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    <乍要> 春節二週間前除夕、十九時過ぎの春休み二十一時の夕食準備辞旧迎新、二十三時のディナータイム新春、零時の魚一時の祝い結び真夜中、二時の夢五時、眠りを守る八時の目覚めと十時の外出十一時の集まり十三時の思いもかけないランチタイム十五時の事件簿 この家には、お正月が二回来る。

     クリスマスの飾りを片付けて、和風の飾り付けに替え、料亭に注文したというお節料理で西暦の新年を祝うのが、一回目のお正月。
     松の内を過ぎて世間が通常通りに動き出した一月半ばから徐々に準備に取り掛かるもう一つ、旧暦で行われる二回目の方が、この驍宗の家では本来のお正月——春節という。

        *
    二週間前
     要が一緒に暮らすようになった次の年、年明けの空気も落ち着いた、とある週末の朝。驍宗は宣言した。
    「今年の旧暦の正月は、要と家で過ごすことにする。春節の間、二人だけで暮らすぞ」

     暮らす。って、そんな真剣に言うことだろうか。きょとんとした要に、驍宗は言う。
    「この家で『春節』をやりたいのだ」
     同席している正頼が、要に向かい説明した。
    「春節は、家族が揃って過ごすもので、どこの家でもそうするしきたりのものですから、使用人には暇を出して実家へ帰らせるのです。私もお暇を頂戴してのんびりして参りますよ。
     そんなわけで一週間ほど誰もいなくなりますが、…ま、世間は普通に日常生活の中ですから、お二人で居られて何かあっても、動きのとれなくなることはございますまい」

     華僑をルーツに持つ彼らにとって、春節は年中行事の中でも特に大切な行事なのだと正頼は言う。その日のために、何をおいても休假を取り、家に帰るのが普通なのだと。家族というものを大事にする彼ら特有のものが、そこにはあるのだろうと思われた。
     それに異存はないと要は思うが、新暦で正月を済ませてしまったここ日本の世間一般の空気や感覚とはだいぶずれているわけでもあり、要にとっては全く気分が出ずにピンともこない。

    「今年は日が百年に一度とも言われる珍しい巡りなので、特に家で過ごしたいのだ」
    「…そうなんですか」
     なんだか掴みがたい感覚のまま、要は壁のカレンダーを眺める。通っている大学は一月末が後期試験の時期であり、それまではテストやレポート提出で過密スケジュールになる予定だった。それでも、追試や再レポが課せられなければ、旧暦の一月一日には晴れて自由の身となれるはずではある。
    「…僕、その当日にはたぶん春休みになっているはず…だと思うんですけれど、…」
    「それまではテスト期間だったな。なら、その間は要は学業を優先だ」
     正頼が同意し、要さんはテスト勉強に集中してくださいまし、私共で準備は万端整えておきますから、と言って、その場は終わったのだった。

        *除夕、十九時過ぎの春休み
     そして、春節の前日、日もとうに暮れてから。
     要は最終コマまであったテストを終わらせて、帰宅する。疲労感がいっぱいではあるが、手応えは上々、レポート提出も抜かりなく期限に先んじて出してきた。もう完全に春休みだと断言できる、と思うほどの出来だった。
    「今日が、大晦日って言ってたけど…正頼は無事におうちに帰れたかしら」
     準備が終わったのを見届けて帰省します、と言っていた執事の笑顔を思い出しながら玄関前まで来て、しばし足を止め、…それから思い切って扉を開けた。
    「おかえり」
     その声と共に、ふっといつもと違う異国の香りがした。だが、それを何の匂いに似ているだろうかと考える前に、視界を埋めたものによって思考は途切れる。 

    「…これが、春節ですか……」
     あんぐり口を開けた要に、出迎えた驍宗がしてやったりの表情をちらりと見せた。
    「驚いたか」
     …朝出かける時には、何もなかった。普段から、驍宗の好みは殺風景なほど色彩がない無機質なもの。それが、様変わりしている。
     玄関ホールには、真紅の敷物。柄格子を組み合わせた衝立を背景にして、縁起物なのだろう、多く実ったキンカンの鉢を両脇に、彫刻のされた台へ金襴を掛け干支の飾り物が設置され、その上部には赤地に金で「福」「財」「囍」「春」など一字の記された菱紙と、やはり赤色をメインとした配色の燈篭が天井から数々、絢爛に吊るされてある。
     呆気に取られている要は、促されてようやく中へと入った。
    「赤は、めでたい色だからな」
     手を引かれるようにしてリビングへ進むと、そこにも色が溢れていた。しかし色だけではない。
    「……」
     室内は大胆に模様替えをされていた。透かし彫りの豪華な折り屏風に仕切られ、ソファーやローテーブルは配置を変えて中華風の家具に入れ替わり、全体の雰囲気が一変している。
    「別の家みたい…」
     そこでも立ち尽くし見回す要を、驍宗は笑って眺めている。
    「雰囲気だけでも本格的にしたいと正頼に頼んでみたら、何やらこうなった」
    「正頼、何でもできるんですね…」
     赤色はここでは彩度が抑えられ、華やかであると同時に木製品の重厚さを添えた落ち着きもあり、絶妙なセンスでまとめられてある。どこを見ても目に珍しく、要は言葉もなくその仕事ぶりの成果に見いる。
     機能優先で本当に飾り気のないリビングだったのが、こうも変わるなんて。

     特に、奥の一角が要の目を引いた。洋風の棚が撤去されて空間が空き、その壁には高い位置に古い神像の軸がかけられ、足元には奥行きの狭い飾り台が置かれてある。白磁の器と共に果物が盛られ、菓子と思われる箱が平たい盆に、そして同じように一段低い台にも中央の香炉をはさみ両脇に組となって、やはり果物と菓子のパッケージが並んでいる。
     …高里の家でしていたお盆のお供えに少し似ている気がする、と要は胸の痛むような記憶を重ね、そしてそれを振り払うように笑んだ。
    「模様替え、大変だったんじゃないんですか」
    「全部正頼が采配してくれた。私は供桌(さいだん)を整えただけだ」
     これは家の長がする決まりだから、と驍宗は言い、まだ戸口に立っていた要をそこへ連れていく。
    「奥が神々のための、手前の台が祖先のための供え物」
     そう言って、
    「あとでさらに供え物をして拝礼をする。その後に、夜通し起きて遊びごとをするのが習わしだ。これを守歳という」
     今夜は夜更かしするぞ、と言い、楽しげに笑む。
    「そして、大晦日は家の者が皆で食事を作るのも習わしだ。とりあえず、先に身ぎれいにしてこい」

        *

     大晦日は深夜ほど忙しいらしい。今のうちに、と言われるままにシャワーを浴びる。
    「三が日は、一応しきたり上は洗髪してはいけないことになっているから、よく洗っておけ」
     そう指示されて、要は驚く。
    「日本とけっこう違うことが多いのかしら」
     それはそうだろう、国が違うのだから。そう思い、数日は驍宗の言うとおりに従うべきかと、そのとおりにした。
    「…行事をするって、大変だな…」
     

        *二十一時の夕食準備
     二人でエプロンを着け、腕まくりをする。正頼の書き残していったメモを元に驍宗が指示を出し、作業にとりかかった。
    「まずは、粉を用意」
     薄力粉、強力粉、と書かれた袋を出され、要はそれぞれを慎重に厳密に量りボウルに入れた。
    「湯を入れて生地に練るのは、私がやろう」
     驍宗がボウルへ躊躇なく熱湯を注いで、菜箸で掻き回す。その慣れた様子に、要は目を丸くする。
    「料理、得意なんですか」
    「得意と言うほどでもないが。子供の頃から、こういうことは好きな方だ」
     普段は忙しくて家でする機会がほとんどなくなっているが、と言うので、要は少しの瞬きをした。
    「驍宗さんのお家では、…男子厨房に入らず、とか、言われなかったんですか?」
    「ああ、台所仕事をさせない日本の諺か」
     驍宗はそう言って、やや納得したように要を見た。
    「あれは本来は古い故事で、全く違う意味なのだ。が、最近になって日本の諺が‘新説’とやらで本国へ紹介されているらしい、面白いコラムを読んだ」
     ボウルの粗熱が取れるまでを掻き回している間に、その説明を驍宗はし始めた。
    「もとは孟子にいう、『君子は庖厨を遠ざく』。とあるところの王が孟子に問うた」
     儀式に牛の血を使う、そのために引いていかれる牛を見て、罪なきものを、と王は不憫に思った。せめて羊にしてやれ。そう命じた王は、だが民からはケチだと評された。その是非について問われた孟子は、王には仁心があるとして褒めて曰く、『君子は生あるものを哀れむ気持ちが強いために、生き物を殺す料理場に近づくことは、とうてい忍び得ない』。
    「仁心…? それが、仁の心といえるのでしょうか」
     まるで、パンに菓子を替えて食せと言った王妃のようだ。要は眉をひそめる。
    「そうだ、孟子も、牛を見て羊を見ず、と言っている。近くを見て遠くを見ていない、と。だが彼は、生けるものを憐れむ心を持つことこそが、仁をもって治める王道の始めである、と王に説いたのだ。…とされている」
    「よく分からないです」
    「そうだな。今に通用する話ではないのだろう」
     そろそろいいか、と驍宗はボウルを混ぜていた箸を置いた。
    「ま、そういうことであるから、本来は厨房に関して男女のことなど関係ないのだ。実際は男も普通に料理する家が多いぞ」
     言いながら、ボウルの中で手で生地をこね、まとめていく。
    「そうなんですね…知らなかった。男は女性の仕事場に入ってはいけないという意味だと思っていました」
     苦もなく進められるその作業を、要はため息のような呼吸を吐いて、眺める。
     高里の家は旧家だった。諺どおりに『男子厨房に入らず』と戒める祖母の気風が強くあり、またその後、孤児になってからいた施設では調理場に立ち入ることは衛生上の理由で禁止されていた。料理というものがそれほど身近ではなく育った要には、驍宗の鮮やかにも見える手つきはよけいに眩しい。
    「…何を作るか、わかるか?」
    「…いえ、…何だろう、パン…」
     思考が働かずに、呟きは途切れた。
     明るい白熱色のライトに晒されて、目の前に動作する手と腕がきれいな起伏と陰影を見せていた。白の上に重なる褐色の肌の少しの対比、立体としての形の良さ、そして動作の美しさ。脳裏のスケッチブックに一瞬一瞬を描き留めながら、要はうっすらと見とれる。
    「さて、これでしばらく寝かせる。その間にタネを作っておこう。…要は、肉を解凍してくれるか」
     驍宗はそう言って、まとめられた白い塊にラップをかけてボウルを脇に置いた。それまでをぼんやり眺めていた要は、はっと我に返って冷蔵庫へ走る。

