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    いつか春に出会うまで 東の国に冬が来た。
     湿潤な東の国では、粒の大きなぼたん雪が降る。

     今年初めて降る雪は、ブランシェット城の庭園にも降り注ぎ、丁寧に刈り込まれた生垣の葉を叩いて揺らした。冬の間、草木は土の中で養分を溜め、発芽のために春を待っている。人間には厳しく感じられても、実りのために必要な季節だ。
     ここ、ブランシェット城は、東の国で最も有力な貴族が住む城だった。庭ではいつも大勢の使用人たちが庭仕事に勤しんでいるが、今日だけはみな仕事を休んでいた。そのせいで、いつも清潔な労働の気配が漂う中庭は、この世の終わりのように静まり返っていた。
     
     そんな寂しい庭を、一人、屋敷の廊下から窓越しに眺めている少年がいた。 

    「坊っちゃん、旦那様がお呼びですわ」

     メイドに声を掛けられて、少年は、高級な織物のような美しい金色の髪を揺らして振り返った。
     旦那様、というのは、このブランシェット領の領主であり、少年の父親だ。
     少年は、この東の国で最も有力な貴族であるこの家の次期当主となる存在だった。
    「書斎でお話があるそうです。今度の会食のことかしら」
     会食、とメイドが言ったのを聞いて、少年は少し顔を曇らせて俯いた。美しい金色の前髪が、彼の思慮深く聡明な青い瞳に影を作る。
    「何を見ていらっしゃったのですか? 窓辺は寒いでしょうに」
    「……なんでもないよ。待たせてごめんなさい」
     少年はそう言うと、メイドに連れられて書斎へと向かって歩き始めた。
     今日の雪で、庭の花たちが凍えてはいないだろうかと心配しながら。

     書斎に着くと、少年の父親は窓際に立って待っていた。
     メイドのノックの音を聞いて椅子から立ち上がったと見えて、腰を伸ばす仕草をしながら少年に微笑みかける。
     少年は、父親の書斎が好きだった。壁一面に並べられた本棚から香る古書の匂い。父がいつも使うインクの匂い。今日も父は仕事の合間だったらしく、デスクの上には書類が散らばっている。その全てが、父親の仕事の立派さを思わせる気がして、少年は嬉しくなった。
     父親は、目配せだけでメイドを退がらせると、少年に手招きをした。

    「週末に、他領の領主との会食があるのは知っているね」
     父親は、再び椅子に体を沈めながら言った。革が擦れる重々しい音が、静寂に響く。
     少年は頷いた。東の国の有力貴族と、ブランシェット家の時期当主の顔見せを兼ねた食事会に誘われているのだ。
     もちろん、領主同士の会食というのは、ただの食事の場ではない。それ自体が、十分に政治的な意味を持ちうる行為となる。

    「今度お会いするガートルード卿の領地は、広さではブランシェット領に劣るけれども、大規模な鉱山を有している。鉄鋼業が盛んで、先の戦争でも大きく力を伸ばした。つまり、今後東の国が他国と戦争をすることになったときに、最も得をする貴族のひとつだってことだ」
     父親は少年に対して、子どもだからと敢えて易しい言葉を使うことを許さなかった。
     普通の子どもでは理解できないように思えることも、丁寧に全てを話して聞かせていた。
     自分の持てる知識を全て息子に預けるために。
     聡明な少年は、父のそんな思いをしっかりと汲み取っていた。

    「だから、領民の暮らしを守る我々としては、付き合いを慎重にしないといけない。わかるね?」
     少年は、それを聞き、唾を飲み込みながら父親を見つめた。
     言わんとする意味は、もちろん分かっていた。
    「……おれが魔法使いだから、関係がわるくなるかもしれない?」
     少年は、おずおずと父親に尋ねた。

     この世界には、不思議の力を使える者が存在する。
     不思議の力とは、精霊を従え、世界の理に干渉する力だ。
     人間の理解の範疇を大きく超えた、巨大な力。
     その力を持つ者は、魔法使いと呼ばれた。
     魔法使いは、土地によって崇められ、恐れられ、排斥され、人間によって好き勝手に解釈されてきた。

