<乍要>「Rain」「来月のシフトなんですけど…」
バイトの要が珍しく土日で休みを希望したので、臥信は内心に膨れ上がる興味を抱えて、さり気なく尋ねた。
「ふうん。どこか出かける予定でも?」
いつものあまり動かない表情で、要が説明した。
「驍宗さんが神社にお参りに行くから、僕もついでに連れて行ってくれるみたいで…週末にお休みなんて無理かもって、一応言ってあるんですけど…」
要がバイトをしているのは、臥信と霜元の二人がやっている中華料理の店だった。二人とも驍宗とは昔馴染みと言ってもいい間柄で、その驍宗から半ば預かるようにして要を引き受けている。それなのだから、たとえ無理でもそう無理とも言えない。
「来月はもうそろそろ夏だからね。お客さんが立て込むことはないかな」
「そうなんですか」
「うん。暑い時期はさっぱりしたうどんとか蕎麦とか、冷麺の店も人気だし、あー、あとは鰻屋が繁盛するね。だからうちは忙しくはないと思うよ」
厨房へ向けて臥信は一声かけ、上背のある料理服姿の人影が奥で動いた。
「…冷麺ならうちもメニューにはあるが、やはり韓国料理屋の方が強いのは悔しいところだな。冷やし中華は単価でコンビニに負ける」
厨房から霜元が出てき、要に尋ねる。
「いつ休みたいんだ」
日付を要が伝えると、霜元はカウンター内側のカレンダーをめくる。
「予約もないし、臨時でバイトを探すほどではないように思うが、どうだ」
どうだ、と問うのは臥信へだ。
「デリバリーだけ李斎のところの留学生に頼んでおけば、いけそうじゃない」
臥信の答えに霜元は頷き、要に顔を向ける。
「その日は休みということでいいぞ」
「ありがとうございます」
「他にも希望があれば出しておいてくれ」
はい、と答えた要が目を細めて微笑したので、霜元はちらと笑み、厨房へ戻って行った。
*
「『この日に』どこの『神社』で『お祭り』…かな…っと…」
興味本位で入力し、即座に表示された検索結果の文字列や画像を見て、臥信は笑いを堪えた。
いの一番に挙がった、というより唯一として並ぶのが、とある神社。近隣の県だ。
「縁結び…縁結びの神社で、へえ。こんなお祭りやってるんだ」
そう呟いて、臥信はニヤニヤした。
あの繊細とは無縁とも思える体育会系が、こんな風流めいたデートを計画したらしいと考えると、下腹が震えてくるのも当然だろう。臥信は厨房のステンレスの台に腰を預けて、指先でいくつもの画像を流し見た。
時間通りに店を閉めた後、まだ厨房に彼らはいた。霜元は明日の仕込みをしていて、臥信は皿洗い機に今日最後の稼働をさせている。バイトの要はすでに帰宅した後で、明かりを落とした店内は厨房以外、何かを欠いたように静まり返っていた。
「霜元、この神社知ってるか?」
端末の画面を見せると、小うるさそうに霜元は視線をやり、頷いた。
「ああ、有名だな」
「サクギョと、ここ行くんじゃないかな」
誰と言わずとも対象は要であると了解済みである。ちなみにサクギョとは乍驍宗の省略で、昔に勝手につけたあだ名だ。
「サクギョ、この人混み全部薙ぎ払いたくなりそうじゃない?」
画像を見て笑っていた臥信は、
「だが涼味があって悪くなかったぞ」
という霜元の一言で悪戯に目を見開く。
「えー?霜元、こんな場所わざわざ行くタイプだったっけ」
「李斎が行ってみたいと言うから、去年な」
二度目の「えー」は出さずに、臥信はまた笑った。
「隅に置けないな、霜元も」
李斎は霜元の恋人だ。似合いの美男美女と言ってもいい。あまり起伏もなく友人の延長のように付き合っているが、この二人はあまりにも穏やかなのでそろそろ連れ添っていると言ってもいい雰囲気だ。
「デートというのは、相手の好きそうな場所へ行くのがいい」
それだけ言って霜元は仕込みに集中してしまう。ふうん、と思ったところで、皿洗いが終了したことを知らせる電子音が響き、臥信は携帯端末をポケットへ入れそこを離れた。
ガシャリと機械の扉を開け、立ち上る湯気がおさまるのをしばらく待つ。
「…お前も、誘ってどこか行けばいいんだ」
背中にかけられた声に、後ろ向きで答えた。
「うんまぁ、…機会があれば、ね」
誰、とは言わずとも、霜元は知っているのだ。
だが、臥信はそこでため息をつく。思い浮かべる相手は、切長の眼が印象的なその外見の通りの頭の切れる男、その冷ややかさを崩せる隙を探すのは難しい。自分の気持ちはいつ蓋を開けても、この皿洗い機みたいに熱いのに、虚しく空気中に立ち上っては消えていくようなのだった。
…あのサクギョも、あの細身の坊ちゃんを相手にこんなふうにモヤモヤとした熱に苦しむことがあるんだろうか。そうすり替えるように考えて、臥信はふと苦笑した。
行動あるのみ、それが昔からのあの男の口癖だった。
*
そんな彼らと同じ夜の下、別の場所。
「お休み、貰えました」
リビングへやって来た要が短い報告をする。普段から言葉数はそう多くはなく感情表現も薄い質だが、少しの安堵を窺わせたその表情を、驍宗は微笑で迎えた。
「そうか。天気がちょうど良いといいな」
「来月はもう夏だって、臥信さんが」
そうだな、と驍宗は頷く。
「お祭りがあるのも、季節が夏に変わる節目だからという意味もあるのだろう」
その日は暦の一節、農業の神を祀るのが元らしく、農作と天候の安定を祈る行事でもあるのだろうと驍宗は言う。
「その頃はもう暑いだろうな。天気が曇りで、ちょっと風がある程度がいいんだが」
「そうですね。…神社には、お仕事のお願い事をしに行くんですか」
要の質問は、驍宗に別の微笑を起こさせた。
驍宗が普段、仕事で大きなプロジェクトを抱えた時などに、仲間と共に成功祈願として神社へ行くことを、要は知っている。今回もそのような事かと思い込んでいるのを、だがあえてこれまで驍宗は訂正もせず、詳細も教えていない。
