これが夢なら良かったのに 参※捏造しかない
あれから六歳になったたみおは、尋常小学校へ行くようになり、何人か友人を作った。安実は変わらず、彼と共にいられたが、彼女の方から極力会話はしないようにしていた。自分はたみおにとって、これから邪魔にしかならない。それなら、彼の意識が眠っている間、または無意識下に入り込んで、めぼしい資料を集めるしかないと思っていた。
本来なら、友人達と接するうちに空想の友達とは関わりが減っていくが、たみおはそうではなかった。四歳の時、両親に彼女の存在を否定されてから、たみおは安実の存在を隠すようになった。相変わらず、夢であったことを人前で話してはいたが、彼女の話だけはしなかった。彼は自身の友人達にも訊いてみたが、皆空想の友達とは縁を切っていた。安実の味方は自分しかいない。いつしか、たみおはそう思い込むようになった。
学校でのたみおは、ある意味で一目置かれる子供だった。夢であったことをまるで現実であったことのように話す彼は、少し変わった男子として認識されていた。しかし、子供同士ではそれだけで済むことが大人の目から見ると、心配の種であった。子供の世界では、少し変わった面白い奴でも、大人から見れば、ただの現実と夢の区別が付いていない危なっかしい子供だ。何度も担任の教師からたみおの母へ、病院に通わせた方が良いと遠回しに言われていた。母も教師の言いたいことは薄々感じていたが、父が認めなかった。
「たみおは精神異常ではない。うちの子に限ってそんなことがあるものか」
皮肉なことに、大学で心理学を教えている父が一番たみおに関しては盲目的だった。父はたみおが四歳の頃と変わらず、食事に気を配り、毎日勉強させるよう口を添えた。しかし、母がどんなに言っても、たみおは机に向かってぼーっと何かしら考えるようになり、勉強には一切手を付けなくなった。机に向かっている間、彼は何をしていたのかというと、ひたすら安実と会話をしていた。
「たみお、勉強しなくていいの?」
彼女がやんわり問うと、たみおは当たり前のことのように「うん」と言った。
「べんきょうしたって、なんにもならないもの。あみとはなしているほうがたのしいし」
「気持ちは分かるけど、学校で分からないところがあったりしたら……」
「学校のべんきょうなんて、かんたんだよ。しゅくだいはもうおわっちゃった。おかあさんはもう一つ上の学年のべんきょうをしろっていうんだもん。そんなことより、あみとはなしてたい」
「……ごめんね」
何か思い詰めたように謝る安実に、たみおは不思議に思った。
「どうしてあみがあやまるの?」
「あのね、たみおが期待されるようになったのは……多分、私のせいなの。私、たみおがまだ赤ちゃんだった頃、歩く練習とか話す練習、沢山してて……他の子より、早くできるようになりたくて、必死になってた」
「……かえりたかったから?」
「……うん。ごめんね。一度、お父さんにバレそうになった時、誤魔化しきれなかった。本当にごめんなさい」
今更、謝っても仕方のないことかもしれない。安実が謝ったところで、父のたみおに対する認識や評価が変わる訳は無い。それでも、彼女は謝りたかった。少なからず、彼の人生を邪魔したのは事実だ。しかし、たみおは許してくれた。
「いいよ、べつに。あみがいてくれるなら、ぼくは大じょうぶ」
そう言って微笑むたみおに、安実はいくらか救われた心地がした。
※※※
「なぁなぁ、たみお。あのはなししてくれよ」
学校での昼休み。昼食を食べ終わったたみおの机に、あまり話さない男子が何人か集まって、そんなことを言ってきた。皆、一様ににやにや笑いを浮かべている。何だろうと思ったたみおだが、特に何を考えた訳は無く、夢の話かなと思い付いた。
