はなの ことのは「驍宗様」
時々、泰麒が何の用向きもなく訪れては、
「花が咲いたので、差し上げますね」
と、驍宗のもとに季節の花を置いていったりする。
それは子供の時から変わらないことだった。雛の頃にはほんの「ままごと」として花摘みをしてきては驍宗へ分けてくれていた、そんな遊びのようなことが、いま大人になってからも引き続いている。一種の子供返りとやらに含まれるのだろうか、だがそこには育ちの盛りに異界へと離れてしまった泰麒の取り戻したい時間や思いがあるような気がする、と驍宗はそんな理解をし、受容していたのだったが。
*
「なぜ花を、とお思いにならないのですか、主上」
そう英章が顔をしかめて言ったのは、とある日の午後のこと。
外の廊下でのことだった。歩きながら話すうちに立ち止まっての真剣な話し合いになり、そこで喧々諤々と異論を戦わせていた麾下たちと驍宗の元へ、不意に泰麒が現れて、
「あっ驍宗様。初の花が咲いたのでどうぞ」
押しつけるように茎葉の付いた花一本を渡して、「では! お邪魔しました」と、にこにこ・そそくさと別れて行ってしまった、その後ろ姿を皆で少しばかり見送った後のことになる。
…英章の不機嫌さをはかりかね沈黙した驍宗の横で、取り持つように臥信が口を開いた。
「そういえば、この間も台輔は、主上に何かの花を渡してすぐ帰ってしまわれた…ではなかったですか」
不思議そうにも面白そうにも、目をくるりとさせるが。
「——私にだけ花が渡されるのが不満なのか?」
驍宗の訝しげな問いに、臥信は隠し切れない笑みで口をつぐみ、英章はやや憤然とする。
「…花を贈るというのは、意味のある行為なのではないでしょうか。少なくとも、一般的にはそうではないかということですが」
「…そうだろうか。しかし、…?」
驍宗は、手にあるものを見る。長い茎の先に橙に近い金色をした百合のような花、それが控えめに開いている。だが百合ほど香らず、あっさりとした風情だ。綺麗といえば綺麗だが。
それを目の前へ持ち上げて、ためつすがめつ眺めている驍宗は、
「…あれは昔から、花摘みをしては私にくれるのだ」
庭に出て散歩をし、気を休めるのは悪くない、特に蒿里には必要だろう。そう言って、花を襟元へぐっと差した。
「うむ、これで手があけられる」
そう独りごちたので、臥信が横を向いて頰のひくつきを隠した。
英章がもう一度、口を開く。とても眉根が寄っている。
「とにかく、ですね。主上」
そんな彼へ、なぜ花一つでそうも不機嫌になるのか、とも問えずに驍宗はそれを聞いた。
「私は以前に、台輔が『四つ葉は、蓬莱では幸運の象徴なのです』と使令と草を摘んでいらっしゃるところに遭遇しました。とても一生懸命のご様子でした。集めたそれもその日のうちに全て主上へ献じられたのだとか」
ため息を吐いて、英章は言葉を継いだ。
「…台輔は、これまでにも様々に主上へお贈りになられてきた、その理由を、もう少しお考えになってもよろしいのでは」
どうやら英章は、驍宗があまりにも無頓着に物を貰いすぎていることについて、意見したいようだ。
そして、周囲は同じ意見なのか、英章の不機嫌を憚ってか、何も異論は出されない。
「そう、だな」
…泰麒の続ける遊びのようなことの延長に、そう深い意味などあるのだろうか、などと口にはできない空気に、驍宗はただ、うむ、とだけ呟いた。…のだが。
*
「差し出がましいこととは存じますが、頂き物があったとして、それへお返しをなされておられないというのは、いかがなものでしょう」
その日の午後、執務室へ用件を抱えてやって来た花影は、すでにどこからか昼の出来事について話を耳にしていたらしい、驍宗の小さな問いかけについてそう言い、少し笑んだ。彼女は秋官長として勤めるうちに、いつの間にか驍宗にも遠慮なく意見を述べるようになっている。
その花影が言う。
「贈られる花には意味がある、一般的にもそうですが、特に古い時代の宮中においてはその贈答は時に重要でした。主上は先の御代には将軍でおられましたから、あまり文官のやり方について多くはご存じではいらっしゃらないかもしれませんが、…宮中の深くにおいて、それら『物言わぬ文』は必須の心得とも言うべきもので、それは未だに、一部には使われ残されておりますわ」
