月光月明かりの眩しい夜だった。
月夜の光だけでも夜道が歩けそうな程だ。
瞼に当たる光が少し鬱陶しくてクレアは目を覚ました。
開いた窓の隙間から夜風が入り、カーテンを揺らしていた。
そのまま再び眠りにつこうと試みたが、目が覚めてしまったようだ。
寝入る事を諦めてクレアは身を起こすと静かにベッドから降りた。
背中を向けて寝入っているレオンはこちらには気付かず、未だ夢の中にいるようだった。
クレアはリビングでグラスに水を注ぐと、口に含みながら洗面所へ移動した。
鏡を覗き込みながら寝癖のついた髪を手櫛で直すと、ふと自分の胸元に視線が釘付けになった。
紅い跡が付いていたのだ。
キスマークだ。
「やだ…」
クレアは思わずため息を吐いた。
こんな事は初めてだった。
いつもならレオンは痕跡を残すような失態は犯さない。
行為の時に気付かなかった自分にも非はあっただろうか。
止められなかった事が悔やまれた。
後悔と少しの憤りを胸にしたまま寝室に足を運ぶ。
レオンの寝顔はベッドに沈んだままだ。
そういえば今夜は少し様子がおかしかったかもしれない。
疲れているせいだと納得して特に理由は聞かなかった。
彼が話さないのならクレアは特に追求はしない。
それはレオンもまた同じ事で、2人の暗黙のルールでもあったからだ。
「エイダと何かあったかな…」
クレアはベッドに腰掛けて一人ごちた。
その名前は禁句として胸に刻んでいた。
今レオンは眠っているので聞かれる心配はないと思った。
しかしその単語はやはり禁句でしかない。
クレアが口にしても胸が痛むからだ。
レオンがバイオテロの対応に追われ奔走する中で、彼女と度々再会してはまた別れを繰り返している事はクレアも知っている事だ。
それは事実として。
しかし、2人の間に何が起きたか、何を話したのか。詳細を知ることはない。
レオンがエイダに対して特別な感情を持っているのは事実だし、それは昔も今も変わらない事だ。
エイダがレオンをどう思うのかはわからないが、彼との再会が重なる度にそれは偶然とはいいがたく、必然とかむしろ運命的だとすら感じる。
何にしても、2人の関係は曖昧なまま。それでもお互いに特別とする繋がりをずっと持ち続ける間柄なのだとクレアは、思っている。
2人の間に割って入る隙など無いのだと思いながらも、レオンと関係を持ってしまっている自分に、罪悪感がまるでないわけではない。
恋人というわけでもなければ、身体だけの関係だとも、割り切れていない。
公式には友人として、密かに肌を重ねる裏の関係は他の誰も知ることのない事だ。
当然、彼女にも、だ。
知られる事には抗いたい気持ち以外は何も持たない。
彼女の物に、自分が勝手に手を付けているような。
罪悪感がいつも背後にベタリと張り付いているのだ。
ふとベッドが、軋んだ。
背後のレオンが寝返りを打ったようだった。
振り返り、その様子をクレアは静かに見守った。
普段、眠りの浅いレオンがこんなにも深く寝入っているのはやはり疲れのせいなのかもしれない。
その時、カタっと小さな音がベランダから聞こえてきた。
見ると月明かりのの中で、女性がこちらを見ていた。
風で揺れるカーテンの隙間から見つめる目とクレアの視線がかち合った。
ブルネットのショートヘア。
血の気が引くような感覚を憶え、クレアはベッドから立ち上がった。
何処の誰が、とか、どうやってここに、とか、そんな事はどうでもよくて、自分でも説明のつかない感情の波が襲ってきた。
混乱しながらも地面を蹴ってなんとかベランダへ飛び出した。
その人影は既にクレアの存在に気付いていて、慣れた手つきでベランダから飛び降りていた。
「待って!エイダ!!」
クレアはベランダから身を乗り出し、階下へと降り立っていたエイダに向かって叫んだ。
名を呼ばれてエイダはクレアへと顔を向けた。
「…エイダ、よね?お願いだから行かないで。話がしたいの」
自分の声が震えているのがクレア自身にもわかった。
寒さのせいではない。緊張していた。
しばらくエイダは沈黙を守ってクレアを見つめていたが、短く息を吐くとフックショットを放ち、地面を軽く蹴るとベランダの柵を越えてクレアの前に降り立った。
「何かしら、話って」
彼女を至近距離で直視するのは初めてだった。
ミステリアスな雰囲気と背中をなぞられるような、感情を揺さぶられる声色の人だった。
「レオンに用があったの?必要なら呼ぶけど…」
クレアは言いながら息苦しさを感じ始めていた。
違う、こんな事を言いたいんじゃない。
エイダは何も言わなかった。
視線がクレアの胸元を捉えているだけだ。
忘れてた。
クレアははだけたシャツの前を掴んで、紅い痕を隠したがエイダは冷ややかな目で見つめるだけだった。
「レオンとの事だったら、違うから。貴女の思っているような事じゃないから」
自分でも何を言ってるのかわからなくなっていた。
弁解をしてる。何に対して?