     そして、少年は魔法使いだった。
     父親は、少年を不安にさせないように、すぐに笑いかけた。
    「そうならないようにするための食事会だ。領主同士で今後も友好的な関係を築きたいと思っていることを知ってもらって、双方が納得するためのね」
     東の国は、大陸に存在する他の国と比べても、魔法使いへの風当たりが強い国だった。
     少年は、これまでに参加したいくつかのパーティーでの様子を胸中に反芻した。
     遠巻きに探るような視線。子どもだから分からないと思っているのか、少年のいるすぐ真横で囁かれる陰口。
     繊細で感覚の鋭い彼は、その全てに気付いていた。気付いた上で、耐えなければならないと知っていた。
     口内に苦い味が蘇るような感覚に、少年は顔をしかめた。
     不安そうな少年の様子に気づいて、父親は明るく笑った。
    「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫さ。いつも通りにやっていれば、何も怖いことはないよ。親しく、と言っても、下手に出て擦り寄るってわけじゃない。決して侮られないよう、毅然とした態度で話をするだけだ。お前にならできると信じてるよ」

     ただでさえ、東の国は礼儀や伝統を重んじる風潮が強い。魔法使いであれば尚更、評価の目は厳しくなる。少年は、期待以上の振る舞いを示す必要があった。

     そして、ガートルード卿との会食の日がやって来た。
     少年は、この日に合わせて新調した、艶やかなシルクのシャツに袖を通した。
     シャツはメイドたちによって丹念に手入れされており、わずかな皺もほつれも許さない完璧な仕上がりだった。
     その完璧さは、少年が求められる振る舞いそのものだった。
     決して間違えず、常に正しく在らねばならない。
     ぬめりを帯びた光を放つ螺鈿細工のブローチを指で撫でながら、少年はゆっくり呼吸を整えた。
     少年は、父と話をしたあの日以来、ガートルード卿の不況を買わないよう、努力を続けていた。
     自らの領地についても、相手の領地についても、徹底的に書物で調べ上げ、覚えられることは全て覚えた。

     大丈夫、きっと。あれだけ努力したのだから、上手くいくはずだ。
     いや、いくはず、じゃない。絶対に失敗なんてしない。

     ブランシェット城を囲む大きな森を抜けてしばらく行くと、首都へ続く大通りに出る。目的地であるガートルード領は、大通りをしばらく進み、北へ少し入った位置にあった。
     会食は夜を予定していたが、移動に半日かかるため、ブランシェット家の一行は昼前に出立した。
     少年は、初めての長旅に緊張していた。
     すると、森を抜けて大通りに差し掛かったあたりで、なにやら賑やかな声が聞こえる。
     外を見ると、大通り沿いの広場に人だかりが出来ていた。

     ◇  ◇  ◇

     この領地を治めるブランシェット家の一行が、久しぶりに外交で他領に向かうとかで、昼間の路地はやけに賑わっていた。
     ここに住む人間たちは、みんな領主様のことが大好きだ。
     この土地で最も高貴な御家族の姿を一目でも見たい民衆は、馬車道に押し寄せて人だかりを作っていた。
     けれども、領主様の姿になど一切興味が無いのに、通りに足を運ぶ者もいた。
     広場の縁石に座り込み、人だかりを睨みつけているこの少年もその一人だ。
     少年は、カラスのように黒光りする油っぽい髪と、泥まみれの肌には不釣り合いなほど大きな赤い瞳を持っていた。

     何が領主様だ。くだらない。

     少年は、領主様のことなどどうでもよかった。顔も知らないし、オレに何もしてくれない、つまらないやつだ。そう思っていた。それでも少年がここにやってきたのは、カモを探すためだった。
     人混みは、スリには絶好の仕事場だ。
     少年は、路上で暮らす孤児だった。そして、不思議の力を使う魔法使いでもあった。
     魔法使いの孤児など、引き取る酔狂な人間はいない。生きるためには、手段を選んではいられなかった。

