十五時の事件簿
そんなわけで、デザートとお茶でランチがお開きとなったのは昼もだいぶ過ぎた頃。
「ハイ、お持ち帰りだよ」
「こっちはお年賀、お茶だ」
驍宗と要も琅燦のついでのようにして自炊用セット、つまりは生麺とスープやトッピング類を別々にしたテイクアウトと、それから春節デザインが綺麗な中国茶の包みを臥信と霜元から渡されて、それを手に手に、李斎達と、
「また会いましょうね」
「近いうちにぜひ」
と、手を振り合って別れた。
「… ちょっと食べに行くくらいのつもりだったはずが、長くなったな。疲れただろう」
風もなく静かな午後、驍宗が先に立ち、要が後を追うように歩く。店は住居から歩いてそう遠くはない。だが、のんびりと歩いているはずの驍宗の歩幅に要が遅れがちになって、それで驍宗は振り返り、…そこで初めて、要が片足を傷めたと気づく。
「変な歩き方をしているな。…どこか痛いのか」
「…あの、…実は、靴擦れに…なって…ごめんなさい、あの」
晴れ着の一式としてサイズを合わせた黒の布靴を用意されたので、要は当然のようにもそれを履いたのだが、新品の慣れない靴はやはり足には負担だったらしい。歩くたびに踵が痛むのだ。
「大丈夫、ですから…家まで、あと少しですし」
「大丈夫ではないだろう」
電信柱に手をつかされて、片足の靴を取られ、靴下を剥がされる。それから驍宗が要の足に手を添えて靴擦れの箇所をじいっと覗き込んだので、なぜか要は恥ずかしくなった。だが、そんな要をよそに、
「…とりあえず、傷をこれ以上悪くしないようにしないと」
うむ、とひとりうなずいた後の驍宗の行動は早かった。片手に靴と靴下、もう片腕で要を担ぎ上げ、近くの公園のベンチまで人目も構わず移動し、そこで降ろす。
「絆創膏を買ってくる、ここで待て」
有無を言わせずに踵を返した、その背へ要は制止と遠慮の混じった声を投げようとして、…届かないと思い飲み込んだ。その間にも、急ぎ足の後ろ姿は公園の外へと遠くなって、見えなくなる。
「……」
こんなの、少し痛いだけで、…ちょっとの我慢で足りたはずなのに。でも、些細なことだと放置せずに、手当てするものを買いに行ってくれたなんて。何だか嬉しい気もして、要はついさっき大きな手で取り上げられた自分の足を、思い返すように眺める。
公園は無人だった。葉の落ちた樹梢に青空が透いて、風もなく、午後の日差しは和らぎ、乾いた地面に影を落とし浮いたまま剥き出しの足がひんやりとする。その冷たさは、なぜか薄甘い。
その冷たさを味わうようにもしていた時。
——通りの方で、車のクラクションと同時に急ブレーキの音が響いた。
「…なに、…」
嫌な予感がした。
無意識に立ち上がる。吸い込んだ息が、悲鳴にも似て鳴った。
「事故、…」
全身がざわりと粟立ち硬直したのは、それが過去に重なるものだったから。
不安が結像した最悪の想像、それが瞬時に膨らみ爆発するかの如く次々に過去の光景を抉り出した。一瞬の衝撃に散ったガラス片、潰れた車内、染み出してくる鮮血、そして、…家族の生命の音の、失われていく、恐ろしい時間の長さ……病院で手当てされながら抱き続けた儚い一欠片の希望、その剥離を必死に繋ぎ留めた努力、だけど……
極限に打つ鼓動と呼吸を手で押さえ、うずくまりそうになる。その要に、どこからか見知らぬ女が駆け寄ってきた。
「高里要君は、君か⁈ 」
うなずくだけしかできない要に、女は告げた。
「君の保護者だという人が、事故に巻き込まれた」
その言葉でこれ以上にないほど凍りついた要を、支えるようにも抱き抱えるようにもして、女は言う。
「病院へ連れて行ってあげる、さあ来て、急いで」
真っ白な思考回路では、何も考えられなかった。言われるまま、されるままに、要はフラフラと同行する。自分が片方を裸足でいることすら意識になく、公園の入り口にすでに用意されていた車に不審を抱くこともなく。
*