それを聞いて、先の王の時代には色々と面倒が多かったな、と驍宗はうなずく。それを貴族的と言うのかどうかは知らないが、はっきりと物を言うことを嫌う風潮がどこかしらにあり、それは時には見えない壁のように行手を遮ってきた。
「まだそんな悪習が残っているのか」
「今は他愛のない遊び事です。たとえば恋を交わすなど。本来の贈花の使われ方に戻っているように思います」
言葉終わりに、花影は少し華やかに笑んだ。
その笑みに、驍宗は、これまで見てきた能吏としての姿の外にもあっただろう彼女の生の片鱗に触れたようで、多少驚かされた気もする。
「だが、あれは古くを知らない上に蓬莱の育ちだ。花の贈答と意味について、それほど重んじることはないように思う」
「それについては、同意致します」
ですから、と花影は微笑する。
「花は、贈り物として受け取られるのがよろしいように思いますし、そうであるならば、何か軽めのお返しをされる事をおすすめ致します。私から申し上げられるのは、それくらいですわ」
驍宗はそこで、ふむ、と呟く。花のやり取りには詳しいようだ、それならば花の返礼にはどのくらいが相応なのか、彼女ならよく知っていそうに思われた。
「こういう時には、何を返すのが適当だろうか」
その問いに、花影は思慮深い眼差しを柔らかに瞬かせる。
「それは、相手と、頂いた花にもよりますけれど…」
その言は、相手との関係の及び方について婉曲に示唆したようだった。が、驍宗にはそうと明らかには通じない。
「花による…?」
少し眉をひそめるようにして、驍宗は背後を指し示す。
「これを知っているか。蒿里にもらったが、名を知らぬ」
花瓶へ仮に活けられてあった小さな金の野百合を目にして、花影は少し困ったようだった。ちなみに、襟にぐっと差したままでいた驍宗は、それを問われて「蒿里にもらった」と告げ、室付きの女御に恭しく丁寧にもそれを即座に取り上げられている。
「何やら、…素朴な風情ですのね」
宮中で贈答される大ぶりの百合の類とは違うらしく、花影もこれを知らないようだ。
「花によるとは申し上げましたが、…これについては判断いたしかねます」
そうか、と驍宗が呟いたところで、
「花の贈答は時に難解でしたけれど、今回のこれも、謎解きのようで少し興味深いことですわね」
そう言って、花影は驍宗を見る。
「今は意味については措くとして、返礼については、今までの贈り物をお調べになって、それからお考えになってもよろしいのではないかと思います」
そう言って、刻を知らせる鐘の音に、長居をいたしましたと退出していった。
*
——良い手がかりを得たようで、だが、そこで驍宗は突き当たる。
「今までに贈られた花…と言われても、あまりにも数が多いのだが」
そして、あろうことか、それらを殆ど覚えてはいないのだった。
何しろ、多事の最中に受け取る花だ。懐に入れて、しおれさせながらでも私室まで持ち帰り活けさせたとして、二目と見る間もなく替えられてしまうような忙しい日々である。いつどんな花をもらったかなど確かには思い出されない。だが。
「何の花かくらい、聞くべきだったか…」
罪悪感を感じる。
花の名も聞かず、形もそう詳細には覚えておらず、ゆえにそれについて人に尋ねることもできないなどと。
…花を差し出す泰麒の喜ばしい表情の一瞬ばかりは、いつともなく、限りないほど思い出されるというのに。
ひとつ方法はあった。
驍宗は王であり、彼の送る日々とその出来事について、側仕えが記録している。そこには、いつ誰が来訪し、何を献じ、どんなことを話したか、それについても詳細に記されていることに思い至って、驍宗は命じて幾月分かを取り出させ、該当箇所を探させた。
「花というならやはり春と夏が盛りの時期、一番多くあるでしょうから、今年の春から参りましょうか」
側仕えがそう言って一冊を取り、開いた。
「明幟xx年の、 」
数項もめくらずに、読み上げが続く。
「仲春初三、…台輔の温室より桃花開くと数枝。」