「今回は個人的な用件だ。だから仕事の面子とは行かない。一緒に行くのは要だけだ」
要が瞬いたのを見て驍宗は、
「要と少しゆっくり過ごしたい」
と、それだけ言ったのだった。
*
「あらま、素敵」
「こちらはいかが、作家ものの新作ですの」
「思い切ってこの合わせも」
「お姿がよろしいから、どれも見栄えがしますわねえ」
飛び交う世辞めいた声をものともせずに、これは品を変えてくれだとか、あれこれ指図するように店員を使い、驍宗はひとりずっと座っている。
扱われているのは、要なのだった。
そこは呉服屋、鏡の前の広畳に現代風の派手柄から渋好みまでありとあらゆる種類のものが広げられて、色彩の海となっている。
その日、出かけてすぐに驍宗が「日和がいいから浴衣もいいな」と、ふと思い立ったようにして車を回させたのは、どんな気まぐれだったのだろうか。
とにかく何もかもが分からないまま、自分の周りで渦巻くようにくるくるとよく動く店員たちの作り笑顔と、動かない驍宗の時折にじっと自分を見る眼差しの合間で、要はふらふらとした気分でいた。
「どうだ、要」
「…ええと…自分ではよく分からないです…」
「どれも似合う。私が決めてやろう」
そこから少し比べ、素材を——要のことだ——引き立てるものをと最終的に驍宗が選んだのは、無地に近いものだった。
「帯は内を色にしてくれ。それで一度着せてみてほしい」
要が好むと知る色、黒をベースに、驍宗の好みなのか、海老茶というらしい渋い赤みの色、それがほんの少し見える程度に抑えられたコーディネートで揃えられ、その場で着せられる。
最初にはひんやりと肌に触れた生地の感触は、少し硬さがあったが、すぐに馴染んだ。きっと夏向けの良質な素材なのだろうと、少し不思議なようにも自分の腕を通した袖などを眺め、要は鏡の中を首を傾げて見た。自信のない顔は相変わらずの、いつも以上に見慣れない自分。
「帯はリバーシブルなので、結び方を変えてみましょうか」
店員が要に向かい「最近はこんな結び方もございまして」と業界誌らしい特集号を捧げ持つようにして一ページを開いて見せ、要が曖昧に頷くと、それが驍宗にも回され、彼が指を差して決めてしまった。それを受けて、帯を手に要の脇に店員がにこやかに膝をつく。
要の腰の斜め後ろ——どうやら女子のように背中の真ん中にくるようにはならないらしい——そこで、ぎゅっと結ばれたのは、出来上がりを肩越しに鏡で見れば、小さい蝶の重なる結びのようだった。帯の表は黒、赤色は縁を走る僅かだけだが、その渋い赤色が結び目では片側だけが表立って黒の下結びと重なり、控えめに飾っている。
「ダブルリボンと言いまして、ちょっとアクセントが欲しい時に盛れる結び目です」
リボンと聞くと抵抗感があるかもしれませんが、意外とおかしくは見えないと思います、西洋ではリボンタイなどは元々男性の正装なんですから、と店員が説明しつつ、出来に満足げにした。
「うん、いいな」
耳に届いた驍宗の一言に、振り返る。目をやって要は少しだけほっとした。誰の微笑よりも確かなものが、そこにあった。
「…ありがとうございます」
ほっとした気持ちには、別の安堵もある。
選んでくれた物を見れば、もともと自分を飾るような衣服は好まない要の好みをたぶん最大限に尊重してくれているのだろうと分かった。だが、それでも不安はあったのだ。そのシンプルな組み合わせだけで、彼の隣に立てるだけの見栄えのようなものを身に帯びることができるのだろうか、と思ってもいたからだ。何しろ、白銀の髪に赤の眼という目立つ外見に、端正な目鼻立ち、モデル並みに整った体格を持つ驍宗だ。地味なばかりの要は、内心いつも、数歩離れて歩きたいくらいの気後れがある。
「ではこちらをどうぞ」
店員が座敷を降りて、石床のたたきへ選び出した雪駄を揃えた。
足を入れた黒い雪駄は、柔らかな黒の鼻緒の内側だけが濃い赤。ほぼ自分だけに見えるようにされた配色は、遊び心というものなのだろう。そしてそれは、こういった“遊び”というものは人に見せるためのものではなくても良いのだ、とこっそり教えるようでもあった。
ちらと見やった先で驍宗が手招いて、それで要は畳敷から離れ、ソファの隣へ座った。ふんわりとした座面に腰が沈んで、そこで人知れずため息をつきそうになる。
「乍様は如何なさいますか」
そう声をかけられた方を見ると、腰を屈めて年嵩の店員がいくつかを持ち寄っていた。同じような雰囲気の数点、だがそれで店側にはすでに彼の好みが分かっているらしいと要は察する。
「要と揃いに見えるようで見えない程度に」
それだけで任せて、驍宗は試着に立った。要の時ほどあれこれと言わない。そのままさっさと着せられ、スピーディに支度が完成してしまった。
前述の通り、モデル並みの容姿の驍宗である。その驍宗が、プロの手できっちりと仕上げられてしまったのである。ソファーにいる要はぽかんと口を開けるしかない。
その要を、驍宗は雪駄を履いた立ち姿で手招いた。
「いってらっしゃいませ」
店員が声を揃えて一礼し、それで驍宗は自宅を後にでもするように、にこやかに手を上げた。
「ありがとう、行ってくる」
と答え、それだけで店を出てしまうので、後を追った要は焦ってその背に問いかける。
「あっあの、お代…あと服を全部置いてきちゃってます」
「ああ。あとで正頼が行く」
再びぽかんとした要を置いて驍宗は先に車へ乗り込み、そして運転手に何か言った。要が慌てて車に乗るのと入れ違うように降りた運転手は、店内へ声をかけて和傘を持ち出してくる。