     通り沿いに背の高い大人がひしめき合っているせいで、少年からは大通りの様子は全く見えない。代わりにじっと耳を澄まし、通りの様子を伺った。
     あ、とどこかで控えめな歓声が上がる。
     人々は、餌を目の前に吊るされた動物のように、一斉に声のした方を向く。
     今だ。少年は、目星を付けていた通行人に素早く近付き、ポケットから財布を抜き取った。
     人々が馬車の行方を夢中で追いかけている隙に、そのまま全速力で走り去る。広場を抜けて、路地裏に駆け込む頃には、もう歓声は随分遠くなっていた。
     少年は、周りに誰もいないことを確認して、掏った財布の中身を確認しようとした。
     その時だった。
     少年の視界の端から突然、獣のような速さで何かが飛び出してきて、財布に飛びついた。
     この路地裏を縄張りにしている浮浪者だ。油断した。少年が体勢を立て直す前に、男は財布をもぎ取ると、あの骨と皮のような体形のどこにそんな体力があるのか分からないぐらい、すごい速さで駆けて行った。
     少年は、虚空に向かって悪態をつき、悔し紛れに砂を投げた。
     腹立たしいが、よくあることだった。逆に、少年も他の浮浪者や孤児から物を奪ったことがある。そういう世界だと割り切るしかなかった。
     再び広場に戻った頃には、とっくに馬車は過ぎ去り、集まっていた人たちもまばらに散っていた。

     家のない彼は、寒さから逃れるために、近くにある農場の馬小屋を仮の住処としていた。もちろん、馬主に許可を取ることなどできない。彼はまだ幼い子供で、大人と渡り合う知恵も、力も、もちろん資金も持っていなかった。どうしても寒さに耐えられない夜の間だけこっそりと馬小屋に潜り込み、朝を待っていた。
     さらに、ここの牧場主は、残飯を家畜の飼料として与えていることがときどきあった。
     どうしても腹が減って仕方ないとき、少年は、飼い葉桶から野菜のヘタや、芋の皮を拾い集めて食べていた。惨めだとは思わなかった。こうすれば数日生き延びられるからだ。
     厩舎は狭かったが、小屋の一角には干し草が小高く積まれており、子供の体を温めるには十分だった。
     彼は、夜毎干し草の山に潜り込みながら、同じ小屋で夜を過ごす大きな馬を眺めていた。
     馬は美しい生き物だ。
     人間としてもまだとびきり小さい彼の目から見れば、大人の馬は神々しいほどに大きかった。艶やかな毛並みと、その下で脈打つ美しく引き締まった筋肉。もし、夜中にこの馬の機嫌を損ねるようなことがあり、馬が彼の頭を蹴れば、彼はひとたまりもなく死ぬだろう。
     でも馬は、彼を攻撃するようなことはなかった。
     小さな彼の存在を意に介することなく、静かに大きな体を横たえて休んでいた。

     少年はひとりぼっちだった。他人のいない世界には言葉がない。

     けれど少年は、言葉のない世界が好きだった。少年がこれまで人にかけられた言葉といえば、罵倒や悪態など、彼を責める言葉ばかりだった。
     動物は言葉を使わないが、長いまつ毛に縁取られた大きな黒い瞳には、感情が確かにあった。悪意ではない感情が。その馬の大きな瞳に見つめられると、不思議と安心するような気持ちになった。

     ◇  ◇  ◇

     ガートルード領は、首都である雨の街にほど近い場所にある。
     東の国では、首都に近づくほど法典の拘束力が厳しくなる。この領でも、検問所でのチェックはブランシェット領とは比べものにならないほど厳しかった。
     特に、魔法使いを領地に入れるときには、厳粛な身体検査を受けなければならなかった。検問をくぐり抜け、領主の城に着く頃には、幼い少年は既にくたくただった。