「同月十日、…台輔、お手摘みの紫菫を束ねて室へと。翌日よりこれ青、白、黄とかわり数日届けられる。」
「季春廿日、…台輔より銀荊樹の初花を献じられる。」
「孟夏十有二、…台輔、奥院より藤花の五色を枝にて。」
「同月十有六、…紫陽樹の花を台輔もたらされ、…」
それに耳を傾ける。この記録によれば、泰麒はそう日をおかずに花を持ってきていて、それは日々花の開く季節であることもあっただろうが、同時に多忙な時期でもあり、…驍宗はそれらをほとんど覚えていないことをさらに自覚させられる。
…たとえ目の前に何を差し出されたとして、蒿里というその存在に代わる喜びなどないのだと言い訳めいて思いはしても、贈られること自体が珍しくもなくなって感慨が薄れていたことを、正直に認めねばならなかった。
読み上げを途中で止めさせる。
「これだけあると、さらに分からぬようになってくるのだが」
泰麒はなぜこうしょっちゅう花をもたらすのだろう。驍宗には何の益もないのだが。
そして、もしこの贈花の個々にそれぞれ別の意味があるのなら、余計に分からないことになりそうだった。
「…贈られる花には意味があるのだと聞くが、宮中ではそれらについて、どうか」
武官の出の側仕えは、細い紙の付箋を項に挟んでいたが、問われて少し汗ばんだ。最初の項へめくり直す。
「…春の挨拶として桃花を贈るのは、祈福長命の寿ぎの意と思いますが、…紫の菫は」
助けを求めるように脇の女史に目をやり、彼女はさらさらと答える。
「一般的にはそうなのですが、宮中では、贈る相手がもし思い人であれば、桃花には恋下虜囚などという熱烈な含意もございます。また、今なら紫の菫は沈思、銀荊樹は秘心、藤の花は不放永劫、紫陽樹は初慕、という意味を持つと思いますが…」
「古くは、どうだったか」
「…私の経験から申し上げますと、紫菫は、黙せよ、という意で送られることもございました」
花影の言う無言の文とはこれか、と驍宗は合点する。直接言えば早いというのに雅というのはまどろっこしいものだ、人員を一新したことで面倒な旧弊を一気に廃することにもなってよかったのではないかと、驍宗はそう思いながらも、恋を伝える含意について流れるように答えた女史には、別世界のもののように感心する。先の御代に限らず、宮中ではそういった遊び事が多いものなのかもしれないが。
「贈花は、今は恋をやり取りするためになされることが多いのだったな」
そう言って、首をひねった。女史の列挙した花の意について、それら恋を語る言葉には麒麟に似合わぬ形容ばかりが並んだ気がしたのだった。
蒿里が種々の花を贈るのにはそのような意図があるのだろうか。やはりこれは遊びではないのか、くれる花の一々に意味などあるのだろうか。振り子の振れるように、そう思ってはみたものの、やはりどちらに考えても、腑に落ちない。
「蒿里に礼をせねばと思うのだが、どうするべきだろう」
驍宗は唸るように言って腕を組む。
「…あれは蓬莱の育ちだ、——そもそもあちらでは、花を贈るとは何か意味を持つのだろうか」
そう独り言のようにした驍宗の前で、女史もまた首を傾けて言った。
「仰る通り、台輔からの贈花には、こちらと同じ意味合いを見いだすべきではないのかもしれません」
ううむ、と驍宗は再び首をひねった。
「分からぬな。仕方が無い。もし仮に花に意味合いがあるのなら、それを問うことは無粋と笑われるのだろうが、…蒿里には意図を直に訊くこととしよう。返礼の望みも同時に聞けるであろうしな」
思い立ったら即、とばかりに、驍宗は席を立ったのだった。
*
「ご用事でしたら、お呼び立てして下さればよろしかったのに。わざわざ足を運ばれなくても」
緑濃く花の咲き乱れる玻璃の温室だった。午後遅くの陽の差すそこで、泰麒は驍宗を迎え、恐縮したように礼を取る。
慶の金波宮にあるという玻璃の宮殿の規模には遠く及ばないものの、白圭宮の温室は、施設としてはかなり大きいのだった。使われない小さな宮を改築したもので、通常であれば屋外である院子(なかにわ)部分を主とし、暖気を通す床下構造を作った上へ柱梁を組み、玻璃材を用いた二重屋根で全体を覆って、明るく広い場所を作られてある。