    「肉は、ミンチを頼む」
     その声に短く返事をして、冷凍の引き出しを開ける。大きな冷蔵庫の上部にも、赤い菱紙――これは春聯(チュンリエン)といって、家のあちこちに貼るものらしい――そこには「満」とあり、それも願い事なのだと、要は面白くちらりと眺めた。
    「ミンチ…どこだろう」
     手近にあるハンバーグやミートソースのパッケージをかき分ける。真新しいそれらは、この正月休みのためにと、きっと正頼が買い入れたものだ。
     …いつも、冷凍庫を開ける度に、要は無意識に微笑んでしまう。そこに入れてあるのは、全てが肉類に見えて『成分:大豆・小麦』と表示されるベジタリアン向けの素材を使い成形された食品ばかり。肉と魚介類の食べられない変わった偏食のことを、それまで家でも施設でも叱られ続けてきた要だったが、この家では偏りをそのまま受け入れられ、こうやってたくさんの種類が常に用意されてあるのを目にするたびに、言いようのない温度がじわりと沁みるのだ。
     ミンチ、ミンチ、そう心に繰り返して、探した末に、業務用の『ソイミート・そぼろタイプ』の大袋を引っ張り出す。正頼が普段に言う通称ミンチがこれと二人とも理解している。
    「ミンチ、ありました」
     キッチン台で袋からレシピの通りに指定の量を出し、レンジの解凍ボタンを押してスタートさせた要の後ろで、
    「私はニラを刻もう」
     と、テンポのいい包丁の音が響き始めて、要は驚いて振り返った。調理は二人分の量、とはいえ量のあるニラをあっというまに刻み終える手つきを、どうやら始終、惚れ惚れと眺めてしまったらしいことに気づいた時には遅く。
    「どうだ」
     見詰めていたことを知っていたように笑まれて、要は少し熱い頬で横を向いた。ちょうどよく、レンジが解凍終了を電子音で知らせている。
    「できたな。次は、…白菜か」
     驍宗がこれまた手際よく刻んでレンジにかけ、水気を切って、タネの材料を全てボウルに入れる。キッチン台の端からやっぱりその手つきを見守ってしまう要へ、驍宗は再び笑んで、ボウルをスライドさせてよこした。
    「そいつをよく混ぜておいてくれ」
     要が言われた通りに匙でボウルを掻き回していると、驍宗があいた場所へと、同心円の描かれたシリコンシートを広げる。
    「…それ、パンを焼く時のやつ…ですよね」
     高里の家で、昔に母も使っていた。そう思い出す。
    「知っているのか。確かに、パン生地を扱う時に使うものだ」
     驍宗はうなずいた。
    「よしよし、いい感じになったな」
     先ほどの粉のボウルを取り、驍宗は満足そうにラップを外す。シートの上へコロリと出された白い塊、…その固さを、要は不思議に見た。
    「…? 全然、膨んでいないようです……? 」
    「パンじゃないからな」
    「そうなんですか?」
    「そうだが? 何を作っていると思っていた? 」
     作っているものがパンではないことを今更に知らされ、そしてその生地は膨らまないらしいことに驚いていた要は、さらに驚く光景を目にする。
    「ハアッ! 」
     せっかく綺麗にまとまっていた生地の塊に、驍宗がずぶりとばかりに指を突き刺して生地を持ち上げ、それからくるくると回しながらその穴を真ん中から引き延ばし広げ始めたのだ。最初はまるで大きなドーナツ、それが、穴の方が随分と広く大きい不可思議なドーナツになっていく。いったい何を、と思った時、それは環を切られて、一本の紐状になった。
    「こうすると、塊を扱うよりもずっと早い」
     手品でも見せられたかのようになった要の前で、一本の紐は大きな手の下にコロコロと転がされ、太さを均一に整えられる。
    「簡単だろう。これも知恵というものだな」
     スパスパと切り分けられた小さい塊が大きな手のひらで押し潰されて、さらに麺棒で伸され平たくなって、そうなってやっと要にも、手元のボウルの中身と結びつけて、それが『皮』だと認識できるようになる。
    「もしかして、シュウマイ、ですか…? 」
     その言葉で、驍宗が笑い出した。
    「惜しい。餃子だ。さて、要は餃子を包んだことはあるか」

        *

    「……………意外と、不器用だな」
     四角い金属のバットに粉を打って並べられたのは、大小もあり、包みの破れたものもあり、散々な出来のものが半分。もう半分が、大ぶりではあるが機械で作ったかのような精密な仕上がりの、美しい三日月型のものだった。もちろん、後者が作・驍宗である。
    「…すみません……こんなの、縁起が悪いのでは…」
     もたもたと作っていた最後の一つだって、タネを余らせないようにと微妙な残量を全て詰め込んだせいで真ん中が破れ、周囲はやっと閉じただけのヒダも何も取れない状態のものになっていた。
     餃子の包み方を教えられながら、『もとは銀元宝という貨幣…というよりは小振りのインゴットなのだが、それに似た形に作られていたのだ。餃子を食べるのは、新年の財運を招こうという縁起担ぎだ』と、その謂れを聞かされていた要は、しょんぼりと小さくなった。こんなの、穴の開いたお財布くらいに縁起が悪そうだ。
    「直るかしら…」
     これに限らず要に作ったものは、どう見ても美しくないのだった。手元にまだ持っている最後の一つの、生地の穴をどうにか修正しようと、懸命に周りから指で撫で伸ばし試みている側で、驍宗は鍋に沸かし始めた湯の加減を見ながら、意に介さずに言う。
    「餃子作りは家族でやるゆえ、年少者の作るものがたとえ不恰好であってもいいのだ、誰も気にしない。はち切れるほどの財が成る、とすればかえって縁起がよかろう」
    「そうですか…? 」
     失敗を慰めるためにそんなふうに言うのだろうと、余計に内心で情けないようにも思った要に、驍宗は軽くうなずく。
    「縁起担ぎには、何でも言い換えが必要だ。悪いことが起きたらすぐいい言葉を使って置き直す。それでめでたいことになるのだ」

        *
    辞旧迎新、二十三時のディナータイム
     そろそろ子の刻だ、と驍宗がキッチンを出て供桌(さいだん)の前に立ったのは、もはや深夜に近い時刻だった。
    「腹が減っただろうが、もうしばらく待ってくれ。これが終わったらすぐ食事だから。要は納戸から花を持ってきてくれ。私は食事の皿を」
     人のいる部屋の暖気を避けて置いてあったのだろう、物入れに使われている部屋に花は瑞々しくうっすらと香りを漂わせていた。珍しい形の大振りの菊花に添えてバラと南天の赤と緑が立体的に、金銀の水引とミニチュアの燈籠で華やかにされてある。竹篭に作られたその二つを両腕に抱えていくと、驍宗がそれを上段の左右へと飾った。
     すでに供えられた少量ずつのご馳走の盆は下段だけ、そこへ驍宗は冷蔵庫から白いケーキ箱を持ってきて、それも置く。
    「蝋燭をつけてくれ」
     と言われて、要は台からレトロなマッチを取って、少しぎこちなく音を立てて擦った。小さな火が要の手指を照らす。その手を伸ばした順に、立てられていた彩色美しい蝋燭が柔らかな光で各壇に生気を点じた。その間に、驍宗が白磁の器に水を注ぐ。
     それから、驍宗は一歩下がって床へ膝をついて、
    「この一年の加護に深謝し、新しい年も順調で安全な生活であるよう、ここに祈願する」
     とうやうやしく述べた。
     要もその後ろで驍宗にならい、ひざまづいて真似ばかりではあるが拝礼をする。
     
    「綺麗ですね」
     時々、エアコンの風が回るのか、蝋燭の炎は小さくちらちらと揺れる。
    「灯りは、消えるまでそのままにしておく。これくらいの蝋燭なら明日の朝には尽きるだろう」
    「…この火は、つけっぱなしにするんですか?」
     危なくないのだろうか、と思う要に、驍宗は教える。
    「そのために朝まで起きて守をする。それがあるから、この夜は飲酒をしない家も多い」
     その代わりに、元日には昼から飲むことになるな。そう言って、驍宗は要に向き直る。
    「要は、眠くなったら寝てもいいぞ。今日まで試験で、疲れているだろう。寝不足ではないのか」
    「……できれば起きていたいですけど、…」
     そう自信なさげに言う要へ、驍宗はうなずいた。そして、
    「眠る時には、居間で “少し横になる” 体裁でいればよい」
     と、中華風の奥行きの広い長椅子を振り返る。
    「あそこに簡易のマットレスを持ってきて、ブランケットをかぶれば十分眠れる」
     もとからあの形の家具は寝台と座る場所を兼用するから大丈夫だ、と言って、笑んだ。
    「さあ。食事にするぞ」

        *

     年越しの食事は、水餃子以外には驍宗の作った青菜炒め、作り置きされた三色の野菜のスープを温め直し、それに大根のサラダがつくというシンプルなメニューになった。
    「本当はもっとたくさんのご馳走を、大卓に乗り切らないほど並べるのだが」
     二人ならこれくらいで十二分だろう、もう腹も減ったしな、と驍宗は笑って、皿に料理を盛り付ける。

    「待たせたな。食べるぞ」
     いただきます、と手を合わせて食べ始めた要に、箸を取った驍宗は尋ねる。
    「ところで、テストはどうだった。明日から無事に春休みになるのか」
    「たぶん大丈夫です。筆記はかなりの量は書けたし、他のも、再試や再レポにはならないと思います」
     そうか、と驍宗はスープ皿を示した。
    「正頼が今朝『要さんのために』と、三色の野菜でこれを作った。春節をはじめとして事あるごとに縁起を担ぐことを私たちは好むが、これも『三元及第』という学業成就の願い事のものだ」
     三元とは科挙の上位三名の意味で、成績が良いものでありますようにと願いを込める、と言われ、また「本来は肉と魚と海老の団子を使うものだ」とも教えられて、要は微笑する。肉類を食べられない要のために、野菜にしてくれた。正頼の心遣いだ。しかも、料理など自分でする必要のない執事であるのに。
     正頼は、要が驍宗の元へ引き取られたその日から、要を自分の子か孫のようにも大事にしてくれるのだ。だから要はいつも礼を言うのだけれど、毎度、彼は『それは私にとっては仕事なのですから、何も負担にお思いになる必要はごさいません』と謙虚に言う。確かに仕事ではあるのだろうとは思うが、自分に対するその扱いは誠実で愛に満ちていると、いつも感じられるのは、嬉しい。
    「正頼が作ってくれたんですね、…ありがたいです」
    「成績次第でゼミの志望が限られることもあると聞いた。新しい年がうまくいくといいな」
    「はい」

