Curse of eternity
世の中には“恋の病”なんて言葉が存在する。
色恋――厳密には片想いに対する比喩みたいな物だ。それは確かに言い得て妙で、恋愛と言うのは時に痛ましい悲劇を招く要因にもなる。
あれは、高校二年の初夏。忘れもしない、六月の――丁度、梅雨の季節。
同じクラスの女子生徒が自殺した。遺書の類は見つからず、何の前触れも無く、彼女は学校の屋上からその身を投げ出した。
その当時は連日メディアで騒がれ、いじめ等の有無を徹底的に調べ上げられた。僕はその子とはあまり親しかったワケじゃないが、少なくとも人間関係で悩んでいた風には見えなかった。
結局、原因は特定できないまま時は流れていき、彼女の自殺は少しずつ過去のものになっていく。
思えば、それからだろうか。
まるで風が運んできたかの様に“花吐き病”の怪談が囁かれる様になったのは。
“決して叶わぬ恋に蝕まれ、死ぬまで花を吐き続ける”
恋の病は比喩では無くなり、現実の物となってしまった。とは言え、所詮は怪談話の一種であり真偽の程も定かではない。
特定の相手への片想い……その想いが強ければ強い程、花吐き病が発症するリスクが高いだとか。症状を治めるにはその相手と両想いにならなければならず、その証として美しい百合の花を吐き出すのだと言われている。
これが架空の物語であればロマンチックではあるが、そもそも基は怪談だ。本当にあるのかどうかさえわからない。
だから、クラスメートの女子が口々に言う話を横から流し聞いていた――その程度の認識しかなかったんだ。
花吐き病は恋の病ではない。
それは、正しく呪いである、と。そう言い出したのは誰であったか。
想いが報われる事は無い。何故なら、花吐き病は呪いだからだ。
意中の相手と思いが通じ合えた時、その口から銀色に輝く百合の花を咲かせると言われている。だけど、それは幻想だ。呪いと言う本質から目を逸らす為のまやかしだ。
“決して叶わぬ恋に蝕まれ、死ぬまで花を吐き続けるのよ”
その声を聞いたのは、果たしていつの頃だったのか。
『本日未明、米花町内にある堤無津川で女性が倒れているのを近所の住人が発見し――』
登庁前の憩いの一時。朝食として用意したトーストとインスタントコーヒーをテーブルに並べながらニュースの音声に耳を傾ける。
米花町は“犯罪都市”と言う不名誉な二つ名を持っているが、実際こう言った事件の発生率は群を抜いている。おそらく、今回のこれも似た様なケースなのだろう。
となれば、刑事部の連中は今日も右へ左へ、か。どの道、公安の出る幕じゃない――
『女性は死後数日は経過していると見られ、身体中に植物の蔦が巻き付いていていると言う異様な状態で倒れていたとの事です』
……ッ! 身体中に植物の蔦、だって?
コーヒーが入ったマグカップを片手にテレビの液晶を睨み付ける。
『女性の身元に関しては現段階では判明に至っておらず、警察は事故と事件の両方を視野に入れて捜査をしていく方針です』
俺は幾度かの深呼吸の後、飲みかけのコーヒーを喉に流し込む。
植物の蔦……果たして、それだけだったのだろうか。
花は咲いていなかったのだろうか。
「俺が知る限りでは、これで十人目」
身体中に植物の蔦が絡まったまま絶命する。見ようによっては十分に異様且つ異常な状態だ。
こんなモノが事故で起こり得るハズが無く、しかし事件性があるのかと言われればやはりそれも答えは否だ。刑事部の連中だって、そんな事は十分に理解している。
つまり、末恐ろしい事に――前例があるんだ、今回のケースは。先程も言ったが、俺が知る限りで十人。もしかしたら、もっと多くの被害者が出ているのかもしれない。
ただ、こうやって大っぴらに報道されたのはこれが初めてだが。第一発見者が一般人だったのが影響しているのだろう。
(となれば、話が変わってくる)
事が殺人事件では無く、前例のある奇妙な変死体の発見であれば。
この国の平和を脅かす可能性を考慮に、これらは既に公安部の案件だ。
(右へ左へは彼等では無く俺達の方になったか)
朝食を平らげ、空になった食器をシンクの中へ。それと同時に着信が入る。俺は椅子の上にかけていたスーツの上着を手に取りながらスマートフォンを操作する。
『おはようございます、風見さん』
「あぁおはよう。要件は言わなくてもわかっている」
『まずは一度警視庁へ。現場は現在、捜査一課の人間が取り仕切ってますがすぐに捜査権は此方に回ってくるとの事です』
「了解だ。すぐに向かう」
通話を切り、必要な物を揃えて玄関に向かう。
それでなくても、未だ解決の目処もついていない案件だ。今度こそ決定的な何かを掴めればいいのだが。
* * * *
俺が知る一人目の犠牲者は、やはり同じ高校の同級生だった。
件の自殺した女生徒同様、学校生活や人間関係にこれと言った問題を抱えていたワケでは無いが、亡くなる少し前から体調があまり良くなかったのだと聞いている。
発見されたのは自宅の風呂場。浴槽に浸かっている状態で、家族が発見した時には既に息絶えていたと言う。後に行われた全校集会では、彼女は急性の病による急死であると告げられた。
実際は、身体中に植物の蔦が絡まった状態で、しかもそれらは体内のいたる所にまで根を生やしていた――明らかに異常で、これを発見した時の家族の心境を考えると胸が詰まる思いだ。
極めつけとなったのが、まるでどこからか噴出したかの様に散りばめられていた赤い花弁。実際、花は咲いていたのだ。文字通り、彼女の身体を苗床にして。
これらの情報は警察側で徹底した規制が行われた。しかし、やはり噂はどこからともなく舞い込み、瞬く間に広がっていく。
そして、いつからか再び“花吐き病”の怪談が学校中で囁かれ始めたんだ。
あの子は花吐き病になったのよ。
溢れんばかりの赤い花弁が彼女の命を奪ったのよ。
そう言えば、あの子好きな人ができたって言っていたわ。
相手は誰だっけ……? 聞いていた様な気がするんだけどなー
どうしよう、私まだ死にたくない。
大丈夫よ。意中の相手と両想いになれれば治るって言われてるらしいから。
結局、事の真偽はわからぬまま俺は高校を卒業し、大学に進学する。
花吐き病の事は次第に己の中では過去の物となっていく。警察官になる為の勉学に専念していたからだ。
今にして思えば、その間にも同じ症例の犠牲者は出ていたのかもしれない。だが、俺が知る二人目の犠牲者の存在を知ったのは、今でも鮮明に思い出せる交番勤務時代。
その日も確か六月で、梅雨の季節に差しかかった頃であった。
* * * *
ポツポツ、と頬に水滴が当たる。あぁ、とうとう降り始めてしまったか。
スーツを濡らすワケにもいかず、俺は近場にある店先に駆け込む。少し位なら構わないだろう。
(やれやれ、降り出す前に戻りたかったんだがな)
聞き込みに思いの外時間がかかってしまった。捜査の基本は足から、なんて誰かが言っていた様な気がするが、何よりも情報の正確性が求められる公安事件ともなれば、その言葉の重要さが身に染みる。
今朝、通話越しで部下が話していた通り今回の件は公安預かりとなった。いつもは食ってかかってくる他部署の人間も打って変わって大人しいものだ。気持ちはわからなくもないが。
遺体が発見されたのが米花町にある河川敷。兎にも角にも、まずは被害者の身元の特定を急ぐべくここまで足を運んだ次第だ。
その結果、自分が想定していたよりも早く女性の身元は判明したのだが。
彼女はこの近辺に住む会社員で、身寄りが無く天涯孤独の身であった。職場やプライベートでの人間関係に大きな問題を抱えていたワケではなく、独り身ながら慎ましく生活をしていた様だ。
気になる事と言えば、やはり亡くなる数日前から体調が芳しくなかったらしく、遺体が発見される前日には有休休暇を申請していたと言う。
そして、もう一つ。これは俺が個人的に記憶に残っている記述ではあるが……彼女は喫茶ポアロの常連客でもあったそうだ。休日の時は友人達と共によく利用していたらしい。
(ポアロ、か)
言うまでも無く、己の上司である降谷さんの潜入先、その内の一つだ。
どんな僅かな痕跡であろうとも見逃したくは無いが……流石に俺が公安として出向くワケにはいかない、か。
事が公安事件となっている以上、今回の件は降谷さんの耳にも入っているだろうし、そう考えれば態々危険を冒す必要も無いだろう。必要と判断すれば向こうから何かしらのアクションがあるハズである。
しかし、常連客が変死体で発見されたなんて……気を落とされていなければいいが。ウェイトレスの彼女も大丈夫だろうか。あの名探偵の少年も、今回ばかりは大人しくしてくれると助かる。
(しかし、よく降るな)
止む気配の無い雨を漠然と眺める。色とりどりの傘を差しながら行き交う往来もまた留まるところを知らない。
「……」
そうだ、あの日も。
あの日も、こんな風に雨が降っていた。
“決して叶わぬ恋に蝕まれ、死ぬまで花を吐き続けるのよ”
ザザッと、テレビの砂嵐に似た雑音が雨音に混じって聞こえてきた。
人の往来に見え隠れしながら、どこか見覚えのある若い娘が立っているのを俺の目は捉えていた。
本当に俺を見ているのかはわからない。それなのに、そこから目を逸らせない。身体が動かない。
“そう、あなたも”
何を……何を、言っている?