「ぬくいな」
足を踏み入れたそこは、淡く柔らかい空気に満ちていた。
白圭宮の修復を行った時に、ついでのようにして泰麒の希望を容れ許したものだったが、驍宗自身はそこを訪れたことはなかった。初めて玻璃屋根の下にあるものを目で見て、様々に物珍しく、しばらく戸口の近くからあたりを見回す。
「豊かでよい所のようだ」
「ありがとうございます」
差し込む午後の陽射しは柔らかく散乱し、その明るさは空気中に光を溜めたようにも見える。鮮やかな花の上を行く青蝶の閃きを追うと、それはすぐに緑葉に遮られた。どこに潜むのか小鳥の澄んだ囀りが降り注ぎ、頭上を仰げば枝葉と玻璃枠を通して空の青が細かに落ちる。
「冬でも暖かく保てるので、色々なものが育てられるんです。もっとも、世話は人に任せきりなのですけれど…」
よろしければご覧になりますか、と泰麒は奥へと驍宗を導いた。
「…それで、ご用は」
奥へ進むほど、そこにあるのが花ばかりではなく、種々の菜、果物の苗木もあることが分かる。ここは泰麒の求めに応じて園丁が色々の試みをする場所にもなっているらしい。
「蒿里がくれる花に、礼をしていないと気付かされた。長い間、受け取るばかりで悪いことをしたと思う。だが礼には何がよいか分からぬゆえ、それを蒿里に尋ねようかと考えたのだ」
泰麒は差す光の中、驚いたように振り返る。
「何も。何もいりません。お礼が欲しくてしていたわけじゃないんです」
そう言った泰麒は、驍宗の申し出がそれでも嬉しかったのか、微笑し、言葉を重ねる。
「ただ差し上げたかっただけなのです。驍宗様はお忙しくいらっしゃるから、せめてほんの少しだけ、無理にでもお会いする理由を作りたかった、それだけで」
泰麒の見せた笑みは、驍宗の罪悪感をちくりと刺した。
「だが…贈り物だとしたら、何某かを返さねば無礼にあたるのではないか」
そう真顔で告げた驍宗を、泰麒は少し可笑しげに見る。
「あれは僕の一方的な、ただの自己満足で、…それでいいのです。そういうことにして下さい、驍宗様」
こちらを向いてゆっくりと後ろ歩きをしていた泰麒はその一言で、終わりとばかりに前方へ向きを直した。
その背へ重ねて問う。
「花に、もし意味があったのなら、教えてくれないだろうか」
背中へといつの間にか長く伸びた髪が、踏み出しかけた歩に、少し揺れた。それへ、
「…この王宮では、やり取りする花には意味があると人に教えられた。もしや、それは蓬莱でも同じなのだろうか?」
教えてくれ、と再度言うと、泰麒の返答には、少しの間ができる。
「……意味、……?」
蒿里はやはり蓬莱育ちであるから、こちらの習慣については詳しくないのだろう、と驍宗は、少しを説明してやる。
「この常世では、贈花に意味を持たせることがある。例えば——春先の桃の花を送ることはよくある、『長寿を祈る』の意があるのだ。…文のようなものだが」
泰麒は前向きのまま、耳を傾けるようにして、首を傾けた。それへ、問いかけた。
「蓬莱でも、意味を持たせて花を贈ることはあるのか?たとえば桃の花は、あちらにあるだろうか」
泰麒は、桃の花、と呟いて少し記憶を探るように目線を低めたようだった。
「いえ、桃の花はありますが。それをその意味で贈ったりすることは、なかった気がします。春先の女の子のお祭りで使われるので、桃の花を買って飾る家はあったかもしれません、…でもあいにく僕の家では女の子がいなかったので、花自体も見ませんでした」
蓬莱について、特に育ての家について泰麒は語ることを好まない。それは彼のもたらした災禍により喪われた理由が大きいが、そのことによる傷を、それを知る誰にも触れさせぬようにする無意識があるのだと思う。その声の少しの硬質がそれを物語る。
それを少し逸らさせるように、驍宗は尋ねた。
「…では、花を人へ贈る習慣自体は、蓬莱ではあっただろうか」
「蓬莱では、花を贈ることは、日常としては少なかったと思います」
「…日常ではない、ということは、贈花は特別なことであるのか…?」
驚くように問うと、
「時と場合によって、ですが」