     ガートルード夫人は、新雪を被ったように真っ白な髪と、まだ強い意志の宿る青灰色の瞳を持った、上品なマダムだった。
     まぶたに刻まれた深い皺は、老いではなく重ねてきた年月の重みと老練な気迫を感じさせる。まだ幼い少年にとっては、向かい合うだけで背筋が伸びるような、不思議な威厳を感じさせる存在だった。
     夫人は、初めて対峙する少年のことを探るようにまじまじと見つめていた。
     スープをひと掬いするにも、作法が頭から飛びそうになるほど緊張しながら、少年は懸命に食事をした。当然、味など分かるわけがなかった。
     けれど、このひと掬いに、領民の平穏な暮らしがかかっているのだと思うと、緊張しないわけにはいかない。
     そんな少年に、ガートルード夫人が突然声をかけた。
    「あなたが、ブランシェット家の次期当主さん?」
     この場で既に食事をしているのだから、そんなことは聞かなくても分かっている。
     つまり、早く自己紹介をしろという意味だ。
     少年は、所作がばたつかないように気を配りながら、可能な限り素早く、返事をした。
    「は、はい。ご挨拶が遅れてしまい、すみません」
     少年は、覚えてきた挨拶をそっくりそのまま述べた。滑らかで、はっきりと通る声だった。
    「あらまあ、魔法使いなんて聞いてたから、どんな子かと思っていたら、とっても賢そうで素敵な子じゃない」
     夫人は、素直に感心したように、柔らかく双眸をひそめながらそう言った。そして、心からの賛辞であるかのように、こう言い添えた。
    「言われなければ、あなたが魔法使いだなんて誰も思わないのに。残念ね」
     一瞬、空気が凍り付いて、世界から音が消えたのかと思った。
     夫人に悪意があるようには見えなかった。
     ものを知らない軽薄な人だとも思えなかった。
     領主としての器量は十分であり、領民からも信頼されている人物だからこそ、そんな人の心の奥底にも魔法使いへの嫌悪感が強く根付いていることは、少年の心を冷たく切り裂いた。
     貴族としての立場はブランシェットに劣ることに度々言及しつつ、低姿勢さを見せながら、最適な立ち回りを提案する。年季を感じさせる見事さだった。
     やがて食事は終わり、ブランシェット家の当主とガートルード家の当主は固い握手を交わした。友好の場は無事に取り持たれた。
     
     その晩は、屋敷の賓客として一夜を過ごし、翌朝家へ帰る予定だった。
     ブランシェット家のお付きの使用人と、ガートルード家の使用人は、食事会の間に打ち合わせを終えていたとみえて、食事会が終わるやいなや、流れるように客間へと導いてくれる。少年は、使用人たちの洗練された働きぶりにいつも感動していた。
     来賓であるので、まだ幼い少年にも、広すぎる一人部屋が与えられた。
     緊張が解けて、ベッドに横たわる。自分のものではないベッドは、知らない匂いがして、少し落ち着かない。
     窓の外を見ると、不気味なほど大きい月が輝いていた。
     なんとなく怖くなって、少年はカーテンを閉じ、再びベッドに腰掛ける。

     静かな部屋で、やることもない。父上の書斎から本を借りてくればよかった、と少年は今更後悔した。
     父上や、母上は、まだ起きていらっしゃるだろうか。会いに行きたいと思うのは、甘えだろうか。
     少年がそんなことを考えていると、ふいに部屋のドアがノックされた。
     はい、と返事をすると、ドアが開く。母親の側近のメイドが立っていた。
     母はその後ろから現れて、「入ってもいい?」といたずらっぽく笑った。
     少年が頷くと、母親はメイドを退がらせて、一人で部屋に入る。

    「もう寝るところだった?」
    「ううん、まだ」
     少年と母親は、並んでベッドに腰掛けた。
    「明日も遅いから、そろそろ寝ないといけないけど、これだけ言いにきたの」
     母は、少年を抱きしめた。そして、大切な、高級な糸を梳くように、優しく少年の頭を撫でた。「あなたはよくやったわ」
     少年は、嗅ぎ慣れた母親の匂いに包まれた瞬間、急に涙が溢れてきた。
     そして、ようやく自分の胸の痛みに気が付いた。
     
     魔法使いで残念だと言われて、悲しかったこと。悔しかったこと。
     何か言い返したかったのに、場が壊れるのを恐れて、何も言えなかったこと。
     母親は、堰を切ったように泣きじゃくる少年の頭と背を撫で続けた。

     私たちがいるわ。私と、お父様とお城のみんながいるわ。
     私たちは、あなたを愛しているの。魔法使いであることも含めて、全部よ。
     語りかける声は、子守唄のようだった。
     だから、大丈夫。大丈夫よ。