     水餃子の大皿には、要の側へ驍宗のものが多く盛られていて、驍宗の方へは要の作った不格好なものが多く載せられてある。それを、
    「要のタネの混ぜ加減がよいから」
    「驍宗さんの作った皮がもちもちで」
    「美味いな」「美味しいです」
     などと、互いに褒め合いながら食べるのがなにやら面白くて、要はくすくす笑った。こういったことは、自分たちで作ったからこそ味わえるのだと、初めて知った気がする。
     正頼のレシピメモにはおすすめのタレの作り方もあり、伝統的という黒酢の他に、薬味の入ったもの、味噌を使ったものなど数種が小皿に用意されて、食べ飽きなかった。
    「永遠に食べられそう」
     要がそう言うと、驍宗は目を細めた。
    「たくさん食べろ」
     だがやがて、何個目を口にした時だろうか、それは起きた。
     大ぶりの水餃子を頬張った瞬間、カチン、と音を立てて歯が何かに当たる。
    「……? 」
     …何だろう、変な物が。
    「…どうかしたか」
     返事をできずに、要は口腔に意識を集中する。これは大豆ミートを使ってあるし、魚や肉ではないから骨があることはあり得ないのだ。それにしても…
     舌触りは平たい。変に大きいように思われる何かを、注意深く噛み分けて舌先で押し出し、手に受ける。その塊は、少しの重量があった。
    「…何だろう、これ…何かが、混ざって…?…もしかして僕、作ってる時——」
     異物混入、という四字が閃くように降った。これは重大事だ。僕が、タネのボウルを渡されて「混ぜてくれ」と頼まれた時に、よそ見をしていたから、ボウルに注意を向けていなかったから、何かが落ち込んでも気づかなかったのだ。僕、…大変なことを。
     冷や汗をかくようにそう思いながら、取りだしたものを手のひらに覗く。と、…そこにあるのは、黄色の平たい、おはじきのような、ボタンのような丸い物だった。
    「…何……?」
     訝しく思いながら、指で摘まんだ途端。
    「おめでとう、要。大当たりだな‼︎ 」
     まるで商店街の福引で当たりを引いた時に晴れやかに鐘を振り鳴らすスタッフくらいな勢いの、そんな上機嫌で驍宗が叫んだので、要は飛び上がりかけた。
    「これは、西洋で言うなら“ガレット・デ・ロワ”だ。当たりを引いた人には新年の幸運がある」
     その中でも一番良いものが出た。おめでとう、と繰り返されて、要は戸惑った。
    「あ、ありがとうございます…」
     おめでとうも何も、これを仕込んで餃子を作ったのはたぶん、いや明らかに驍宗なのだ。大皿に互いの作った餃子を片寄せて盛ったのはこのためだったのかと要は思い、こんなのは仕込みも仕込みの結果では、と思いもしたけれど、…初めて春節行事を経験する要を楽しませようとしてくれているのだと、そう思うとじわじわと可笑しくも、温かい気持ちになった。
    「…大吉、ということですか、これ」
     席を立ち、キッチンの流しで洗ってあらためて見る。その小ぶりの円盤は陶製のようで、形は古い銅銭を模して中央に角穴、型に押して作られたのだろうが、模様もあってなかなかきれいなものだった。
    「それは紐を通してお守りにしたり飾ることもできる。――さあ、続きだ。温かい内に全部食ってしまおう」
     そう促されて要は微笑むと、テーブルへ戻る。だが、そこで席に着く前に、大皿へ手を伸ばし、くるりと半周だけ回した。
    「こうでなければ、行事の趣旨に反するのでは? これって、誰に当たるか分からないから、楽しいのでしょう? 」
     そうして、今度は互いの作ったものを交互に取ることに決めて、仲良く食べたのだった。

        *

    「結局、要に二つ、私が一つだったな」
     要が食後のお茶を用意している間に、諸々をまとめて食洗機に放り込んだ驍宗が楽しげに言う。
     春咬(ヤオチュン)という例の中華式ガレット・デ・ロワ餃子には、陶器のコインが色違いでいくつか忍ばされてあった。いずれも吉祥の語句が浮き出ている。だが本来は小銭の他に落花生や飴をいれるのだ、と聞いて、要は内心(飴の入った餃子なんて想像も出来ないな…)とは思ったが、(もしかしたら、塩味の飴を入れるかもしれないし)とも考えて、…そうしながらお茶を淹れ終わる。
    「食事の後にも、お楽しみはあるぞ」
     何だろう、と思いながら、要は中華風の家具に入れ替わったリビングの一角、奥行きの深い縁台のような長椅子とそこに置かれた低い卓へと茶器の盆を運んで、そこに置き、所在なく腰掛けた。なにやら、引き取られてここへ来た最初の時のような、急に環境の変わった感触が蘇って、少しだけ冷たく馴染みきれない。
     驍宗がさっきから携帯端末を弄っていて、なかなか要の所へ来て一緒に座ってくれない、それを待ってぽつりとした気分でいると、ようやく驍宗が、
    「新年のお祝いを贈ったから、見てみるといい」
     顔を上げて言う、その瞬間に要のポケットで電子音が何かの到着を告げ、急いで取り出した。
     “恭喜發財・萬事如意”
     てっきり年賀状か何かかと思ったのだが、その言葉と共に送られたのは派手に飾られた二次元コードだった。新年専用デザインがあるらしい、花や干支の動物が賑やかに囲んでいる。
     読み込むように言われ、コードを登録すると、瞬時に要の口座へチャージが完了した旨の通知が入る。金額は数字の6が並び、要は驚いて固まった。
    「お年玉だ。好きに使え」
    「…こんなに、あの、」
    「要が無駄遣いをしない、どちらかと言えば倹約家なのを知っている。が、だからこそ多めに渡して使わせるべきだと私は思っているのだ」
     どさりと腰を下ろして、驍宗は涼しい顔をしている。
    「金の使い方も勉強の内だと思って、何でもやってみるんだな」
     使い道に困ったら相談に乗るぞ、などと冗談のようにも言って、手を伸ばした器から茶を美味そうに口にした。
    「ありがとうございます…」
     半ば途方に暮れたような気分がしつつも、要は礼を言った。正直、お金をもらったことよりも、目の前で自分の入れた茶を飲んで満足そうにしている相手の表情を見る方が嬉しいと思うくらいなのだけれど。投資に値すると思ってもらえたのだろうかと、そう考えることにする。

        *
    新春、零時の魚
    「そろそろ、デザートにするか。要、お茶のお代わりを」
     と驍宗が席を立った。
     要が灯してから変わらず蝋燭の火が揺らめく供桌(さいだん)へ行き、そこから供えられていたケーキ箱を取り、また何か別のものも一緒に持ってくる。
     急いでキッチンでお茶を淹れ直して要が戻ると、箱は開かれた。
    「…ケーキ、ですか?」
     語尾が疑問形になったのも道理だった。箱から出されたのは、まるで水中の如く生き生きと尾をしならせ泳ぐリアルな錦鯉なのだった。まばたき一つで、それが白と紅のクリームで覆われた食べられるものだと理解はできるし、頭に乗せられたマジパンの小さな王冠に銀のアラザンがついているのは凝っていて可愛いとも思うが、あまりにその形を見慣れないせいで、要は少し、口籠る。
    「あの、なかなか、洋菓子店では見ないですよね、こういうの」
    「うむ、綺麗に作ってある。きっと美味いぞ」
     箱のロゴやシールの記名から、行ったことがある中華系のカフェだと分かる。花影という驍宗の知り合いの店で、きっと彼女に頼んだ特製品なのだろう。だが、こうもリアルに作られると、ケーキとはいえ生き物の形だ、ナイフを入れるのに罪悪感を抱きそうでなんだかむずむずしてしまいそうだった。
     …でもこの人は、大胆な輪切りなど平気でしそうだな。そう思いながら、しきたりの多い行事だからと驍宗の動きを待ってじっとしていると、驍宗の方は何やら意識が他へいっている。
    「そろそろ、だな」
     驍宗が見る視線の先には時計、その針は気づかぬ間に日付の境へ刻々と近づいていた。
    「まず、これを持て」
     満を持して、というふうに手渡されたのは、パーティー用の大きめの三角クラッカーだった。
    「0時になったら、このクラッカーを鳴らす。本当は百連の爆竹がいいんだが、ここでやるのはさすがにまずいからな」
    「……百……」
     防音性能は良いとはいえ、爆竹は室内でやるものではない。
    「…どうして、爆竹とか、クラッカーを鳴らすんですか? 」
    「旧年を送り、新年を迎える。その時に、大きな音を鳴らして悪いものを全て追い払うのがよいとされている」
     その昔は屋外で火を焚いて竹をくべていたらしいが。とも言い、
    「悪いものを追い払うのを追儺(ついな)という。これは、日本では二月の鬼やらいとして豆まき行事になっている。もとは同じだ」
    「ああ…なるほど。時期も近いし、似ていますね」
    「形は随分と変わっているが。面白いものだ」
     そう言い、驍宗は時計を睨んだ。
     それから、秒針を見つつ、クラッカーを構える。
    「ほら、要。そろそろだ、用意はいいか? ——…3、2、1、… 新年好‼︎ 」
     パン、という大きな破裂音と共に派手にメタリックなテープが飛び、宙を覆った。新年好、とおうむ返しのようにも言いながら、要もクラッカーを上向きに発射させる。
    「明けましておめでとう」
    「明けましておめでとうございます」
     そう挨拶をして、ふたりで頭を下げ合った。
    「今年もよろしくな」
     そう言って、…頬に触れてきた手が、それだけで離れて、要の服にかかったテープをすっと払った。
     …大晦日になってから、少しだけ、距離を置かれている気がする。これもしきたりだろう、そう考えて、要は胸に落ちるものをやりすごした。…日本のお正月だって、家族が集まる行事では家のことを主にして個人のことはおもてに出さないものだ。これは特に、祭祀なのだろうから。
     目を向けた床、そこに散ったテープは目の覚めるような赤で、控えめな間接照明にメタリックの中に散るホログラムの虹色がキラキラとする。その無音は、色の割りにとても静かだった。

        *

     そして……やはり、鯉のケーキは、輪切りにされたのだった。

     年越しケーキは年糕といい「年々よくなる」という意味にかけられたものだと説明されて、さらに、魚の形になっているのは「年々余裕が出来る」という願い事でもある、と説明され、それには要は素直にうなずいたのだが。
     切り分ける段になって、少しの抵抗を見せる。驍宗は難しい顔をした。
    「言いたいことは分かるが……こういう物は形を残すとかえって食べにくい」
    「……」
     その理屈は一理ある、と思わされ、けっきょく要は目の前で一刀両断された錦鯉のケーキから一番大きい断面を取り分けられて、その皿を手にする。
     腕に撚りをかけたと思われるそれは、口に入れればとても美味しかったのではあるが、…次はもう少し食べやすい見た目にしてもらいたいな、と要は思った。