そう返された。
時と場合による。何やら、花影にもそんな言い方をされた気がする、と驍宗は思いつつ、ふと考え込んだ。蒿里にとって、花を贈るという行為とは。
「…その、時と場合による、とは…?」
「そうですね…お祝い事、それから弔事。あとは、…」
「あとは…?」
少しの無言に、隣へと並び顔を見ると、その目はふと外へと逸らされた。
不意にまとわりつくように彩蝶が数匹よぎって、その横顔には一瞬、その羽ばたきで、ひためくような光が照り映る。
飛び去る蝶は、泰麒の目線をさらっていった。
先を追うと、緑の一角に落ちる木漏れ日のような、点々とした金色の花の咲初めへとまぎれて、飛んでは留まりして、宙に舞う。
その羽ばたきの下にある百合のような草花には、見覚えがあった。
「あの花…あれは、今日くれたものだな。名を何というのだ」
初めてそんなことを問われた、とでも言うように泰麒が目を瞬かせてから、思わずくすりと笑った。それから、驍宗を見上げる。
「あの花は、忘れ草、と言います」
「忘れ草…」
花の名とは多少なりとも雅やかなものであると思いこんでいた驍宗は、見開いた目でしばらく空白に花を眺める。
「何か謂れでもあるか…?」
くれた花のその名を不思議がると、泰麒が先に立って歩き出した。それに従い、步を進める。
「あの花は、実は慶の国の産物で、景王に頂いたものなのです」
泰麒は話をし始めた。彼の国ではあれはどのようにか使われて、故あってその名前があるのだろうと思い、驍宗はそれを黙って聞くことにする。
「慶の国では、あの花は多く栽培されているようで」
泰麒は、自身で慶へ赴くことが多くある。景王陽子と協力し、大使館なるものを相互に設立する計画を進めている最中だった。諸国とも話し合いの場を設けて説明と交渉を重ねる、その場へは担当に任じた李斎や他の者が遣わされることも多いのだが、時に急用が生じると「自分で行く方が速いから」と麒麟で単身出かけて、とんぼ返りで帰宮することも珍しくない。
泰麒は、陽射しに金色に輝くひと花を示す。
「この植物は、春には若芽が、夏には蕾が食用になるのです」
「百合のようだから根を用いるかと思ったが、違うのか」
泰麒はにこりとして花に触れ、花は金粉を散らしそうにもゆるゆると揺れる。
「とても美味しいんですよ。特に、蕾。開かないうちに摘んでしまって、炒め物や羹(スープ)にするんです、それが絶品で」
ほう、と驍宗は花をつけ始めたばかりの植物にある、まだ小さく青い細瓜のような蕾の連なりを眺めた。
「最初に景王が『多忙の疲れが取れるから』とこれを食卓へ出すように命じて下さって、それで僕は初めて食べたのですが、とても美味で…。その時に、その美味しさが全てを忘れさせるほど、という意味で『忘れ草』と呼ばれるのだと教わったのです」
薬草でもあり、効能は、主に心を落ち着ける効果があるようです、と、言う。
「僕があまりに美味しいと繰り返したせいで、『持って帰って戴で育ててみたらどうかな』と頂いてしまいました」
悪戯な笑みで、続ける。
「…中嶋さん、『景麒もこれが大好きなんだ、だから切らさないように王宮でも栽培している』って」
数度会っただけでがあるが、常に仏頂面しか見たことのない気もする慶の台輔を、驍宗は思い浮かべる。物言いが冷たいのに泰麒から兄のように慕われる、金の鬣が見事な麒だ。景王に対しては、ため息と小言と諫言が多いとも聞くが、意外なほど心の繋がりが強いように見受けられるのは、面白い。
「これを温室に置くのは、やはり戴が寒すぎるからか」
「そうですね、冬の寒さには耐えられないようなので、ここで試しに」
「…私に言えば、天に願ってやれるものを」
王の特殊な仕事として、王宮内の路木に植物や動物を供え、天へ祈ることができる。そうすると、戴の気候に合った種を、新しく国中へ恵んでもらうことができるのだ。
だが、泰麒は首を振った。
「まだまだ民の生活は安楽とは言えないでしょう。暮らしを助けるものから順次行っていかないと…これは、衣食住を満たして、そののちに」