     冬の夜長に溶けた泣き声は、貴族の子供ではなく、ただの孤独な少年のものだった。

     ◇  ◇  ◇

     月の大きな夜だ。
     雪が降りそうな匂いがしていた。長く路上で暮らしていたおかげで、少年は雨や雪の気配が分かるようになっていた。雪が降るのであれば、温かい場所を探さなければいけない。
     少年は、いつもの馬小屋に身を隠そうと、農場へ向かった。
     割れた板の隙間から、厩舎を覗き込む。普段なら静かに横たわっている馬が、その日は何やら切なそうな呻き声を上げながら、蹄の付いた四本の脚を大きくばたつかせていた。
     お産が始まっていた。
     思わず馬小屋の中に入って様子を見ると、母馬の尻から仔馬が半分だけ出てきているところだった。仔馬は、前足と頭を外に放り出した格好のまま、不自然なほど動かない。

     少年は、何が起きているのか分からないまま、思わず母馬の顔を見た。
     大きな黒い瞳が、何かを訴えているように感じて、少年は母馬のお腹に手を当てた。
     どうしたらいいか、何も分からなかった。ただ、母馬の気持ちに応えようと必死だった。

     すると、その懸命な祈りを精霊が聞き入れたのか、小さな魔法が起こった。
     あたりは淡く発光し、ただでさえ静かな夜が、針の落ちる音も聞こえそうなほど透き通る。
     世界中の生き物が呼吸を止めたような一瞬の後、仔馬が唐突に前足をばたつかせ始めた。
     そして、自力で産道から這い出し、干し草の上に横たわった。

     少年は、それを見届けて長い長い息を吐いた。

     長い格闘の末に生まれ落ちた仔馬は、まだ生命としての形をとる前の熱の塊そのものみたいに、全身から湯気をほとばしらせていた。
     自分が何をやったのかも理解しないまま、仔馬の姿に見惚れていたその時だった。

     牧場主の暮らす小屋の方から、扉の開く音が聞こえた。
     さっきの光で気づかれたのかもしれない。少年はそう思い、逃げようとした。
     するとその気配に気づき、牧場主も走って追いかけてくる。あろうことか、その手には猟銃が握られていた。
    「クソガキが! 失せろ!」
     少年の背後から、発砲音が聞こえた。
     けれど、興奮した牧場主の狙いは定まらず、少年の脇を通り抜けた。
     少年は、何度か転びながら、必死で大通りまで駆けて行った。
     
     息を切らせて、大通りまで駆け抜けた。いつかの昼間、ブランシェット家の馬車が通って行った大通りだ。
     牧場主が追いかけてこないことを確かめながら、少年は息を整えた。逃げる時に転んだので、手足をところどころ擦りむいている。

     今、あの馬小屋の親子はどうしているだろう。

     突然、そんなことを考えた。
     母馬と、仔馬が、寄り添って体温を分け合いながら眠っている姿を想像した。
     どうしてそんなことを考えるのか、彼自身も分からなかったが、そうせずにはいられなかった。

     頭の片隅にはまだ暖かい馬小屋の景色があって、何故だか涙が溢れてきた。
     身体から無駄に水分が出ていくことを、もったいない、と思ったが、止め方が分からなかった。
     寒くて、痛くて、悔しくて、寂しかった。
     けれど、どの言葉も少年の中ではっきりと形になってはいなかった。涙の理由を尋ねてくれる者のいない少年の胸の中には、ただとてつもなく大きくて暗い渦があるだけだった。
     痛いときに、痛いと思うことに意味はない。
     それどころか、余計に痛くなるということを少年は知っていた。
     そんなことを考えている暇があったら、生き残るために何をするかを考えないといけない。

     オレは、まちがってない。
     少年はそう呟いた。

     オレが魔法使いであることも、オレが生きていることも、何も、何もまちがってなんかない。
     誰に疎まれようが、失せろと罵られようが、消えてなんてやるものか。
     だから立て。歩け。

     そう唱えても、涙は止まらない。
     自分が何故泣いているのかも分からないのに、涙は後から後から溢れて、呼吸を苦しくさせる。泣き声を人に聞かれないように、少年は自分の腕を噛んで嗚咽を噛み殺しながら泣いた。誰かに見つかって通報されれば、救貧院に連れ戻されるからだ。

     ふらつく足をやっと動かして、少年は歩き始めた。
     向かう方角も分からず、傾く身体が倒れないように、ただ脚を交互に動かしているに過ぎなかった。こんなところで死にたくなかった。