        *
    一時の祝い結び
    「これは、どうするべきか…? 」
    「…あっと…ええ…? 僕も今ちょっと厳しいです」
     二人向かい合って渋い顔で悪戦苦闘しているのは、対戦ゲーム…かと思いきや、全く違うものである。
     小卓を挟んで向かい合い、それぞれ手にしているのは、手芸キットなのだった。
     間に広げられているのは、あの餃子に仕込んだ陶製コインとセットになっていたという、『紐を編み込んでお守りを作ろう! 』という、小学生に冬休みの宿題でもさせるかのような、簡易なプリントの説明書。
    「これは説明書が悪いと思いますよ…」
     付属品のプラスチックの板のへりには切り込みが入っていて、数カ所を爪として折り、立てた部分に紐を掛けて編んでいく、…という簡単な仕組みの物なのだが、どういうわけか、紙にある手順や図の記載はあちこち間違っているようで、全くきれいな形にならないのだ。
     要はそれを見限り、全部解いてしまった。
    「…祝い結びにならないのは、よくないな……」
     驍宗も、無言でほどいてしまう。
    「手芸関連の動画を探します。伝統的な結び方ですから、絶対に同じものが出ているはず」
     しかめ面で、要は端末から探しだした動画を壁のテレビモニタへ飛ばし、大画面で再生させた。
     素っ頓狂な高い声で始まったご挨拶をスキップ、似た道具と紐を持った手元が移り始めたあたりから、何度も再生と停止を繰り返して、
    「こう…か? 」
    「こう…です? 」
     と、こちらも同じ言葉を繰り返しつつ、十数分後。
    「「 …できた…! 」」
     二人して掲げ合ったのは、朱紅の祝い結びに連ねたコインと房飾り。そこで少しばかり、上手だとか見栄えがするだとか、良い言葉ばかりを交換する。この頃にはもう要にも、大晦日から新年に至るまでの間に悪い言葉を使わない決まり事があるのだと、何となく了解していた。少し語彙力を試される行事だなと思いつつ。


        *
    真夜中、二時の夢
    「そろそろ要は寝ろ」
     目をしばたたかせ始めた要に気がついて、驍宗はリビングを出てマットレスらしいものを持って戻ってきた。この家具の付属品らしく、小卓を下ろした空間にぴたりとおさまる。客用の簡易ベッドにもするものなのだろう、と要はそれを見て思う。確かに寝るには十分そうだ。
    「…はい…すみません……」
     リビングに流れているのは配信が始まったばかりの新作ハリウッド映画、ど派手なアクションと目の覚めるような演出が名物のシリーズだったが、それも要の睡気には及ばないようだった。
     床に座っていたのを、這い上がるようにしてマットレスに横になる。そこへふわりとかけられるブランケット、…その軽さは何だかさみしい感じがして、要は睡魔に絡め取られた身体で重く身じろぎをしたが、伸ばせない手に何も掴めるはずもなく、沈む。
    「明日は何も予定はない、昼まで寝てても良いから、よく眠れ」
     映画はまた今度、一緒に見よう。その声は、とても静かに耳に届いたが、それきりで遠くなっていった。

     ああ、遠ざかっているのではないのだ。夢うつつに、ため息をつく。そばに居るのに、僕が、手が届かなくなっていく。
     眠りに落ちていく薄闇に、降る白さが、懐かしいようにも悲しく、…恋しいようで厭わしい。
     こんな光景をどこで見たのだろう。思い出せない。でも僕はこの気持ちをずっと知っている。あの降る白は見上げるほど暗く、…それにすら届かない手の、空白が、恐ろしい……
     …………どうして、その光景を、知って、いると、……思うの…だろう…………

     

    「私のわがままに付き合って疲れただろう、すまないな」
     数度の呼吸で漂うように眠りへ滑り込んでいった要の、少しクマのある目元を覗いて、驍宗は小さく呟いた。
    「楽しいことを沢山させてやりたいと思ったが、急ぎ過ぎたかもしれぬ」
     よく笑うようになった。
     見つけ出して施設へ初めて会いに行った当時の、無機質な目を思い出す。家族を失うとはこうも人を閉ざすものかと、恐ろしくなるようにも思いながら、後見の申請をし面会と交流を続け、意思を確認して家へ引き取り、暮らし始めたが。
     …とうに過ぎ去った遠い過去世の記憶が、呼び起こされない日はない。
    「今度こそ幸せにする。私の蒿里。——すまなかった」

        *
        *
    五時、眠りを守る
     パパパパンパン、という乾いた音でふと目を覚ます。部屋は壁のテレビモニタだけが生き生きとして、「≪LIVE≫ 香港」のテロップと共に、暗い中に次々と火を散らす結び合わされた爆竹の一条が映し出されていた。
     映画を見ていた気がするのに、と思いながら、ぼんやりと起き上がりかけて、要ははっとする。
    「驍宗さん」
     床で、長椅子に背を預けるようにして座った姿勢のままで、驍宗は首を傾けうたた寝をしていて、…振り返った供桌(さいだん)に、まだ火が揺れている。
     時計は朝の5時を指していた。外は薄明るくなっているらしい。そして、知らない間に要には毛布がしっかり掛けられて、…それで熟睡してしまったのだとちらりと思う。本当なら、朝まで寝ずにいるのがしきたりなのだと聞いていたのに。
    「驍宗さん。僕、代わりますから、ここで横になって。驍宗さん」
     声をかけただけではあまり反応がなく、要は手を伸ばして、そっとその厚い肩を揺らした。
     …試験で疲れているだろうから、と夜更かしの際に驍宗は要を気遣ってくれたが。この二週間ほど、深夜まで要がレポート作成や試験勉強をしているのと同じ時刻に、驍宗の部屋にも灯りがつきキーボードのカタカタする音が漏れ聞こえることだって多かったのを、要はひっそりと知っている。春節には休みを取るのが当たり前のようにも言い、そう振る舞っていたけれど、世間一般にはこの時期は休みではないのが当たり前なのだ。…この人だって、疲れているはず。
    「………うむ……」
     腫れぼったい瞼を重たげに瞬かせて、驍宗はぼんやりと要を見、それから意外にも素直にのそりと動いて、長椅子の上にその身を投げ出すように横たわった。
    「ゆっくり寝てください」
     要が抜け出た後のマットレスと毛布は体温が残って暖かかったのだろう、驍宗は軽く深呼吸をしただけでふっと力が抜けて眠りに落ちてしまった。その速さ。
    「…子供みたい」
     可愛いな。そう思って、要は眠る相手の無防備な顔をしばらく眺めていた。寝顔なんて、あまりじっくり見たことがないから、…
     いけない、お正月の間は、何もしちゃいけない、たぶん。そう思うことで、ようやく、その場を離れる。

     キッチンへ立って、コーヒーを入れる。短い時間ではあるがよく寝た感触があり、眠くはなかった。だが、後を引き受けると言いそのつもりの以上は、間違っても居眠りなんてするわけにはいかない。
     マグカップを手に供桌(さいだん)の前まで行き、蝋燭の残り具合を見る。『朝までには尽きるはず』と言った驍宗の言葉通りに、それはきれいな色を溶かしきった内側、透明な液に芯と火が小さく浮いているだけになっている。
     その前へ膝をついて、要は改めて祈った。
     あの人に加護を。平穏を。……僕のためにと何か無理を自らに強いるようなことをしないように。
     
     それから、先ほどまで驍宗が座っていた場所に座り込んで、温かいコーヒーを少しずつ飲んだ。
     テレビモニタに映し出される国際放送チャンネルには、各地の新春の朝を実況する映像が次々と切り替わり、それをぼんやりと眺める。マイクを持つ人も答える人も、何を言っているのか要には全く聞き取れない。ここではない場所の、いくつもの光景、沢山の人、違う場所の暮らしが映し出され続ける。
     けれどその端々に、自分が関わることはないだろう場所で人の笑顔があり、遠い国にも力強く生きる人々があることを見て、なぜかほっとする、そんな自分と、この日本でひとり珈琲を飲みながらそんな映像を眺める状況を、不思議なようにも思った。

     そして、ふと思い出す。
    「…驍宗さん、『今年は家で春節をやる』、って言ってたけど…」
     以前は、一体どうしていたのだろう。

        *
        *
    八時の目覚めと
     昏々と眠っていた驍宗が不意に目を覚ました。
    「しまった……」
     あたりを見回し片手で絶望的に額を押さえたので、要はリビングのテーブルから驚いて立ち上がる。
    「どうかしましたか」
    「…寝るつもりは全くなかったのだ…」
     朝まで起きていると決めたことを完遂できなかったと悔しがっているだけなのだと分かると、要は笑い出した。そして言う。
    「朝の五時くらいでしょうか、それくらいに僕が起きて、驍宗さんと交代したんです」
    「そうだったか、すまない。もうこんな時間か……要は起きてだいぶ経つな、何か食べたか」
    「いえ」
     今日はお正月だ、朝ご飯はどうするのだろうと思ったが、驍宗は起きてきて冷蔵庫から昨夜のケーキの残りを出した。
    「とりあえず、コーヒーとこいつで済ませるとしよう」
    「僕、朝は何か特別なメニューでまた作るのかしらと」
     手作りの食事が正月中の恒例になるようにもなぜか思い込んでいた要は、目を丸くする。
    「普通は、ご馳走の残りを引き続き食べるが、まずこれを先にいこう」
     なるほど、と要がお湯を沸かし新しくコーヒーを入れている間に、驍宗は着替えを出すといって部屋に行ってしまった。ただ着替えてくるのだろうと気にも留めずにいた要だったが、しばらくが経ち、なにやら時間がかかっているようだ、と思ったところに、驍宗は一抱えの衣服をもって現れる。
    「…それは…?」
    「晴れ着、とでも言っておこうか」
     透かし彫りの折り屏風にバサバサと無造作にかけられたのは、どう見てもシルク、控えめではあるが艶やかな光沢のある生地で仕立てられた、着物に似たものだった。
    「後で、要に着せてやろう。それで写真を撮ったらきっと映えるぞ」
     …SNSに載せる、という意味だろうと理解はしたが、あまり自撮りなどを載せるようなアカウントではないので、…とは言えずに要は曖昧にうなずく。
     けれど、この赤色尽くしの春節行事の中で、持ち込まれた衣装はグレーや銀にも見える取り合わせ、その色にだけは少し、ほっとしたのだった。

    「お正月って、何をするものなんですか」
     昨日は中国茶で楽しんだ錦鯉のケーキ、その残りはコーヒーにもよく合った。
     魚は料理であれば頭と尻尾は食べずに置いておくものらしいが、驍宗は「ケーキはナマ物、とっておいても傷むだけだ。今時、食べ物を無駄にするのは良いこととは言えない」として、綺麗に食べられることになった。驍宗が譲ってくれたマジパンの王冠もアーモンドの風味があって意外に美味しく、花影のお店を贔屓にするのは知人だからという理由ではなく、単純に腕がいいからなのかも、と思う。
     それを食べてしまうと、何やらぽっかりとする。
     驍宗は自分でコーヒーのお代わりを入れてきて、携帯端末で様々に新年の挨拶を送受信しているようだ。寝起きからたぶん顔を洗った程度、ラフなくつろぎ方でいる。
    「元日か、特に何もない。飲みたければ飲めばいいし、遊びたければ遊べばいい。家でのんびりと過ごす」
    「…そういうものなんですか」
    「年始回りをしたりもするが、初詣のようにお参りに行くようなことは初日にはしないな」
    「…そうなんですか…」
     要は、なるほど、と呟きつつ、ぼんやりとする。何やら、前日からお祭りのようにあれこれとした分、翌日にも色々とやる事が忙しくあるものと思っていた。
     小さく欠伸を噛み殺した要に、驍宗は「寝足りないだろうから、部屋で朝寝してこい」と言った。
    「…驍宗さんは…」
     そう言いかけた瞬間に、驍宗の手元に着信音が鳴り響いた。