…行きつけの店、という言葉が指す意味は、自分の知る範囲のものではないのだと、要はようやく理解したように思いながら、半分ぼんやりと、半分はぐったりするような気分でシートに身を預けた。
上空の大半を占める雲は湿度に少し崩れ、遠くの青空が薄陽に霞む。そんな窓の外を、街の景色は流れ去り、要は知らない場所へと、滑らかに走る車に運ばれていく。
新品の匂いしかしない自分は、あやふやにガラスに映るだけだった。
*
目的地に着くと、願った通りに天候は曇り、風は微風、絶好の条件だった。
「傘はいるだろうか」
天気予報では、大気が不安定で通り雨の可能性、とあったから、ひょっとすると「降れば大雨」と言われるような、この時期特有の天気になるかとも思っていたのだが。
ちなみに借りて来させた和傘は、意図的に一本だけである。
驍宗は運転手に迎えの時間を指定してから、和傘を片手に下げ、濃い緑にかげる参道を歩き出した。
「…要?」
振り返った後方の道端で、シックにまとめられた和装の細身が遠慮がちに立っている。姿は遠慮がちなくせに、目だけが見開かれて光る、その食い入るような目線は珍しくあからさまだった。だから笑う。
「…どうした、行くぞ」
そんな目で要に見られるのは、少し嬉しく愉快だと思う。
もっと愉快なのは、その外側の視線、拝観者だろう人々が自分と要を一括りに、遠目なだけ無遠慮に眺めていることだった。浴衣姿なのは自分達だけだから自然と目につくのだろうが、ワンセットに扱われるのは、気分は悪くない。
「要」
呼ばれて傍まで来た要は、目線を合わせずに、
「曇りでもやっぱりちょっと蒸し暑いですね」
と手で襟元を扇いだ。頬が少し赤い。それを見るだけでも笑みが浮かびそうになる。
…似合う物をと思って選んだ浴衣だったが、似合う以上に、彼の育ちの良さとでもいうのだろうか、所作の美しさと、背筋のすっきりとした佇まいが好ましく、また多少陰のある白い肌が際立つようにも見えるのが、かなり、良いのだった。
やはり和のものは、黒髪に白い肌色の、いわゆる日本人らしい容姿の方が良さを引き立てる気がする。自分のような、どことも分からぬ異色の容姿には、どれだけ着慣れたとしても、この薄ら暑い湿度すら美しく纏うような、控えめな清楚さで身を包むことは敵わない。
「……」
じっと見つめすぎたか、要がいよいよ目線を避けて向こうを向いて、先立って歩き出してしまった。
「要」
待ってくれ、と言っても聞かない。だから、そう距離は取らずについて歩きながら、その後ろ姿を余さずに見た。
歩いていく足元にちらちらとする白い足首、踏み出されるたび薄く浮き出す脚の幅、細い腰に自然と目が行くように結ばれた帯の蝶。その上に伸びるまっすぐな背と肩、華奢な首と、髪に見え隠れする小さい耳。
平たい布地に浮き上がる身体の線や動きで生じる起伏が、内側の肢体をうっすら想像させる。脚など、洋服であれば普通に形が見えるものが、今は包まれて見えなくなっている、それだけで、何か刺激的にも思われるのは不思議だ。
こういう行為を、視姦というのだろうか。僅か、変態めいた粘着質の観察に、自分で苦笑しかける。
整備された石畳は、雪駄を履き慣れない足でも苦ではないようだったが。
樹木の間、上へ伸びる石段に差しかかって、不意に要が目の前でつまづいた。それで、はっとする。そこまで完璧に見えるほど綺麗に歩いていたから、もとから不慣れだということを忘れていた。
「大丈夫か」
追いついて横に並び、手を差し出す。それを一瞥して、要は複雑な躊躇を見せる。幅の狭い石段だ、そこを上下に行き交う人目がある。だが、驍宗は伸ばされないその手を掴んだ。
「いつもより膝が上がらないだろう。危ないから、こうしていこう」
掴んだ手から熱くなりそうになる。
着慣れない浴衣を着せたのは驍宗だ。つまりは要が転んだのは自分のせいでもあるのだ、とは、ちらりと思う。それでも歩きにくいことを理由に手を繋げるのは、少し嬉しい。要の方は、浴衣のせいで、さらには手を繋いだせいで、普段より人目に触れるのをあまり好まないだろうことは分かってはいるが。
「…すみません」
袖があるから少しは手が隠れるだろうものの、やはり要は俯いてしまった。仕方がない。
そのまま、時折り人に道を譲りつつ、上までゆっくり上がった。
*
…石段は思ったよりも長かった。
手を引いてもらい、石段の最後の角を足で越えたところで、視界が広くなる。息が切れた要は目線を下にしたまま、少しの呼吸のために立ち止まり、それから、ふと吹いた風にまず耳を驚かせて、次いで上げた目を丸く見張った。
きらきらと音がしたのは頭上。青竹で組まれてあるのは綺麗な緑の格子、吹き上げる微風に硬質の音で鳴るのは風鈴の数々。その連なりは参道を先まで覆い、色とりどりの短冊が風の動きを表して順々に翻っていく。なかなか壮観といってもいい光景だった。
…汗ばんでしまった手を放されて、あ、と思う間に、先に歩き出したその背中と風鈴の景色を少しだけ見る。手に持つ和傘は渋い茶、着物は銀色に近い鼠色の縞。カラフルな短冊の下で、その後ろ姿はとても大人っぽく目に映り、少しだけ胸を抑えた。
待って、とは言えずに、人の間を追いかける。風が起こって、頭上できらきらと音が抜けた。
「晴れていたら、ガラスが光ってより綺麗に見えるらしい」
隣に並ぶと、そう上を指差されて、見上げた。そこかしこでみんな上ばかり見ているから、この石段上まで来たらとても気が楽になる。
「曇りでも、十分に思いますけど…あれ?」
見上げて初めて気がついた。ヒラヒラとするプラスチックの短冊には、片面に字が書いてあるようだ。
「…お願い事か何かでしょうか…」
誰かの願い事らしきものを読むのはなんだか気が引けたが、少し目で追うだけで油性ペンで黒々と大きく書かれたいくつかは、読もうとせずとも読み取れてしまった。