車に乗り込んだ時、変な感じがした。運転席にいたのはアジア国籍に見える黒髪の女性、それがバックミラー越しに濃いまつ毛に縁取られた目を細めて、とても嬉しそうに笑ったのだ。親しげにも。…何か変だ。そう思った時、どさりと隣に乗り込んだ女が腕を組み、前方へと冷たく言った。
「早く出して。人に見られてもいいの」
エンジンのリスタートと共に慌てて踏み込まれるアクセル、車の発進と加速は急で、固いシートに押し付けられた要の体は一気に冷たい汗をかいた。あれ以来車は苦手な上に、こんな乱暴な運転で内臓が悲鳴をあげている。
「…あの。あの、病院へ向かっているんですよね。どこの病院、ですか」
こんな時に無理やりに作る笑顔は何のためなのだろう。
「病院へ、行くんでしょう。あの、事故、って……」
懸命に気分の悪さを抑えつけて尋ねた問いへの返答は、だが、無かった。沈黙で作られる圧力に、要は呼吸を抑えて口をつぐむ。
「……」
急速に過ぎ去る窓の景色に焦りを感じる。すでに幹線道路に入って、車は真っ直ぐにどこかへ向かっているようだった。どこへ行くつもりだろう。南には海、それから。
息が苦しい気がして、試しにすぐ横のパワーウィンドウのスイッチに指をかけたが、ロックされているとわかった。ドアもきっと開けられないだろう。女の注意が向けられたのを感じて素知らぬふりで指を離した。
——『家族が事故に巻き込まれたから、病院へ一緒に行こう』なんて、小学生を誘拐する典型事例じゃないか。僕はそれほど簡単に騙されたのだ、と認め難いようにも考える。
同時に、あの公園で「ここで待て」とベンチを離れていった明るい背中が思考回路に浮かんでくる。事故だと言われたことが全部でたらめであるなら、あの人はきっと無事なのだ。そう思うと変に泣きそうな気持ちになった。交通事故なんて、…それが嘘だというなら、それがよかった、本当に…
…騙されてしまった僕のことだけは、今、よくないけれど。
「……」
けれど、それが嘘であれば、考えるのは自分の身一つだけでいい。
急に落ち着いてくる。どこへ行くか知らないが、どこかで脱出しよう。無事であることだけは驍宗さんに何とか早く伝えたいけれど…。そう思いながら汗ばむ手でこっそりと探った衣服のうちに、だが、持っていたはずのものは何一つなかった。無音で息を呑む。
「貴重品は預からせてもらった。用が済んだら返すから、大人しくしてな」
横目で様子を見ていたのだろう、隣で何か優越感に浸るように女が腕を組んだ内側で胸を寄せ上げて、連動させるように口角を引き上げる。その余裕めいた態度は少し癪に触った。胃が変形しそうだ。
「…今からどこへ行くんです。僕を連れていく理由は何なのですか」
バックミラーの中で黒目がちの大きな瞳が無言でまた、ちらと動く。今度の目線は要ではなく隣の女に向けられたようで、それを撥ね返すように女は言った。
「君の元の家だ。理由は行ってみれば分かる」
車窓は次第に見慣れた町並みになる。海に面した都市部の外れには新しい建物と古い家屋が入り混じり、再生の進まない滞留を数年経つ今もそう変わらずに残している。それは少し懐かしくはあった。
運転席から操作して女性が後部座席の窓を少し開けてくれたから、気分の悪さは治まりかけている。代わりに落ち着かない不安が寄せてくるが、それは仕方のないことだと要は腹を括るようにも思い、道の先へ目をやった。いまだ一面の青空。このまま行けば海沿いを走る道へ出るが、そこまでは行かないことを知っている。
やがて、車は内陸へとハンドルを切った。いくつかの新興ベッドタウンを過ぎ、辿り着いたのは旧道の形が残る混みいった住宅地、そこで車はとある古びた日本家屋の門前に停まった。
「へえ。これまた随分と大きな屋敷だ」
女が感情のこもらない感嘆を発する。女はここへ来るのが初めてのようだが、車を降りた運転席の女性は、なぜか自分のキーを差し込み門扉の鍵を開いた。どういうことだろう、と要は少し混乱する。この家について、自分が未成年の間から後見人の管理に任せてあった記憶はある、だが。