「いいよ。きのうはね、あみといっしょにうみの上をじてん車ではしったんだ。まっさおなうみがどこまでもつづいてて、すごくたのしかった。とちゅうでね、おとうさんをのせて大きなてっとうのとこまでいったんだよ。あかいてっとうでね、みたことないくらい大きいんだよ」
そう言って楽しそうに笑うたみおに、男子達はもう我慢できないと言うように噴き出して笑った。
「ほら、やっぱりうそつきだ。かずおたちのいったとおりだっただろ?」
「ほんとそうだね。こいつはとんでもないうそつきだ」
馬鹿にしたように笑う男子達に、たみおは急速に気持ちが冷めていくのを静かに感じていた。ああ、こいつらも同じか。僕の世界を否定するんだな。笑われているたみおを後ろの方から、冷めた目で見ているもう一人のたみおがいた。かずおというのは、たみおが三番目に仲良くなった子だった。
それからはどう過ごしたか、たみおはよく覚えていない。気が付いたら、下校の時間になっていた。もしかしたら、午後からは安実が代わってくれたのかもしれないが、彼女に確かめても「交代していない」と言った。
「じゃあ、ぼく。ずっとぼーっとしてすごしたんだね」
「うん……ねぇ、たみお。もう止めようよ。夢の話を人にするの」
重い口を開いた安実は、そう言った。声色と気配で痛ましく思っているのは、明らかに分かった。しかし、いきなり、そんなことを言われてもたみおは簡単に承知できない。
「どうして? どうしてそんなこというの? あみはぼくがきらいになった?」
「そうじゃなくて、もっと夢の世界の外にも意識を向けようよっていう話をしてるの。たみお、このままじゃきっと残った友達もいなくなっちゃうよ。今はまだ良いかもしれないけど、でもね……」
「いやだ。むずかしいはなししないで。だって、どうせみんなあみのこともいないっていうんだ」
「たみお、聞いて。私はね、たみおに幸せになって欲しいの。普通の幸せを掴んで欲しいの。そのためには私から離れなくちゃ。だから……」
たみおは自分の耳を塞ぎ、安実の言葉すら遮断しようとする。そんなたみおに安実は言い聞かせるように、自分の気持ちを伝える。
「これ以上、たみおの身体にいる訳にはいかないよ。私がいれば、たみおは他の人に興味を持たないでしょう? それじゃ、ダメだよ。現実の友達と遊ばなきゃ。たみおにはまだ難しいかもしれないけど、人間関係って大事なんだよ。友達がいれば、いざという時、助けて貰えたり、誰かの助けになったりできるんだから」
「……あみのいってること、よくわかんないよ。あみとおわかれしなくちゃいけないの?」
「……うん、そうだよ。もう私達、そろそろお別れしなくちゃ」
「………………いやだ」
「たみお、でも……」
「あみがいなくなるなんて、いやだ。ぜったいにいやだ。ぼく、それだけはいやだ」
それまでどこか冷めていたたみおの表情は、急に恐怖に支配されているような、強迫的なものに変わる。安実はその表情から、彼の今の心情が分からず、少し心配になる。
「たみお……? 大丈夫?」
ぶつぶつと口の中で何事か呟きながら歩くたみおの姿に、安実は一抹の不安を覚え、どうしたらいいのか分からなかった。
※※※
同じ頃、たみおにはもう一つ衝撃的なことがあった。と言っても、今度は嬉しい出来事だ。無限列車の開通式があって、それが丁度近くの駅で行われることが分かった。近所の子供達は皆開通式を楽しみにしており、学校でもその話で持ちきりだった。たみおも例に漏れず、その開通式を観に行くことになっていたが、彼はあまり興味が無さそうだった。
しかし、開通式当日。無限列車を見た瞬間、彼の中に衝撃が駆け抜けた。新聞広告で見た印象と全く異なり、たみおの想像よりずっと大きく、煙を噴き上げて動く様はまるで野生動物の雄々しさすら感じさせるものだった。特に黒く光沢のある重厚な機関部に彼は最も惹かれたようで、父に押さえられながらも触れてみたいと思い、手を伸ばしたこともある。