     そんな少年を、夜空に浮かぶはりぼてみたいに大きな月だけが見ていた。 

     行くあてなんてどこにもなかった。

     ◇  ◇  ◇

     東の国の季節は巡り、あれからさらに数度冬を越した。 
     
     屋敷では茶会が開かれていた。少年の母は、得意料理のレモンパイを上機嫌で切り分けている。
     いつも落ち着いている夫人が、不自然なほど浮かれている姿に、メイドたちも少し困惑しているようだった。
    「母上、なにか良いことがあったの?」
     少年は思い切って尋ねた。
     すると少年の母は、少年と同じ美しい青色の瞳を輝かせながら、手品でも見せるような調子で言った。
    「今、庭仕事をしてくれている小間使いの子の中に、あなたと同じくらいの歳の魔法使いがいるんですって!」

     少年は、直ぐには言葉の意味を信じられなかった。そんなこと、想像もしたことが無かったからだ。
     数秒遅れて、言葉の意味を理解すると、ようやく少年は声を出した。
    「ほんとに……!?」

     うつむきがちだった少年の、久しぶりに輝いた瞳を見て、母親は思わず少年を抱きしめた。

    「ねえ、あなたさえ良ければ、お友達になってくれるようにお願いしに行こうかと思ってるの。どう?」

     しかし、二つ返事で頷くかに見えた少年は、ふいに顔を曇らせた。
    「で、でも……。小間使いの子だったら、俺にはわからない苦労をいっぱいしてるだろうし。仲良くしてくれるかな」
    「そうやって、想像して気遣うことができるなら、大丈夫よ。あなたはたくさん言葉を知っているから、優しくできるでしょう?」
     母親は、そう言って少年に笑いかけた。
     とても柔らかく寛いだ笑顔だった。少年は、母のことをよく笑う人だと思っていたが、本当の笑顔を見たのはこれが初めてかもしれない、と思った。
     そして、唐突に理解した。
     もしかしたら、母上も思い悩んでいたのかもしれない。俺を魔法使いに産んだことで、孤独な運命を背負わせてしまったと。
    「ありがとう、母上」
     そう言って、今度は少年から母を抱きしめた。

     その夜、少年はベッドの中で、これから出会う友人のことを考えた。
     どんな姿で、どんな声をしているんだろう。どんなものを見て生きてきたんだろう。
     仲良くしてくれるといいな。その子も魔法使いということで、嫌な思いをしてきたんだろうか。
     小間使いだから、母上や俺に言われたら、嫌々でも言うことを聞かざるを得ないのかもしれない。そうだったら嫌だな……。

     いくつもの考えが浮かんでは消えて、とりとめもなく広がっていった。
     友達が、できるかもしれない。
     その可能性は、孤独な少年にとって、真っ暗だった夜空に突然星が生まれるような衝撃だった。

     友達になってくれる存在がいるということも、自分が誰かの友達になれるということも、想像しただけで堪らなく嬉しかった。

     優しくしたいな。
     たくさん話を聞いて、俺もたくさん言葉をかけてあげたい。
     誰かの苦しみに寄り添えたら、俺の苦しみにも、意味があったと思えるかもしれないから。

     ◇  ◇  ◇

     あれから幾度か冬を越え、少年は、ブランシェット家の使用人になっていた。
     使用人の生活は素晴らしい。食事があるし、寝床があるし、何より仕事がある。
     必要とされている。誰かの役に立っている。
     それがこんなに嬉しいことだと、少年はブランシェット家に来て初めて知った。
     明るいうちは忙しく働いて、暗くなったら使用人部屋のベッドで眠る。それは、路上でいつ死ぬか分からない恐怖と戦いながら生きていた頃からは想像もつかないほど、穏やかで満ち足りた生活だった。
     なのに時々、あの頃とは違う恐怖に襲われることがある。
     ぐったりと疲れているはずなのに、何故か上手く眠れない夜。
     同じ部屋で寝起きする他の使用人の子供たちの寝息が、やけにうるさく聞こえる夜。
     陸地の見えない大海原の真ん中に一人で置き去りにされたような、得体の知れない心細さがやってくるのだ。

     使用人の食事はとても慌ただしい。特に少年は、使用人の中でも最も身分が低いので、食事は一番遅く食べ始めて、一番早く食べ終えなければならなかった。味わう暇など無いが、それでも確実に食事にありつけるだけで、少年にとっては天国のようだった。
     ある日、少年がいつものように食事を掻き込んでいると、向かいの席から視線を感じた。
     少年と同じ部屋で寝起きしている、少し年上の小間使いだった。少年が見つめ返すと、その男は気まずそうに視線を逸らす。食事中に雑談を交わすような暇はないので、その時はそれきりだった。

