春休みには <乍要>「おかえりなさい」
いつもより少し遅い帰宅の驍宗を出迎えた小さい要は、パジャマ姿だった。
「戻った。起きていたのか、この時間に」
ともに玄関まで出ていた正頼が薄手のコートやらを受け取りながら、
「驍宗様に『おやすみなさい』を言ってから寝ると仰って」
と言い、要が少し恥ずかしいような顔をして見上げてくるので、笑みとともに抱き上げる。年齢の割に小柄な要は、羽根のように軽い。
「寝ないと育たぬぞ、こら」
わざと軽く揺さぶってやると、要は嬉しそうに笑って、しがみついてくる。柔らかい布地の感触に柔らかい体温、お風呂上がりの石鹸の匂いが仄かに残っている。
「さ、もう寝ろ」
リビングへ行かずに要の部屋へ直行し、遊ばせるようにしてベッドに滑り下ろした。
少し口を開けたが言葉にせずに、要は素直に諦めることに決めたようだった。
「…寝ます。」
小さい宣言で、上掛けの下へ潜り込む。
「プラネタリウムでもつけるか?それとも映画の続きを見るか」
要の部屋は、プロジェクタで天井いっぱいに映像を映し出すことが出来るようにしてある。要の返事を待ってから、驍宗は灯りを消し『春の夜空』のプログラムをスタートさせた。
「おやすみ」
立ち上がろうとした驍宗に、一瞬だけ、要が手を伸ばした。
「……」
すぐに引っ込められた手を、そのまま誤魔化すように左右に振って、要は笑顔を作る。
「…おやすみなさい、」
その仕草が訴えたのは、彼の明かさない寂しさだ。驍宗は瞬きひとつもせずに座り直す。それを見た以上は、何をおいても、しばらくここにいてやらねばならない。
「まだ眠くないのか」
「…眠くないわけじゃないけれど、…ひとりでも眠れますし…」
それでも、手を取ると、小さいその手は温もりながら指を重ねて握り込んだ。それを握り返してやる。この子は少し、我慢をしすぎる。大人びているとは誰もが言い、良い評価としてそれを与えるが。
明かりを落とした部屋にフェードインする音楽がゆったりと響き、天井には幾万の星が広がった。手のひら一つにある温度を感じながら、上を見上げる。滑るように星空が回転し、音声が始まった。
『…この時期の夜空には、三つの一等星であるしし座のレグルス、おとめ座のスピカ、うしかい座のアークトゥルスを結んだ春の大三角形があり、春の大曲線として北斗七星のおおぐま座から…』
再生されるアナウンスを追って天井の星々が順に光ってその位置を教え、線が星々を繋いでいく。ゆっくりとした説明は、眠りを誘うためのプログラムだからだが、驍宗には多少まだるっこしい。
「…本当なら、これほど沢山の星が見えるはず、なのだろうな」
座ったまま天井を見る驍宗は、少し首が痛くなってくる。
「だが、このあたりは星を見るには少し街灯りが多すぎる」
星などほとんど見えない、と言ってもいい。そう驍宗が呟くと、要の少し緩む声がする。
「もっと海の方とか、山の方なら、ほんとに、これくらい星が見えるんですか…?」
ああ、と頷いてやってから、驍宗は要を見た。
「春休みに、見に行くか?」
正頼、と廊下へ声を投げかけると、すぐにはたはたと足音がする。
「星の観察をするのに好い場所を知らないか」
ふむ、と廊下から思案する間を置いて、正頼の声が返った。
「信州でしょうか。天体観測所があるあのあたりなら良好かと思います。遠くでよろしければ、…南方の石垣島あたりでは確か、南十字星も見られるとか…」
「沖縄のさらに先か」
「ええ。石垣島ならよいリゾート施設もありますし、…空きがあるか照会してみましょう」
驍宗の声に乗り気を見た正頼がそれだけ言って戻っていく。
振り返ると、ベッドから要がこちらを向いて目をまん丸くしていた。知らず、驍宗の手を握りしめて、そこだけが汗ばんでいる。
「…春休みに、…連れて行っていただけるんですか」
「うまくいけば、だ」
「南十字星、ってどんな星…?」
そう尋ねながら、見開かれた要の眼差しはきらきらとする。その想像の果てにある星はさぞ美しかろう、そう思って、驍宗はその目元を見、微笑した。
「さて、どうだろうな。このプラネタリウムにも『南国の星空』が入っているはずだが、…見ずにいようか」
はい、と意気込むように頷いた要は、ちょっとだけへにゃりと笑った。
「…僕、楽しみです…春休み」
「そうだな」
さあ寝ろ、と驍宗はプラネタリウムのプログラムが終了する頃合いで、天体シリーズではなく『珊瑚礁の生き物たち』に切り替える。淡い波の音で南国の浜辺の映像が部屋を薄青く染める。要がそれを見上げて、石垣島ってこんな海なのかしら、と小さくうっとりと呟いた。
その時、驍宗の手首から腕時計型のガジェットが時報を知らせる震動が鳴った。
「ああ、もう十二時だぞ、日付が変わった」
「もうそんな時間…! 僕、急いで寝ますね」
あっけなく放された自分の手のひらがあまりにも速く冷えてしまうのを、驍宗はひとり握り込んだ。そして、上掛けの下で身を丸くした要に向かってもう一度、おやすみ、と言う。
「…明日の朝、テーブルに置いておく」
「何を、ですか…? 」
つぶりかけた目を薄く瞬かせた要に、少し悪戯に、驍宗は言った。
「先月の礼だ」
よく分からないように目線を上げた、その白い額の境に、ほんの軽くだけ、唇を落とす。
「お前のくれたチョコはよく沁みた」
ありがとう、と囁くと、少しだけ止まっていた呼吸が崩れるように笑みをはいて、それで要は力の抜けた明るい表情ですうと眠りへ落ちる。
おやすみ、それだけの言葉をもう一度繰り返して、それを見送るようにも見守ってから、驍宗は立ち上がり、ついでに映像のタイマーオフをセットした。部屋の天井いっぱいに、蒼い水中の景色が続いている。揺れる光の網、鮮やかな魚、手に取れるほど近いのに触ることの出来ない生き物たち。それを少し眺めて、部屋を出た。
「驍宗様。宿泊の仮押さえをしておきましたが、御覧になりますか」
「さすがに混んでいただろう」
「正月ほどでは。ま、色々と手を尽くさせて頂きました」
「感謝する」
「おや。要様のためでございます」
「そうだな。…ああ、正頼。ダイビングのライセンスは、そろそろ要も取れる年齢だろう。行くまでにCカードを取らせておきたいが手配できるか」
「もちろんですとも」
「楽しみだ」
娯楽と言ってしまえばつまらないことだが、希望のようにもに明るむ、その光は、少し先の道を開くようにもして、春の色を増したようだった。
(了)
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