        *

    『…発注ミス! 予定の10倍の量で仕入れが届いてさ! いや俺のミスですけどね? 』
     漏れ聞こえる威勢のいい音声に、要は聞き覚えがある。要もよく知る中華料理の店をやっている臥信。驍宗とは同郷だとかで仲がよく、要に対しても気さくに話してくれる。
    「新年早々、大変だな」
     深刻めいて返す驍宗の声を耳にそっとテーブルを離れ、要はケーキ皿と自分のマグカップを濯いで食洗機に入れた。
     お店をやっている人は、春節でもお休みではないようだ。休暇を取り家に帰って家族と過ごすのが当たり前、というのは実はそうでもないのかも、とちらと思う。もっとも、日本で日本のカレンダー通りに営業するなら、今日は休みではなくて当然なのだろうけれど。
    「…SNSの情報を他にも回しておこう。お前はさばく準備をしておけ、もし大きく拡散されたなら、一気に忙しくなるぞ。…それと、こんな時に手間だろうが…できるか? ああ、いやこちらこそ。霜元にもよろしく」
     通話を切ると、驍宗がキッチンにいる要に目を向けた。
    「すまない、昼は麺類でもいいか? 少し事情があっての話なんだが」
     驍宗の説明によれば、どうやら、臥信の店では今日から春節メニューを追加する予定で、そのために普段頼まない種類の麺類を発注していたが、単位を見誤り、考えていた量の10倍の品が届いてしまった、ということらしい。
    「来るなら、要用に野菜だけのものを作ってくれるそうだ」
    「いいですよ、行きましょう。春節メニューは麺なんですか」
     何やら大変そうだ、と思うが、急に楽しくなってくるのは現金なものだ。
    「店は早めに開けるそうだが、それでどれだけの客が入るだろうか」
     要もSNSで拡散するのに協力してくれ、と驍宗から店舗の位置情報やら店アカウントのヘルプツイートやらが要の端末に送られる。
    「微々たる支援だが、私も後でSNSに画像付きで流す。ランチメニューなら早い時間のほうがいいな、できれば目につく方法がいいだろう…」
     そう独りごちた驍宗が、目を光らせて顔を上げた。

    「…というわけで、悪いが要、あれを着てもらうぞ」
    「…………は…………⁉︎ 」
     
        *

     急げ、とその一言で問答無用とばかりにさっさと上下を剥ぎ取られ、恥ずかしいとも言えずにTシャツとパンツ一枚の姿で要はリビングの真ん中に立たされる。赤い顔でもじもじとしているのを構わず、投げ渡されるのは、補正付きの下着シャツに厚地のタイツ。
     それを着用するのを待つ驍宗は、折り屏風に掛けられた衣服のうちの一枚を取って立っていて、着終えた要へ即座に着せ始めた。
    「…………」
     布越しとはいえ、重ねられるたびに手や指先が体に触れ続け、心臓の鼓動が速くなるのは止めようがない。紐を結んだり裾の具合を見たりする時には、驍宗は膝をついてまるで要に仕えるようにも真剣になる、その表情が近づくたびにそれを視界に入れないようにして、要は必死に自分を落ち着かせようと空回りそうな努力をしなければならなかった。
     この正月の間は、慎まなければならないはず。心臓の鼓動と、この動揺がおもてに現れ出てしまわないといい。要は大きな袖に隠される手を握りしめる。こんな晴れの日に、晴れの衣裳を着せられるのだから、…それに似つかわしく居なければならないのに。
     
    「これでよし」
     終わるまでにそう時間はかからなかった。鏡の前へ連れて行かれ、要は目を丸くする。…実のところ、着物なんて祖母の生きていた十の頃以来、着たことがない。十まで正月のたびに撮られた写真のように、さぞお仕着せ感があるのでは、と思っていたのだが。
     鏡にあるのは、予想とは違っていた。着物とは似た作りではあるが、全く違う雰囲気の、しなやかな衣服に包まれた自分。黒い髪にグレーの配色はよく馴染んで見え、そして、これは補正シャツのおかげだろうと思うのだけれど、なんだかすっきりと格好良くも見えるのだった。もっとも、それは中華風の室内で見ているから、違和感がなく見えているだけかもしれない。
    「よく似合っている」
    「……驍宗さんの腕がいいんでしょう」
    「何を。素材が良ければこそのものだろう」
    「そんな、…」
    「…ん? 」
     似合うと言う自分の言葉に異存が生じるなどありえないだろう、というように笑まれ、大きな手にくしゃりと髪をかき混ぜられて、要は頬を熱くしてそのまま口を閉じた。
    「さて、私も着替える」
     中華風の長椅子に腰掛けて大人しく見守る要の前で、驍宗は服を脱ぎ捨てると惜しげもなくその均整の取れた身体を晒す。窓から差し込む冬の乾いた日光が筋肉の隆起を浮き出させて一層美しく見せたが、その肢体はすぐに衣を次々と重ねられ覆い隠された。
     要に着せられたのは袖も裾もゆったりとした服だが、驍宗の着込んでいるものは袖や身頃はぴったり細く、ベルトで締められた腰から下だけが袴のように広くなっている、軍服のような雰囲気のものだった。シャープな線が雰囲気にとても合っている、と要は惚れ惚れとその仕立てに見いる。
     やがて、
    「どうだろう」
     そう言って振り向いた驍宗は、そこにある瞬きを忘れた眼差しを見つけて誇るようにも微笑を見せた。
    「……驍宗さんの言ったことを、そっくりそのままお返しします」
     驍宗は笑って自分の服を片付け、赤い顔のまま、要はこっそりと、この人否定はしないのか…と少し可笑しくなってしまうのだった。
    十時の外出
     晴れ着で外出した驍宗と要の姿は、非常に目を引いていた。
     それも当然だ、世の多くの人にとって春節などという行事は全く馴染みがなく、ほとんど知られてもいない。今日は普通の日で、要たちはかなりどころでなく、とんでもなく浮いている。
     道中にすれ違った人には目を留められ振り返られ、要はとても恥ずかしく後悔すらしかけていた。一瞬に投げかけられる、
    「えっ何…コスプレ? 」
     という単純にヒソヒソとした驚きの声の中にも、非難の色を探してしまうくらいだったのだが。
     一方、驍宗の方は全く堂々として、モデル並みの余裕で会釈し笑顔で手を振り、時にはすれ違った背中で上がる黄色い声のタイムラグに舌を出して笑ったりもしている。
     …これがサービス精神という社会人必須のテクニックかと、要は感心するようにも思い、この人、意外と人にウケることが好きなんだな、とも思う。同時に、こんなに女性にモテるんだな、すごくカッコいいもの、と変に沈んだ気持ちにもさせられて、冬晴れの青空の下に微かなため息をつく羽目になる。

        *

     店に着いてすぐのことだった。
     入り口の前で足を止め、春節らしい飾り付けと共に出されてあるメニュー板を見ていた短い間に、路上を行く見知らぬ人に勝手に写真を撮られた。その瞬間、気づいた驍宗が片眉を上げ風を切るほど素早く大股で近寄ったので、立ち尽くした要もその人も怯み、身を竦ませる。が。
    「誠に申し訳ない、勝手に私達を撮らないでほしい。特にあの彼は未成年なのだ、先ほどの写真は消してもらえないか」
     驍宗は長身を屈めるようにして、静かな声で丁寧にも伝える。その丁寧さにやや威圧的な雰囲気も滲ませていたのは、計算だろうか。そうしておいて、女性の変に青ざめたり赤らめたりする顔色を見て、にこやかに提案する。
    「その代わり、あなたの自撮りに私がご一緒してあげてもいい」
     画像消去するまでを見守り、さりげなく誘導し店の看板前でツーショットを撮り、SNSを交換する。
     女性が高揚した顔で手を振って離れていくのを要は眺め、横へ戻ってきた驍宗からは目を逸らし思わず嫌味のように言った。
    「すごいですね。あと僕、とっくに未成年じゃないですけど」
    「…人は命令では動かせない、多少の益は与えないとな。そして、あれくらいの嘘は方便とするべきだ」
     そう驍宗は言い、そして笑った。
    「さっきの人がメインに撮っていたのは、要、お前の方だったぞ。てっきり私かと思ったのに」

     店に足を踏み入れるや否や、まだ客入りがなく手持ち無沙汰気味にしていたらしい臥信が「おお素晴らしきかな」と大袈裟に両腕を広げた。それからその手を打ち合わせるようにもして重ね、深く一礼した。中国映画でよく見る、武人の礼だ。
    「お待ちしておりました…っ!」
    「これで集客に貢献できそうか」
    「もちろん! ありがたく使わせていただきますよお」
     臥信が弾けるような笑みで奥へと案内する。驍宗は席に着く前に懐から扇子を出して「顔はこれで隠せ」と要に持たせた。要がまだ学生であるから、拡散された時に日常へ支障が出ることを心配しているのだろう、しかしそれで逆に、驍宗の方は顔を出してもいいと、そういうつもりらしいと察する。
     臥信は店内のいい場所を使って、驍宗と要を客モデルとして席に座らせる。
    「ハイ目はこっちでー手はこう、固くならずにー」
     テーブルには赤の布を広げて中国茶の茶器と点心などのセットを花と交えて華やかに置き、そこへ肝心のランチメニュー、中華麺の入った器が一番よく写るように並べられ、そこで要は片手の扇で顔を半分隠し、驍宗と共に箸を持たされたり皿へ手を添えさせられたりと、あれこれと要求に応える。
    「あーいいね。すごくいい。ほんと、怖いくらい画になる」
     パシャパシャとアングルを変えて何枚も撮り、彼が満足そうにするまでは、しばらくかかった。
    「いやーありがとう。これで春節メニューの売れまくり、間違いなしっと」
     後で加工前の画像を送っとく、要くんもありがとうね、と言いながら、臥信は足取り軽く盆を持ってきて器を全て下げた。撮影用に用意されたものなのかしら、と要は少しそれを見送ってしまったが、すぐに新しいお茶が持ってこられる。
    「あ、ギャラなんだけど。ランチにお茶デザート付きでチャラ、ってことでいいかな? 本日のデザートはキンモクセイのシロップの元宵だよ」
     と臥信は言い、要が疑問符を飛ばすのを見て、撮影の時に置かれてあった小さい鉢に入っていた、スープに浸かった餅のような団子だ、と驍宗が教える。
     そこへ、 
    「春節限定だから、デザートもぜひ食べて行ってくれ。今年は花影の店のを入れたが、これは中の餡が絶品だ、うちの他が霞む」
     声と共に、厨房からシェフの霜元がちらと顔を出した。この店の料理の評判は、ほぼ全て彼一人の腕によるものだ。常連の好みは全て把握していて、客により作り分ける器用で繊細な心配りをする。驍宗が連れてくるようになった要の偏食についても細かに聞き取り、代替食品を使った品をいくつも考案し、正式にメニューにもしてしまった。他にも柔軟な対応をするため、様々な方面に人気が出ている。
    「ほんと美味いよ、まさに『甜甜蜜蜜』ってね」
     ウインクして臥信が去る。
    「甜甜蜜蜜、って、これも縁起を担いでいるんですか?」
    「まぁそうだな、甘くて幸せな一年を、という意味だ」
     言いながら目を逸らせ窓の日に向けられた驍宗の視線が、ふと外の一点に止まった。
    「……あれは……」