どうせならお腹を満たせるもの、保存もきく食物を増やす方が国の益となるでしょう。そして、これを薬草として扱うにしても、薬師の意見を聞くべきでしょうし、用法を定めたりするのには時間がかかるかもしれません。もうしばらく下準備をしてから、お願いしたいと思います。
そう言って、泰麒は手を伸ばして、歩いて行きながらせっかく咲きかけた花と、膨らんだ蕾を全て摘んでしまった。
「花を開くと、植物はその分生きる力を使ってしまいますから。冬に備えて、今は根を太らせないと」
この戴では温室であってもそれほどに適応はぎりぎりなのだろう、と、驍宗はその植物を哀れにも思いかけたが、…泰麒は違った。
「これを今日の夕餉に使ってもらいましょう。ふふ。収穫の喜びっていいですね」
何やら情緒のないことだ、と、普段は自分が言われるようなことを思い、驍宗は笑い出す。
そこから、夕餉の約束を取り交わして、驍宗は機嫌良く一旦帰った。
——花の意味も返礼の望みを聞くことも、すっかり忘れていたと気づいたのは、自室へ戻ってからのことだった。
*
温室で、花の意味について、泰麒は言及を避けたようにも思われた。
そう思って、驍宗はさらに分からなくなる。意図は、意味は、目的は、あるのか、ないのか。
「なにやら、惑わされるように思うのは、なにゆえだろう」
気になる。気になりはするが、主観と推測のみで思考を進めることを好まない驍宗は、考えることを止めた。
言及を避けたのだとしたら、あまりしつこく尋ねるのもよくないだろう。あれは麒麟で、真面目であるから、王の求めであれば応えようとはするだろうが、それをさせたくはない、とさえ考える。
「蒿里の気の向いた時に教えてくれと、もし機会があれば、そう言うだけにとどめよう」
そう自分を納得させるようにして、夕刻の外廊をゆく。西日に影を引いて向かうのは泰麒の住まう宮、そこでの夕餉に彼は招かれたのだった。
夕餉には、泰麒の望みの一皿が加えられて、それを驍宗も食した。細く青い蕾を他の菜と炒めた一品は、彩りもよく仕上げられている。驍宗にはそれを雉肉へ添えて供されて、それもたいそう美味だった。
「なるほど、これはよいな」
「お口に合いましたか」
泰麒も美味しそうに食べる。食欲は旺盛で、口に入れ目を細めるその表情は、それだけで周囲を明るくした。驍宗にも給仕の者達にも自然、微笑がこぼれる。
「この花には近種があって、それは野の鹿が好むので『鹿葱』と言うんですって」
「それならこれは麒麟葱と言っても良さそうだ」
そう言って笑い合うのも美味を増すようで、驍宗は先ほどまでの気分も忘れ、満ち足りた気分で食事を終え、食後の茶を飲んだ。
*
食後に、泰麒は「良い月夜ですから」と、眺めの良い高楼へ驍宗を誘った。普段は来客があった時に使うだけの宮が、王宮の西の庭園にある。雲海上へただ一点の明かりとして浮かぶ月を見はるかす場所として、ここが一番美しいので泰麒の気に入りなのだった。
緩やかに風の流れる露台は月明かりに白く、広い場所に平牀(たかゆか)を出させて、そこで驍宗は泰麒と背の低い几(つくえ)を挟んで座った。
「碁でもやるか?」
「今日はやめておきましょう」
あっさりと断った泰麒は、その代わりのように、懐から平たいものを取りだした。置かれたのは、一目で蓬莱の「本」というものだと分かる。
蓬莱の書物は、常世とは違うのだった。どういう製法なのか、背は樹脂を使い側面で綴じられてある、そして、多色刷りの細密な図画で装飾された表紙、そこに見慣れない字形で題名らしき一行二行が記されてある。その艶のある滑らかな紙の質もこの常世では見られない特徴的なもので、とにかく珍しく、文字通りの貴書だ。
「図鑑、です。蓬莱の山野の植物に詳しく、読み物としてもよい本です」
泰麒は蓬莱へ行く機会があった時に、時折りこういった書物を持ち帰ることがある。彼が言うには、蓬莱の店屋には、たいていどこにでも本やら雑誌やら“ぺーぱー”とやらいう紙のものが置いてあるのだというが、多量にあるそれらから選び取られたこれはどういったものだろうか、と驍宗は彼の手元を見る。
「植物の絵図が載っているのか」
泰麒はうなずき、玻璃の風よけに囲われた明かりを近くへ引き寄せた。
