これが夢なら良かったのに 肆※ご注意
・相変わらず捏造まみれ
・モブによるいじめの描写
民おが十歳になった頃、五年生に上がっても彼はあまり変わらなかった。それどころか、成績は下がっていき、机に向かっても勉強に励もうとしない。更には、罪悪感も無く他人に嘘を吐くようになった。そんな民おを安実は見守ることしかできなかった。精々、彼女にできることは口を酸っぱくして彼に注意することだけだ。それに耳を塞がれてしまっては、彼女は何もできないのも同然だった。更には、安実がしつこく言えば言う程、民おは益々夢の中に逃げ込むようになった。堂々巡りの彼に、いつしか安実は諦めかけていた。
民おは学校の勉強をしなくなった代わりに、よく父親の書斎に忍び込んでは心理学に関する本を読み漁っていた。彼は学校の勉強より心理学や認知科学に興味を持ち始めていた。そんな姿を父親に見つかったのは、書斎に忍び込むこと十五回目のことであった。
「民お。もしかして、心理学に興味があるのかな?」
夕食の席で父がそう切り出してきた。民おは少し間を置いて「うん」と返す。それを聞くと、父はどこか嬉しそうに「そうか」と言った。その時はそれだけで済んだのだが、夕食後に父は何冊かの入門書を持って来た。
「最初に読むんだったら、この辺りからの方が面白いし、入りやすいぞ。もう父さんは読まないから、民おにあげよう」
「いいの?」
「もちろん。その代わり、学校の勉強もちゃんとするんだぞ」
「うん。ありがとう、お父さん」
「よし、いい子だ」
頭を撫でられながら、民おは渡された本を大事そうにぎゅっと抱き締めた。
次の日から約束通り、民おは心理学の勉強に加えて学校の勉強にもまた取り組み始めた。ここのところ、学校から家に真っ直ぐ帰り、宿題を早々に終えて心理学の勉強に夢中になっている。一度、安実も民おの視界を共有して覗いて見たが、専門用語が多くてよく分からなかった。途中からちらっと見ただけというのもある。一方で、民おは一頁毎に読み込んでいるお陰か、専門用語を何とか理解していっているようだった。といっても、まだ十歳の彼にはやはり少し難しいらしい。ここのところ、本を読んでいるうちに寝てしまうことが多くなった。そういう時は安実が代わってやってベッドまで行くのだが、ある夜、安実がベッドに潜り込もうとすると、母が訪ねて来た。
「お母さん? どうしたの?」
久しぶりの感覚に安実は極力悟られないように、努めて民おの振りをした。母は気付いていないようで、いつもと同じように優しい口調で「民おさん」と呼んで、抱き締めてきた。普段と違う、必死さすら感じる抱擁に、安実は混乱した。
「え……」
「民おさん、お母さんは時々、あなたがどこか遠くへ行ってしまうのではないかと怖くなってしまうのです。そんな訳は無いのに……。でも……でも……」
ぎゅっと更に強く抱き締められる。民おの母はずっとこの不安を抱えていたのかもしれない。思い返せば、最近の民おはどこか前よりも上の空なことが多く、他人にあまり興味を示していないようにも見えた。父は自分と同じ学問を学ぶ息子を誇りに思っているようだが、母はそんな息子の様子に言い様の無い不安を感じていたのかもしれない。安実も薄々感じてはいたが、ずっと見ない振り、知らない振りをしていたものだ。このままでは、民おは例え勉強ができたとしても、独りぼっちになってしまうのではないか、と。安実にはどうすることもできない。いくら言っても民おは耳を貸さなかった。しかし、母は遂にその不安を打ち明けて、民おと分かち合おうとしている。本来なら、ここで彼に代わるべきだろう。そう思って心の内で彼を起こそうとしたが、いくら呼び掛けても彼は起きない。どうするべきか、ぐずぐずと悩んでいると、母は腕を解いて安実と目を合わせた。
「ごめんなさい。もう寝るという時に、こんなことを言ってしまって。……さぁ、もう寝た方が良いですよ」
「お母さん、ぼく、どこにも行かないよ。だいじょうぶだよ」
母の目に滲む涙を見た瞬間、安実はそう口にしていた。「ああ、しまった」と思ったが、彼女本来の優しい心は後悔などしていない。そうしなければ、この人は今にも折れてしまいそうだったからだ。
「民おさん、あなた……」
「ぼく、ずっとお母さんのそばにいる。お父さんの代わりに、ぼくがお母さんを守るから」
何かに気付いた様子の母だったが、安実は構わずに続けた。今はこんな言葉でも良い。自分がもっとしっかりしていれば、いつか母の不安を取り除くことができる。そう信じて疑わなかった。母はもう堪らないと言うようにもう一度強く安実を抱き締めて、言った。
「民おを、よろしくお願いします……!」
その言葉で全てを悟った安実は、返事をする代わりにぎゅっと母の体を抱き締め返した。
それから二年。民おは十二歳になり、六年生に上がった。この頃になると、周りの子も少し大人びてきて、女の子なんかは恋愛に興味を持つようになった。元の世界でのことだが、つい二年前は安実も同じ年頃だったので、少し懐かしさを感じる空気だ。
