春の海にて 裏面にはマングローブの森と魚の写真、表面には宛先と『来週帰る』とだけ書かれたポストカードが届いた日に悪軍鉄馬は帰ってきた。父親の代わりに店に立つ溝ノ口春海は、半年ぶりに会う幼馴染を迎え入れる。
「いつも突然だな」
「葉書送っただろ」
「届いたの今朝だぞ」
葉書の消印は先週で、受付局はインドネシアのジャカルタになっていた。すぐに届くわけないだろと呆れながら、店の裏手にある家に鉄馬の荷物を運び込む。
「相変わらずすげー量だな。もっと早く言ってくれれば空港まで迎えに行ったのによ」
「そうかぁ? 他の同業者よりは少ねーけどな。どのみち日本着いたら客んとこ寄るし、迎えはいらねーよ」
溝ノ口に渡した大きなスーツケースには着替えやら日用品が入っているが、鉄馬が背負ったバックパックと機内持ち込み可能サイズの黒いケースには、カメラや三脚、撮影機材が詰め込まれている。鉄馬は僻地の自然風景をメインに扱う写真家として活動していた。
優れた動体視力を持ち、体力もある。興味や依頼があればどんな場所でも向かう。リスキーな撮影もこなす鉄馬は、界隈でそこそこ有名になっているらしい。「俺ぁ戦場カメラマンじゃねーんだけどな」なんて自虐することもあったが、それこそ戦場カメラマンでもない限り近づかないような紛争地帯や治安の悪い地域にも足を運んでいる。
一度撮影に行くと長期の滞在になる。一つ仕事が終わったら、その足で次の場所へ向かう。一、二ヶ月で済めば短い方で、長ければ半年や一年近く帰らないことも珍しくはない。川崎に戻ったときには、機材置き場となって足の踏み場もない家にはあまり寄らず、溝ノ口の家で寝泊まりしていた。
「しばらくこっちにいるのか?」
「お〜、次決まってんのが来月の北海道。とりあえず二週間はこっちで過ごすわ」
「そうか、まぁゆっくりしてけよ。丈青たちも会いたがってたぞ」
焼けた大地に砂埃を巻き上げる風、極彩色の花を揺らす毒々しい虫、透き通った海を泡立てる豪快な波。カメラと繋いだタブレットに次々と写真が映し出される。今回のロケ撮影はインドから始まり、タイとマレーシアを通ってインドネシアの島々を巡ったあと、オーストラリアから日本へと戻ったらしい。この日はいつもより早く店を閉め、鉄馬が撮った写真を見ながら酒を呷った。
「このときカメラ盗られちまって大変だったんだぜ。地元のクソガキとっ捕まえてシメたらよぉ〜、元締めのギャングまで出てきやがった」
「やってること昔と変わんねぇじゃねぇか」
途中、東南アジア系の男と肩を組んでいる写真が映し出された。男は笑顔だが隣の鉄馬は迷惑そうに顔を顰めている。
「お前が人撮るなんて珍しいな」
「あー、現地のガイドが撮れってうるさかったんだよ」
鉄馬は人を撮る仕事は引き受けない。モデルの機嫌を取るのは性に合わないし、ポートレートにはメイクやスタイリストなどの関係者が付き物だ。群れることが向いていないと言う鉄馬は、大人数での撮影を嫌がった。自然風景も一人で撮るか、現地ガイドや通訳の同行が必要なときも最小限の人数に抑えていた。
撮った作品も人が映っていないものばかりだった。人がいるので市街地は撮らない。今回みたいなスタッフのオフショットも見たことがなかったので、溝ノ口は驚いた。
「なんだよ、妬いてんのか?」
「……いや、あれだけ人撮りたがらなかったからよ」
「こいつな、これ撮ったあと死んだんだよ」
氷がすっかり溶けた焼酎のグラスから唇を離して、ひとりごとのように呟く。
「やっぱ俺、人撮るの向いてねぇわ」
鉄馬は小さいころから写真を撮られるのを嫌がった。連合にいたころは、王部の入れ知恵か顔が割れるからと写真に映らないようにしていた。たまに千堂竜大がふざけて撮ろうとすると「写真撮られると魂吸い取られる」みたいな冗談を言いながら、竜大のスマートフォンをコンクリートの地面に叩きつけていた。