「危ないよ、たみお」
「やだ。さわりたいよ」
「まだですよ。演説が終わってからにしましょうね」
見ると今まで列車しか視界に入らず、気が付かなかったたみおだったが、停まっている無限列車の前で数人の偉そうな男達が演説をしている。それに皆注目し、一様に小さな旗を振っていた。旗には無限列車のシンボルマークが入っている。周りのたみおと同じ年頃の子達も同じ旗を持って振っている。その光景を見て、手持ち無沙汰に自分の手を見るたみおに、母が同じ旗を差し出してくれた。
「たみおさんも一緒に振りますか?」
「うん!」
正直、たみおにとって偉い人の演説は極めて退屈なものだったが、父が広告を見ながら言っていた「列車に乗れる」という千載一遇の機会を楽しみに、重くなる目蓋を必死に上げていた。
「この度は無限列車開通式にお越し頂き、誠にありがとうございます」
それを結びの言葉に、漸く全員の演説が終わった。駅員の案内の声が響き、いよいよ列車に乗れる、という時に父は衝撃的な一言を発した。
「じゃあ、帰ろうか」
「ええ。たみおさん、帰りますよ」
「え? ……のらないの?」
たみおの一言に、今度は両親が「えっ」と驚嘆の声を上げた。両親からしてみれば、当然の反応だろう。ここに来る前まで、たみおは列車に興味を示していなかったのだから。「まぁ」と困惑した声を出して、どうしましょうとでも言いたげに父を見る母。乗車するには事前に乗車券を持っている必要がある。入手法法が抽選だったということもあり、今から購入するのは無理なことだ。しかし、まだ小さなたみおにはそんな事情がある等、全く知らなかった。いくらたみおのことを可愛がっている父でも、叶えられないことはある。ここは正直に言うしかないと腹を括ったらしく、一度だけ母に向かって頷いた。
「たみお、よく聞くんだ。私達は今回、乗車券を持っていない。乗車券を持っていない人は乗れないんだよ」
「え? え? の、のれない、の……?」
じわり、とたみおの目に涙が滲む。それを見て、父は慌てて弁明した。
「でも、たみお。今回は乗れなくても、次だ。開通式が終わったら、普通に乗車券を買って乗れるんだよ。その時に一緒に乗ろう」
「……やだ。いま、ぐす……いまのりたいぃ……うわぁああああああんっ」
「泣くな、泣くな」と必死に宥める父とおろおろして、たみおを抱き上げる母。安実も二人に加勢しようと、たみおを宥める。
「たみお、聞いて聞いて。大丈夫だよ。また乗れる時が来るよ。今回は残念だったけど、また今度、乗れるから」
「ひぐっ……うぅ~……いま、いまぁ……あみど、おどうざんど、おがあざんど、ひっく……の、のりだがっだぁ~! あ”ぁああああああ~……!」
噎び泣くという表現が相応しい程、泣いてしまったたみおを母から受け取って、父はその小さな背中をあやすようにぽんぽんと叩きながら、帰路に着く。「乗りたかった」という言葉がたみおの口から出たということは、彼も泣きながら何とか自分を納得させようとしているのだろう。両親はそれ以上、言い聞かせることはせず、静かに家へ続く道を歩いた。そのまま、たみおは泣き疲れて父の腕の中で眠ってしまった。
夢の中でもたみおは列車に乗れなかったショックが尾を引いているらしく、ぐすぐすと泣きながら現れた彼を抱き締め、安実は「大丈夫、大丈夫」と言いながら背中を擦ってやった。
「大丈夫だよ、たみお。今度は絶対、乗れるよ。我が儘言わなくて、偉かったね」
「う、うぅぅ~……ほんと? 今度はほんとに乗れる?」
「うん。今度はきっと乗れるよ。大丈夫」
「安実も一緒にだよ……?」
「……うん。絶対ね」
「うん、絶対だよ」
安実の膝に顔を埋めて最後に大きく泣き出すたみおの背中を、安実はいつまでも擦っていた。