        *
    十一時の集まり
     通りに片寄せて停車した艶やかな外車から降り立ったのは、背の高い美女だった。この冬場にサングラスをかけている。コートを肩から掛け羽織りニットワンピースにブーツ、色味の少ないシンプルな装いでも、際立つオーラで只者ではないと一目で分かる。
     続いて姿が見えたのは、髪を全て編み込んで房にしたドレッドヘアが印象的で鮮やかささえあるエスニック美人、こちらはいかにもな雰囲気を醸し出している。対照的な二人だった。
    「霜元、傾城のお出ましだ」
     驍宗が声を投げかけると厨房から霜元が慌てて手を拭きながら出て来て、入ってきた美女を迎え、優しいハグをする。
     美男美女の取り合わせだ、でも誰だろう、と思い少し目のやり場に困るようにした要に、驍宗が笑った。
    「あれは霜元と婚約中の、元モデルの李斎だ。一緒にいる派手な方は、琅燦という。彼女は…肩書きが多すぎてどう言っていいか困る人物だな。今何をしているか、聞いてみる方がよさそうだ」
    「お知り合いですか」
    「古い馴染みだ」
     ふうん、と思う間にも、後から入ってきた琅燦という派手な美人がこちらを見つけ、即、飛ぶようにやって来る。
    「これはこれは、どこの誰かと思ったよ。あー、あんたが例の僕ちゃんか」
    「あの、要です」
    「あたしは琅燦。へーえー。これはすごいな」
     テーブル脇で仁王立ちの彼女は、感心したように軽く腕を組んで要を見下ろした。失礼だな、と思いはしたが、その目の熱心さは決して人を馬鹿にするようなものではなく、要は何やら落ち着かなく姿勢を直す振りで視線を背ける。
    「…その衣裳、さすがによく似合うねえ。うん、いいチョイスってことさ……ちょおおっと撮らせて欲しいな……ねえどうだろう保護者の人」
    「個人的に、だろうな? 撮ったものをどこかで人目に触れさせることをしないのなら。これ以上は要に聞くんだな」
     琅燦は、厳しいねぇ、と口を歪めて笑った。それから、中腰まで身を屈めて要の目線の高さに合わせ、多少改まった口調で言う。
    「要クン。あたしはカメラマンもやってるんだ、ちょっとだけでいい、ここで試しに撮らせてくれないか」

    「体に表情がある。とてもいい。ナマの日差しもいいけれど、…月光ライティングもいいだろうねえ…」
     ブラインドを上げ窓を開けて日差しを入れた一角に、要は窓枠に寄りかかり、驍宗に借りた扇を駆使しつつ琅燦のカメラに収まっている。
     顔をあまり出さない条件で、要は撮影に応じることにしたのだった。もうすでに臥信のお店の宣伝素材として提供している以上、断る理由を持っていないな、と、そう思ったのだが、…それは琅燦を非常に喜ばせたようだった。いくつもの注文を飛ばし、そのたびに琅燦は情熱的にカメラを覗く。
    「…目線強めにしてこっち向いて、…そう」
     いいね、と呟く彼女の背後で、少し離れてその撮影を見ていた驍宗は、ごく自然に頷いていた。その光景は、確かに、悪くないものだった。
     花のようにも見える伝統柄の鉄格子の影が落ちて、要の髪と衣服の銀にも近いグレーが絶妙に引き合う中に、淡く血色のにじむ細い首、細く掲げられる藍扇、垂下する朱房。それが一枚の画のように静けさを含む。
    「…本当に綺麗だ…」
     琅燦の感嘆の声はぞっとするほど澄んで、それが平易な店のBGMに混じり込む、その上を滑るようにカメラの連写音が小気味よくも鋭く、数度を渡った。
    「……本格的に撮ってみたいなあ…ねえ保護者さん。後で名刺渡していい?」
     渡すだけならな、と答えた声、だがそれが消える前に、その静謐は破られた。

    「あーここ、ここだ。ラーメン安く食べられるって、あの看板だろ」
    「こんなところに中華のお店とかあったんだね」
    「うん俺も初めてだわ、ここ来んの」
    「あー待って、先にお店撮っとく〜」
     おもてに聞こえる騒々しさがそのまま開扉して流れ込み、臥信が「いらっしゃいませ」とすっ飛んで行った。初めての客らしい客だ、喜ぶのも当然だった。
     入れ違うようにニットワンピの美女、李斎がさっと奥を指す。
    「個室を頼んであるのですが、よろしければ一緒にいかがです」
     驍宗がうなずき礼を言いかけたところへ、騒々しい二人連れはこちらを見、急に声を潜め、そして急激に膨らませる。
    「えっあの人……え〜あれってあれでしょ? モデル…ていうか芸能人だよね⁈ 」
    「すっげ。…いいじゃん撮らせて貰っとこう‼︎ 」
     臥信の案内を無視して駆け寄って来た彼らは、騒々しい声を合わせる。
    「一緒に写真いいですかっ⁈ 」
     突進した先は驍宗だった。きっとSNSに流された宣伝を見てそう思い込んだのだろうが、その恵まれた容姿だ、本職のモデルと思われても不思議ではない。
     驍宗がやや引き攣り笑顔で愛想を見せる、その後ろ手で「先に行ってくれ」と指示されて、要と李斎は琅燦に庇われるようにして個室にそそくさと入った。
    「本物がここにいるのに、あいつら滅多に見ない節穴だなあ」
     カメラ片手の琅燦が李斎に言い、李斎は控えめに笑った。それから、大きい円卓の奥を要に譲って、席に着く。
    「自己紹介がまだでしたね、私は李斎と申します」
    「高里要です」
    「お噂はかねがね伺っています、今は大学生でいらっしゃるとか」
     話すうちにも、李斎は丁寧な言葉遣いを崩さない。ただの大学生に過ぎない自分に、モデルとして成功を収めた大人の女性から敬語を使われる理由がどこにあるのだろうかと要は困惑しつつ、当たり障りのない話を続ける。同じ卓についているもののまったく話に加わらない琅燦は、画面の大きな端末を引っ張り出して開き、無言で覗き込んでいた。カメラから撮影データをチェックして、にんまりしている。
     そこへ、戸口から威勢のいい声がした。
    「ハイハイ、お待たせしましたあ 春節おめでとうー! とりま長寿麺でーす! ミニにしておいたよー 」※
     臥信が盆を持ち運んでくる、その後ろからなんだか疲れた顔で驍宗が入ってきた。
    「どうしたんですか」
    「…どうやら、宣伝効果はあったらしい、人が大勢…」
     そろそろランチの時刻だったのも災いしたのか、続いて入ってきた客がこれも店側のオモテナシと思い込み、続々延々ときりがないほど撮影を頼んできて、驍宗はそれに応じ続けていたらしい。そして臥信は客さばきの忙しさを理由にそれを放置したらしかった。
    「いやいや、本当に悪いね、ありがとう〜」
     さあ食べてゆっくり休んで、と臥信はほくほくしている。被写体がいいだけに客が画像付きでSNSに店情報を流してくれる可能性が大いにあり、それが話題になれば必ず客が増える。そして彼はどれだけ忙しくても店が繁盛するのが嬉しい働き者なのだった。

     そしてそんな彼のために、集まった全員が律儀にそれぞれのSNSへ「発注ミスで困っているから食べに来てあげて」のメッセージを回し、「行ってきました」等と画像を投下した。他にも同様に協力した常連も多かった様子で、ために、春節三が日に客足は途切れることなく、店は嬉しい悲鳴を上げ続けることになる。

    (※ ネットの情報によれば、年始の挨拶に行くとお茶がわりにまず麺が出されるとあったので、「とりあえず麺」はあながち間違いではないと思いたいです)


        *
    十三時の思いもかけないランチタイム
     元旦は昼からお酒を飲む、と聞いたとおりになったな、と要はふんわりと温かい思考回路で、場を眺める。
     あれから、李斎と琅燦はあれこれと注文して皿を並べ、
    「新年の祝いのものだから、貴方たちも食べて。要くんは成人済み?それならいいでしょう、さあ」
     と、お酒も注ぎ、それからマイペースにやり始めたのだった。

     広告協力のギャラとして春節ランチの麺のセットを出される予定で、それ以上はたぶん物理的に食べられないと思い遠慮しようとしたのだが、驍宗が「共に祝わせてもらおう」と言ったので、要もご相伴に預かることになる。
     隣、と言っても大卓で距離はあるのだが、そこに座っている李斎が酒杯を手に言う。
    「この店は、指向性のあるメニューの種類が多いでしょう。元から中華料理は宗教的な関係でベジタリアンと相性がいいけれど、いろんなお客様のご要望に応えたいと、霜元は特に力を入れていて、仕事仲間にも評判なの」
     元モデルという経歴のためなのか、李斎もある種の除去食を好むと言い、要の偏食と合わせて野菜だけの皿が数多く卓に乗った。琅燦の方は「あたしは肉! 野菜で肉体労働なんかできるかい」と、こちらは驍宗と料理を分け合い「人数が多いとたくさん種類が食べられてお得だ、今日はついてる」と機嫌よく酒を飲み続けている。

    「ご一緒できて、とても嬉しい」
     と、李斎に微笑まれて、要も礼を言いにこにこする。
    「春節って、僕初めてなんですけど、お正月が二回目ってなんだか不思議な感じですね。色々と決まり事があって、…僕、何か失敗や失礼をしていないかちょっと心配ですけど…」
    「大丈夫、そんなに厳密なものではありませんから」
     親しみやすい雰囲気でそう言ってくれるので、要は不思議に思うことをいくつか質問してみたりする。
    「春節って、たくさんの言葉を使いますよね。願い事を表す語句が多くて、…『余剰ができる』という語と『魚』が一緒の音だからって聞いて、不思議でした。言葉が繋がって、意外なものが急に出現するっていうか…魔法の呪文みたいで」
     昨日の夜に食べた花影の錦鯉のケーキのことを話すと、李斎も花影を知っているらしく「ああ、彼女の店も好きです、ケーキとお茶の組み合わせがいつも絶妙よ」と笑み、それから、かけ言葉が使われることについて、
    「音が同じなら言葉と物が意味を通じるとするのは、少し変で呪術的に感じられるかもしれないですね。昔から漢詩には『韻を踏む』という同じ音を使うルールがありますし、同音で遊ぶのが好きなんじゃないかしら。…でも日本人もダジャレが好きでしょう、少し似ていませんか」
     と笑うので、ダジャレですか、と要も笑った。
     だがそこで琅燦が、聞き捨てならない、といった面持ちで振り向いた。
    「ダジャレ? 漢詩が似てるっていうなら、どっちかいうとラップだろ? 」
     そこから怒涛のように勢いは続く。
    「音が同じってもね、ダジャレとは全然違う。母音が同じで子音を変えて押すのが押韻! ダジャレはただ重なるんだ、みんなごちゃごちゃにしすぎ」
     酒のグラスを片手に箸を振って、琅燦は止まらない。
    「いいかい! 『アルミ缶』と『ある蜜柑』は全部一緒の音だろう、これはダジャレ。だけど『ある蜜柑』と『ある時間』だったらさあ…」※
     李斎が琅燦の喋りを「うんうん」と半ば聞き流しつつ、要に「彼女は音楽にも造詣が深いんですよ」と言い、驍宗が後を引き取るように聞き役に回った。何やら、暴走しやすい酔っ払いの扱いに慣れているようだ。と、要は可笑しくなる。
     
