「地上に流れる星の河」 北国である戴では、夏の夕方が長い。その淡く光の残る中、驍宗は泰麒とともに市中にいた。
鴻基の街は、普段なら夜間は時刻になれば各所の門が閉められ人の出入りが制限されるのだが、この日は違い、外郭の大門の他は朝まで開放される。その夜一夜、街は様変わりするのだ。
大通りに面した酒飯店ではおもてに色とりどりの彩燈を連ねて吊るし、宵闇が降りる中にも明々とした道端で呼び込みの者が声を張る。辻や広場には露店も多く出て、手提灯を下げた人々が賑やかしく行き交っていた。
その様子は泰麒には珍しく映ったらしく、子供のように目を丸くする。
「こんなに賑わうものなんですね」
「昼のうちの灯市はもっと賑わっていたはずだ」
この夜から行われるのは、灯籠流しだった。常世にも、例えるなら蓬莱のお盆のような行事があり、供養のひとつとして市中の河に灯籠を浮かべる、似たような風習がある。
泰麒はその様子を自分の目で見たことがないと言うので、今夜、驍宗がお忍びとして連れてきたのだった。
「好きなものを二つずつ買おうか」
広場の内側では、灯市という灯籠を扱う露店が軒を連ねて一日限りの市が立っていた。その入り口で、驍宗は店先を示してみせる。
夜めいてきた暗がりを跳ね返すようにして、どこの店にも見本に掲げられてある巨大な灯籠の明かりが煌々とする下、どこまでも並べられた品は色も形も様々だ。そこを行き、しばらく泰麒が小銭を握りしめつつ悩んだ末に選んだのは、伝統的という蓮花、それから麒麟のような動物が走る様を表したもの。どんな形でも、竹ひごで枠を取り紙を貼って彩色された灯籠は、職人の熟練の妙技にどこか素朴さや愛嬌が両立している。
驍宗の選んだものは、ごく簡素な角形。蓮絵に達筆で死者への句が入れられてある、それをやはり二つ手にし、銭を支払った。
「これに火を入れるのですか」
「川べりに火を売る者がある、そこまで行こう」
灯籠をそれぞれ抱え、楽しげな人々に紛れ込むようにして歩いた。
「みんな、一つずつなんですね」
ふと泰麒が尋ねた。灯籠は二つ買うと言われてそのようなものかと飲み込んだが、どうも違うと周囲を見て気がついたらしい。
「蒿里は二つがいいだろう。ひとつは此方、もうひとつは彼方へ」
ぱちりと瞬いた目によぎるものを知りながら、続ける。
「別々に、それぞれを流せば、心願に足りるのではないか」
泰麒は少しうつむいた。それから。
「…驍宗様の二つは、…やはり別々の目的のために…?」
言葉少なく問われ、驍宗は軽く笑む。
それだけで理解したか、泰麒は無言になる。その無言の深さに抱えるものを、驍宗もまた理解しているのだった。
「自分の手で送った者へ、私がこれを届けてやりたいと思うのは、傲慢かもしれぬがな」
首を振る泰麒は小さく。
「…だから、御名を入れることをお断りになったのですね」
灯市の露店では、流す施主、送り手の名前を入れることを勧められたが、驍宗はそれを不要として勘定を済ませていた。
「届いたとして、誰と分かる必要もないだろう」
歩いていく先で、人の歩みが緩やかになり、急に混み始めた。動きが通り方向の一定ではなくなって、人に当たられそうになり、それで泰麒が驍宗のすぐ横へぴたりとついた。背丈が低いので不安なのだろう、離れると迷子になりそうだからと片手を繋いでやる。
通りの先、大きな橋の上には大きな屋台が立ち並び、明るく、そこも人で溢れんばかりだが、その手前で人の流れは多くが左右、土堤の細道へと分かれていた。川岸にある船着場の石段には人明かりが密集し、一番の混雑を見せる。
「芋を洗うようだというのはまさに」
人と同じく川沿いへ折れ、混雑を避けてさらに先へ進む。船着場を離れれば、次第に人混みは薄くなった。土手の上から眺める空はようやく夜の色に沈みつつあり、その夜を映す河面には星の代わりにちらちらと明かりが増してゆく。
歩きながら、驍宗は手元の灯籠を持ち直して口を開いた。
「蒿里山の底にある冥府まで、水の流れはすべて繋がっているのだという。生者は誰も辿り着けない場所へ、水にのせたものだけは流れ着けるのだとか」
河の先は海だろうなどと言うなよ、と笑ってやると、泰麒は口元だけで笑んで、続きを促すように驍宗を見る。
「暗い冥府へ灯籠を流すと、流れ着いた光を見て眠っていた死者は生を思い出し、もう一度と願えば、新しく魂をこねられてこの世へ戻ってくるのだと聞く」
そう言って驍宗は、人の流れの向こうを覗くようにして水辺へ下りる場所を探した。人の出入りがある場所は、生活用の水場か、船を着ける場所があるはずなのだった。だが、それは目で探すよりも耳で探す方が早かった。
「火はいらんかね。火をつけて差し上げんしょう」
少し先でそんな声が人を寄せている。
「驍宗様、あそこ」
泰麒が驍宗に握られた手を上げて示す。石段で下りられる場所があり、そこでは火を売る者が何人か、のんびりとした声で客を引いていた。
「そこの、お兄さん方。灯籠に火を入れるかい。点けてやるよ」
驍宗が小銭を出すと、男は手元の明かりから細枝で火をとり、驍宗の角灯へ火を入れた。
「そっちのお嬢ちゃんも。点けてやるから」