     食事を終え、使用人部屋に戻った時、少年が切り出した。
    「あんた、なんでずっとオレを見てる?」
     そう言われて、その男は、ぎくりとしたように身をすくめた。
    「オレが目障りなんだろ。あれだけずっと睨まれたら、魔法使いじゃなくたって気が付く」
     魔法使い、という言葉を聞いて、男は明らかに顔色を変えた。
     やっぱりそうか。大方、魔法使いであるオレのことが気に食わないが、坊っちゃんが魔法使いである手前、魔法使いのことを悪く言いづらいんだろう。
     城主様のご子息が魔法使いであるお陰か、ここに来てから、魔法使いであることを理由に悪意ある言葉を向けられる機会は減った。けれど、人々の心から、魔法使いへの嫌悪感が完全に消えるわけではない。
     そのことに対して、少年は落胆も憤りも感じなかった。
     射貫くような少年の視線に耐えかねて、男が口を開く。
    「……別に魔法使いだからどうとか言いたいんじゃない。お前のその、育ちの悪い態度と言葉遣いが、この屋敷にふさわしくないと思ってるだけだよ」
     その言葉を聞いて、少年は呆れたように肩を落とし、大袈裟な溜息とともに一言、「ああそう」と言った。
     魔法使いだから、と言えなくなったら、育ちを理由にされるのか。
     育ちが悪いから。態度が悪いから。まともな言葉を使えないから。
     人を排斥する口実はいくらでもある。他人を排斥しようとするときに、人がどれだけ多彩な言葉を使うか彼はよく知っていた。
    「悪いが、あんたに雇われた覚えはないから、あんたの言うことは聞けない。オレを拾ったのは旦那様だ。文句なら旦那様に言ってくれ」
    「な……」
    「旦那様の命令ならなんでも聞くさ。飯をもらってるからな」
     男は、まだ何か言い返そうとしていたようだが、少年は取り合わずに枕に頭を埋めた。これ以上話しても無駄だと思った。

     ベッドの上で体を丸めて、穏やかな眠りだけを祈りながら目を閉じる。

     地獄からそう遠くない所にある、冷たい煉瓦の道を這って這って這いずって、この身ひとつでここに辿り着いた。その道のりを、なんで何も知らない奴に馬鹿にされなきゃいけない。そう思うと同時に、諦めてもいた。オレがオレである限り、ずっとこんなことがあるんだろう。
     寒さや、飢えや、死への恐怖からは逃れられても、自分が自分であることからは逃げられない。そのことに気づきそうになるとき、少年の胸に暗い影が差す。
     
     何か、意味を求めていたのかもしれない。
     針のむしろの上を裸足で歩くような日々に、一人で耐え続けるための意味を。終わらない自分自身を、許すための理由を。

     むなしさという言葉を、少年は知らなかった。
     代わりに、腹が減った、と思った。

     ◇  ◇  ◇

     長く続いた冬も終わり、庭園には爽やかな風が吹いていた。
     新しい蕾が芽吹き始めた庭で、お互いを見つめ合う少年たちがいた。
     一人は、この屋敷に住む貴族の少年。母親の影に半分隠れながら、不安と期待に包まれて、目の前の少年に躊躇いがちな視線を向けている。
     もう一人は、この屋敷の小間使いである、黒髪の少年。産まれて初めて海を見た人のように、瞳を大きく見開いて、目の前にいる少年を見つめている。

     まだお互いにとって何者でもない少年たちの視線が、交差していた。

     二人の間には、この屋敷の夫人が立っている。
     夫人は、二人の少年に順番に笑いかけ、春を告げるようにこう言った。

     シノ、魔法使いなんですって? ヒースクリフもそうなの。
     だから、これから、ヒースと仲良くしてあげてね。
    seikatsuwoyaru Link Message Mute
    Jun 25, 2022 11:30:17 AM

    いつか春に出会うまで

    試運転です。
    東主従が出会う前の過去捏造です。
    #まほやく  #小説  #二次創作

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