恥ずかしくて彼女の目を見ることが出来なかった。
エイダはクスリと笑うと言った。
「クレア・レッドフィールド?」
「私を知ってるのね」
「クリス・レッドフィールドの妹ね。ラクーンシティーの生存者」
一呼吸置いて、
「私の持つ情報は全て有料なの。質問がしたいなら対価が必要よ」
と言ったかと思うと、音もなくクレアに詰め寄り、驚き目をむく彼女の瞳を覗き込んだ。
クレアは仰け反ったが、背中は既に壁についていてこれ以上の後退は不可能だった。
「貴女と彼の関係に興味はないわ。話はそれだけ?」
息が詰まって言葉が出ない。
クレアは無言のままエイダをただ見つめ返した。
「忠告しておくわ。クレア・レッドフィールド。今を楽しみなさい。外の世界は恐怖と混沌に満ちているのだから」
そう囁くと、クレアの唇に自分のそれをそっと押し付けた。
「?!」
逃れようと身をよじるが背後は壁に付いていた。
だがすぐにエイダは離れると、焦るクレアを見てククっと小さく笑った。
「対価を貰っていくわ。ついでに私からプレゼント。レオンには貴女から渡しておいて」
言い放つとエイダは踵を返してベランダの柵を飛び越えた。
クレアも弾かれたように柵に掴まり身を乗り出すが、階下を見渡してみてもエイダの姿は既に消えていた。
息苦しさの限界を感じて息を吐いた。
呼吸するのを忘れていたようだった。
クレアは唇を手で覆うと震える声で呟いた。
「き、キスされた…」
何なの、あの女…!
月に雲がかかり、辺りが漆黒の闇に落ちていく。
エイダの気配はなく、彼女がいた痕跡は欠片も残っていなかった。
クレアの唇に残された温もりと触れた記憶を除いて、だが。
部屋に入るとクレアは窓を閉めた。
心地よかった風が今は肌寒く感じていたからだ。
ベッドに腰を下ろし、今夜何度目かになるため息を吐いた。
と、その時クレアの背後からふいに伸びてきた手が彼女に巻き付くとそのままベッドに引っ張り込んだ。
「…冷えてるな。しばらく離れてたのか?」
うなじに唇が寄せられて、クレアは思わず肩をすくめた。
少しくすぐったい。
「…レオン、起こしちゃった?ごめん。少しベランダに出てたの」
「こんな夜更けに」
「訪問者がいたのよ」
「え、何?」
身をよじってレオンに顔を向ける。
もう眠気は去ってしまい覚醒した顔になっている。
訪問者が誰なのか、既に目星がついている様子だ。
もしかしたら初めての事じゃなかったのかもしれないな、とクレアは思った。
彼女なら行きたい時に行きたい場所へ、会いたい時に会いたい人の元へ行くのだろう。
「誰が来たって?」
「……」
少しだけ悔しいと思った。
彼女は振り回す側、彼は振り回される側の人だ。
今夜はクレア自身も振り回されてしまっている。
レオンの首に手を掛けるとそっと引き寄せて、クレアは唇を彼に押し付けた。
そしてすぐに解放する。
「彼女から」
「ん?」
離れるクレアを追いかけてレオンの顔が近づくので、クレアは手のひらでそれを軽く押しやった。
「誰?」
「エイダ」
伝えるとレオンに背を向けてクレアはベッドに横になった。
「ん?」
背後でレオンが首を傾げているのがわかる。
未だ状況が呑み込めていない様子だった。
「…ん?クレア。エイダとキスしたのか?」
「……」
ギクっと肩が震え、クレアは息を止めた。
レオンとの事で記憶を上書きしたつもりだったが、明らかにエイダとのキスの方がインパクトが強かった。
未だに唇に触れた感触が残っている。
クレアはシーツを握り締めるとそれで自分の唇をガシガシと拭った。
「図星か」
クレアの頭上から覗き込みながらレオンが言った。
顔が熱い。