良縁成就。一途宣誓。
どういうことなんだろう。お願い事、って、普通ならもっと違うもののような気がする。
翻り見え隠れする他を眺めると、様々に願い事は書かれてあるようだった。要はそれらを不思議に眺めつつ、驍宗の横を歩いていく。
本殿の近くまでくると、うっすらとした疑念のような感覚は、一気に弾けた。小さい社務所の横にある窓口には、沢山のハート型のお守りやらが並べられてあるのだ。
「あの…ここはもしかして…?」
「ああ、縁結びの神様がいるところだ」
要はぽかりと口を開ける。
「あの、縁結びって、…より良い縁を得られるようにとお願いするための場所なのでは…?」
だから、付き合っている二人なら絶対に行ってはいけない、などとも言われる場所のはず。違う縁を神様が別々に用意してしまうことがあるから。彼は、こういった日本の風習的なことをよくは知らないのだろうか。
だが、そう思った矢先に、驍宗は屈託なく笑ってみせる。
「そうとも限らない」
驍宗の指さした方向には絵馬が沢山掛けられてある。その面には、ひとつならず家庭円満、夫婦円満、という印刷字が混じる、それが遠目にもはっきり見えた。
「すでにある縁を強くする、そういうお願い事もできる場所だ。だから家族の縁を固くする願い事ができる」
知らなかったのか?と言うように笑い含みの声を向けられて、要は沈黙する。時折の、大人が子供をからかうような扱いには少しの反発を覚えるのは仕方が無いと自分で思うが。
――家族。
家族だ、と彼に言われるときの複雑な感情を、自分でどう取り扱っていいか、まだ自分でも分からない気がする。
「…お参りしたら、風鈴に願い事を書こう。何でもいいから、要も」
気を取りなすように、風に鳴る頭上を示されて、目をそらすように頷いた。
…もの知らずを指摘されて膨れているようにだけ、見えないといいのに。家族、という言葉がどれだけ自分に、呪縛的にも祝福的にも降りかかるか、知らないといいのに。今よりももっと強く、と言われてどれだけ嬉しいか、知ってくれたらいいのに。
でも本当は、僕は。だけど、僕、……それを願っているのは、一人だけだったら悲しい。
風が大きく吹いて渡った。それは要の袖を不用意に煽り、頭上を明るげに一面に鳴らし、…それで変に背中を押されるようにして、前に進んだ。
お参りをする間、背中の方でずっと風鈴は鳴り続けていた。
「…かえって風情が失せるな」
そう驍宗が煩げにしつつ、襟元を指でつまむ。
「涼しくて有難いが」
本殿を離れる頃には、風はさらに強くなった。時折、風鈴が割れてしまわないだろうかと思うくらい強く、周囲の樹木の枝をしならせるほど吹き付ける。参道を戻りながら、急角度に靡く短冊の群れから透かし見た上空には、黒雲が流れ、天候の急変を告げていた。境内にいた多くの人は、背を向けて足早に石段を下って、姿が見えない。
「風鈴を頼んだら、急いで下りよう。傘はあるがこの風では役に立たないかもしれない」
お守りやお札を並べてある窓口で風鈴の奉納を頼み、二人並んで借りた油性ペンで願い事を書く。ちらと見せ合った短冊には、要は迷った挙句にリストから選んだ語句を使って「一事誓願」と、驍宗の方はさらりと「一帆順風」と書いてあった。
「どういう意味ですか?」
「全て順調にうまくいきますように、という汎用性のある言葉だ」
要は少しだけ、はぐらかされたように思ったが、考えの内にそれを避けた。
風鈴を預けて、建物に背を向ける。
「あ、雨」
石段の方へ急ぎ足を一歩踏み出した瞬間に、ぽつりと当たった冷たいもの、それを手で受けるように宙へ差し出した瞬間。
目の眩む閃光と同時に、空を割ったような雷鳴が、耳から足もとまでを裂いた。凍りつく。
*
耳に聞こえた悲鳴は、背後の受付窓口に詰めている巫女さん達の方だった。腕に取り付いて真白の顔色でいる要の方は、声すら出ない様子で硬直している。
「…過ぎるまでここにいた方がいいかもしれない」
引き返して、軒先を借りる。だが、小さい軒先には風で既に雨が降り込んできて、しかも周囲は大樹ばかり、落雷の危険は避けがたいようにも思われた。
社務所へどうぞ、あそこなら入って座れますから、と窓口よりか細い声で言われ、どうするかと迷ったが、立て続けの雷鳴に足の動かない要は無意識だろう、ぷるぷると首を振る。
「……」
社務所だという建物は少し距離があった。少し迷う内にも、あたりは早や暗くなり、びょうと音を立てて吹き付ける風に、もはや硬質の騒音となりはてた風鈴棚の下、とりどりの短冊はちぎれそうに打ち合って、そこへ轟かすように大粒の雨が降り始めた。
鈍い雨色に沈む光景に、だが驍宗はかえって思い切る。
「要、そこまで傘を頼めるか」
腕から手を離させて、和傘を押し開き、震える手に深く持たせる。
「しっかり持っているように」
「……!」
思考回路まで真白になっているらしい要を、抱え上げた。要の発した小声に、窓口の小さい黄色い声が重なったが、踏み出した一瞬で全てが聞こえなくなる。
傘の和紙を叩く雨音、しがみついた要の腕が傘の柄を取り込んで驍宗の喉元を軽く締めたが、構わずに進む。傘は屋根のように要にかぶさり、きっと背後の好奇の目からも隠しただろう。傾いた傘に覆われない自分の身の半分ほどを太い雨脚がすぐに濡らしきったが、それくらいは気にならなかった。…雨音さえなければ、耳元近くある心臓の音が聞き取れたかもしれない、それだけを少し惜しく思う。
すぐ近くの社務所の引き戸は少し開かれて、職員らしい老人がおもての悪天候を眺めていた。その目がそのままこちらを向いて珍しげに目を丸くしたのは、自分の容姿のせいもあるだろうし、大きな子供でも抱えるようにして連れてきた要の様子もあったかもしれない。その軒先でまだ怯えている要を下ろし、中へ入れてもらう。