撮られたがらない鉄馬は撮ることもしなかった。溝ノ口や周りの人間には、鉄馬は写真そのものに興味がないのかのように映っていたので、ブラジルでの抗争のあと、写真家として活動していると聞いたときには驚いた。
最初の長期のロケ撮影から帰ったときに見せてもらった写真には、人を撮ったものも何枚かあった。しかし次第に枚数が減っていく。人を映さない、過酷な環境での撮影スタイルが評価されたこともあり、今となっては一枚も撮らなくなった。
前に梶山丈青が「俺たちも撮ってくださいよ」と言ったときは「魂取られるから」とお決まりの冗談で戯けていた。そのときの横顔がやけに寂しそうだったので、それ以来丈青や溝ノ口は鉄馬に頼むのをやめた。
鉄馬が川崎に戻ってから十日が経った。店が定休日なのでいつもより遅く起きた溝ノ口に、すっかり身なりを整えた鉄馬が「海行くぞ」と車の鍵を投げつける。
「行きてーだろ? 海」
有無を言わせない幼馴染のために、車で一時間ほどの横須賀市の秋谷海岸まで足を運ぶ。冬が終わり暖かくなったとはいえ、季節外れの海に他の人影はなかった。
立石公園から海岸までぶらぶらと歩く。鉄馬は時折り立ち止まってはシャッターを切る。カメラは一台、レンズも一つで三脚は持たない。鉄馬がカメラを構え出すと溝ノ口は黙った。
「いいやつ撮れそうか?」
「今日のは遊びだ。テキトーだよ」
「俺は鉄っちゃんの写真、どれも好きだけどな」
鉄馬の写真は一瞬の動きを捕らえたものが多い。常人とは違った目を持つ鉄馬から見える世界が少しだけわかったような喜びと、一生かかっても同じ景色には辿り着けない諦めを、どうしようもなく自覚させられる。鉄馬が撮った写真は店にも何枚か飾られていた。
日が暮れてきた。目当てだった夕暮れ時の立石が撮り終わり、秋谷から少し北上して、葉山のリゾートホテルに泊まる。鉄馬は「男二人で泊まる部屋じゃねー」と笑いながら、ツインのベッドに身を沈めた。そのまま動かなくなったので溝ノ口は先にシャワーを浴びることにした。
バスルームから寝室に戻ると、常夜灯も全て消された真っ暗な部屋のなか、鉄馬はベッドに座っていた。
「どうしたんだよ、電気も点けないで」
溝ノ口の問いかけには答えず黙っている。カーテンから漏れる僅かな街明かりを集め、鉄馬の目だけが爛々と輝いて見えた。
異様な目つきは幼いころに見たものと同じだ。鉄馬の父親が血塗れで倒れていた日を思い出し、警戒されない程度にそっと脚に力を込める。
重々しい沈黙を破ったのは鉄馬のほうだった。
「俺が写真撮ったやつは死ぬ」
「鉄……?」
「魂吸い取られて死ぬんだよ」
「落ち着けよ、何言ってんだよ。偶然だろ」
「偶然じゃねーよ、全員ロクな目に遭ってねぇ。この前のやつだって、あの後ギャングに絡まれて殺されたんだ」
「お前は生きてるじゃねぇか。大丈夫だよ」
「なんで俺は生きてるのか教えてやろうか」
サイドテーブルに置かれたカメラを乱暴に握りしめた。
「吸い取られた魂がここにあるんだよ。いつも側にあるから俺は生きてられるんだ」
声が震えている。暗くて見えないが、カメラを持つ手もきっと震えているのだろう。寝室の入り口から鉄馬の側へ寄り、しゃがみこんで顔を覗き込む。部屋の暗闇に目が慣れても、俯いた顔は一層暗くて表情は読み取れない。
「写真撮んの止めたら俺は死ぬ」
「鉄っちゃん」
「休んでると怖いんだ。明後日には出て行くわ」
「鉄っちゃん!」
鉄馬の腕を掴むと目の光も合わせて揺れる。長い睫毛に捕らわれていた涙が溢れて落ちる。
「悪りぃな」
溝ノ口の手を腕から剥がして、シーツを被って背を向けた。
「明日早えーし寝るわ。溝もさっさと寝ろよ」
「……おやすみ鉄っちゃん」
「……おやすみ。悪かったな」
もう一度謝る消えそうな声は、誰に向けたものなのかはわからない。
翌朝、といっても朝日が昇る前なので数時間しか経っていないが、アラームに起こされて溝ノ口は目を覚ました。職業柄早起きには慣れているつもりだが、昨日と同じく鉄馬のほうが先に起きていた。昨夜の弱々しい姿など無かったかのように、朝からミニバーの缶ビールを開けている。