赤面しているのが自分でもわかる。
背後で押し殺した笑い声が聞こえてきて、クレアはますます赤面した。
「不可抗力よ!」
クレアが叫ぶとレオンはいよいよ声を出して笑い始めた。
「ああ、もう!」
ベッドにうつ伏せになり、枕で頭を埋めるクレア。
早く眠って記憶をリセットしたかった。まさか夢にまでは出てこないだろう。
「からかわれたな」
レオンは近づくとクレアの枕を取り上げ、肩を掴むと自分の方に彼女を向かせた。
「幻か亡霊か、掴み所がなかったんじゃないか?」
もうクレアをからかうような笑い方ではなくなっていた。
同情でもしてるのだろうか。
「…確かに幻みたいだったわ。彼女を捕まえるのは骨が折れそうね」
エイダとのキスの場面がフラッシュバックしてきて、クレアは思わず顔をしかめた。
仰向けになって目を閉じると場面がさらに鮮明に蘇る。
もう勘弁して欲しい。
嫌なのに、まるで不快感がない。そんな自分が不愉快だった。
女の身である自分でこの反応なら、相手が男の場合、確実に彼女の虜となるのだろう。
エイダは女特有の武器を余すとこなく使っている人だ。
レオンだって例外ではない。
「…ふぅん。妬けるね」
「え?」
レオンがクレアに覆い被さるように近づいて来た。
目を開けると彼の顔がすぐ間近にあり、クレアの唇を親指の腹でゆっくりとなぞった。
今夜エイダが触れた場所だ。
「…何、ヤキモチ?」
「まぁね。俺のものに手を出されて面白くはないね」
クレアは胸が焼けるような熱を感じた。
苛立ちと不快感。それから刺すような痛みだ。
女である私に対してまで嫉妬を?
バカバカしい!
彼女の浮気が心配ならさっさと捕まえて檻の中でも大事にしまっておけばいい。
レオンはそのままクレアに口付けるが、クレアは断固として彼の侵入を拒んだ。
唇を彼の舌がなぞり入り口を探してる。
クレアは歯を食いしばった。
「…おい」
レオンが離れた。
せっかくの雰囲気を台無しにされたようだ。
クレアはレオンを睨み付ける。
悔しくて仕方がない。目はもう涙目だ。
彼は彼女の痕跡を欠片も他人には許さない気なのだ。
「何を怒ってるんだ?」
「怒ってるのは貴方の方でしょう」
レオンは視線を外さずクレアを見つめた。
クレアはフンッと鼻息荒く顔を背けた。
「そんなに大事なら誰にも盗られないように箱にでも詰めてしまっておけばいい」
自分でも無茶苦茶な事を言っているのだとわかってた。
それでも言わずにはいられなかった。
「フッ…。それもいいかもな」
レオンは笑った。
それでも彼女は決して捕まらないのだ。わかってる。
「…なあ、クレア」
クレアの目から溢れた涙を指で拭いながらレオンがクレアに囁いた。
「もしかして…」
「…何」
クレアと視線が合うと、レオンは困ったように笑った。
「…無自覚か?可愛いな」
どういう意味だろう。
レオンは再びクレアに口付けてきた。
いつの間にかシャツの中に入り込んでいたレオンの手はクレアの胸をなぞって敏感な頂きをつまみ上げた。
「んぁっ…!」
思わず開口した瞬間を逃さずレオンはクレアの口内に侵入を果たす。
悔しいが、こうなるともうレオンの独擅場だ。
彼の触れた場所が熱を帯びる。
腕や背中、腰。
角度を変えて深くなる口付けにクレアは付いていくのがやっとだ。
対応が慣れないのはレオンと初めて肌を重ねた頃から未だ変わらなかった。
わからないのだ。
単に息継ぎが上手く出来なくて酸素が足りてないのか、それとも彼が与える熱に浮かされ溺れているからなのか。
一旦始まるとレオンはクレアの弱い部分を熟知してたし、スイッチが入ればクレアもその衝動に抗う事は出来ない。