「いやはや、とんだご災難」
と、老人は土間にある床机へ案内し、神社の名前の刷り込まれたタオルをいくつも取ってきて手渡してくれ、それから親切にお茶まで勧めてくれたが、その間も雷は間断おかず鳴り響いて、要は離れようとしない。
「…あの、お連れ様は、雷が相当苦手でいらっしゃる…?大丈夫ですかね?」
「ええまあ、大丈夫です。落ち着くまでしばらく、このままで」
そう話している間にも、バリバリバリ、とつんざくような落雷の音がして、背中側にしがみつく要がこれ以上できないほど身を小さくする。家にいる猫の計都と羅睺も雷が嫌いだが、人であるはずの要はそれ以上に雷が苦手なのかもしれなかった。とにかく、こんな状態にまでなる要を見るのは初めてで、心配はしつつも多少興味深い。
奥で電話が鳴り、老人は間仕切りの向こうへ入っていった。静かになったところで、要の手を放させようとしたが、かえって要はしがみついてくる。
「…要。大丈夫だから、ほら」
後ろから回された手が、ぎゅうと胸元の布地を掴む。わずかに触れた爪先に微笑したのは少しの間、…
一瞬。室内でも影の落ちるほどの閃光、天鳴りと地響きまでする烈しさで驍宗までが身を竦ませた落雷に、要が小さい悲鳴とともにその手を引き下ろした。
「……!」
社務所の電灯が短い時間消え、そして再び点いた。老人が間仕切りから顔を出したが、…すぐに何も見なかったようなふうをして引っ込んでしまった。
要の手で驍宗の襟元は左右に開かれてしまって、露出している胸部には爪のあとがあるのだろう、空気に触れて、ややひりつく。
「要」
声を掛けるが、反応がある前に再び雷鳴が轟いた。硬直した手と腕が、固く驍宗の胴に絡みついたままになる。
…迎えを頼んだんだったな。思い出して連絡を入れ、現在の居場所とともに、迎えの指定時間を取り消し、雷雨が収まるまでどこか安全なところにいるようにと伝える。当分、ここにいる他はなさそうだった。
結局、雷雲が過ぎるまでの小半時を、驍宗は胸元を剥き出しにして、子供でもあやすように要の硬い手をぽんぽんと叩いてやりながら、様子を見に来ない老人に感謝しつつ、過ごしたのだった。
*
止みきらない雨の中、まだ多少フラフラした足取りで連れ帰られると、玄関で正頼が迎えてくれた。ホッとする。
正頼と共に出迎えてくれた猫は白い毛並みの計都だけ、どうやらもう一匹の方、羅睺はどこかへ潜り込んだままらしい。
「お帰りなさいまし。要さん、大丈夫でしたか。本当にいきなりひどいお天気になりましたねぇ」
泥跳ねの始末を致しますからすぐ脱いで下さい、と言われて、驍宗が玄関に用意されてあった盥で軽く足を洗って、広い上がりかまちでバサバサと脱ぎ始め、要もそれに習う。要は足も裾もそれほどではないが、驍宗だけ、足も裾もひどく汚れていた、それを少し首を傾けて見た。雨が降り始めての記憶が、かなり曖昧なのだった。
「お風呂は一緒で構いませんね、さ、そのまま、寄り道なしにザブンと」
まるでどろんこ遊びをしてきた子供らでも扱うように追い立てられて、苦笑した驍宗とともに要はバスルームへ行き、汚れを洗い流し、冷えた身体を温めた。
習慣のように一緒に入ってきた計都は、機嫌が悪いのか、風呂場の窓のサッシに行儀良く座って、にゃあとも言わずに睥睨している。要もお湯に浸かって無言だった。
「すごい雷だったな」
驍宗はどちらに向けたか分からないような言い方で言った。要は思わず言った。
「あの、驍宗さん…僕、ごめんなさい。覚えてないけど、大変なことをしちゃったのでは」
ざばりと湯に浸かった大きな身体、その正面には八の字の末広がりで、数本のみみず腫れがうっすらとある。
「ああ、仕方が無い」
この時期は天候が不安定だとは分かっていた、まさか昼からこれほどの雷になるとは思わなかったが。と笑って言われて、申し訳のなさが重なった。
せっかくのデートだったのに。後半の記憶がさっぱり無い。無いのだが、どうやら後ろから抱きついて、あんな真似をしたらしいのだ。…神社だ、もしや人の前で僕は狂乱でもして、恥をかかせたのではないだろうか。
「…社務所で雨宿りをさせてもらえたのは有難かったな、他に誰も来なかったから随分のんびりできたし、お茶まで出してもらった」
要はお茶を飲む余裕もなかったが、と、さりげなく状況を説明されて、それほどひどい状態ではなかったようだ、とは思う。
「雷、そんなに苦手か」
「…ええ…真上から、何か、斬りかかられるような気がして、すごく恐ろしい…どうしても、外では駄目なんです…」
そう白状すると、とても平易な、ふうん、というような相槌が返ってきて、その何でもなさは少しありがたかったけれど。
「本当にごめんなさい、怪我をさせてしまって」
そう言って小さく頭を下げたが、驍宗は笑って自分の胸元を見下ろす。
「計都にやられるよりずっと軽い、こいつは本気でやると流血の大惨事にしてくれるからな」
そう言って、可笑しげにしたその顔はなぜか満足げにも見え、それを薄い湯気越しに、要は少し不思議に眺めた。
着替えてリビングへ行くと、正頼がキッチンからお茶と軽食を運んでくる。食事はしていないと驍宗が伝えたから、昼ご飯代わりになるようなものを用意してくれたらしい。
「そうそう驍宗様。店からこれを預かって参りました」
その口調で、正頼が呉服屋へ行ってくれたのだろうと察する。いつもこういう時に、何から何までお金を出してもらっている事を考えると気がひけるのだが、それを口にすると二人から軽く叱られるので、要は後で日記に書いておこうと決めるにとどめる。記録をするのは、いつかの出世払いのためだ。
「何かあったか」
