これが夢なら良かったのに 弐※前回に引き続き、捏造過多です。
それから幼児に成長し、たみおの自我が目覚めるまで、安実は細心の注意を払いながら、生活した。幸い、大学教授であるたみおの父親は、あれ以来多忙なせいで、家にいることは少なくなったが、それでも彼女にとっては最も注意するべき人物だった。普通の赤ん坊に見えるように努力をすればする程、それ以上に注意深い父親の目には異質に映ったようだった。いつしか、彼はたみおに対して健康と勉学に励むよう願い、特に食生活には注意を払うよう、妻であるたみおの母親に口を酸っぱくして言っていた。
安実の日々の練習の成果か、未だ掴まり立ちからは卒業できないものの、移動はだいぶ楽になってきた。簡単な単語なら発音できるようになったが、それでもいきなり流暢に話すことはできない。それはたみおのことを思えばこそで、安実はもう少し待つしかなかった。
たみおが四歳になった頃、彼は最初に安実を認識した。初めは夢の中、夢の中ではたみおは流暢に話すことができた。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんは夢の中でも、夢の外でも、いつもいるねぇ」
小さな足でとてとてと歩いて来て、目の前にちょこんと座ったたみおはそう言った。その健気な姿があまりにも可愛くて、安実はたみおの前ではいつもにこにこと微笑んでいた。しかし、彼らの間では、異質な認識の差があった。
「お姉ちゃんは、どうしていつもお顔が無いの?」
ある時の夢の中、たみおはくりくりとした大きな丸い目を不思議そうにぱちくりさせて、訊いてきた。その時、安実は漸く理解した。今まで時折、たみおが見せていた不思議そうな顔は、彼が彼女の顔を認識できていなかったせいだと。確かに今まではたみおを守るために、彼の母と同じように彼女も必死になっていたせいで、自分の存在について考えられなかった。そして今、彼が成長し、身体の主導権を譲って少し余裕ができてきた頃、彼女は自分の存在に不安を感じ始めた。自分は本当に元の身体に戻れるのか、たみおの身体の中で消えはしないか、これからも変わらず、ここに存在できうるのか。一度考え出すと、不安と恐怖に押し潰されそうで、胸が苦しくなる。息が詰まるような感じがして、安実は胸を押さえて涙を流した。それを見たたみおはぎょっとして、彼女の腕に触れる。
「お姉ちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
あわあわと慌て出すたみおを、安実はぎゅっと抱き締めた。魂だけの存在となっても、誰かの温もりを感じたかった。抱き締められたたみおは、途端に大人しくなり、安実の肩をぽんぽんと叩く。
「痛いの、痛いの、飛んでけー。お空に飛んでっちゃえ」
何度も何度もそうおまじないをしてくれる弟を、安実は言葉も無く、ただ抱き締め、彼の優しさに甘えるしかなかった。
安実が落ち着いてきた頃、解放されたたみおは再び「どうしたの?」と訊いてきた。自分よりずっと年下の男の子に縋り付いて泣いてしまった羞恥心を感じながらも、安実は正直に自分の気持ちを吐露する。弟の手本となるよう、誠実を心がけようと思ったためだ。
「あのね、本当はお姉ちゃん。別の場所から来たんだよ」
「うん、知ってるよ」
あっさりと言われたことに安実は驚き、たみおを見る。たみおはにっこりと笑って、口にした。
「夢の世界から来たんでしょ? 僕、知ってるよ」
予想していた答えに、安実はショックを受けるより却って微笑ましく思えた。
「違うよ。お姉ちゃんは、ほんとはね。別の世界から来たんだよ。ずっと遠くの世界から。ほんとはたみおとも会えなかったの」
本当は会う筈も無かった。たみおの身体に宿ってもう三年になる。安実はまだこれが夢だと思える程、鈍くはない。たみおには、まだ少し難しかったらしく、「そうなの?」と依然として不思議そうな顔をした。
「だから、私。元の世界に帰りたいの。たみおのことは心残りだけど、でも……」
待ってる家族がいるからと続く筈だった言葉は、たみおの泣き声に掻き消される。今度はたみおが安実に縋り付いて泣いた。
「やだ! お姉ちゃんがどこか行っちゃうなんて、やだよぉ! 行かないで、お姉ちゃん。行かないで」
ぎゅうと生身の身体があったら、痛いくらいに腕を掴まれ、泣き付かれる。流石に四歳のたみおには受け入れがたかったようで、まだ早かったかと、安実は少しの罪悪感に似たものを感じた。腕を必死に掴んでいるたみおの手をそっと放させ、今度は包み込むようにして抱き締めてやる。
「ごめんね。変なこと言って。どこにも行かないよ。たみおを置いて行ったりしないから」
ぐすぐすと流れる涙を拭いながら、たみおは安実を見上げる。その目には未だ不安の色が見えた。
「ほんと? ほんとにどこにも行かない?」
「うん、ほんと」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとだよ」
そう安実が言うと、たみおはぱあっと表情を輝かせ、涙で目を腫らしながらも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、約束しよ」