瞬間、制服姿の若い娘はニヤリ、とほくそ笑む。愛らしいハズのそれは、俺には酷く恐ろしいモノに見えた。
“あなたも、そうなのね”
見え隠れする娘を凝視したまま、辺りから一切の音が消えた。
往来の合間を通って、徐々に俺との距離をつめてくる。道路を走る車さえも物ともせずに……いや、それ以前に誰も娘の存在に気づいていないのか?
“ねぇ”
……やめろ。こっちに来るな。俺に話しかけるな。
“花を吐くって、どんな気分?”
何を馬鹿な事を言っている。
“報われないとわかっているのに”
知らない。俺は、そんなものは知らない!
“死ぬまで、あなたは”
――グイッ!
不意に腕を引かれ、ハッと我に返る。
無音だった世界は本来の姿に戻り、人の往来も道路を走る車も変わらない。
ただ、間近まで接近していたであろう娘の姿だけが忽然と消え失せていた。
雨は、止む事なく今も降り続けている。
(何だったんだ、今のは)
「……大丈夫ですか?」
「っ!?」
慌てて振り返ると、いつの間にか隣には己の上司が立っていた。その手には折り畳んだ傘が握られている。
「あ、えぇと……何でもありませんよ、安室さん」
「ふふ。飛田君は相変わらず嘘が似合わないなァ」
当然の様に見透かされている。果たして口にして良いものかどうか。
あんなモノ、唯の幻だ。ここのところ働き詰めだったところに例の変死体が出てきたのだ、仕事とはいえ気が滅入らないと言えば嘘になる。
「すみません」
「……」
「白昼夢を、見ていたのかもしれません」
精一杯笑って見せた。彼の目にはどう映っていたかわからなかったが。
だが、偶然とは言えこうして巡り会えたのであれば……例の被害者に関する情報を手に入れられるチャンスではないか?
「あの」
「――彼女は人当たりの良い人でした。特にスイーツが大好きで、来店した時は必ずと言っていい程ケーキセットを頼んでいましたね。梓さんと年齢も近い事もあって、よく世間話をしていました」
俺の意図を汲んだのか、降谷さんはあくまで安室透として話し始めた。一語一句逃さず頭の中にインプットする。
「体調が優れないと零していたのが、丁度三日前」
「……」
「可能性は無きにしも非ず……そう思っていたんですけどね」
いいえ、貴方に落ち度など一つもありはしない。ただひたすらに不運が重なってしまっただけだ。
第一、どうやって予想しろと言うんだ。仮に症状が出ている人間を発見出来たとしても助けられる保証はどこにも無いんだ。
全身が植物の蔦に絡まれ、遺体が発見された川面には大量の赤い花弁が浮かんでいた。
状況は同じ。そして、花吐き病の怪談もまた然りだ。
(……花吐き病は恋の病、か)
であれば、彼女は誰かに恋をしていたと言うのか。その恋が叶わず、あんな凄惨な死を選ばざるを得なかったのか。
それとも……叶わぬとわかっていながら、彼女は己の恋に殉ずる覚悟かあったのか。
(そんな馬鹿な)
俺は自嘲気味に口元を歪ませる。色恋に殉ずるなんて、俺には到底理解出来ない世界だ。
“本当に、そう思う?”
「っ!?」
顔を上げ、辺りを見回す。しかし、該当する人物の姿はどこにも無い。
「飛田君?」
「あ、いえ……何でもありません」
「嘘」
掴まれたままだった腕を引っ張られる。
こんな往来の真ん中でいきなり何をしているんだ。目立つ目立たない云々の話じゃない。
本音を言えば勘弁してほしい。これ以上は顔に出てしまうかもしれない。知られてはならない感情の一端を。
知られたくない――否、知られてはならないんだ、この人にだけは絶対に。
「安室さん、離して下さい」
「嫌だ」
「子供じゃないんですから」
「傘も無いのにどうやって戻るつもりなんだ?」
いつの間にか口調が戻っている。横目で見る顔は、間違いなく降谷零の物だ。
しかし、痛いところを突いてくれる。確かに雨は未だ止む気配が無い。愛車は庁内の駐車場だし、ここには電車を利用してやって来た。駅までそれなりに距離もあるし、濡れるのを覚悟で突っ切ってしまおうか。
「近くに車を停めてある」
閉じていた傘を開き、安室――降谷さんはそう言って、俺の右手を握り締めた。
「警視庁まで送っていく。今日はポアロのシフトは入っていないんだ」
つまり、時間的には余裕があると言いたいのだろう。
上司にこんな手間をかけさせるなんて……しかし、純粋な厚意を無下にするなど出来るハズも無い。
(何より)
この人の傍にいられるのは嫌じゃない……寧ろ、その逆だ。
人目がつかない空間であれば、俺はこの偶然にただただ感謝しよう。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「素直でよろしい」
グイ、と俺の手を引きながら降谷さんは歩を進め、傘の中に入りながら俺も後続する。
人の往来は少しずつまばらになってきた所為か、傘に当たる雨音がいやに大きく響いてくる。
(そう言えば)
手、握ったままだ。
降谷さんの手、温かいな。
「……なぁ、風見」
「は、はいっ」
急に名前を呼ばれてハッと我に返る。
しっかりしろ、風見裕也。降谷さんの手前で何を考えている。
「君は」
「え?」
――グイッ。
一際強く手を引っ張られた。慣性の法則でよろめきかける。
唇に何かが触れたと感じたのは、その時だった。
ほんの一瞬の間。目の前にある上司の顔は、何故か悲しそうに歪んでいた。
「もっと、さっきみたいに素直になってくれればいい」
「降谷さん……?」
「……行こう」
繋いだ手はそのままに、俺達は再び歩き続ける。
知らない間に細道を通っていたらしく、おそらく先程の行為は誰の目にも留まってはいないだろう。
(……ッ!)