テーブルにのせられてあるのは、店名の入った小さい紙袋。それを驍宗が手に取った。
紙包には『お中元』と達筆が添えられ、出てきた木箱を開けると、そこには大振りのガラスの絵付け風鈴が入っていて、思わずというように驍宗が笑う。
「…今日一日で、たぶん一年分くらいの数の風鈴を見てきたところだ」
おやおや、とお茶を注ぎながら正頼が笑み、
「それでは、これで一年分と一つ、ということになりましたかねぇ」
ボーナス風鈴ですか、などと言うので要は吹き出しかけた。時々、正頼は若い衆に混じっては新しい趣味を増やし、新しい言葉を覚えたりして、驚かせる。
「それ、きれいですね」
ガラスの曲面に内側から金魚をさらりと描いた筆は見事で、要は驍宗からそれを受け取り、眺める。
「どこか猫の届かない場所に吊すか」
どこに、と見回すと、驍宗は天井を指さし、正頼は頷いて、そこしかありませんな、と言った。
「後で、若人を連れてきましょう」
脚立に、吊り紐。そう記憶するように呟いて、それから正頼はお茶を一緒に飲んで、洗濯物をまとめ一旦帰っていった。
*
茶は美味だったし、軽食で腹も満たされて、…今日の出来事を少し反芻しつつ、驍宗は悪くない気分でソファに横になった。即座に飛び乗ってくる大きな白い毛並みが胸から腹までを占拠し、喉を鳴らし始める。ただし、驍宗の顔には親愛の印に尻を向けてあり、長いふさふさの尻尾で首元を小刻みにくすぐっている。
窓の外はまだ小雨程度に降ってはいるが、だいぶ明るくなった。雲だけが光るような稲光も遠ざかったようだ。
「羅睺はまだ出てこないな」
「お腹が減ったら来ますよ、きっと」
独り言にも真面目に答えて、要がソファの足元側へ腰を下ろした。そして、両手で計都の頭をモシャモシャと撫で始める。
ゴロゴロという音が最高潮にご機嫌になる、その響きを感じながら、こちらは尻尾の上を撫でていた時、ふと要が言った。
「…驍宗さんの書いた短冊、一帆順風って、初めて見ました」
「そうか。あまり聞かないかもしれないが、中華系では普通の書き方だ」
「…家族円満って書くんじゃないかなって、思ったから、ちょっと意外な感じがして」
「ああ。それでもよかったんだが」
目を伏せている要の瞬きの数と、なんとなくおざなりの手つきを見る。
驍宗に家族と言われる時、また要が家族と言う時。その単語にわずかに見せる微妙な反応を、また彼は示している。それを、彼がもとの家族を失った過去のせいか、それとも家族ごっこをしているかのような今の生活のせいなのか、少し考えた。
「…要は、何をお願い事にしたんだ?あの、一事誓願、という文言は、とても凜々しいな」
「……」
答えはない。無視をしているのではなく、答えにくいようなためらうような素振りを見せたから、迷った。だが、起き上がる。
むにゃあ、と腹の上の計都が文句を呟いたが渋々と足を伸ばして下り、長い尾で逡巡してからキッチンへ消えていった。
「要」
おいで、と手を伸ばすと、要は素直に位置をこちらへ移す。
抱き込んで、膝の間に抱えた。清潔ないい匂いのする髪や耳元に触れて、そこにキスをする。身体を預けてくる、その体温は柔らかかった。
もっと甘えてくれればいいのに。外では側に立つのも避けるような仕草すら見せることもある。家でも、いつも誘わなければ触れてもこない。別に不満に思うわけではないが、どんな遠慮もされたくない。それだけは少し思う。
唇を求めれば、素直に仰向いたから、触れるだけのキスをする。触れるだけに止めたのは、正頼がまた人を連れて戻って来るのが分かっているからだった。
夜まで待つ分別くらいはある。
そう思いつつ、多少の我慢を楽しんでいると、ふと要が言った。
「こういうことをするの、家族って、言いますか」
要は軽く胸元に寄りかかるように額を預けてくる。
「キスをするでしょう、それ以上のことも、するじゃないですか」
ため息のように、ゆっくりと呟く。
「こういうのは、僕は、恋人じゃないのかなって。家族、といって言えないことはないのかもしれないけれど。僕って、なんなのかしらって思ったりして」
続きに耳を傾ける。
「僕、時々、驍宗さんと言葉の範囲が違うと思うことがあるんです。それは、育った場所とか色んなことの違いで、違うのが当たり前なのかなって、思うんですけれど、でも」
恋人、と口にする時に仄かな甘さが見えるのは、少し微笑ましかったが。
くしゃくしゃに撫でてやり、言う。
「恋人、か。私の、特に本国の家系では、恋人とは相互利益のある相手、ということであったりもする。確かに要の言うような言葉の範囲とは違うのかもしれないな」
婚姻が家同士の繋がりをもたらすものであり、恋人であっても戦略的になることが多いのは仕方ないのだ。
そう説明してやると、要はぼんやりと頷いた。あまり想像はできないのだろう、そういった人脈を主として編まれるような世界を。もちろん、ドラマのような個人恋愛だって、ないこともないのだが。
「…その定義で言うと、僕は、恋人には相当し得ない、…?」
何かを見送るような顔つきでいる要を、目を合わせようと身を傾けた。
「要の言う恋人とは、多分、私の言う家族の定義に近いと思うのだが」
ずっと一緒にいられる家族では、駄目か。そう問うたつもりだった。
「そうかもしれない。だけど、僕は、家族じゃ嫌なんです」
普段そうはっきりとした物言いをしない要には珍しい、切り込むような静かな声だった。
「…嫌、なのか」
「僕の言う、恋人の定義が理解できるのだったら、恋人だって、言ってくれたらいいのに」
家族だと言い張る理由は何ですか。言外の問いに、少しだけ、怯んだ。
「…言ってくれないのは、僕を家族以上には近づけさせたくないからですか。だけど、そんなふうにしたって、無駄なんです」