「こちらとあちらでは、植生が少し違うように見えるのに同じ植物も多く存在するようだと、子供の頃から不思議で」
そう言って、泰麒は頁をいくつか繰ってみせた。なるほどそこにある植物には、特徴の似たものが数多くあるようにも見受けられるのだった。驍宗はだが、その細密な絵図とその生々しいほどの色彩描写に、見入った。所々にある方形におさめられた背景のついた絵図など、まるでその場で切り出した光景をそのまま紙の上へ乗せただけのようにすら見え、蓬莱の画工の腕に感嘆する。
無言でいる驍宗へ、泰麒はほの明るく微笑を向けた。
「この常世で、蓬莱と違う名称のものは本当に違っていて、また同じ名称で呼ばれるものは本当に同じ植物なのかと、その疑問を調べてみたくなって、これを手に入れてきたのです」
「なるほど…面白いことを考えるな」
見せてくれと頼むと、泰麒はにこりとしてそれを渡す。
「文字が分からぬが、なるほど同じような植物はいくつもあるらしい」
「不思議でしょう」
それから泰麒はしばらく、柔らかく揺れる仄明かりに淡く輪郭を照らし出させて、驍宗が興味深く頁を繰るのを見守っていた。
「…で、その疑問について、何か分かったのか」
そう問いかけると、微笑した泰麒の指先が几上で困ったように、そわ、とする。間を置いて返った答えは、麒麟らしかった。
「……専門家ではない以上、はっきりとそうだとは言いきれない、ということが、分かっただけですね……」
吹きだした驍宗の顔を見、泰麒も少し笑った。
「それでも、もう少し、同じように思えることを発見しました」
「何だ」
泰麒の睫毛が月明かりにすこし弾かれる。
「…昼、驍宗様は僕に、花の意味についてお尋ねになりましたね」
声の調子が低くなる、それで驍宗は少しばかりの察しをつけられると思ったが、黙ってその声を耳に透かすようにして聞いた。
「蓬莱でも、『花言葉』というものはあります。でも、花を贈る場面は、こちらよりもずっと限られているので、あまり馴染みのないことの方が多いのです」
昼間に、「花を贈るのは、時と場合による」と言われたことを思い出す。
「では、意味を持たせることはあまりない、と」
「特別な事情がない限りは」
特別な事情とはなんだろうかと思う間に、続きを言わず泰麒は本を手にして頁をめくり始めた。
「…今日差し上げた花と同じと思われるものは、蓬莱にもあるようなのです。これを中嶋さんが知っているかどうか、今度会ったら聞いてみようと思っているのですけれど…」
泰麒は、私人としては蓬莱での名前で呼び合う仲の彼女について、そう口にする。礼を欠くために余人のある場所では決してしないが、こんな時に現れるそれは、驍宗には微笑ましいものに映る。
「蓬莱の『花言葉』は、この花についてはどう書かれてあるのだ」
泰麒は探し当てた百合の類の頁を驍宗へ向けて開き、淡く明かりの広がる紙の上、様々に並んだ一つを指で差した。昼にも見た覚えのある橙に近い金色の花と茎葉の絵図に、名称らしき題と説明らしき表示と、小さい文字で詳細らしき文が添えられている。
「この花の花言葉は、ひとつに『崇高』とあり、もうひとつには『コケットリー』と」
「…“こけっとりい”、とは…?」
耳慣れぬ単語を繰り返すと、泰麒はなぜかそこで何かを言いあぐねて、むむ、というような表情になった。
何か説明しがたいものがあるのかと思い、続きを待っていると。
「『コケットリー』というのは、西洋、つまり蓬莱の外の国の言葉なのですね。この訳語については、この解説に載ってはいるのです。が、違和感があって、少し調べてみたのですがなかなか言い表しにくいものらしく——」
泰麒は欄外に自分で書き留めたと思われる小さい文字を眺めて、そして顔を上げて、飲み込めぬようにいる驍宗へ、どういうことなのかを説明した。
「ああ、あちらでは、国が変わると言葉も文字も何もかもが変わってしまう事が多いのです。だから、異国の言葉を自国の言葉に直す時、それをどう言い表すべきなのかとても難しくて困る、そういうことが多くあるのですよ」
何気なく言われた言葉の内容に、驍宗は虚を突かれたようになる。
