熱に浮かされたのは
あ、ヤバい。
そう思って座りこもうとした瞬間、突然視界が一回転したことに驚いた。鏡に写る、床に横たわるオレ。倒れたのか。そう認識したと同時に、意識が遠のいた。
今日は四限の授業がはやく終わり、自習にすると言って先生は出ていった。昼休みまで時間があるしバレなきゃいいだろうと、ジュンは教室を出てレッスン室へ向かっていた。昨日はEdenの新曲の振り入れだったのだが、そこでどうしても苦手な振りがあったのだ。まだ振り入れ初日。焦ることもないと頭では分かっていたが、レベルの高いパフォーマンスの為にはつべこべ言っていられない。おひいさんは何度も細かく指導してくれたし、ナギ先輩も「焦らなくていいよ」と言葉をかけてくれた。帰り際、茨も「振りは一晩寝れば入ってることの方が多いですよ」となんてことの無いように言っていたから本当にそうなんだろう。だからこそ、放課後のレッスン前に再度確認しておきたかった。
レッスン室に入る。電気を付けたその時、ズキン、と頭が痛む。
(あーくそ、またか……)
こんな時に限ってタイミングが悪い。実は今朝から、時折頭痛が襲っていた。先程の授業では治まっていたので、もう大丈夫かと油断していた。普段から頭痛持ちな訳でもない為生憎薬を持ち歩いたりなどしていない。
(……そのうち、治るだろ)
と、ジュンは制服からレッスン着に着替えアップをし、振りの確認をしはじめた。
二十分ほど経っただろうか。良かった、茨の言う通りだ、昨日より大分振りが入っている。今日の放課後もこなせるだろう。昨日ほど遅れを取らないはずだ。
「……あ?」
ほ、と安堵した瞬間だった。突然、立っていられない、と思った。思わずしゃがみこもうとした瞬間、視界がぐるりと回った。
「っ……!」
ドン、と肩を床に打ち付ける。頭を守れてよかった、とぼんやり思う。鏡に写る自分の顔色が異常なことにその瞬間まで気づけなかった。はあ、と漏れた呼吸が酷く熱くて驚く。ぐらぐらと回る視界の中で、窓から太陽がさんさんとしているのが見えた。直射日光を頬に感じる。対する背中を伝うの汗の、冷りとした感覚。これ絶対、おひいさんに叱られる……。きらきらとした太陽に照らされながら、どろりと意識が遠のいた。
ゆるりと目を覚ますと、保健室の無機質な天井を背景に二つの大きなアメトリンがオレを覗き込んでいた。いつもは輝きに満ちているそれが、なんだか曇って見える。
「ジュンくん!大丈夫?」
「おひいさん……?」
「少し、起きれる?お水飲もうね」
おひいさんの手には、購買に良く並んでるペットボトルが一本握られている。
「え、あ、あの…」
「覚えてないの?ジュンくん、レッスン室で倒れてたんだよ。」
ほら、と体を起こされる。飲める?と手早くペットボトルのキャップを開け、口に付けられた。
「あ、じ、自分で飲めます。おぼえてます……んぐ」
ペットボトルを傾けられ、こく、と水を飲む。冷たい水が喉を通る感覚が気持ちいい。
「これ、おひいさんが……?」
「お水のこと?そうだね。」
聞くと、共に昼食を取ろうと約束していたにも関わらず昼休みになっても迎えにこないオレを探してくれたらしい。教室の次にレッスン室を見に来たらジュンが倒れていて、日和が保健室まで運んだという。
「あの、オレ、すんません……」
「もう、謝罪はあと!はい、もっかい寝て。お熱はかるよ。」
てきぱきと布団を剥がれ体温計を脇に差され、されるがままになる。いつもオレに色々、というよりも全てをやらせるおひいさんが、オレに世話を焼いている……。目の前の光景が半ば信じられなくて、思わずぽかんと、伏せられた長い睫毛を見つめてしまう。瞬いたそれがこちらを見やる。
「ジュンくん、今絶対失礼なこと考えてるでしょ」
「そっ……んなことねぇ、っす」
「……んー、まだ高いね」
ピピ、と鳴った体温計を見ておひいさんが神妙な顔をした。
「ジュンくん、汗びっしょりだから着替えた方がいいからね。一緒に寮に帰りたいんだけど……歩ける?」
いつもより存分に静かで優しい声に、少し戸惑う。
「え……あの、おひいさん授業は……?オレ、ひとりで帰りますよぉ」
「も〜〜…そんなことさせれる訳ないでしょ?まだ人の心配するの?」
綺麗な顔の眉間が、ム、と寄せられた。ジュンの額に張り付いた前髪を指先で分けながら、日和は再度問う。
「授業は大丈夫だから。レッスンも今日はおやすみ。毒蛇には連絡したからね。辛いならもうちょっとここで寝ても良いけど、どうする?」
額に触れる手が冷たくて気持ちいい。思わず目を閉じた。少しだけ、その指先に擦り寄って甘えてしまいそうになる。
「大丈夫です……かえります」
「そう、じゃあ行こうね。」