    「掛け言葉といえば、…」
    と、要は李斎にもう少し尋ねてみる。
    「縁起のいい言葉を使う、ってことは、逆に使ってはいけない言葉もあるんですよね?」
     李斎は少し考えながら、口を開く。
    「言葉よりも行いの方が多いですが。正月はこの一年を運命づける、とされるので迷信は多くあります。あまり信じすぎるのも良くないですけれど」
     縁起の悪い言葉は日本のお正月に避ける良くない語句とも共通でしょうね、と、具体的には口にしない。
    「行いの方が多い、というのは、やってはいけないことがあるんですか? 」
     要は春節行事のことをよく知らない。この行事の最中に何か重大な失敗をしたりしないように聞いておかなくては、と、真剣に李斎を見つめる。
    「そう、年始は特にものが壊れることを嫌いますね、だから食器などを割らないようにします。それに、口喧嘩、争い事。涙も。その一年を幸せに過ごしたいし、せっかくのお休みですから楽しくやりましょう、ということでもあるんですが」
     なるほど、と要はうなずいた。それには納得がいく気がする。
     李斎は杯を傾けながらまた少し考えて、掛け言葉の例を探したようだった。
    「…ああ。掛け言葉で言うなら、物を限定して避けたりもするんですよ。例えば年始回りに行く時、手土産に時計を贈るのはダメ、とか。傘もダメなものの一つですね。それから、食べ物なら梨」
     梨は秋の行事では贈答に気をつけるようによく言われます、冬には少ないですが、と言う。
     時計や傘、梨が良くないものとは。思いがけない物が登場して、要は首を傾げた。
    「…それが、縁起の悪い言葉に共通するんですか? 」
    「ええ。お葬式を意味する音に重なるので時計はタブーです。それから傘は『散じる』、梨も『離れる』に音が通じるので」
     と、李斎は言って、
    「お正月に限らず、私達は行事のたびに一家が『集まる』ことを良いこととするから、これらは縁起が悪い物とされるんですよ」
     と説明した。
    「集まることが縁起がいい…?」
     不意に、朝の疑問が頭を掠めた。今年は春節を家でやる、と言った彼の、その言葉。
    「…あの」
     要は声を低めて少し身を乗り出した。
    「…驍宗さんって、去年までは春節にはおうちに帰ったり、してたんじゃないんですか。今年は僕がいるから、国に帰らなかったとかなんでしょうか……」
     李斎は眼差しをひとつ瞬かせた。けれど、
    「聞いてみたらどうですか、でもそんなに深刻になることではないですよ。春節休暇は旅行に行って、帰省しない人も多いですから」
     と、安心させるようにも笑って酒杯を干したので、要はそこで恥じるように口を閉ざした。
     主観のみで理由を探したのはひどく自惚れているように思われてしまったかもしれない、と思う。テーブルの向こうでは、琅燦が賑やかにしているから、驍宗は変わらずその相手をしていた。要は完全に視界から外れている。

    「迷信の話に少し戻ってしまうけれど、面白いものを教えてあげましょうか? 」
     李斎が携帯端末を取り出して、黙ってしまった要に画面を見せた。
    「…これは私も初めて知ったから、新しい風習かもしれないけれど」
     写真を主に投稿されるSNS、そこには『♡♡♡ ソファ以外にベッドルームにも貼っちゃった ♡♡♡』と赤色の菱紙を持った女性の自撮りが投稿されている。
    「この『春』の一字を貼ると、その下ではとても個人的な事が許されるらしいですよ」
    「個人的なこと、って……? 」
     言いながら、『ベッドルームにも〜♡♡♡』の書き方で何となく察せられて、要は赤くなる。
    「クリスマスのヤドリギみたいな、そんなことなんでしょうね」
     ふふ、と笑んだ李斎は、要の赤い顔を見ないふりをしてくれたようだった。
    「古いものを取り込んで新しいものを生み出すのは、一度伝統というものが崩れ去った後の長い復興から、さらに未来へ積み上げているようで、いいことだと思うわ」

     (※このセリフ中の語句の例について、こちらの記事の例文から一部お借りしています、ありがとうございます
    https://in-note.com/article?id=1)

        *

    「お客様方、そろそろデザートでいいかな? もう少しゆっくりしていってくれてもいいけど、…」
     個室の戸口によろめいて現れた臥信は、疲労感いっぱいにニコニコする。そういえばずっと姿を見なかったが、その間にランチタイムが随分と賑わったらしい。ちょくちょく琅燦が出入りしていたのはそのせいだろう、酒がなくなると好き勝手に厨房へ行き伝票に追加していたようだった。…現在、卓上には琅燦の前にだけ老酒とビールの瓶が乱立している。
    「おっ お疲れ〜」
    「昼休憩は今からでしょう、ここに持ってきて一緒にどう? 臥信も霜元も」
     琅燦の後から李斎がそう言ったので、臥信がまた手を重ねて「ではありがたく」と一礼する。
     それから臥信は円卓上の空になった皿を引き始め、
    「手伝うよ」
     と、琅燦が手慣れた様子で主に自分の飲み散らかした瓶を盆へさっさと乗せていくので、要は少し狼狽え気味に腰を浮かした。一番の年少者が座っていては良くない、そう思ったのだが。
    「いいよ、座ってなよ。あたしは昔ここでバイトしてたんだ、だから半分自分ちみたいなもんで」
     ここでバイトすると一食浮くんだよ、賄いを出してもらえるから。その分、金が貯まる。そう言って琅燦はにやっと笑い、山盛りの盆を危なげなく運び出していった。
     すぐに臥信がゆるく湯気の立つ鉢を客の人数分だけ並べ、その後からコック服を脱いだ霜元が麺の丼を二つ、持って入ってきた。戸口に近い席へ座り、二人は揃って頭を下げた。
    「お陰様で、初日の滑り出しは上々の上だ。本当に感謝する」
    「ありがとう〜ありがとう〜それ以上に言える言葉がない、本当に」
     琅燦がグラスを掲げ、
    「祝杯だ、乾杯〜!」
     と喚呼して、皆が唱和し、静まっていた場はまた賑やかしくなる。

     温かく香り高いシロップと、柔らかいけれどしっかりした餅に包まれたドライフルーツの風味の合わさった餡、という組み合わせは絶妙で、満腹だったはずのお腹につるりと収まってしまった。キンモクセイってこんな甘い匂いだったっけ、と、要は記憶を探したけれど、あまり強くは覚えがない。それでも、吸い込む胸の内側でそれはどこか感傷めいた気分を引き起こさせ、この香りは確かに自分の思い出の風景にある、と思わされる。
    「ああー またしても昼からよく食べた。夜はちょっと抜くか」
     琅燦が言いながら大袈裟に腹部をさすり、李斎はそれを見て、一食抜くよりジムに行った方が健康的よ、と可笑しそうにする。
    「…よければ長寿麺の自炊用テイクアウト、作ってやろうか」
     麺を切らないように啜り込む合間に、霜元は、まだまだ在庫があるから、と言って、そこで臥信が閃いたとばかりに膝を打った。
    「これさ、茹でた麺とスープで持ち帰りセットも出したら昼に売れないか?」
     今テイクアウト容器の在庫が少ないぞ、と霜元は唸り、
    「やってみてもいい。まず資材調達、出はすまんがお前の接客の腕に頼ることになるだろう」
    「はあいぃ後で行ってきますっ 広報でも何でもやりますし! ほんと申し訳ない! 」
    「ピンチはチャンスとも言う。これを機会に今後につながることも多いだろう。未知ではあるが」
     仕込むスープは倍量で足りるかどうかな、と霜元は疲れたため息をついて、だが、ちらと笑む。
    「明日も忙しいことを祈ろう」
     その姿は動じず落ち着いて見えて、要はしばらくその男振りの良さを眺めた。

        *
    十五時の事件簿
     そんなわけで、デザートとお茶でランチがお開きとなったのは昼もだいぶ過ぎた頃。
    「ハイ、お持ち帰りだよ」
    「こっちはお年賀、お茶だ」
     驍宗と要も琅燦のついでのようにして自炊用セット、つまりは生麺とスープやトッピング類を別々にしたテイクアウトと、それから春節デザインが綺麗な中国茶の包みを臥信と霜元から渡されて、それを手に手に、李斎達と、
    「また会いましょうね」
    「近いうちにぜひ」
     と、手を振り合って別れた。

    「… ちょっと食べに行くくらいのつもりだったはずが、長くなったな。疲れただろう」
     風もなく静かな午後、驍宗が先に立ち、要が後を追うように歩く。店は住居から歩いてそう遠くはない。だが、のんびりと歩いているはずの驍宗の歩幅に要が遅れがちになって、それで驍宗は振り返り、…そこで初めて、要が片足を傷めたと気づく。
    「変な歩き方をしているな。…どこか痛いのか」
    「…あの、…実は、靴擦れに…なって…ごめんなさい、あの」
     晴れ着の一式としてサイズを合わせた黒の布靴を用意されたので、要は当然のようにもそれを履いたのだが、新品の慣れない靴はやはり足には負担だったらしい。歩くたびに踵が痛むのだ。
    「大丈夫、ですから…家まで、あと少しですし」
    「大丈夫ではないだろう」
     電信柱に手をつかされて、片足の靴を取られ、靴下を剥がされる。それから驍宗が要の足に手を添えて靴擦れの箇所をじいっと覗き込んだので、なぜか要は恥ずかしくなった。だが、そんな要をよそに、
    「…とりあえず、傷をこれ以上悪くしないようにしないと」
     うむ、とひとりうなずいた後の驍宗の行動は早かった。片手に靴と靴下、もう片腕で要を担ぎ上げ、近くの公園のベンチまで人目も構わず移動し、そこで降ろす。
    「絆創膏を買ってくる、ここで待て」
     有無を言わせずに踵を返した、その背へ要は制止と遠慮の混じった声を投げようとして、…届かないと思い飲み込んだ。その間にも、急ぎ足の後ろ姿は公園の外へと遠くなって、見えなくなる。
    「……」
     こんなの、少し痛いだけで、…ちょっとの我慢で足りたはずなのに。でも、些細なことだと放置せずに、手当てするものを買いに行ってくれたなんて。何だか嬉しい気もして、要はついさっき大きな手で取り上げられた自分の足を、思い返すように眺める。
     公園は無人だった。葉の落ちた樹梢に青空が透いて、風もなく、午後の日差しは和らぎ、乾いた地面に影を落とし浮いたまま剥き出しの足がひんやりとする。その冷たさは、なぜか薄甘い。
     その冷たさを味わうようにもしていた時。
     ——通りの方で、車のクラクションと同時に急ブレーキの音が響いた。
     
