぷ、かぷ、ちゅ、ちゅ、と、小さな歯と唇が何度も僕の首筋に齧り付く。くすぐったくて、今度は背中や耳のあたりと、やっぱりお腹の底がムズムズした。
噛まれている辺りより上の方からぱたぱたと水滴が落ちてくる。まだ泣いている。泣き止ませないと。
こういう時は抱っこだ。僕はその子の背中をぎゅうと抱いた。
よしよしと、弟にしたように背中や頭を撫でていくと涙は嗚咽混じりになって、逆効果みたいだった。どうしよう。
ちいさな吸血鬼は何度も何度も僕の首筋を噛んでいる。嗚咽をこらえるように。
きみ、もしかして牙がないんじゃないか。
吸血鬼の子供だからかも知れない。それじゃあごはんに困るだろうから、僕があげないと。
ねえ、友達にならないか?
ひとりで泣いていないで僕と遊ぼう。
僕は燈。トモル。君は?
「僕は××××」
聞いた事のない異国の響きは僕には難しかった。
僕は遠くに父の呼ぶ声が聞こえるまで、いつまでもその子の背中をさすっていた。
涙が止まった頃、僕も帰るよとその子は言った。兄が待っているからと。
そうか、お兄さんがいるならきっと心配してる。きょうだいはとても大事なものだから。
「君はこんな場所でひとりで何をしていたの?」
「………ママンに会おうと思ったんだよ」
「ママ?お母さんに?お母さんがここへ来るの?」
「ママンはここへは来ない。だから僕が行くつもりだった。……ここにずっといれば、きっと会えると思って」
そうしたらね、君が来たんだよ。トモル。
その子がにっこりと微笑んだ。
周りの花畑のどんな花よりも綺麗だと思った。
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受付で諸々の手続きを済ませて廊下を歩く。
葡萄畑のことは覚えている、というより写真が残っているから知っている。僕のはじめての異国の旅の思い出だ。
はじめて撮った風景は実家に帰ればアルバムにしまってあるし、記念に自分のスマホにも入れてある。
写真にない部分はまるで記憶にない。
惜しいが、小さかったので仕方がない。
親に聞いてもお前はわんぱくであちこち探検したがるから大変だった、というような普通の話しか出てこない。
僕は写真が好きだ。
過ぎ去っていくはずの景色を切り取って、決して消えない僕の一部にする。これさえあれば、手に入らないはずの風景が全て自分のものになるような気がした。
もしあの夢のような美しい子供に会ったのなら、あの時シャッターを押しておけばよかったのに。
僕がシャッターを押さなかったから。
美しいあの子はもう二度と手に入らない。
実在したなら、あの寂しそうな子供は今頃どこで何をしているのか。
……吸血鬼ってところが、ファントムに入ってからの設定や、昔、僕の頭の中で作った数多の痛々しい妄想などが混ざりあって記憶と結びついて夢になっただけって気がする。
だってほら、あの子供は誰かさんに似ていないか。
病室へ戻って入り口から中を覗く。
プレゼントの花に囲まれたフェリさんは花畑にいるようだ。眠っているのか、さっきと同じ姿勢で目を閉じていた。
この姿を見たからあんな夢になったのかもな。
やっぱり、一人で弱ってるこの人はあんまり見たくないな。
たまには、いや、結構な頻度で大人しくしていて欲しいと思うこともあるが、やはり鬱陶しいくらい元気で、いつもわがままで人の事を振り回すこの人で居てくれないと調子が出ない。早くあそこから出してやりたい。
「……はやく元気になって帰りましょうね」
シェアハウスへ帰って、カフェで大門さんの美味しい紅茶とお菓子をいただきましょう。
僕達の花畑はあそこにあるのだから。
そこで歌う貴方の歌を、寂しい歌にはもうさせない。