自動ゲートではないから、門扉は手動で押し動かして開かねばならない。その動きは滑らかで、明らかに手入れがされてあるようだった、それと彼女の勝手知ったる様子は関係がありそうだ。
「…なぜ、彼女がうちの鍵を?」
そう問いかけるがやはり思ったような返答はなく、代わりに女が決めつけるように鼻で笑った。
「家に帰るのは久しぶりなんだろう。みんな待っている」
みんな、とは誰のことだろうと思ったが、あまりに不審さを表立たせることは控えた。少し様子をみようと要は用心深く考える。自分が数年離れていた間にこの家で一体何が行われていたのかを、自分の目で見なければならない。用事があると言った、どんな用件か分からないが、たぶん大人しくしている限り危害を加えられるようなことは起こらないだろうと、これは希望的にそう考える。
敷地へ車を入れて門を閉じ、おもて玄関をこれまたすんなりと解錠した女性が、さっさと戸口へ先に入り靴を脱いでそのまま上がっていく。その後から、女に引き出されるように車を降りた要は、冷たい地面に触れた足で初めて、片方の靴を脱いだまま公園のベンチに置いてきたことに気がついたが、だがどうすることもできずにそのまま歩いた。
もはや何もない玄関の敷居をまたぎ、見慣れた場所を見慣れぬようにも眺めてから、たたきに片靴を脱いで、汚れている片足の裏を払い、それから上り框で身体の向きを変え手で靴の向きを直し隅へと置く。
「…躾がいいね。自分の家なのに客のようだな」
女が可笑しそうにし、倣うようにして自分の靴を揃え、先に上がっていった女性の脱ぎ放した靴をついでに揃えた。
「あの人を、不快に思うかい。だが今、この家の守りをしているのは実質あの人だからね。君は感謝するべきだ」
その声に、雨戸を開ける音が重なる。先の縁側と続き座敷の欄間が次々に明るくなっていく。
「…あの人は、誰なんです。僕は知らないし、家のことを頼んだ覚えもないのですが。第一ここは」
「自分で聞きたまえ」
またも可笑しそうにした女は、背を押して要を進ませた。土を払った片足が、まだ妙にざらつく。
確かに、家は時々風を通して掃除をされてあるらしく、澱んだ湿気もなく、きれいに見えた。廊下は塵ひとつない。誰も住んでいないのに、ここまでする必要があるのだろうか。何のために。
そう思いながら明るく日のさす縁側をたどり奥へ向かう、その途中で中庭の光景を目にして、要はぎくりと足を止めた。
「…どうした」
「あの蔵……」
東向きの中庭は、母屋と塀、蔵で囲まれている。その蔵が、記憶の中とは姿を変えていた。
「壁が落ちている」
白い漆喰塗りの蔵は元からそう手入れのされたものでもなかった、とは思う。だが今、一部が剥がれ落ち、白地の化粧の下から茶色い土壁をごそりと剥き出しにした蔵は、伸びた植木の向こうに荒んだ空気をまとってそびえている。
それは、人の手が入り以前と変わらないように見えている母屋の先で、主を失ったこの家が唯一現した傷のようだった。
「ああ、あれは酷いな、あれだけの蔵を塗り直すのには費用がかかるだろうね」
「塗り直す…」
それで直るのか、と思い、傷のようだと思うのなら治すべきだ、とも思うが、要は奇妙な気分で首を傾げる。誰も住まなくなったこの家に、それだけのことが必要になるとは思わなかった。どうせ、空っぽなのに。
あの管理人だという女性は、今は奥の部屋へ行っているようだ。そこでその話でもするのだろうか、だが人を拉致するような真似をしてまでするべき話とは思えない。
そう思った時、蔵の横にひらりとしたものがあった。目をやれば、女の腕——白く柔らかな線の光る、裸の腕が、ひら、ひら、と手招いた——そう見えた、と思った時には、老白梅の花弁が、はらり、はらり、と地へ散り溢れるばかり。
目を見開く。今の光景に何か見覚えがあったような、そんな気がしたのだった。けれど探った記憶の内側は空洞、また奇妙な気分が強くなる。
続く
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