驚かなかった、なんてどの口が言えるのか。反応が薄かったのはあくまで表面上の話に過ぎない。
握り締められた手に汗が滲む。心臓の音がうるさい。頭の中が沸騰しかけてどうにかなってしまいそうだ。
(なんで、どうして、あんな事を)
自問自答を繰り返しても最適解など導き出されるハズもなく。隣を歩く降谷さんもそれ以上は何も言わない。
“報われない想いに蝕まれながら、死ぬまで花を吐き続けるのよ”
あぁ、恋の病はこんなにも苦しいものなのか。
ならば、いつか自分も大量の花を吐き散らしながら、この身が果てて朽ちるまで。
この秘めた想いに、殺されてしまうのだろうか。
そう、あの日も雨が降っていた。
小さな花束が添えられた電柱の前に腰を下ろし、両手を合わせている青年がそこにいた。
褐色の肌に流麗な金髪……その風貌は間違いなく降谷さんだ。だが、その当時から俺達は上司部下であったハズも無く。俺はたまたま非番で、近くを通ったのも唯の偶然だった。
傘も差さず、一心に祈りを捧げている様にも見えた。俺は――初対面であるハズの人間に近づき、差していた傘を傾ける。
「風邪、引きますよ」
青年はゆっくりとこちらを振り返る。
「……ッ!」
ほんのわずかな一瞬、彼は端正な顔が驚いている風に見えた。
しかし、すぐに彼は何事も無かったかの様に取り繕い、立ち上がる。
「すみません」
「いえ、そんな事は……」
俺の目線は、自然と花束の方に向けられる。雨に濡れたそれは、正しく死者に手向けられた花だ。
「知っている人だったんですか?」
あえて主語は省いた。彼は悲しそうな笑みを浮かべながら首を縦に振る。
「正確に言えば、友人の友人でしょうか」
「あぁ、なるほど」
「明るくて人懐っこい女性でした。少ししか話す機会がありませんでしたが」
「……」
先日、丁度この電柱の近くで女性の遺体が発見された。
血の池を模した赤い花弁の中心で倒れ伏すその姿は、植物の蔦に絡め取られ……まるで何かに絶望したかの様な死に顔であったと言う。
しかし、彼女がどんな状態で発見されたのか――これに関しては世間には一切の公表はされていない。第一発見者が警察関係者であった事もあり、この件はすぐに公安預かりとなったものと思われる。何せ当時の俺は交番勤務である以上に警察官になってまだ日が浅かった。純粋に何も知らなかったんだ。
「……」
彼は悲しみを交えた表情で俯いてしまう。彼女の死を心から悼んでいる様にも見えた。
友人の友人と言っていたが、その人柄は決して悪いものではなかっただろう。付き合いもあったとなれば悲しまないワケが無い。
「あの」
「?」
差していた傘を、もう一度傾ける。
「これ、よろしければ」
傘の柄を差し出し、強引に握らせる。
雨に濡れている彼が、何だか泣いているみたいで。
ならば、これ以上濡れてしまう事は無い。
「風邪、引いてしまいますよ」
「そんな、貴方はどうするんですか?」
「大丈夫です」
もう一度、ギュッと彼の手を握って、離れる。
自分でやっておいて言う台詞ではないが、気恥ずかしくなってそのまま背を向けて走り去る。呼び止められた気もしたが、雨音に遮られて聞こえなかったフリをしながら。
あぁ、思えば。
俺の“恋”は、ここから始まった。
まさか相手も同業者で、上司と部下の関係になるなんてあの時は露程にも思わなかったが。
そして、俺は。未だ胸の内に“恋”を秘めたまま、それでも今を生きている。
「ねぇ、花を吐くってどんな気分?」
* * * *
「――ッ!?」
悲鳴すら上げられず、俺は弾かれた様に起き上がった。
夜はまだ明けていない。窓越しから聞こえる規則正しい雨音。どうやら、今日も天気は下り坂らしい。
(いや、それよりも)
アレは何だったんだ。
俺にとってあの出会いは儚くも美しい一時であった。
それがどうだ、最後に垣間見たアレは……
彼に傘を強引に握らせ、背を向けて走り去る。それで終わりのハズだった。
目の前に立っていたのは、雨ではなく鮮血に塗れた制服姿の若い娘が一人。
可愛らしいハズの笑顔が、俺の目にはこの世の終わりを彷彿させた。
“花を吐くってどんな気分?”
「何を馬鹿な……」
自分が思っている以上に疲弊しているらしい。近く、どこかのタイミングで有休の一つでも申請してみようか。
そんな風に考えながら洗面所へ向かうべくベッドから降りる。
――グラッ……
立ち眩みに似た眩暈を起こし、そのまま膝を突いてしまった。
「う、ぐっ……!?」
同時に沸き起こる、抗えない程の吐き気。堪らず、手で口元を押さえながら大きく咳き込んだ。
口から吐き出されたのは吐瀉物でも無ければ胃液でも無い。
質量などあって無い様な“それ”は、ヒラヒラと舞いながら床に落ちていく。
血の様に赤い花弁が床に散らばっていた。
「な、何だ、これは」
震える手を伸ばし、それを拾い上げる。
まごう事無き花弁だ。感触も相違ない。ただただ異質なのは、コイツは俺が実際に吐き出したモノであると言う事だけ。
「花を、吐く……」
“あの子は花吐き病になったのよ”
「花吐き、病」
“あの赤い花弁が彼女を殺してしまったのよ”
「嘘だ、こんな」
“そう、あなたも”
「違う」
“あなたも、そうなのね”
「違うっ!!」
大声で否定し、顔を上げる。
刹那、寝室の姿見に何かか映し出されていた。
鮮血に塗れた、制服姿の若い娘が一人。
「ねぇ、花を吐くってどんな気分?」
* * * *
目が覚めると、そこは見覚えのある場所だった。
米花町の……堤無津川。何故こんな所に……俺は確かに自宅にいたハズなのに。
「夢、なのか?」
「ここは光と闇の境界――夢と現の狭間。どう捉えるかはお前次第と言えるがね」
シャラン。
小気味よい鈴の音が鳴り響く。
振り返ると、土手の傍に一人の人物が腰を下ろしていた。白いフードを頭から被っている為、表情を窺い知る事は出来なかったが、先程の声色からして老人だろう。
その手には黄金色に輝く錫杖が握られていた。
「貴方は……」
「私は狭間の番人。人の理より外れ、故にこの場に留まっている」
言葉の意味は解りかねたが、その存在は文字通りの神秘に満ち溢れている。
俺はどうしてこんな夢を? 夢を見ていると言う事は……あのまま気を失ってしまったらしい。
シャラン。
彼は静かに錫杖を振りかざす。小気味よい鈴の音が辺りに響き渡った。
「花吐き病は恋の病、とは言い得て妙とは思わないかね?」
「っ!?」
「言葉通りの意味と在り方であったなら、それはそれで美しい話にもなっただろうさ」
彼はもう一度錫杖を振りかざす。
シャラン、シャラン、と。鈴の音は尚も辺りに響き、呼応するかの様に水面が波打ち、飛沫が舞う。
「だが、そんな物は唯のまやかしだ」
シャラン。
最後にもう一振り。一際大きく響き渡る鈴の音。
そして、正に刹那の瞬間であった。
「……ッ!?」
いつの間に――そう言いたくもなるだろう。
気がつけば、俺達の周りには大量の花が咲き乱れていた。赤い花弁がユラユラ、と風に揺れている。
「それは彼岸花。死者を弔う為の花さ」
「……」
死者を弔う為の花……
「お前の言う、花吐き病に殺された者達を弔う為――と言ったら、どうするね?」
「なっ!?」
花吐き病に、殺された?
瞬間、身体を蔦に絡め取られた女性の姿が脳裏をよぎる。先日、河川敷で発見された変死体。
「花吐き病は、正しく人を死に至らしめる呪いだよ。
そして、その根幹に在るモノはお前の想像を遙かに超えて闇が深い」
一陣の風が吹き抜け、彼岸花がユラユラと揺れる。
「……なら、俺は」
俺の身に起きた異変は、やはり。
この口から吐き出された赤い花弁は、呪いの象徴。
人を呪い殺す、赤い花。
「俺は」
何も成し遂げないまま死んでしまうのか。それも、こんな理不尽極まりない手段で。
恋をしたばかりに、俺はこの身に呪いを受けたのか。そんな馬鹿な話があっていいのか。
ならば、どうする? この恋を諦めてしまえばいいのか? 諦める事はおろか捨てる事すら出来なかった物だと言うのに。
(あの日の始まりを)
無かった事に……俺は、果たして出来るのか?
「何、そう悲観する事もあるまい」
「え?」
シャラン。
小気味良い鈴の音が俺の身体を突き抜けていく。
「この世に解けぬ呪詛など存在しない。
であれば、探し出すしかあるまいよ。お前がこのまま死に逝くのを否と唱えるのであれば、な」
「……」
「お前にも恋い慕う相手がいるだろう?」
あぁ、いる。始まりは、あの梅雨の季節だった。ずっと胸に秘め続け、決して表に出さないと決めていた恋心。
それが引き金となり、俺もまた花を吐いた。このままでは、俺はこの恋に殺されてしまうのだろう。
(あの人の幸せと未来を考えれば)
それでも良いと、思わなかったと言えば嘘になる。花を吐き、呪いを受けたであろう今でさえ、その気持ちは中々揺らがない。
俺は、あの梅雨の日に巡り会ったあの人に恋をした。その想いは消える事なく、今も胸中に灯る小さな光となって在り続けている。
報われたい、などと思った事は無かった。どこまで行っても、最終的に願うのは幸せが約束された未来だ。そう思えばこそ――
“もっと、さっきみたいに素直になってくれればいい”
「……」
他ならぬ降谷さんの言葉が甦る。
思い返せば、あまりにも突然すぎた。お互いそれ以上は何も言わずに、ただただ繋ぎ合わせた手の温もりだけを享受して。
(何か)
伝えたい事が、あったのではないのか? 他の誰でも無い、この自分に。
(なるほど、確かに)
簡単に死んでいる場合ではなさそうだ。重ねて言うが、俺はまだ何も成し遂げてはいない。降谷さんがそうであるように、俺にもまた掲げる正義がある。貫くべき信念がある。託された物がある。背負うべき生命がある。
恋の病に殺される――ほんの一瞬であれ、そんな死に様が美しいと思っていた自分を払拭する。
諦めるには早い。俺の身体はまだ動く。今からでもやれる事はあるハズだ。
シャラン。
「花吐き病は、正しく人を死に至らしめる呪いだ」
シャラン。
「だが、そうさな」
シャラン。
「現世の怪談で歌われている様な、そんな美しい終わりに帰結する未来も悪くないかもしれないな?」
全ては、お前自身の意のままに。
瞬間、一際強い風が辺りに吹き荒れ、彼岸花が大きく揺れ動く。
死者を弔う為の花々は、死地へ赴こうとしている俺を見送っている様にも見えた。
身体が鉛の様に重かったが、スーツに袖を通し、何事も無かったかの様に登庁する。
しかし、顔色だけは誤魔化し切れず「風見さん大丈夫ですか?」と口々に言われたが精一杯の笑顔で「大丈夫だ」と返す。説得力はまるで無かったかもしれないが。
通常の業務と並行し、俺は空き時間を作って資料室へと向かう。
「……ゴホッ!」
扉を開き、中に入ったところで大きく咳き込む。ハラハラ、と掌から落ちる赤い花弁。俺は急いでそれを拾い上げ、スーツのポケットに仕舞い込んだ。
(その内、植物の蔦が身体に絡みつくのだろうか)
あの蔦は体内にまで根を生やしていた。生きている内にそんな状態になったとすれば、それは想像を絶する恐怖と痛みを与えてくるだろう。そうなる前に決着をつけたいところだ。自分の片恋にも、全ての謎を解き明かすのも。
(もしも、彼女等もまた花吐き病の呪いによって死に至ったのであれば)
何かしらの共通点があるハズだ。犠牲者となった者達のデータは全てここに収められている。
この様子だと、俺の方も長くは保たないだろう。その前に必ず……最悪、他の誰かに引き継げられれは御の字だ。
“ねぇ”
「っ!?」
背後からの一声に俺はすぐさま振り返り、身構える。しかし、そこに在るのは己だけだ。
“花を吐くってどんな気分?”