「…なにやら、おかしな事を聞いたように思うが。蒿里の言うそのままの意味に取れば、蓬莱では、国が変わると言葉が変わる、ということになるのか…?」
「ええ。地続きなら共通する言葉も多くありますが。おおまかに、国を一つ隔てると、または海を越えると、ほぼ通じなくなると思って下さい」
「…それでは、ほとんど異界ではないか…例えるならば、海を越える立地であれば、戴と雁のようなものだろう…?」
「ええ、まぁそうなりますね…」
驚く驍宗は、あぐりと口を開けそうになる。
この常世では、どれだけ遠く出身国が隔たっても言葉が通じないということはない。通じないのは、異界からこちらへと破れ穴に落ちるようにして辿り着いてしまった、海客や山客と言われる不幸にして珍しい者だけだ。
「海客や山客のような言葉の通じない状態が、蓬莱では国をひとつ越えるだけで生じるのか。どれほど広く、どれだけ過酷な条理があるのだ」
壮絶に気の遠くなりそうな表情をしてから、改めて驍宗は、胎果である女王と麒麟たちが一大事業として『互いの国に大使館を整備しよう』と心を揃えた理由を理解したように思った。
「それは、不便という一言では済ませられぬな」
だが、泰麒は、さらに驍宗が驚くようなことを告げた。
「そんな理不尽な状態がある上に、蓬莱では国同士の戦争が条理で禁じられていないのです。多くの国が沢山の国と国境を接して、外交は複雑です。そして、戦争とは多く隣国同士で戦端の開かれるものであって、外交により沢山の国が参加する仕儀となる事も、歴史上に珍しいことではありませんでした」
「まさか。そんなことが」
恐ろしいような気持ちで一笑に付したが、さっぱりと首を振られて、驍宗はさらに慄然とする。
「…国が荒れれば、流浪する者が多く出よう。多くの国が一度に戦い争うとなれば、それらは行く先をどこへどう求めるのだ」
「戦乱を逃れるために、人々はやはり故郷を離れることになります。言葉も何もかもが違う分、国を出るという選択はこちらより難しくはありますが、時に身一つでそれを選ばざるを得ない。そうなった場合には、彼らは本当に困窮するのです…だから、国を超えた大きな機構もあり、手を差し伸べようとする人があります。それが常に必要であるほど、あちらは厳しい」
いつぞやに、国を出よう、と思い定めたことのある驍宗は唸った。
こちらであれば、国を出たとしても言葉は通じるのであるから、とりあえず働き口さえあれば何とか生活を立てることはできるだろう、ある程度の年月であれば国に戸籍もあるから帰国の希望を持つこともできる。国元で金を預けてあれば他国で引き出せる仕組みもある。だが、それらが一切ないとなれば、悲惨な末路しか思い浮かばない。
もしそれが、国を境に言葉の通じなくなるという蓬莱であるなら。と想像を絶するような思いで考えてみる。
言葉が異なれば、意志を通ぜず、友好を結ぶこともできぬこととなるだろう。国によっては受け入れるための救貧院のような施設を持つところもあるのかもしれないが、もしそうであっても、流入する者が幾千幾万の数ともなり、またその数に対し国の者達が数で抗するようなことにでもなれば、周辺諸国にどれほどが及ぶこととなるか。
蓬莱とは神仙の国だと信じるものさえある、楽園のはずのその異界、その場所のこちらとは違う条理の厳しさ。そこに身を置いて、どのように立ち向かうかを学んできただろう胎果の彼らが抱く哀しみと智惠と強さとを、同時に知らされたように思った。
「――その仕組みを、借りるのだな」
「ええ。助けとなるとよいのですが」
いくつかの国の気配が変わりつつあるようだと、これは雁の六太と彼の王から聞いた話ではあるが、それへ向けたように泰麒は憂いのあるまま呟いた。
いつかのときは必ずどこの国にも訪れるのだ、その憂いを、驍宗は少し隔てられるように見守る。
…その先見の明がいつか、自国の民をこの王の失政から救うだろう。それは希望でもあり、幾分かは暗いようにも思われるのは、仕方の無いことだった。
「…花の話でしたね」
静かな声が、わずかに降りた沈黙を差し退けるように発せられる。
続く?