しかし、そんな懐かしさとは正反対に、民おの学校生活は酷くなっていった。いつも一人で行動したがり、一人空想に耽ってはくすくすと笑う民おをクラスの子供達は気味悪がるようになった。そのうち、クラスの男の子達から嫌がらせを受けるようになり、いじめに発展していった。
確かに民おにも少し悪いところがあった。彼は現実の他人には一切興味を示さず、自分から孤独になろうとしていた。他人から見れば、かなり異質だったろう。そう安実は思うが、それにしたって靴を隠されたり、教科書を使えない状態にされたり、体操着をずぶ濡れにされる筋合いは無かった。初めのうちは、民おも気にしていないようだった。そもそもそんなこと眼中にも無いという印象だった。彼にとって現実ほど、興味を惹かれず、軽視していたものも無かった。しかし、それが尚更いじめに拍車を掛けた。
ある朝、自分の席についた民おの鞄をいきなり引ったくり、窓から投げ捨てた生徒がいた。
「もう学校に来るなよ。気持ち悪いんだよ、お前」
「ぼくのかばん!」
悲鳴に近い声を上げて、民おはその生徒を突き飛ばし、鞄を取りに行った。あの中には父から貰った心理学の本が入っている。大急ぎで外に出て鞄が落ちた辺りを探すも、鞄は見つからない。
「あみ、この辺に落ちたよね?」
「うん、その筈だよ」
民おの問いに安実が答えた時、目の前に見覚えのある足が映った。目を上げると、いつも民おをいじめてくる生徒の顔があった。
「探し物ってこれ?」
にやにや笑いを浮かべてそいつが目の前にぶら下げてきたのは、民おの鞄だった。取り返そうと立ち上がりかけた民おの両脇から、取り巻きの生徒が出てきて両腕をがっちり押さえ付けられる。
「返して! 返してよ!」
「おっ、やっと人間らしいこと言うようになったな。あれだけいじめてもずっとすました顔してたのに、そんなにあわてるってことは何か大事な物でも入ってんのかな?」
鞄を開け、ごそごそと中を無遠慮にまさぐるそいつを民おは睨み付けたが、「お~、怖い怖い」と言っただけで止める気配は無い。そして、心理学の本を見つけたそいつは鞄から出して見せた。本を見た瞬間、血相を変えて「返せ!」と叫ぶ民お。そいつは本の表紙をしげしげと眺め、吐き捨てるように言った。
「こんなもん読んでるのかよ。暗いやつだな。これ読んでおれらを操ってやるぅって思ってたの?」
侮辱の言葉に、取り巻き達もへらへらと笑った。
「うわ、あり得る」
「おれ、父さんから聞いたことある。こういうのってビョーキなんだって、ビョーキ」
「こんなもんばっか読んでるから、いじめられちゃうんだよ。た・み・お・ちゃん」
いきなりそいつは持っていた本を力任せにびりびりと引き裂き、民おの目の前に放り捨てた。その瞬間、安実は民おが今までに感じたことの無い怒りが沸々と腹の底から沸き上がっていくのを感じた。危ない、と感じる程度には。
「民お、暴力は――」
止めようとした矢先、民おは信じられない力で取り巻き達の拘束を解き、本を破り捨てたそいつに掴み掛かって行った。顔を引っ掻き、全身でぶつかって押し倒した後、首を締め上げる。冷静にも見える無表情で、ただ只管首を絞める民おに、安実は必死に呼び掛けた。
「だめ! だめだよ、民お! 手を放して! その子、死んじゃうよ!!」
「いい。いいよ、こんなやつ。死んじゃえばいいんだ……!」
いつの間にか取り巻き達の姿は無い。恐らく教師を呼びに行ったのだろう。その間にも民おは手を緩めず、絞め続けている。相手はもう白目を剥いて口の端から泡を吹いている。このままでは危ないと思った安実は、「退いて!」と言い、民おの体の主導権を半ば無理矢理奪った。代わると同時に首から手を放したは良いものの、どうしたら良いのか分からない。そうこうしているうちに取り巻き達と教師が走って来て、安実は取り巻き達に突き飛ばされ、首を絞められた生徒は応急処置を受け、病院へ運ばれた。
幸い、後遺症も無く、少年は無事だった。しかし、意識がまだ戻らないので、今日一日は入院することになったそうだ。その日から民おは他の生徒から益々距離を取られ、もう誰も彼に関わろうとしなくなった。民おの両親もひどく怒り、相手の両親にも家人がひどく責められているところを何度か見た。翌日には少年は意識を取り戻したが、民おは益々自分の部屋に引きこもるようになった。
「ねぇ、あみ。ぼく、どうすれば良かったの?」
学校を休んで自室のベッドに横たわる民おは、虚空に向かってそう呟いた。その表情は全くの無で、何を考えているのか安実にも分からなかった。
「暴力は、良くなかったよ」
それしか安実には言えない。先に手を出したのは民おの方だ。彼の味方になることは難しい。「そっか」と呟いて民おは暫く黙っていたかと思うと、にたりと笑った。
「民お?」
「……何でもないよ、あみ」
そう言いながら、民おはいつまでも喉の奥で不気味にくつくつと笑っていた。