「あまり気持ちの良いものではないな」
律儀に答え、不敵に微笑んで見せる。情けない話だが、身体は得体の知れない恐怖ですくみ上がっていたが。
「……」
今までの流れから鑑みて、この声の主が呪いの元凶であろうか。
問うたところで答えてくれるのだろうか。人間を呪い殺すなど、最早ヒトの所業ではあり得ない。科学が発達した現代社会において、まさかこんな非現実的な存在を認めてしまう日が来ようとは思わなかった。
「答えろ」
己しかいない資料室の中心で、それでも俺は問いかける。
「何故、こんな事をする」
花吐き病が例え呪いでも、それが恋の病と比喩されてきたのは――呪いにかかった者達は全員"誰かに恋をしていた”と言う事だ。
「誰かを恋い慕うのは、それほどまでに罪深いものなのか?」
俺の場合は相手が相手だ、分不相応だと切り捨てられても文句は言えない。事実その通りだったからこそ、俺は今の今までこの恋心を秘めたままにしていたのだから。
だが、それは俺に限った話だ。他の人間は違うだろう。子細は調べてみない事には何とも言えないが、それでも。
それでも、恋愛感情を理由に呪われる道理など断じて認めてはならないんだ。
“だって、ずるいじゃない”
その一声は、まるで鋭く尖った針の様に突き刺さる。
“私は諦めたのに”
ザザッ、とテレビの砂嵐に似た音が耳につく。
“諦めるしか、なかったのに”
いつの間にか、部屋の隅に血塗れの女生徒が直立している。
よく見てみると、その造形は歪で、彼女が笑う度に血と共に肉が削がれ、地面に落ちる。元は可愛らしい外見であっただろうに、あまりにも生々しい姿は純粋な吐き気を催すだろう、普通の人間ならば。
「ゴホゴホッ!」
しかし、俺が吐くのは赤い花弁ばかり。咳き込む度に喉から競り上がり、今度はボタボタと地面に舞い落ちていく。
“ねぇ、あなたも”
「……違う」
“あなたも、そうなんでしょう?”
「俺は、違う」
ただひたすら臆病なだけだった。相手の幸せを言い訳にして、それでも捨てる事も諦める事も出来なかった臆病者の成れの果て、それが俺だ。
“楽になればいいじゃない”
「生憎、そんな暇はどこにも無い」
“どうせ、叶うハズがないのに”
「それでも」
俺は、生きていかなければならないんだ。
「恋情は死ぬ理由にはならない。
俺は生きるぞ。どんなに無様でも、どれだけ花を吐き散らそうとも」
無念の内に死んでいった者達の為にも、俺は。
この身体が朽ち果てる最期の一瞬まで、俺はあの人の傍に添い遂げてみせるとも。
「お前の思い通りにだけは」
絶対に、ならない!
「……ゴホッ!」
大きく咳き込み、花を吐く。心なしか段々と吐き出す量が増えている気がする。
“だって、ずるいじゃない。私は諦めたわ。だからあなたも諦めて”
「ふざ、けるな……!」
“諦めて”
「……ッ!」
“どうせ叶わない! それはあなたが一番よくわかっているでしょう!?”
俺は自分を奮い立たせる意味も込めて机上を拳で叩きつけた。
「何度も言わせるな」
ゴポリ、と喉から競り上がった花弁を吐き出す。
吐き出された花弁をグッと握り潰し、目の前にいる女生徒を睨み付ける。
「俺は生きると言ったぞ」
何も成さないまま、何も伝えないままで死ねるワケが無い。
あぁそうだ。どうせなら怪談で伝わっている“白銀の百合”を吐き出して見せつけてやってもいいかもな。
(それは流石に無理だとしても)
グラッ……
堪え切れず、とうとう俺はその場に倒れ伏す。身体は相変わらず鉛の様に重い。
“ねえ”
「……」
“花を吐くって、どんな気分なのかしら?”
無機質な少女の笑い声がこだまする。
笑う度に崩れる姿形を、俺は床に伏したまま漠然と眺めていた。
“報われない想いに蝕まれながら、死ぬまで花を吐き続けるのよ”
* * * *
気がついたら、そこは見覚えのある喫茶店の店内。
窓際の席に座っている俺は瞬きをしながら辺りを見回した。
このレトロ調の内装に挽いたコーヒー豆の香り……間違いなく喫茶ポアロだ。その証拠にカウンター奥には安室透に扮する降谷さんとウェイトレスの彼女――榎本梓さんがいる。ただ、二人は俺の存在には気づいていない様だ。
(もしかしなくても、夢なんだろうな)
どうやら、あのまま気を失ってしまったらしい。夢を見ている位だからまだ死んではいないと思う。
しかし、どうしてこんな夢を? 何か意味があるのだろうか。いつの間にか置かれていたコーヒーカップを手に取り、口につける。あぁ、この絶妙な甘さは間違いなく降谷さんが淹れたコーヒーだ。
(ん?)
ふと隣の席に目を向けてみると、そこには三人組の若い女性がスイーツを囲みながら楽しそうに談笑していた。
……その内の一人が、どこかで見た覚えがある顔なんだ、が……
(っ! 米花町で発見された……)
そうだ、あの河川敷で発見された女性に似ている。いや、似ていると言うより本人なんだろう。そう言えば降谷さんが言っていた。彼女は喫茶ポアロの常連であったのだと。
(しかし、何故俺がこんな夢を)
「これは過去の残影、過ぎ去りし時の軌跡。斯様に垣間見る事は出来ても介入は出来ぬよ」
「っ!?」
一切の気配無く現れた(いや、もしかしたら始めからいたのかもしれない)白いフードの人物が俺の向かいに腰かけていた。黄金色の錫杖は壁に立てかけており、本人はいたって普通に茶をすすっている。
ポアロのドリンクメニューに緑茶なんてあったか? ……いや、今はそれどころじゃないだろう!
「貴方は……」
よく覚えている。今朝、花を吐いて倒れた時に見ていた夢……俺に語りかけてきた白いフードを被った老人。声色も完全に一致している。
「物事の真相へ至る道は数あれど、その扉は一つしかない。
これもその中の一つに過ぎないよ。数ある選択肢の中からお前が選んだ道筋の一つ、それがこの情景だ」
「……」
おそらく、これが一番新しい記憶だったから。俺の中で強く印象に残っていたのだろう。
「……」
俺も向かいの老人に倣い、もう一度コーヒーをすする。
すると、降谷さんがトレイに何かを乗せてカウンター奥から出て来る。トレイに乗っているのは生クリームがたっぷりと盛られたパンケーキだった。
「お待たせしました」
降谷さんは持ってきたパンケーキを隣の席コトン、と置いた。
瞬間、件の女性の顔がほんのりと赤く染まっているのが見えた。
「あ、あのっ……ありがとう、ございます」
彼女は俯きながらもハッキリとした口調で礼を言うと、降谷さんもそれに応える様に安室特有の笑顔を浮かべた。
「いいえ、こちらこそいつもご贔屓にしていただいてありがとうございます」
俺は安室透のスマイルは未だに慣れていないからどことなく違和感を禁じ得ないが、降谷零を知らない者からしたらその限りでは無い。あの様子からして、恋に落ちたキッカケは彼の溢れんばかりの笑顔だったのだろう。
――ちょっと待て。恋に落ちた?