何も声に出せないうちに、要は殴るように強い目線を投げつけた。
「…僕、今日、どんなお願い事をしたか、言いましょうか」
ぎゅっと握られた手が、雷雨の中で自分に縋ってきた手とは別物のように、自分の意思で衣服を握り込むのを視界に見る。
胸に手を当てるようにして、要は言った。
「あなたと一緒にいられるなら、何でもする。その覚悟をずっと、持ち続けられますようにって」
僕の気持ち、分かりますか。
…その幼い暴走めいた言動は、けれど、胸の内に強く、温かくも落ちてくる。
「…危うい願い事だ、だが」
要が年相応以上に子供らしくも必死に願うことがそれ、とは。
「ありがとう、要」
そう口にして、驍宗は苦く笑んだ。
「…そこまでしてはいけない。一緒にいるために何かを犠牲にしてはいけない。お前を自由にさせるために、私はあの形で願い事をしたというのに」
「…自由…?」
「私の元を離れることも、できるように。将来、大きくなって、自立して、遠くへ行きたいといったら、私が風を送ってやれますようにと」
「それが、あなたの願い?」
少し呆けたように要が見てくるから、腕ですくうようにして抱き締めた。
「そうだ、要」
何でもしてやる。要が望むものがあるのなら、絶対に。そう決めている。
そう囁くと、数瞬、呼吸は止まった。
「…僕と、正反対のことを、お願いしたんですね。でも、変なの」
――僕と同じ事を、お願いしたように聞こえる。
「…変だな、私は同じに聞こえなかったが」
くすりと笑うと、要も少し笑った。
「おかしいですね」
「おかしいな」
ことりと寄せられた頭と頭、それから、要は頭の一部にキスをしたようだった。
「ありがとう、驍宗さん」
でも、と続けられる言葉は。
「でもやっぱり僕、恋人って扱いに、憧れるな……」
「…お揃いのアクセサリーをつけたり、嫉妬したり、お互いの行動を制限して束縛しあったり、そういう扱いか?」
「嫉妬くらいだったら、してもいいでしょう?」
そのあやふやな言い方に、吹き出す。十代のどうしようもない恋愛感情のぶつけ方を、彼はまるで知らないようだったし、だからこそ、憧れる、というのかもしれなかった。
「私はもっと別の方がいい」
笑いながら言うと、要の綺麗な目がきょとりとする。
「そうだな、…束縛はしてみたいと思う」
ますます純粋に瞬いた目は、次の一言で止まった。
「ベッドの上でだけ」
*
雲が切れたのか、遠くの景色に光が差したようだった。
バルコニーのある窓際で計都が鳴いた。半分立ち上がり、ガラスに前脚を当てて、こっちを見ている。外の空気が吸いたいと言っているのだ。
要が腕から抜け出していって、
「まだ外はびしょびしょだし風もあるよ」
と、引き戸の片側を細く開けてやった。広いバルコニーの一角には囲いを作って、日光浴の出来る遊び場が設けてある。そこへ、計都は様子見をしてから尻尾を立てて出て行った。
こちらまで風が流れ込んで、雨の洗った空気の新鮮さを自分も楽しみたくなり、驍宗もソファを立つ。
バルコニーへ半身を出した要が、風に髪を乱しながら空を仰いで、「あ」と声を上げた。一度引っ込んで振り返る顔が、滅多にないくらいに輝いた。
「驍宗さん、あそこ」
隣まで行き、指差す方を見る。
ガラス越しに見える、まだ霞むように雲の残る空の色を超えて、街の上空に遥かそびえていたのは、鮮やかな虹。
「副虹まであります、完璧な虹ですよ」
要が自分の携帯端末を取ってきて、バルコニーへ履き物を履いて駆け出していく。驍宗もその後に続いた。
二重の半弧は、雲が去り青みを取り戻す空にまだくっきりとあり、それを二人して撮る。綺麗に撮影しようと集中する要の静かなはしゃぎように、目を見張る。だからこっそりと要を入れて、何枚も撮った。
吹き上げてくる強い風にはまだ湿り気はあるが、さっぱりと冷たい。時々膨らむシャツの内側のように、もっと撮らせてほしいと思う気持ちが膨らみ、膨らんだ挙句に、悪戯に変わった。
驍宗はカメラを自分の方へ切り替えて、要のそばに近寄る。虹を背にして立ち、
「キス」
してほしいと言うと、要はちょっと間をおいてから、赤くなって首を振った。
「一枚だけ、どこにも出さないし誰にも見せないと約束するから」
ほんのちょっとだけ。そう頼み込むように言うと、渋々、
「ちょっとだけですよ」
と、要は一歩、身を寄せた。
片腕に抱き、片手で持った端末を見ながら写り込みの位置調整をして、そのまま、
「キスして」
の一言で、連写で撮る。
「…一枚だけって言ったのに」
「保険だ、うまく入っていなかったら困る」
画面を覗き確かめた画像は、やはり、手元が狂って顔も虹も半分入っていなかった。それを見せ、笑った。
「もう一回」
「もう駄目です」
顔を背けられて、また笑った。
「虹と一緒になんて、こんな機会は二度とないかもしれないから、頼む」
だが、要はそう言われて少し眉根を寄せ、それから、不機嫌そうに早足で離れていってしまった。それを見て、失敗したかな、と内心ため息をついたのだが。
なぜか要は、隅の物入れに片付けてあった折り畳みのミニテーブルを持ち出してきて、驍宗の横へガションと置いた。折り畳みの椅子も、そこに積み重ねて置く。
「手持ちだと何回でも同じことになるんじゃないですか?こうする方が確実でしょう」
何だこの急な反転は。そう思っているうちに、要は驍宗の手から端末を取り上げ、そこへ設置した。
「虹、まだ大丈夫そうですよね」
仏頂面で、ほら早く、と言われて、おかしな笑いになる。
「タイマーセットするから、こっちに立ってくれ、要」
タイマーは少し長めにした。指先で触れてスタートさせてから余裕で構え、かがみ込んで口付けて、…やがて走ったシャッター音は連写、だがそれが終わっても離さずにしばらく続ける。