「よう」
「鉄っちゃんおはよう、よく眠れたか?」
「おー完璧」
正直なところ、朝起きたら鉄馬は死んでいるのではないかと気が気ではなかった。そんなことを口に出したら本当に死んでしまいそうなので、溝ノ口は黙っておくことにした。
カメラを片手にホテルを出て、まだ薄暗い海岸を歩く。西側に相模湾が広がる葉山の海岸線には、朝日は映り込まない。そのぶん光の回り方が穏やかで、薄ら青く見える空気が辺りを満たしていた。
「また遠くに行っちまうのか」
「国内だしそうでもねーよ。前乗りして北海道周るわ」
「仕事、北海道のどのへん?」
「北方領土っつーの? なんかそのへんの島」
なるほど確かに鉄馬に来そうな依頼だと苦笑いをする。
「一人か?」
「付き添いがいるみてーだな。許可が厳しいらしくてよ」
「そのへんの手続きしてくれる人、いい加減雇ったほうがいいんじゃねぇの?」
「弟子にしてくれって話なら結構来るけど、んなもんいらねーよ。マネージャーとか税理士なら雇ってもいいかもしれねーけどよぉ、管理されんのも向いてねーんだわ。弁護士で痛い目見てるしよ」
お互い困ったように笑い合う。一頻り笑ったあと、鉄馬は煙草を取り出して火をつけた。
「なぁ、溝」
煙をスパンと吐き出してから鉄馬が振り返る。足元の砂利が音を立てて抉れ、小さな山を作った。
「俺と一緒に北海道来ねーか?弟子でもマネージャーじゃなくてもいいからよ。一週間くらいなら親父に店頼めんだろ」
明け方の低い太陽を背負った鉄馬に、溝ノ口は思わず目を細める。眩しい場所に立つ幼馴染の誘いに、溝ノ口は答えない。
「俺の写真撮ってくれよ」
鉄馬の目は一瞬大きく見開かれ、すぐにいつもの伏し目に戻った。
「俺の魂、鉄っちゃんが持っててくれ」
「……んなことあるわけねーだろが」
「写真撮られたって俺は死なねぇよ。お前には帰ってくる場所も必要だろ?」
二人はしばらく無言で向かう合っていたが、先に動いたのは鉄馬のほうだった。諦めたように煙草を投げ捨て、大股で数歩下がってカメラを構える。温い潮風が刈り上げられたうなじを撫でる。名前と同じ、春の海に背を向けた幼馴染とファインダー越しに目が合った。息を止めて慎重にピントを合わせ、祈るようにシャッターを切る。
横須賀から帰った翌々日、羽田空港までは溝ノ口とその父親が車で送った。溝ノ口の父親は何回も見送っているくせに、毎回今生の別れのように泣く。
「いつも大袈裟なんだよ。次は国内だし安全だろ」
「バカヤロー、事故なんていつ起きるかわかんねぇんだぞ!」
「俺今まで一回も死んだことねーし大丈夫だろ」
「当たり前だろーが! 次も帰って来いよ、バカ息子ッ!」
「うるせークソジジイ。オメーも俺が帰るまでくたばるんじゃねーぞ。息子の握る寿司、まだまだだから教育しとけ」
「おいおい、美味いって言いながら食ってたじゃねぇか」
「親父にゃ敵わねーよ、自惚れんな」
騒ぐ二人に背を向け、鼻を鳴らして笑いながら手を振る。そのまま振り返ることはなく、鉄馬は保安検査場へと入った。溝ノ口親子は鉄馬の背中が見えなくなっても立ち尽くし、飛行機の出発時刻が過ぎるとようやく家へと向かった。
飛行機は事故も無く離陸した。徐々に遠くなる地上を窓から見下ろす。一昨日訪れた横須賀の海は、進行方向と反対なので見えないだろう。飛行機が雲の中に入り、窓の外が白で埋め尽くされると、鉄馬はポケットから財布を取り出した。
肌身離さず持っているそれには一枚の写真が入っている。三條一里と双刃純悟が南米の太陽を浴びながら眩しい笑顔を寄せ合っている写真は、鉄馬が撮った二人の結婚式のものだ。
あのころの二人はもういない。こんな笑顔を撮れる日は二度と来ないとわかったときから、鉄馬は人を撮ることが怖くなってしまった。
少し草臥れた写真をそっと撫でると、上から真新しい溝ノ口の写真を押し込み、財布をポケットに戻した。