自分の言葉をもう一度繰り返す。
そうか、彼女は……安室透に恋をしていたのか。
(……まさか、それが原因で?)
彼女は呪われ、そして死ぬまで花を吐き続けたと言うのか?
(だが、どうにも解せない)
血塗れの女生徒はしきりに囁いていた。諦めろ、と。その言葉通りなら、この身に降りかかった災いは“恋を諦める”事がトリガーとなり、死に至らしめるものと思われる。
しかしどうだ? カウンター奥に戻る降谷さんの背を眩しそうに見つめている彼女の目は、決して恋を諦めた人間が宿す光ではない。あれは逆に恋に生きようとしている者の眼差しだ。
「――それでもな」
「っ?」
「あの娘は呪いに屈してしまったのだよ。
そして、河川敷に咲く彼岸花も数を増やした……死を受け入れるにはまだ早かったと言うのに」
確かにそうだ。彼女は俺よりも若く、ごく普通の会社員であった。身寄りが無いながらも慎ましく生きて、気心の知れた友人達とお茶をしながら……そして、行きつけの喫茶店で働く青年に恋をした。ただ、それだけだったのに。
「呪いに屈したと言う事は……」
「娘の恋は実らなかったのであろうな。それ自体は致し方あるまい。恋い慕った相手が既に別の相手を好いていた――その可能性も普通に考えられる。或いは、既にそんな関係になっている人間が存在していたか……いずれにせよ、色恋沙汰と言うのはえてしてままならないものだよ」
年を重ねた人間が言うとこれ程までに深みが増す物なのか。だが、彼の言う事は最もだ。
「娘の不運は、その時既に呪いに身を蝕まれていた事だ。どうしたって失恋した瞬間は悲しみに明け暮れる物だろうさ」
「だから、彼女は」
「恋を諦めたその瞬間、体内を侵食していた呪詛が芽吹き、肉体を苗床として死の花を咲かせた」
「……」
何て、事だ。こんな理不尽な話がまかり通っていいのか。
そんな呪いなどなければ、彼女は失恋の痛みに涙を流しながらも死ぬなんて事にはならなかっただろうに。
いや、彼女だげじゃない。同じ方法で殺されてしまった者達も、きっと新しい恋を見つける事だって出来たハズなのに。
「ならば、俺も」
きっと同じ末路を辿る。降谷さんに、既にそう言った相手がいるのであれば尚更だ。
偉そうに「生きる」と言ってみたところで、失恋が確定した時点で俺もまた己の身を苗床に花を咲かせるのだろう。
(……いや違う、そうじゃない)
長く秘めていたこの想いだけは伝えなければならない。例え実らないとわかっていたとしても。
生きると決めたからには、その覚悟を貫かなければならない。
「お前は未だ道半ばだ」
「え?」
「存外、見落としている部分があるやもしれぬぞ?」
見落としている? 一体何を?
「俺が、何を見落としていると仰るんですか?」
シャラン。
返ってきたのは錫杖の鈴の音だった。それを耳にした瞬間、強烈な眠気が襲いかかってくる。
俺は器用にコーヒーカップを避けて机上に突っ伏してしまう。
「お前が白銀の百合を吐き出す事を切に祈っているよ」
「なに、を……」
「言ったであろう? お前は重大な見落としをしている」
“それが、呪いに対抗する唯一無二の要素だ”
「お前の様な男が恋に生きるのも一興だとは思わないかね?」
「……」
「未だ道半ば……辿り着いてみせるがいい、真相へ至る扉に」
「……み。かざみ」
俺を呼ぶ声がする。俺がよく知るこの声は――
「っ!?」
この場にいるハズの無い人物が脳裏をよぎり、閉じていた目を開く。
視界に飛び込んできたのは見慣れた仮眠室の天井と、心配そうな表情で俺を見下ろす降谷さんの姿だった。
俺は資料室で意識を手放している。ここまで運ばれたのは容易に想像できた。となれば……
(見られてしまっただろうなァ)
散々俺が吐き出した赤い花弁を。結構な量を吐き出し、処理もままならず木を失ってしまったのだから。
「大丈夫か?」
降谷さんの声色は優しかった。そっと額に手を添えられる。温かくて気持ち良い。
「熱は無いみたいだな」
「あの、自分は……」
「うん。資料室で倒れていたのを僕が見つけたんだ。通りがかったのは、本当に偶然だった」
なるほど、とまずは現状を理解する。降谷さんは本庁の人間であるが警視庁に足を運んだとなれば、それ相応の用件があったのだろうと推測できる。
「……なぁ、風見」
一呼吸置いて、改める様に僕の名を呼んだ。
わかっている、何を訊かれるのか。資料室に足を踏み入れたのであれば倒れている俺よりも先に目が行っていたハズだ。見られてしまったからには、答えないワケにはいかない。
「すみません。お見苦しい物を」
「そんな、事は」
「アレは全て俺が吐き出したモノです。おかしいですよね、人が花を吐き出すなんて」
怪談だ呪いだと議論したところで何も変わりはしない。実際はその通りなのだが、何より信じてもらえるか疑わしいものだ。一蹴される方が寧ろ普通と言える。
(さぁ、風見裕也。覚悟を決める時だ)
吐き出した花弁は既に晒された。もう隠す必要はどこにも無い。
伝えると決めただろう? 最期の一瞬まで添い遂げるとも、あの時そう言ったハズだろう?
「降谷さん」
今度は俺が降谷さんの手を握り締める。
「覚えていますか? あの日も丁度六月の、梅雨の季節でしたね」
「風見……?」
遠くから聞こえる雨音に耳を傾ける。
「雨に濡れながら知人の死を悼んでいる貴方が、あの時の俺には泣いている様に見えたんです」
きっと、そうしなければ涙を流せなかった、なんて。知った風な口を利くつもりは毛頭無いが。
「君、僕の事覚えてて……」
「忘れるハズがありません。ゼロの連絡役として再会した時は本当に驚きましたが俺も公安ですので」
表情を隠すのは慣れたものです、と付け加える。降谷さんだってそう在るべく振る舞っていた。隠していたのはお互い様だ。
「あの日が、俺にとっての始まりでした」
握り締めた手に熱がこもる。
「一目惚れって言うんでしょうね、この場合」
だってそうだろう。俺は一瞬でその姿に囚われた、とても良い意味で。
「貴方が好きです。あの時からずっと、俺は貴方を慕っていました」
「――ッ!!」
「言うまい、とは思っていたんです。貴方の幸せと未来を考えれば、こんな物は唯の足枷にしかならない。
そうやって自分に言い訳を重ねながら、本当は答えを聞くのが怖かったんだと思います。要は臆病者だったんですよ、自分は」
その結果が、花を吐き続ける呪いだ。全く以て笑い話にもならない。
だが、それが無ければ俺はこの先ずっと自分の恋情に蓋をして生き続けたのだと考えると、不謹慎極まりないがこの現状も悪くは無いな、とも思っている。
(あぁ言った。とうとう言ってしまった)
答えなど聞くまでも無い。でなければ、彼女も自分の恋を諦めたりはしなかった。
だが、俺は確かに生きると言った。どんなに無様でも、どれほどの花を吐き散らそうとも。例えこの先、新しい恋に巡り会えなかったとしても。
俺はこの人の傍で、最期の一瞬まで生きると決めたんだ。
俺は生き抜いてみせる。この身が呪いに蝕まれても、死ぬまで花を吐く事になろうとも。
あの人の幸せを見守る事になろうとも。他の誰かに愛してもらえる事になったとしても。
「風見」
「はい、降谷さん」
柔らかい金髪が額を撫でる。
美しい碧眼に涙を溜めた彼は、そのまま俺と唇を重ねた。
「ん、うっ、んんっ……」
突然の行為に頭が上手く回らない。何だ、何が起きている?