「……っ…」
突き放すようにされて、唐突に終わらされた。目の前の要の顔は、潤んでいるくせに半分歪んで、そのままずるずるとしゃがみ込む。
「…こんなの、ずるい」
「何が」
笑ってやると、赤い顔が逸されて、かえって耳や首元まで染まっているのが見えてしまい、それにも目を奪われかける。
与えられるものに本当に素直に反応する要。驍宗は記憶力はいい方だ、だから、キスをする度の一々の反応を全部覚えていると言ったら、きっと変態と詰られるだろう。そう思って、想像して、一人でおかしく笑った。
計都が不意に部屋の方を向いて鳴いた。同時に、ようやく隠れ場所から出てきたのだろう、羅睺のおねだりの声も奥で重なる。
「正頼だな、戻ってきたか」
ご飯をくれる人として、猫たちは正頼が大好きなのだった。計都が駆け足でいくのが見える。
「中に入ろう」
しゃがみ込んでいた要へ、手を出して引き上げてやる。端末はポケットへ回収、ミニテーブルは物入れに元通りに入れ、部屋へ戻った。
「正頼、虹が出てる」
「道々、見ておりましたよ。滅多にないほど綺麗ですねぇ」
キッチンでは晩御飯の支度が始まったらしい、要が猫と一緒になってそれを見に行く。驍宗はリビングで、溶けた氷に薄まったお茶の残りを手にする。
リビングの天井へ、高い脚立を据えて使用人が金具を取り付け吊り下げたガラスの風鈴は、薄く開けた窓の風が回って、短冊を揺らめかせた。
今日、この下で、カラコロと音が鳴るのを聞きながら、要としたいな。そう思って少し微笑する。
本当は、この風鈴は日本家屋の縁側にこそ似つかわしいのだろうけれど。
それから、思い出して、携帯端末の画像をチェックする。
どれもよく撮れていた。空の青に、遠く虹が透けるように映えている。拡大すると見える表情、要は顔半分が写っていて、連写の画像を送っていくと、最初は拒否的にも見える目の閉じ方が、最後の一枚ではすでに蕩けかけているようにも見え、その移り変わりは一連どれも捨てがたい。
そこから一枚を、要へ送った。
キッチンで鳴った受信音、その後から、驍宗へすぐに送り返されたのは。
「えっち!」という怒ったスタンプ一枚、その速さが嬉しくて、笑った。
ーー今夜、昼のように、爪を立てて傷を入れてくれればいいのに。背中一面に、当分消えないくらいに。
自分の返答として、無意識いっぱいに。
全部を受け止めることを、想像して、少しだけ陶酔感を得て、…ぬるくなった薄いお茶を飲み干した。
夜が早くくればいい。
(了)
おまけのR18は別に分けました。
パスワードは、「泰麒の日」数字4桁です。(た=漢数字分解)
https://privatter.net/p/8976246
ギャレリア内では、右上の「一般」を「R18」に切り替えてからご覧下さい。
https://galleria.emotionflow.com/113506/622554.html
おまけ2
久しぶりにサクギョと飲んだ。飲んだと言っても、大したことはない。この状況下で店のことをちょっと愚痴ったら、話だけでも聞く、なんて親切顔に言うから、軽く奢ってもらいがてら、本当にちょっと話をしただけだ。
「今、どうなってるんだ、そっちは」
明るめの話題にと、霜元と李斎の婚約話なんてしたから、やぶへびになった。
「いやー俺の話なんて、面白いことなんか何にも」
聞かれたって、意中の相手がたまに店へ食事に来てくれるから喜んでいる、くらいのことしか言えないから、冷たい目がつらい。
「なんの進展もないのか?誘えばいい。何もせずに見ているだけなんて、らしくないぞ」
ちぇ、霜元と同じことを言いやがる。
「分かってますよう。ただね、押していっても落ちるタイプじゃないと思うんだよな…」
「押してもいないのに引いたって意味がないだろう」
「そりゃごもっとも」
やけになってグラスを干した。
グラスを置いた手で、カウンターに置いてあるサクギョの携帯端末を攫い取る。
「返せ」
「何?なになに?やましいものでもあるの?」
まさかねぇ、と揶揄って、ロック画面を操作し解除する。思った通りに、あの細身の坊ちゃんのお誕生日だ。
「やめろって」
写真アプリのフォルダ、画像を指先で走らせると、これはこれは。
「いやー参ったな、こーんなの、撮ってるんだ?まさかハメ撮りとかしてないよね。ワクワクしちゃうな」
虹のかかる街を背景にしたキスショット、なんて。そんなロマンチックな。高校生なら可愛げがあるってのに。
「なんだ、羨ましいのか、臥信?」
「ちぇっ。ああもう、痛いって」
返せよ、と掴んでくる手は顔ほどの余裕がなくギリギリと強いから、笑ってそれをもぎ取らせてやる。
「それ、この間の休みだった時のだろ。デートに出かけなかったのか」
「いや、行った。それは帰ってきた後」
ふうん。あの雷雨はこの辺りでも酷い荒れ模様だったが、おかげで店は昼時間にもガラガラ、本当にお休みでよかったよ坊ちゃんも。と思いつつ、何杯目かのおかわりを頼む。
「いいねぇ。ほんと羨ましい。俺たちが誰も来ない店で立ちんぼ食らってた時に、こーんないい思いをしてたわけね」
もうちょっと見せてよ、と頼むと、まんざらでもなさそうにしたが、拒否された。
「羨ましいなら、お前も頑張れよ」
訳のわからない返しで、また元の話題に戻ってしまった。やれやれ。
本当に全部奢ってもらって、ほろ酔いで出た。夜の空気は生ぬるく、街灯に星はなく、希望はあるようでないようで。
「あーあ。本当に羨ましい」
行動あるのみ、と次を踏み出す思い切りが、欲しくない訳じゃない。
それでも風は吹いて、少しの背中を押すのだ。
踏み出しきれない一歩の距離が、千里も万里もありそうでも。
(おまけ 了)