結局彼のしたいようにされてしまうのだ。
「ん…!レオン、待って…!」
「…何?」
行為は止まらない。
レオンはクレアの首筋に舌を這わせた。
「ぁ…、さっき言った言葉の意味は…、ちょっ、ちょっと待って!」
「待てないよ」
クレアの鎖骨までツツツ、と移動するとレオンは口付けを落とした。
「あ!痕を付けないで!それから、さっきの言葉の意味!教えてよ!」
クレアにかぶさるレオンの背中をクレアはバシバシと叩いた。
情事の雰囲気が台無しだった。
「クレア…、後悔するぞ」
顔を上げてクレアを睨み付けるとレオンは彼女の両手の指を絡め取り、頭上にまとめ上げて片手で押さえ付けた。
「さっきの言葉の意味は?」
「情報が欲しいなら対価を払えよ」
エイダと同じ事を言っている。
クレアは苛立ちをおぼえた。
「ああ、それから痕は…。約束は出来ないな」
「なっ…」
クレアが抗議の声を上げるよりも先にレオンは首筋に吸い付いた。
愛撫としては強過ぎる吸着にクレアは舌打ちしたくなった。
朝晩は涼しくなったが日中はまだ暑い日が続いているというのに、明日の通勤服はハイネックが必要になった。
同僚達から何事かと質問される事を想像すると気が重い。
結局その夜は幾度となく攻め続けられた。
体位を変えては貫かれて、思考する事もまともに出来ない程何度も真っ白に弾け飛んだ。
叫び過ぎて声は枯れたし、硬直と脱力を繰り返した下半身はガタガタだ。
疲れ果てて泥のように眠ってしまいたかったが出勤時間まであと2時間しかない。
食欲はなかったがコーヒーだけでも流し込んで頭をクリアにしたい。
クレアは恐る恐るベッドから降りると立ってみた。
下半身の至る所が痛むが何とか歩けそうだ。
ベッドではレオンが静かに寝息を立てている。
彼は今日はオフだと聞いていた。
そんな事も織り込み済みで事に及んでいたのだとしたら…。
…止めよう。
殺気立つ気持ちをため息で吐き出して、クレアは準備に取り掛かった。
付けられた痕はひとつふたつでは済まない予感がする。
しっかりと隠せる衣服を探さないといけない。
やはり昨夜のレオンは怒っていたのだ。
理由はエイダとの事だと思うがどうも引っかかる。
途中、会話が噛み合ってないような違和感があったし、レオンがここまで自分に対して無理を強いたのは初めてだった。
いつもはもっと優しく丁寧だ。
関係を拒絶した事はないが、無理強いはしないでくれてたと思う。
でも昨夜は違った。
紳士的で実直な彼の裏は、荒ぶる感情を飼い慣らしたただの男なのか。
ベランダでまたカタッと何かの音がした。
だがクレアは振り返らなかった。
ブルネットの女に振り回されるのも嫉妬に駆られた男の相手をするのももうごめんだった。
今を楽しめ、とエイダは言った。
彼女は人を振り回して楽しんでいるのかもしれない。
だとしたら、対応はレオンに任せて自分は関わらないのが正しい。
元々彼と彼女の問題なのだ。
2人が今後どうなるのかは知らないけど、それはその時考える事にしよう。
「ふぁ〜…」
欠伸が出た。
ダメだ。思考回路が上手く機能してくれない。
今日は午前中にミーティングが一件、午後には弁護士との打ち合わせが入っている。
率先して仕事をこなしてきたクレアだったが、こういう時に代わりの人間がいないというのはいささか不便だと思った。
とにかく今日という日をなんとか乗り切らないといけない。
未だにベッドで睡眠を貪っているレオンを恨めしそうにクレアは見つめた。
こっちの報復も考えないといけない。
やられっぱなしになんてするものか。
「よし、行こうか」
クレアは自分に喝を入れると部屋の扉を出て行った。