「ふ、あっ、かざみ、かざみっ」
「んぅっ、あ、ふるや、さっ」
慎ましさも甘さも無い、獰猛な獣に喰い尽されてしまう様な口づけはいよいよ俺の思考を鈍らせる。
ぬるり、と侵入してきた舌を己のそれで受け入れ、絡め、互いを吸い尽す様に。自然と俺の腕は降谷さんの背に回り、まるで自分から強請る様に彼の身体を引き寄せた。
「好き、好きだ。僕も」
「ふ、んんっ……そん、な」
「ずっとずっと……君が思うより前からずっと! 僕は、君が好きだった」
「――ッ!?」
息を飲み、涙を浮かべた降谷さんの顔を見上げる。名前を紡ごうとした口はすぐさま塞がれた。
息が苦しい。花を吐いてしまったらどうしよう。ぼんやりとそんな心配をしながら、生物の様に口内で蠢く動きに必死になって応え続ける。
まさか、そんな。諦めるどころか両想いだったなんて。こんな奇跡があっていいのか。
都合の良い夢を見続けているのではと思うにも、与えられ続ける熱がこれが現実であると否応にも実感させてくる。
(俺は)
彼女等と同じ末路は辿らなくて済みそうだ。
「っ!?」
降谷さんの唇が離れた瞬間、猛烈な吐き気に見舞われ俺は咄嗟に手で口を覆う。
「ゴホゴホッ」
「ッ! 風見っ!?」
仰向けのまま激しく咳き込み、ボタボタと血の様に赤い花弁を吐き散らす。
わかっていた事だ。花吐き病が呪いである事を。怪談では“両想いになればいい”などと言われていたが、現実はこの有様だ。
苦しい。上手く呼吸が出来ない。身を引き裂かれる様な痛みだ。
“あ、あのっ……ありがとう、ございます”
その時、夢で見た彼女の姿を思い出す。
彼女は純粋に安室透に恋をしていた。ただそれだけだったのに身体を呪いに蝕まれ、きっと同じ様に苦しみに耐えていたに違いない。
(俺がもっと早く)
この想いを伝えていれば、少なくとも彼女が死ぬ未来は無かっただろう。
「う、あ、あぁっ……」
今度は嗚咽が漏れる。吐き散らした花弁はそのままに、俺はみっともなく泣きじゃくる。
「風見……」
「俺が、俺が彼女を、殺したんです」
「な――」
答えを聞くのが怖くて、言い訳を重ねて続けて。挙句、出さなくても良い犠牲者を出してしまった。
慎ましく生きていた。普通に恋をしただけであった。それなのに死んでしまった。あんなに楽しそうに笑っていたと言うのに。
「違う、風見。それは違う」
「でも、でもっ」
「殺したとすれば、それはきっと僕の方だ」
降谷さんは横たわっていた俺の身体を抱き上げると、そのまま背中に腕を回して抱擁する。
「僕の方こそ臆病だった。もっと早く、君にこの想いを伝えていれば……僕も怖かった。答えを聞くのが、どうしようもなく怖かったんだ」
「……ッ!」
こんな所までお互い様だったなんて。
何事も完璧にこなす人だと思っていた。でも実際はそうじゃなかった。だからと言って、誰にこの人を責められようか。
俺が好きになった美しい人は、こんなにも不完全で人間味に溢れている。
「ふるや、さん」
嫌だ、離れたくない。この人を置いて先には逝けない。
「風見……風見、かざみ、かざみっ!」
「降谷さん、ふるやさんっ!」
生きるんだ、何が何でも。
俺は生きると決めた。決めたからにはそれを貫き通す。
(俺は、諦めない)
生も未来も、長年秘め続けてきた恋も、全て。
* * * *
あの老人が言っていた“見落としている部分”とは、降谷さんもまた俺に恋情を抱いている事だった。今の今まで気づかなかったのだから、如何に降谷さんが必死になって隠していたのかが窺い知れる。逆に降谷さんは……どこかで気づいていたのかもしれないが。
あの後、心身共に参っていた俺は降谷さんの勧めで午後休を申請し、自宅に戻った。体調は目に見えて優れなかったが、その原因が呪いともなればどうしようもない。
(そう言えば)
降谷さんの手前で散々花を吐いてしまったが、彼は割と冷静に対処してくれていた。
まぁ元々公安事件として取り扱っていた物だし、その過程で花吐き病の怪談話を耳にしていたものと思われる。
(降谷さんが無事でよかった)
彼もまた俺に恋をしていた。であれば、いつ呪いを受けてもおかしくない状態だった。今更ながらに実感し、俺はベッドに腰かけたまま心の底から安堵の息を吐く。
「……ゴホッ!」
軽く咳き込み、赤い花弁がヒラヒラと舞い落ちる。
想いは通じ合った。だけど、呪いは尚も身体を蝕み、俺は死ぬまで花を吐き続けていく。
だが、簡単に死んでなるものか。何よりも、あの人を独り置いて先に逝くつもりは無い。
“ねぇ、わからない?”
「っ!?」
室内に若い娘の声が響く。姿は見えないが、どこかに潜んでいるのか?
“あなたは、もうすぐ死ぬのよ”
「っ!」
“花を吐いて、吐いて吐いて吐き散らかして!”
俺は両耳を手で塞ぐ。しかし、まるで脳内に直接流し込む様に娘の声は止む事を知らない。
“みんなそうやって死んでいった! 報われない想いに絶望し、その身に大輪の花を咲かせて!”
それは彼女等の意思じゃなかった!
例え、想いが報われなかったとしても無残に死んでいい理由にはならない!
蔦に絡まれ息絶えた者達は皆、普通に恋をしただけだった。誰かを好きになっただけだった!
「俺は――!」
閉じていた目を開き、顔を上げる。
刹那。
「あなたは、どんな花を咲かせるのかしら?」
血塗れ、歪に歪んだ顔がニヤリと笑う。
恐怖さえも凌駕した感情は言葉を失い、呼吸する事も満足に出来ずに。
苦しい。息が出来ない。身体が冷たい。凍えてしまいそうだ。
助けて、誰か。
だれか、たすけて。
「風見っ!」
「っ!?」
名前を呼ばれ、金縛りにあっていたかの様に動かなかった身体が一気に軽くなる。俺は大きく咳き込み、崩れる様にベッドの上に倒れ込んだ。
「ふ、ふるやさん」
カタカタと震える身体を隠しもせず、俺は必死に手を伸ばす。女生徒の姿は霞の様に掻き消えていた。
「大丈夫か? ほら、ゆっくりでいいから……」
降谷さんに抱き上げられ、とにかく乱れた呼吸を整える。吸って吐いてを繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻した俺は降谷さんに身を預けたままポツリと呟く。
「どうして、ここに」
「君が心配だった、じゃいけないか?」
あまりにも真剣な顔をして言うものだから加速度的に熱が顔に集中する。
こんなに美しい人が、長い間俺に片想いしていたなんて……本当におとぎ話みたいだ。
「迷惑だった?」
「……そんな……」
言葉にするのが無性に恥ずかしくなり、代わりに行動で示す。擦り寄る様に彼の胸板に顔を埋めると強い力で抱き締められた。
「……」
トクントクン、と聞こえる心臓の音に耳を傾けながら降谷さんの温もりを身体全体で受け入れる。
“君が思うよりもずっと前から、僕は君が好きだった”
「……一つだけ、訊いても良いですか?」
「僕に?」
「はい」
心臓の音が心地良い。こうしていると定期的に押し寄せてくる吐き気も忘れられそうだ。
寝入ってしまいそうな程の体温であったが何とか堪える。
「俺が貴方を好きになったきっかけは仮眠室で話した内容が全てです。
ですが貴方は。貴方はそれよりもずっと前から、俺の事が好きだったと……」
「……うん」
そっと頬を撫でられる。反射的に顔を上げると――そっと触れるだけのキスをされる。
「君が知らないのは当たり前だ。僕達は会話一つ交わしていない」
「え?」
「君、剣道部だっただろう?」
一瞬何の事かと思い、パチパチと瞬きをする。少しの間を置いて、俺は首を縦に振った。
降谷さんの言う通り、俺は高校時代は剣道部に所属していた。俺が通っていた高校は剣道が強く、全国大会に出場した経験もある。俺自身も相応の腕を振るっていたものだ。
しかし何故、どうして降谷さんがそんな事を知っているのだろう?