目の前に差し出された小さな小指に、安実は「良いよ」と言って、自分の小指を絡ませる。
「ゆーびきーりげんまん。嘘吐いたら針千本のーます。指切った」
指切りをした後、たみおは安実の名前を知らないことに気付いたらしく、はっとした顔をして訊いた。どこか抜けている弟に、安実はまた微笑んだ。
「私は安実だよ。これからもよろしくね、たみお」
夢から覚めると、たみおはいつの間にか泣いていることに気が付いた。とても怖い夢を見た。安実がどこかへ行ってしまうと言い出す夢。目を擦ると、また一筋、涙が流れる。
「おはよう、たみお」
いつものように頭の中で安実の声がした。姿は見えないけれど、安実の声だ。たみおは母のいない、一人きりの部屋で「よかったぁ」と安堵した。
「さっきはごめんね。泣かせるつもりは無かったの」
「ううん、いいの。だいじょうぶ。ねぇねぇ、これからは『あみちゃん』って呼んでいい?」
子供らしく可愛らしいお願いに、安実は「もちろん」と承諾する。たみおはすっかり機嫌を良くして、ベッドから出た。そのまま着替えもせずに部屋を飛び出し、母の姿を捜す。何人かの使用人達に母の居場所を訊いたが、着替えさせられそうになると一目散に逃げ、漸く母の姿を見つけるとたみおは抱きついた。母は丁度、居間で編み物をしているところだった。
「あら、たみおさん。どうしました? 寝間着のままじゃないですか」
「あのね、おかあさん。ぼくね、さっき、おねえちゃんのおなまえ、おしえてもらったの!」
それだけ聞いても、彼の母は話が見えず、不思議そうに首を傾げる。
「まぁ、お姉さんって誰です?」
「あみちゃんだよ! あみちゃんね、ぼくとずっといっしょにいてくれるっていってたの」
それを聞くと、たみおの母はにっこりと笑って、彼の世界を肯定した。
「まぁ、お友達ができたんですねぇ。たみおさん、お友達は大事にしなければなりませんよ」
「どうして?」
「お友達はいつか、あなたの助けになってくれるからですよ。あなたが辛い時や苦しい時、寂しい時、お友達がいれば相談もできるし、一緒にいれば寂しさを分け合うこともできるからです。もちろん、楽しい時も人数が多ければ、それだけ楽しいことが倍になりますよ」
たみおは母の言っていることを聞きながらぽかんとしていたが、彼なりに吟味し、理解したらしく、「じゃあ、いいこと?」と訊いた。
「ええ、もちろんです。学校に行くようになったら、もっと沢山お友達を作りなさい」
「はぁい、おかあさん。ね、あみちゃん。おともだちだって」
「うん、そうだよ。私とたみおはお友達」
安実がそう言うと、たみおは噛み締めるように「うれしいねぇ、うれしいねぇ」と喜んだ。虚空に向かって話し、くすくすと笑う息子の姿をたみおの母は微笑ましくも、少し心配そうな顔で見ていた。
「たみおの様子がおかしい?」
その日の夜、たみおの母は夫に彼のことで相談した。たみお本人はもう寝てしまっている間だった。疲れているであろう夫は、たみおのことになると顔つきが違った。疲労を露わにしていた表情から一転して、真剣なものになる。お茶を淹れながら、妻は昼間あったことを話した。すると、夫は安心した顔になって笑いながら説明する。
「ああ、それはだね。ああいう年頃の子は、みんな架空の友達を作るものさ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。たみおはきっと早熟しているのだろうね。お姉さんの友達だなんて、やるじゃないか」
「まぁ。お下品ですよ、あなた」
夫婦の他愛の無い話。二人の間ではそれだけで済んだが、喉が渇いて起き、廊下から会話を聞いていたたみおは違った。詳しい意味は分からなかったが、持っているニュアンスから何となく意味を察し、父の話に衝撃を受けていた。
「かくう……」
それから二人に気付かれないようにそっと寝室へ戻り、安実に訊く。安実はどうやら眠っていたようで、彼の声に気付くと、いつものように「なぁに?」と言った。
「ねぇ、あみちゃん。かくうってなぁに? どういういみなの?」
「かくう? うーん……あ、『架空』かな? えっとね、たみおに分かりやすく説明するとね。『架空』っていうのは、要するに嘘ってことだよ」
「え? ……うそ?」
「うん。ほら、たみおが読んでる絵本もそうだよ。前に一緒に読んだよね。大きな竜と男の子のお話。あのお話はね、誰かの頭の中で出来たお話で、本当のことじゃないんだよ」
その説明が、どれ程たみおの心を抉っただろうか。つまり、父は安実のことを嘘だと言ったのだ。
「ちがう……」
「どうしたの? たみお」
「ちがう、ちがうよ。うそなんかじゃない」
違う、違う、違う、違う、違う。何度も頭の中で「違う」と否定し、遂にたみおの中で悲しみとなって爆発した。
「ちがうっ! ちがうよぉ! ぜったいちがう! うそなんかじゃないもんっ。ぜったいちがう!」
「たみお、どうしたの? 落ち着いて……」
ひぐひぐとベッドに顔を埋め、両親に分からないよう声を殺して泣き崩れるたみおに安実は心底戸惑い、声すら掛けられずにいた。