おひいさんはオレの荷物も纏めておいてくれたらしい。2人分の荷物を持って、起き上がるのを手伝ってくれた。保健室の先生に挨拶して校舎を出る。若干足元がおぼつかないオレの手を、おひいさんはぎゅっと握ってくれていた。
「あの……怒らないんですか……?」
ずっと気にしていたことを聞く。おひいさんに拾われてから、風邪をひいたことは一度もなかったから完全に油断していた。倒れた時も、真っ先におひいさんの顔が浮かんだ。体調管理を怠っていたこと、叱られるのではないかと思ったのだ。
「……怒らないね。それより、いつから具合悪かったの?」
繋いだ手が、じんわりと温かい。
「えと……多分今朝から、す。」
「もう……なんで言わないのかなぁ。気づけなかったぼくにも責任があるけど、これからはちゃんと、少しでも何かあったら言って?」
ちょっと不満げに、その後優しく微笑まれる。その目は心配しているようだけど、オレを安心させようとしてくれているのが伝わった。
「これは……ぼくたちがEveだから言ってるんじゃないよ。巴日和が、漣ジュンくんに言ってるの。」
「……というと?」
ユニットメンバーだから言っている訳ではないというのは分かったが、真意が分からず問い直す。ふんわり笑っていたかと思ったら、また眉間がきゅっと寄った。ぺちん、と強めのデコピンが飛んでくる。
「ってぇ!病人なんすけどぉ!?」
「知らないね!ジュンくんの鈍感!」
「はあ……!?」
意味がわからない。しかも、繋いでいた右手でデコピンされたことによって手が離れてしまった。そんなことに寂しく思うなんて、オレは相当、熱で弱っているみたいだ。
部屋に帰って着替えを済ませ、おひいさんのベッドに横になる。申し訳ないと一度は断ったが、二段ベッドの上だと看病しづらいし、何かあっても困るからと言われてしまえば借りるしかない。看病してくれるつもりなのか……?なんて思っていたら、おひいさんが自身の主治医を呼んでくれた。軽い診察を受けて、季節の変わり目によるただの風邪だと診断される。金持ちは家に医者を呼べるのかと関心してしまう。
「ジュンくん、疲れてたんだね。ゆっくりおやすみ。」
考えてみたら、Edenに加入してからはもうずっとバタバタしていた。三人に追いつくのに毎日必死で、疲れも溜まっていたのかもしれない。おやすみなさい、ありがとうございます、そう言おうとしておひいさんの顔を見る。もう視界はぼやけていて、何も言えないままジュンはストンと眠りについた。
熱特有の、悪夢を見た。
父親が暴れている。子供のとき、熱を出すとしょっちゅう見ていた悪夢だ。久しぶりに見るものだった。あぁまたあの夢だ、と認識はしているのに、体をの震えは止まらない。震える体は、徐々に本当に子供になっていく。手がどんどん幼く小さくなるのに対し、益々震えは大きくなるのが怖くて怖くて呼吸が荒くなる。怒鳴り声が木霊し、涙で膝が濡れていく。はやく覚めろ。こんな夢。覚めろ、覚めろ……と体を小さく縮こませていると、何かが自分の頭をふわふわと撫でた。何度も見ている夢でも、こんな事は初めてだった。驚いて顔を上げると、暗闇の中に眩い光があった。高くて遠い、太陽のような。今日、倒れた時にも見えたような、一筋の光。まぶしくて、すっと目を細める。
ふわり、と意識が浮上する。ゆっくりと目を開けると、おひいさんがオレの髪をふわふわと触っていた。
「おはようジュンくん、ご飯食べれそう?」
おひいさんだ……と、ぼんやりと見つめる。なにか悪い夢を見ていた気もするが、気のせいだろうか。もう、忘れてしまった。おひいさんの綺麗な指が伸びてきて、オレの目尻を優しく拭った。
「おかゆ、作ったんだけど……」
「……えっ!?おひいさんが?お粥?まじすか?」
「何その反応!馬鹿にしてるよねジュンくん!怒るよ!」
「た、たべる、たべます、はらへった」
ほかほかのお粥をふぅふぅと冷まして、口に運ぶ。ちょっとしょっぱいような気もするが、温かくてさらさらで、心までポカポカと温まる。いつの間にか、額には冷えピタまで貼ってある。なんだかすごく大切にされている……ような。
「美味しい?」
「美味しいっすよぉ……ちょっとしょっぱいすけど。」
「あっ、やっぱり!?むぅ……」
お塩がぼくの意思に反して勝手にちょっと多く出たんだよね、ほんっと腹が立つよね、なんて言い訳を続ける。ころころと変わる日和の表情とおかしな言い訳に、なんだよそれ、とジュンは思わず顔を綻ばせた。
ぱくぱくとお粥を食べ進めるジュンに、食欲があるようで良かったと日和は一人安心していた。食欲があれば、薬も飲めるし楽になるのもきっと早いだろう。
「ご馳走様でした。ありがとうございます」
「はぁい、お薬も飲もうね」
お行儀よく手を合わせるジュンに、薬と水を手渡す。