「君は二年、僕は一年。君が通う高校で剣道の練習試合が行われた。
当時の友人がやはり剣道部に所属していてね。僕は彼に誘われてその試合を見に来ていたんだ」
練習試合……高校二年となれば、五月の連休中に組まれていたアレか。確かによく覚えている。俺は初めての副将と言う事でいつも以上に気合を入れていたっけな。
(そう言えば)
試合会場は体育館だったが、観戦に来ていた女子達がいやにソワソワしていた様な気がする。あの時は特に気に留めていなかったが、そうか。
(降谷さんが……来ていたんだ)
高校時代の降谷さんはどんな生徒だったんだろう。それとなく想像してみるも、外見的には今とそんなに変わってなさそうだな。何せ三十手前でこの造形だ。老化するにしても普通の人間よりずっと緩やかなんだろうな。
「僕は同じ学校の生徒を、試合に臨もうとしている友人を応援しなければならないのに」
後頭部から項にかけて実に優しい手つきで撫でられる。変な声が出そうになったが間近にある胸板に顔を埋めて必死に堪える。
「僕は」
「……ッ!」
「その時、既に」
“君の姿に、魅入っていた”
「君は僕に一目惚れしたと言ったな」
「は、はい」
「実は僕もだ」
……あの試合をずっと見ていたのか。なるほど、確かにこれは気づくのは難しい。当時の俺は高校時代の青春を部活に捧げていた様なものだったし、色恋沙汰など指で数える程度しか経験が無い。
そんな面白味の欠片も無い当時の自分を、貴方は好きになってくれたと言うのか。
「――花吐き病」
「ッ!?」
「報われない想いに蝕まれながら、死ぬまで花を吐き続ける。
痛みと苦しみの果てに、その身体を苗床にして大輪の花を咲かせ……やがて死に至る」
「……」
“あなたは、どんな花を咲かせるのかしら”
深く考えすぎるな。俺は生きると決めたんだ。死ぬ為の花など誰が咲かせるものか。
「嫌だ」
ギュウ、と更に強く抱き込まれる。
「僕を好きになった人は、皆花を咲かせて死んでいく」
「……えっ?」
今、彼は何と言った? 自分を好きになった人間が、花を咲かせて死ぬと言ったのか?
ポアロの常連だった彼女は正にそうだった。しかし、果たしてそれは“彼女だけ”だっただろうか。
雨と涙に濡れながら友人の知人であった女性の死を悼んでいた――もしも、その女性もまた降谷さんに恋心を抱いていたとしたら。
想いが報われる事はない。だって、そうだろう?
降谷さんが想いを寄せていたのは他ならぬ自分だった。ずっと胸に秘めていた。一途に想い続けてくれていた。
「何が事件だ、公安案件だ。こんな物、唯の呪いじゃないか……!」
「降谷さん……」
「嫌だ風見。折角、想いが通じ合ったのに。君は僕の所為で呪われて、今も身体を蝕まれている」
「っ!」
込み上げてくるのは吐き気では無く涙であった。俺を抱く降谷さんも声を押し殺して肩を震わせている。
泣かないで、泣かないで降谷さん。今の俺が言えた事では無いが、俺の為に泣かないでくれ。
「僕は、遅すぎたのか」
「いいえ……いいえ、そんな事はありません。それを言うなら俺だって同じです。
俺は生きると決めました。どんなに無様に生き恥を晒したとしても、どれ程の花を吐き散らかそうとも」
「ッ!」
「最期の一瞬まで貴方に寄り添って生きると、決めたんです!」
恐怖はある。いつ何時、この身を蝕む呪いが本当の意味で花開くのかと思うと気が気でない。
だとしても俺は。この恋心だけは後悔したくない。
貴方と巡り会い、貴方に恋をした。俺はそれが不幸だなんて思わない。
「風見、すまない」
「え、あ――」
視界が揺らぐ。ベッドに押し倒されたかと思えば、目の前にある存在が覆い被さる様に身体を重ねる。
「君が好きだ」
「俺もです」
「痛みも苦しみも恐怖も、分かち合えない僕を許してくれ」
そのまま、深く唇を重ねる。まるで、俺の体内に巣食うモノ全てを吸い上げてしまいそうな、それ程までに深いキスだった。
顔だけじゃなく、身体全体が熱に浮かされる。あぁ、こんな時に俺は何を考えて……
(こんな時だから……か)
互いの熱を分け合って、貪りながら。
「ふ、あぁ、ん、むっ」
「んぅっ……ふぅ、ん、んっ」
降谷さん、降谷さん、降谷さん。
俺も好きです。貴方が好きです。今までも、そしてこれから先もずっと。
俺は未だ道半ば。だけど今なら。今の俺なら、おそらくは。
辿り着けるかもしれない。真相へ至る扉に。
目を開くと、懐かしい風景が飛び込んできた。
学校の教室。一番後ろの、右から二番目の席。俺が高校二年になり、一番初めに腰を下ろした席。
既にレギュラーだった俺は今まで以上に部活に打ち込んでいたんだっけな。五月の連休に行われた練習試合……まさか、その時から降谷さんに見初められていたとは夢にも思わなかったが。
(まぁこれも、夢なんだろう)
辺りは静寂に包まれて何も聞こえない。あまりにも静かで、しかし窓から差し込む木漏れ日は降谷さんの体温を思わせる。
ねぇ、どうしよう。私、好きになっちゃったかも。
えーっ! いきなりじゃん。相手誰よ? 同じクラスの男子?
あ、もしかして……噂の“王子様”?
もー、何ですぐわかっちゃうかな!
複数の女子生徒の幻が現れたかと思うと、どこか見覚えのある少女を囲みながら談笑を始める。
会話の内容から察するに、この年代特有の色恋沙汰だろう。
(王子様、ねェ)
同じ学年で、そう比喩されるだけの美男子が果たして存在していたか? 思い出してみようと頭をひねらせてみたが、やはり思い当たる節は無い。
ねーねー、朗報朗報~!
え、何々どうしたの?
五月の連休にさ、剣道部が練習試合するじゃん? 何と、例の彼が友達の応援に来るらしいんだわ。
えっ! えぇっ!? ほ、本当に?
どうもマジっぽい。どうする? 予定入れてないならあたし等も行ってみない?
行く行く! そんなの行くに決まってるじゃん!
五月の、連休……
「っ!」
俺は思わずその場に立ち上がる。ガタン、と言う音と共に女子生徒の幻は露と消え失せてしまった。
「……」
「薄々は勘付いているのではないかね?」
隣の席から投げかけられた一声に対し、俺は大きく息を吐く。
「流石に三度目ともなれば」
「えぇ、慣れてしまった様です」
力なく笑い、俺はもう一度着席する。
「……」
彼女もまた恋をした。直接的なきっかけはわからない、だけどそれは揺るぎ様の無い事実。
これは偶然だ。決して必然では無い――だが、全ての始まりとなったのは確かだ。
外の天気は知らず知らずの内に崩れ、雨雲が空を覆い、やがて大粒の雨が降る。
六月の、梅雨の季節。
そして彼女は、空を舞った。
「お前も、お前を愛した者も、お前を愛した者に想いを寄せた者達も」
「……」
「断罪されるべき者はどこにもいない。ただただ不幸であっただけだ」
シャラン。
小気味良い鈴の音が教室内に響き渡る。
「だが、事は既にこの世界の理から逸脱している。そこに同情の余地は無い。
お前は遂に真相の片鱗に触れた。であれば、後は辿り着くのみだ」
「……」
「何、斯様な心配は不要であろうさ」
シャラン。
錫杖を振りかざし、鈴の音が途切れる事なく鳴り響く。
「この世に解けぬ呪詛など存在しない」
「呪詛……」
「さぁ、在るべき所へ戻るが良い。伝えるべき事は全て伝えた。
もう二度と会う事は無かろうが、お前がいつか己の生を全うし、光と闇の狭間を訪れる事があれば」
“その時は、茶の一つでも飲み交わそうじゃないか”
「結局、貴方は何者なんですか?」
隣の席に座る老人は楽しそうに口元を緩める。初めて見る、彼の笑みであった。
「私は狭間の番人。人の理を外れ、逢魔が時を生きる者」
「逢魔……」
「故に、現世に介入する術を持たぬ。
終わらせてやれ。他ならぬお前自身の手で、な」
シャラン。
錫杖の鈴の音が響き渡る。
最後に俺の目が捉えたのは、空を舞い、そして落ちていく女子生徒の後ろ姿だった。
* * * *
ガシャガシャ、と音を立てながら裏門のフェンスを飛び越える。
危なげなく着地しながら、俺は当時を振り返っていた。今回の件とはまるで関係の無い、高校一年の夏休み。宿題と称して配られた数学のプリント数枚を机の中に仕舞ったまま忘れてしまい、今と同じ様にフェンスを飛び越えてたんだ。
我ながら相当焦っていたんだろうな、と内心で笑みを浮かべる。部活で登校してきた日に取りに行けばよかったと言うのに。今となったは微笑ましい思い出だ。