泰麒は黙って二つを並べる。その横で驍宗は少し笑いを堪えた。
「傾けると燃えるから、気をつけて持つんだよ、いいね」
親切にも言ってくれるが、泰麒はにこりとしただけ。
石段を降りていきながら、泰麒が小さく笑んだ。
「…僕が、女の子に見えたんでしょうね」
「この行事は簡素にしつらえる女性も多いからな」
石段を水辺へ降りながらそう言う。
実際、着飾って出かけるような浮ついた祭りではないから、周囲は暗がりでは男女もそう見分けはつきにくいのだった。
見間違えられた泰麒は、暗がりで見れば、男性的な特徴も薄く、華奢で色が白く女性に見えなくもない。特に今も、火明かりに浮かぶ物憂げな表情などは色気を感じさせるほどだが、驍宗はちらりと眺めやるだけにする。
水辺へ降りる。段の最下部、わずかに波の洗う場所の手前で、一旦角灯を置いた驍宗は屨(くつ)を脱ぎ、水に足を入れた。
「蒿里」
泰麒の手からまず一つを受け取る。麒麟に似た生き物が駆ける明かりを、流れのある方へ手を差し伸べて暗い水に放つと、それはゆっくりと下流を目指した。他に混ざり危なげなく行くそれを、少し見送る。
それから岸へ手を伸ばして、泰麒のもう一つを受け取る。彩色された蓮燈は、水に放つと河面に薄く色を映じて、美しかった。それもやはり緩やかに、他へ混じり込んで離れていく。
続いて振り返ろうとしたその一瞬に、視界の隅に手を合わせうなだれた泰麒の姿が影のように映った。…両手を合わせるのは蓬莱の仏教の作法で、それが彼の個人的な祈りの時にしか現れない仕草だと、驍宗は知っている。だからもうしばらくを、無言で祈りを添えるように、川下へ目をやっていた。
それから、自分の角燈を二つ次々に送った。それにも泰麒が小さく手を合わせ、同じく祈るように驍宗も水の上から見送った。
水からあがり足を拭き、屨(くつ)をはいた驍宗の横で、泰麒はまだ無言で下流を見ている。人が入れ替わり立ち替わりして放たれる色とりどりの灯籠は華やかで、またそれを見送る人々の顔にも照り映えて明るい。だが、そんな中にひとり、泰麒の目に映る河べりは、暗いようだった。
この麒麟は、台輔の顔を仮面のように被っていて、こんな時だけそれがヒビを入れたようにして素地を露出させる。そんなふうに、時々思えてしまう。取り繕わない顔を自分の隣でだけ見せる、そのことに痛みを感じる理由は複雑すぎた。
このまましばらく居させてもやりたい気もしたが、だがそれをさせればどこまでも彷徨い出てゆきそうな眼差しを見て、声をかける。
「蒿里」
そろそろ戻るか、そう言うと、はっとその顔に表情が戻る。
「ええ、参りましょう」
声とともに自分から手を取って、そっと握られ、急激に胸の底の痛みの色が変わりつつある自覚を持ちながら、その手を握り返した。生きる者の生きる意志が自分に向けられるのは、嬉しくも切なくもあり、そして少し苦しくもあると思うが、それを厭う気持ちは微塵もない。
「きっと届く、蓬莱まで」
それだけ言って、もう片手を伸ばし頭を撫でてやると、小さく「おやめ下さい、人前で」と呟いて困った微笑を浮かべた、その顔はもういつもの泰麒だった。
けれど。
「……ありがとうございます」
行き違うため人を避けて身を寄せたふりで、瞬時、背に当てられた感触は額だろうか、泰麒の声はそっと耳に触れて、手を握り込んだ指先が、きゅ、と音になりそうに心を揺らした。
それを自分に誤魔化して、先を指差す。
「…屋台で飴でも買うか?」
小さい辻に、いい匂いが立ち込めていた。商店の軒先を借りた数人の物売りが台を並べ炉を置いて、飴細工や飴がけの串、また餅を焼いたり薄皮の包み焼きを作って売っていて、人々がそこでも飾り灯籠に照らされ、明るい笑顔を見せている。
「いいんですか」
遠慮がちにした泰麒を見て、驍宗は笑んだ。
「お前は子供の頃から物ねだりをしなかったが。何が好きだ」
どれでもいい、幾つでもよい、と唆すように言えば、笑い出した泰麒は、
「本当に?ではお土産に持って帰りますから、驍宗様もお手をお貸しくださいね」
と、勢いよく手を引いた。だから思わず笑ってしまう。
さすが、戴の麒麟は思い切りが違う。
そして、油紙をいくつも挟んで飴細工の串と飴がけの串を、薄皮の包み焼きなども籠に詰めるほどを買い、二人は両手いっぱいで戻ることになる。
もちろん、泰麒の笑顔は輝かんばかりにそこにあったのだった。
*
帰路、宙を駆ける計都の背に跨りながら、鴻基の都を流れる河を上空から眺めた。
まるで天の川だ、そう思うくらいに、流れにはちらちらと灯籠の数々が揺れ、川べりは灯籠と手灯りを持った人で賑わい、そこ一筋が明るい。
皆が祈りを河へ送る。送られる先は、地底の死人の眠る場所。遥かに隔てられた幽界へ、川だけが繋がっている、そう信じられている。
遠くまで無事流れていくといい。そして、祈りの形がどうあれ、全て届くといい。
言い伝えの通りなら、…祈りが届き、魂を照らし目覚めさせて、新しく世へ送り返してくれるというなら。
伝えてほしい。
─ ─今度こそは、新しい幸せを。
私は出来るだけのことをして待とう。新しい生を決めた者達を迎えるべく。それだけが自分に出来る唯一の仕事なのだから。
(了)