「ゲ、粉かよ……」
「あ〜っ!文句を言わない!」
嫌そうに顔を顰めるジュンに薬を飲ませる。にげぇ、と舌を出すジュンが子供みたいで可愛くて、思わず声を上げて笑う。日和が笑うと、ジュンは今度は気恥ずかしそうにコップの水を飲み干した。ころころと表情を変えるジュンは先程より少し元気そうで、日和は安堵する。
倒れているのを見つけたとき、心臓が止まるかと思った。いつからかジュンが愛おしくて仕方なくなっていた。相棒として、後輩として、ユニットのメンバーとして。自分に追いつこうと必死になっているのはよく分かっていたし、口には出さずとも努力も実力も認めていた。
だがそんな建前よりも、巴日和自身がジュンを酷く気に入ってしまった。強く真っ直ぐな男の子。自分を見つめる力強い二つの黄金が、出会ってすぐに、純粋に好きだと思った。燻った学園の中でそれは、一際綺麗に輝いていた。
横たわって応答のないジュンを真っ先に抱き抱え、保健室に走った自分に後々驚いた。人のためにここまで体を動かしたのはいつぶりだったか。ジュンをベッドに寝かせ先生に任せた後、茨に連絡しようと廊下に出た。窓に写ったその時の自分が、スマホを片手に酷く動揺していることに気づいた時は思わず笑ってしまった。拾ったハイエナに自分の心を奪われていた自覚はあったが、まさかここまでとは思っていなかったのだ。
薬を飲んで横になり、再度ウトウトしてきたジュンに声をかける。
「ジュンくん、寝る前に約束して。これからは無理はしないこと。」
「う、はい……迷惑かけてすみません……」
ジュンが申し訳なさそうな顔をする。レッスンも中止にしちまって、茨とナギ先輩にもあやまらねえと、とふわふわと続けた。なんと言ったら、伝わるか。
「おひいさんも、色々と、すんません……」
「……ううん、それは今はいいね。ジュンくんが、自分の体をもっと大事にして欲しいの、分かる?」
「大事に……」
眠たそうに、ぼんやりとしているジュンの手を柔く握る。
「そう、ぼくの大事なジュンくんを、ジュンくん自身ももっと大事にしようね。」
「ぼくの…ん?おひいさんの…?」
ジュンは、握られた左手を右手で更に包んだ。
「そう、ぼくの。」
ジュンは、日和の手を自分の頬に持ってきて頬擦りをした。頬が、熱い。
「あぁ、オレの……」
半分ほど閉じている重たそうな瞼が、一度、二度、瞬かれたかと思うと、ほろりと雫が零れ落ちて日和はぎょっとする。先程魘されていた時も、ジュンは泣いていた。涙を見るのはそれが初めてだったのだ。
「おひいさん、おれ……」
「……うん、なぁに?」
──おひいさんに出会えて、よかった。殆ど眠ったまま、ジュンはそう呟いてすこし笑った。そこからは衝動だった。堪らなくなって、気付いたら日和はジュンの唇を奪っていた。頬に手を添えて、ちゅ、と一つの優しく噛むようなバードキス。風邪がうつるかもとか、驚かせるかもとか、こういうのは段階を踏んで、だとか。考える余裕はひとつも無かった。唇を離してから、自分でも驚いて目を見開いてしまう。
「……へっ。えっ、今……」
ジュンの驚いた顔が、目前にある。
「うん!おやすみ!ジュンくん!」
見開かれた瞼を手のひらで上から撫でて無理矢理閉じさせる。ジュンは置かれた手のひらの熱を感じた。冷たくて気持ちよかったそれが今は熱い。オレ、眠たくて、何か恥ずかしいこと言った?いや、それより、今、唇に……?
日和はパッと手を離すと食器を纏めてスタスタとキッチンの方へ消えてしまう。
「えっ……」
食器を持ったまま歩く日和の耳がほんのり赤いことに気がついてしまい、心音が跳ね再度呆けた声が出る。今のはなんだ、と問てやりたかったが、熱に侵された脳は上手く動かない。薬が効いてきたのか、また睡魔も襲う。
「お、おひいさん〜……」
なんとか口を動かして名前を呼んだ。どうやら本当に熱でダメになっているらしい。行ってしまっては寂しい。眠るとき、近くにいてほしいと思った。
「……なぁにジュンくん。」
少し気まずそうな顔の日和が戻ってきてヒョコと顔を出す。
「ん〜……」
重たい瞼を抱えて、日和に向かってジュンは片手を伸ばした。
「……まったくもう、ジュンくんは甘えたさんだね」
その手を取って、ベッドの横に座り込む。ぎゅっと握った互いの手が熱いのは、風邪の所為なのか、はたまたそれとも。
「おやすみジュンくん。……なんにも心配しないで。ゆっくり眠ればすぐ良くなるよ。」
日和の声が柔らかく届く。はい、と返事が出来ただろうか。ジュンはまたすぐに、暗闇の世界に沈んだ。その日はもう、悪夢を見ることはなかった。
───目を覚ましたジュンが不躾にもキスの意味を問いただし、ヤケクソの二度目のキスを食らうまで、あと数時間。