    「…なに、…」
     嫌な予感がした。
     無意識に立ち上がる。吸い込んだ息が、悲鳴にも似て鳴った。
    「事故、…」
     全身がざわりと粟立ち硬直したのは、それが過去に重なるものだったから。
     不安が結像した最悪の想像、それが瞬時に膨らみ爆発するかの如く次々に過去の光景を抉り出した。一瞬の衝撃に散ったガラス片、潰れた車内、染み出してくる鮮血、そして、…家族の生命の音の、失われていく、恐ろしい時間の長さ……病院で手当てされながら抱き続けた儚い一欠片の希望、その剥離を必死に繋ぎ留めた努力、だけど……
     極限に打つ鼓動と呼吸を手で押さえ、うずくまりそうになる。その要に、どこからか見知らぬ女が駆け寄ってきた。
    「高里要君は、君か⁈ 」
     うなずくだけしかできない要に、女は告げた。
    「君の保護者だという人が、事故に巻き込まれた」
     その言葉でこれ以上にないほど凍りついた要を、支えるようにも抱き抱えるようにもして、女は言う。
    「病院へ連れて行ってあげる、さあ来て、急いで」
     真っ白な思考回路では、何も考えられなかった。言われるまま、されるままに、要はフラフラと同行する。自分が片方を裸足でいることすら意識になく、公園の入り口にすでに用意されていた車に不審を抱くこともなく。

        *

     車に乗り込んだ時、変な感じがした。運転席にいたのはアジア国籍に見える黒髪の女性、それがバックミラー越しに濃いまつ毛に縁取られた目を細めて、とても嬉しそうに笑ったのだ。親しげにも。…何か変だ。そう思った時、どさりと隣に乗り込んだ女が腕を組み、前方へと冷たく言った。
    「早く出して。人に見られてもいいの」
     エンジンのリスタートと共に慌てて踏み込まれるアクセル、車の発進と加速は急で、固いシートに押し付けられた要の体は一気に冷たい汗をかいた。あれ以来車は苦手な上に、こんな乱暴な運転で内臓が悲鳴をあげている。
    「…あの。あの、病院へ向かっているんですよね。どこの病院、ですか」
     こんな時に無理やりに作る笑顔は何のためなのだろう。
    「病院へ、行くんでしょう。あの、事故、って……」
     懸命に気分の悪さを抑えつけて尋ねた問いへの返答は、だが、無かった。沈黙で作られる圧力に、要は呼吸を抑えて口をつぐむ。
    「……」
     急速に過ぎ去る窓の景色に焦りを感じる。すでに幹線道路に入って、車は真っ直ぐにどこかへ向かっているようだった。どこへ行くつもりだろう。南には海、それから。
     息が苦しい気がして、試しにすぐ横のパワーウィンドウのスイッチに指をかけたが、ロックされているとわかった。ドアもきっと開けられないだろう。女の注意が向けられたのを感じて素知らぬふりで指を離した。

     ——『家族が事故に巻き込まれたから、病院へ一緒に行こう』なんて、小学生を誘拐する典型事例じゃないか。僕はそれほど簡単に騙されたのだ、と認め難いようにも考える。
     同時に、あの公園で「ここで待て」とベンチを離れていった明るい背中が思考回路に浮かんでくる。事故だと言われたことが全部でたらめであるなら、あの人はきっと無事なのだ。そう思うと変に泣きそうな気持ちになった。交通事故なんて、…それが嘘だというなら、それがよかった、本当に…
     …騙されてしまった僕のことだけは、今、よくないけれど。

    「……」
     けれど、それが嘘であれば、考えるのは自分の身一つだけでいい。
     急に落ち着いてくる。どこへ行くか知らないが、どこかで脱出しよう。無事であることだけは驍宗さんに何とか早く伝えたいけれど…。そう思いながら汗ばむ手でこっそりと探った衣服のうちに、だが、持っていたはずのものは何一つなかった。無音で息を呑む。
    「貴重品は預からせてもらった。用が済んだら返すから、大人しくしてな」
     横目で様子を見ていたのだろう、隣で何か優越感に浸るように女が腕を組んだ内側で胸を寄せ上げて、連動させるように口角を引き上げる。その余裕めいた態度は少し癪に触った。胃が変形しそうだ。
    「…今からどこへ行くんです。僕を連れていく理由は何なのですか」
     バックミラーの中で黒目がちの大きな瞳が無言でまた、ちらと動く。今度の目線は要ではなく隣の女に向けられたようで、それを撥ね返すように女は言った。
    「君の元の家だ。理由は行ってみれば分かる」


     車窓は次第に見慣れた町並みになる。海に面した都市部の外れには新しい建物と古い家屋が入り混じり、再生の進まない滞留を数年経つ今もそう変わらずに残している。それは少し懐かしくはあった。
     運転席から操作して女性が後部座席の窓を少し開けてくれたから、気分の悪さは治まりかけている。代わりに落ち着かない不安が寄せてくるが、それは仕方のないことだと要は腹を括るようにも思い、道の先へ目をやった。いまだ一面の青空。このまま行けば海沿いを走る道へ出るが、そこまでは行かないことを知っている。
     やがて、車は内陸へとハンドルを切った。いくつかの新興ベッドタウンを過ぎ、辿り着いたのは旧道の形が残る混みいった住宅地、そこで車はとある古びた日本家屋の門前に停まった。
    「へえ。これまた随分と大きな屋敷だ」
     女が感情のこもらない感嘆を発する。女はここへ来るのが初めてのようだが、車を降りた運転席の女性は、なぜか自分のキーを差し込み門扉の鍵を開いた。どういうことだろう、と要は少し混乱する。この家について、自分が未成年の間から後見人の管理に任せてあった記憶はある、だが。
     自動ゲートではないから、門扉は手動で押し動かして開かねばならない。その動きは滑らかで、明らかに手入れがされてあるようだった、それと彼女の勝手知ったる様子は関係がありそうだ。
    「…なぜ、彼女がうちの鍵を?」
     そう問いかけるがやはり思ったような返答はなく、代わりに女が決めつけるように鼻で笑った。
    「家に帰るのは久しぶりなんだろう。みんな待っている」
     みんな、とは誰のことだろうと思ったが、あまりに不審さを表立たせることは控えた。少し様子をみようと要は用心深く考える。自分が数年離れていた間にこの家で一体何が行われていたのかを、自分の目で見なければならない。用事があると言った、どんな用件か分からないが、たぶん大人しくしている限り危害を加えられるようなことは起こらないだろうと、これは希望的にそう考える。

     敷地へ車を入れて門を閉じ、おもて玄関をこれまたすんなりと解錠した女性が、さっさと戸口へ先に入り靴を脱いでそのまま上がっていく。その後から、女に引き出されるように車を降りた要は、冷たい地面に触れた足で初めて、片方の靴を脱いだまま公園のベンチに置いてきたことに気がついたが、だがどうすることもできずにそのまま歩いた。
     もはや何もない玄関の敷居をまたぎ、見慣れた場所を見慣れぬようにも眺めてから、たたきに片靴を脱いで、汚れている片足の裏を払い、それから上り框で身体の向きを変え手で靴の向きを直し隅へと置く。
    「…躾がいいね。自分の家なのに客のようだな」
     女が可笑しそうにし、倣うようにして自分の靴を揃え、先に上がっていった女性の脱ぎ放した靴をついでに揃えた。
    「あの人を、不快に思うかい。だが今、この家の守りをしているのは実質あの人だからね。君は感謝するべきだ」
     その声に、雨戸を開ける音が重なる。先の縁側と続き座敷の欄間が次々に明るくなっていく。
    「…あの人は、誰なんです。僕は知らないし、家のことを頼んだ覚えもないのですが。第一ここは」
    「自分で聞きたまえ」
     またも可笑しそうにした女は、背を押して要を進ませた。土を払った片足が、まだ妙にざらつく。

     確かに、家は時々風を通して掃除をされてあるらしく、澱んだ湿気もなく、きれいに見えた。廊下は塵ひとつない。誰も住んでいないのに、ここまでする必要があるのだろうか。何のために。
     そう思いながら明るく日のさす縁側をたどり奥へ向かう、その途中で中庭の光景を目にして、要はぎくりと足を止めた。
    「…どうした」
    「あの蔵……」
     東向きの中庭は、母屋と塀、蔵で囲まれている。その蔵が、記憶の中とは姿を変えていた。
    「壁が落ちている」
     白い漆喰塗りの蔵は元からそう手入れのされたものでもなかった、とは思う。だが今、一部が剥がれ落ち、白地の化粧の下から茶色い土壁をごそりと剥き出しにした蔵は、伸びた植木の向こうに荒んだ空気をまとってそびえている。
     それは、人の手が入り以前と変わらないように見えている母屋の先で、主を失ったこの家が唯一現した傷のようだった。
    「ああ、あれは酷いな、あれだけの蔵を塗り直すのには費用がかかるだろうね」
    「塗り直す…」
     それで直るのか、と思い、傷のようだと思うのなら治すべきだ、とも思うが、要は奇妙な気分で首を傾げる。誰も住まなくなったこの家に、それだけのことが必要になるとは思わなかった。どうせ、空っぽなのに。
     あの管理人だという女性は、今は奥の部屋へ行っているようだ。そこでその話でもするのだろうか、だが人を拉致するような真似をしてまでするべき話とは思えない。
     そう思った時、蔵の横にひらりとしたものがあった。目をやれば、女の腕——白く柔らかな線の光る、裸の腕が、ひら、ひら、と手招いた——そう見えた、と思った時には、老白梅の花弁が、はらり、はらり、と地へ散り溢れるばかり。
     目を見開く。今の光景に何か見覚えがあったような、そんな気がしたのだった。けれど探った記憶の内側は空洞、また奇妙な気分が強くなる。


    続く

    ーーーー

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    Jan 16, 2023 9:17:31 AM

    <乍要> 春節

    人気作品アーカイブ入り (Jan 23, 2023)

    同居してはじめての旧正月を一緒に過ごす、大学生・要くんと社会人・乍さんの話。
    三月に入ってまだ書いています…5.5万字まできました。
    二月、見出しにサブタイトルを仮につけました。何処まで読んだか分かりやすくなったかもです。

    書き途中ですが随時追加しています。
    *春節タブーをいくつも犯していることに気がつきました…できるだけ直しました。寝ている時に起こしちゃいけないタブーは見逃して、寝かせてるので…
    *「春」の一字を貼る新しい迷信ネタは捏造です。(古来色町では玄関にこの一字のみを貼っていたという習俗から借りました)

    ハートたくさんありがとうございます、連打していただいてお陰様で人気作品アーカイブ入りしました!本当にありがとうございます😊


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    #十二国記 #二次創作 #現代パロディ #乍要 #驍泰

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