(何せ、事が事だ)
言って聞かせたところで誰が信じてくれようか。それに、なるべくなら人目に付かない方が良いだろう。
そんなつもりは欠片も無いが、俺自身どうなってしまうかわからないのだから。
(こんな形で母校を訪れる事になるなんてな)
部活に明け暮れて、引退してからは勉学に励んだ。警察官になる夢がこの時既にあったからだ。
色々な思い出も沢山ある。楽しかった事、辛かった事、そして――
あえて人目の付き難い道を選び、到着したのは丁度中庭にあたる所だ。ここからもう少し奥に進むと焼却炉があるが、用があるのはそこじゃない。
あれは高校二年の初夏。六月の、梅雨の季節。
同じクラスの女子生徒が、校舎の屋上から飛び降りて――
物音ひとつ立てず、空から降ってきた“何か”が地面に激突し、広範囲に血飛沫をまき散らした。
――全ての始まりは、この瞬間から。
血だまりに沈む華奢な身体は、何事も無かったかの様に起き上がる。
「私は諦めたわ」
「そう、みたいだな」
「だから、あなたも諦めて」
諦める? 馬鹿を言うな。そもそも前提から既に間違えている。
「諦める理由はどこにも無い」
「どうして? 死ぬまで花を吐き続けるのよ?」
「そうだとしても」
「だから、諦めて。その方がずっと楽になれる」
……それも、一理ある。俺も同じ立場ならどうにかなっていたかもしれない。
この娘も、普通の恋をしただけであった。純粋に彼を、降谷さんを好きになっただけだった。
普通じゃ無かったのは、失恋の痛みに耐えかねて自殺を図ってしまった事だけだ。その無念が歪んだ形を成し、花吐き病と言う名の怪談を……呪いを生み出してしまった。
報われない想いに蝕まれながら、死ぬまで花を吐き続ける――永久の呪詛。
縛られているのは、目の前にいる娘も同じだ。
同情の余地は無い……確かにそうだ。死ななくても良い命を無慈悲に奪い続けてきた。この連鎖だけは今ここで断ち切らなければならない。
「私は諦めたわ」
じりじりと彼女は俺との距離を詰めて来る。
「諦めるしかなかったの」
ボタリボタリ、と流れ落ちる鮮血と肉片。
「私の入り込む隙間は無かった」
あぁ、そうだな。俺達が好きになった人は、意外な程一途なんだ。俺も思い知らされたばかりだよ。
「ねぇ、どうして? 好きになったのは、私の方が先なのに」
「……」
“お前も、お前を愛した者も、お前を愛した者に想いを寄せた者達も”
「ねぇ、わたし、本当に好きだったのよ」
“断罪されるべき者はどこにもいない。ただただ不幸であっただけだ”
「本当に、好きだったのよ」
……わかっている。そんな事は、よくわかっている。
俺も、君も、降谷さんも、彼を愛した者達も。
ただ普通に、恋をしただけだった。
報われない事もあるだろう。その幸せを願わなければならない時だってあるだろう。心の痛みに涙を流し、悲しみに暮れてしまうかもしれない。
痛くて、辛くて、悲しくて、苦しくて。何もかもを吐き出してしまいたくなったとしても。
時が絶え間なく流れ続ける様に、世界はただあるがまま廻り続ける様に。
俺達が歩みを止める理由には、やはりならないんだよ。
「っ!」
目前まで迫っていた彼女の前に右手を突きつける。
俺に手には一輪の花が握られている。
「お前――君は俺にこう言ったな?」
“あなたは、どんな花を咲かせるのかしら?”
「これが、答えだ」
三度目の夢から覚めて、俺は降谷さんの腕中に包まれていた。
未だ眠っている彼の顔を撫でながら、最後に吐き出した物。
「俺は、生きるぞ」
この想いと共に。愛する者と共に。
「君達が愛した、あの人の傍で」
だから、この“白銀の百合”は君に手向けよう。
ただただ純粋な恋心は、紛れも無く君自身の物なのだから。
「君達の分まで俺は生きる。生きてあの人と共に在り続ける」
君だってそうだ。今からでも遅くはない。
「新しい恋が、きっと君を待っている」
もう疲れただろう。
ゆっくり眠るといい。
失った命は、もう戻らない。
だからこそ、ここで終わらせる。
彼女は震える手で百合の花を手に取り、そっと握り締めた。
「わたし」
歪であった姿形が少しずつ整っていく。
血に塗れた制服は見違える程綺麗になり、本来在るべき姿がそこにはあった。
「また、恋をしても、いいのね?」
俺は首を縦に振る。
「わたし」
「うん」
「今度は、綺麗な恋の花、咲かせられるかしら」
“ねぇ、風見君”
最後に彼女は俺の名を呼び、満面の笑顔を向けた。
音も無く風と共に、百合の花を携えたまま、光となって――流れて、消えた。
世の中には“恋の病”なんて言葉が存在する。
色恋――厳密には片想いに対する比喩みたいな物だ。それは確かに言い得て妙で、恋愛と言うのは時に痛ましい悲劇を招く要因にもなる。
彼女の“死”を見届け、全てが終わった。それによって変化した事項がいくつかある。
まず第一に花吐き病に関する記憶が綺麗サッパリ取り除かれていた。忘れたと言うより始めからそんなモノは存在しなかったと言わんばかりに。
呪いによって命を落とした者達は何かしらの事故に巻き込まれた事になっており、長年頭を悩ませていた公安預かりの事件は煙の様に消えてなくなっていた。
あれだけ花を吐き散らし、呪いと一蓮托生で生きていこうとしていた俺の身体も元通りになり、滞りなく業務をこなす毎日を送っている。
終わってみれば非常にあっけないもので、もしかしたらここ数日の出来事は全て夢だったんじゃないかと思っていた物だが……
* * * *
「それじゃ安室さん、行ってきますね」
「えぇ。梓さんも道中お気を付けて」
「大丈夫ですよ、花を添えるだけですから。
飛田さんも、この時間帯はお客さんが来る事も無いですからゆっくりしていって下さい」
カランカラン、と音を立てながら扉が閉まる。小さな花束を抱えた榎本さんはパタパタと小走りでどこかに向かった様だ。
この時間帯は彼等の休憩時間であり、俺が唯一ポアロに足を運べる時間帯でもある。コーヒーを頼んで軽食と食後のデザートを堪能する為に寄ったのだが、思わぬタイミングで降谷さんと二人きりになってしまった。
「河川敷で発見された女性はここの常連だって言っただろう?」
「なるほど、理解しました」
懇意にしていたのであれば尚更、その死を悼む時間は欲しいだろう。
出されたコーヒーを口に入れる。相変わらず彼が淹れるコーヒーは絶品だ。
「風見」
「んぐぅっ!」
さも当然の様に隣席に腰かけている降谷さんに名前を呼ばれ、口に含んだコーヒーが気管に入るところだった。
「君な、動揺しすぎだ」
「ゲホゴホッ……す、すみません。飛田では無く風見と呼ばれるとは思わなかったもので」
「何を言ってる。君の名前は風見裕也だろう?」
それはそうだが、時と場所を選んでほしい。それでなくても公安のゼロとその連絡役だ。周囲に知られて良い間柄ではないのだから。
「風見」
もう一度名前を呼ばれ、俺は椅子ごと身体の向きを変えた。
柔らかい笑みを浮かべた降谷さんは、そのまま俺の身体をギュッと抱き締めた。
(いやいやいや! だから時と場所!)
いくら客が入ってこないからと言ってもこれは普通に恥ずかしい。榎本さんだってもうすぐ戻って来るかもしれないのに。
「風見」
「はい、降谷さん」
「好きだよ」
耳元で囁かれる愛の言葉にブワッと顔に熱が集中する。
「照れてる?」
「それは、まぁ……」
「十数年、君への片想いを拗らせていたんだ。これからはもっと積極的に攻めていこうと思う」
今より積極的って……このスキンシップだけでも俺の心臓はバクバクとうるさいと言うのに。
(どうなってしまうんだ、俺)
本当にドロドロに溶かされてしまうんじゃなかろうか。それはそれで……怖い様な、嬉しい様な。
「……」
降谷さんの腕中に収まりながら、俺は窓越しに空を仰ぐ。
見ているか? 俺はこの通りしぶとく生きている。いや、これからも生きていくさ。
大好きな人の傍らで、俺も長年秘めていた恋の花を咲かせ続ける。目には見えなくとも、月並みた台詞だが心の中で、枯れる事なく綺麗なままで。
(……なんて、夢を見過ぎだな我ながら)
何だか照れ臭くて、それが自然と表情に出ていた様だった。
「かーざーみー」
「へっ? あ、待っ――」
それ以上は言葉にならず、互いの唇が重なる。
窓から差し込む木漏れ日の様な体温を享受しながら俺は静かに目を閉じた。