これが夢なら良かったのに 伍 中学に上がった民尾は、上位の成績を維持しながらも、ある悪癖が出てきた。あれから心理学の勉強も同時に続ける中で、錯視や認知能力に興味を持った彼は、学校帰りにそれら利用した実験をし始めた。それも、道行く赤の他人相手に。
ある時は、鏡を使って道行く人を何度も同じ場所を通るように惑わせたり、ある時は曲がり角に角が突き出ているように見える絵を描いて通りがかった人を驚かせたりした。それだけならただの悪戯で済むが、人が仕掛けに引っかかると民尾は決まって、いじめっ子の首を絞めたあの日と同じ笑い方をするのだった。喉の奥で押し殺すようにくつくつ笑う民尾を見ると、安実は底知れぬ恐ろしさを感じていた。何か良くないことが起こりそうな気がして、彼女は益々民尾に厳しく接した。
「民尾、もう充分でしょ。帰ろうよ」
壁にせっせと絵を描いている民尾に、安実はそう提案するが、「待って、もう少し」と一向に手を止めない。一度集中すると周りが見えなくなるのも、彼の悪癖の一つだった。集中すると周りが見えなくなるので、彼女は民尾が没頭してしまう前に彼の意識に直接声を張り上げた。
「だめ! 帰ろうよ、民尾!」
「……煩いなぁ。そんなに帰りたいなら君一人で帰ればいいじゃないか。まぁ、できたらの話だけどね」
挑発的な表情で笑う民尾に、むっとした安実は「分かった」とだけ言い、体の主導権を奪おうとした。しかし、それを民尾が許す筈も無く、表面意識に浮上してきた安実を捕らえる。
「いつまでも俺を操れるなんて、思わない方がいいよ。安実。邪魔するなよ」
いつの間にそんな器用なことができるようになったのか、民尾は現実で絵を描きながら精神世界では安実の両手首を掴んで押し倒し、意識の奥底へ押し込めようとしてくる。予想外の彼の成長に安実はただ驚き、ずぶずぶと沈められ始める。
「いやっ、放して! 民尾……!」
「描き上がるまで待っててね、安実。終わったら、引き上げてあげるから」
言いながら民尾は、底なし沼を思わせる意識の奥底に嫌がる安実を無理矢理沈めた。以前なら、精神の抵抗力では安実の方が強かったが、本来の体の持ち主である民尾の魂が日に日に力を付け、それに反比例するように安実の抵抗力は弱くなっていっている。民尾の母に誓ったのに、という思いを抱きながら、安実は深い眠りに落ちていった。
次に安実が目覚めたのは、深夜だった。夢の中で民尾に引っ張り上げられて、目が覚めた。
「お待たせ、安実」
悪びれもなく微笑みを湛える民尾に、安実はぽつりと零した。
「嘘つき。描き上がったら、引き上げるって言ったくせに。その前に帰ろうって言ったのに……」
「何? 拗ねてるの? 安実。ふふふ。だって、良いところだったんだもの。あ、ねぇねぇ、そういえば、あの後に通りかかった男がね、あの絵を見てぎょっとしてたよ。安実にも見せてあげたかったなぁ。あの間抜け面!」
一人でけらけらと笑う民尾に聞こえないよう、安実は密かに呟く。
「民尾のそういうところ、嫌い」
ぴたりと笑い声が止み、安実はしまったと口を手で押さえた。聞こえたかもしれない。恐る恐る民尾を見ると、何故か彼は嬉しそうに笑っていた。くい、と軽く手を引かれて彼の方へ体が向く。民尾は安実の手を握りながらうふふと笑った。
「嫌い? 安実は俺のこういうところが嫌い? ふふっ、そっかぁ。安実は可哀想だね。嫌いな奴の体にしか居場所が無いんだから。可哀想で可哀想で……ふふっ。可愛いねぇ」
にこにこと人当たりの良い笑顔を浮かべながら、民尾は徐に安実の首に両手を添える。嫌なものを痛い程感じながらも、安実はまだ信じられなかった。民尾が自分の首を絞めるなんて、考えたくなかった。
「民尾……?」
「ねぇ、もっと俺の嫌いなところ、言って?」
甘えるような声で強請りながら、民尾の手にゆっくりと力が込められていく。安実に肉体は無い筈なのに、魂に直接触れられているせいか、呼吸ができなくなる感覚に襲われる。
「た、みお……くる、し……」
「ねぇ、安実。もっと言ってよ。早く……」
首を絞められたまま抱き寄せられ、安実は民尾に覆い被さるような態勢にされた。そのままよく顔が見えるように民尾は両腕を伸ばし、まるで余すところ無く、安実の苦しげな表情を目に焼き付けようとしているように見えた。
「や、めて……民尾……!」
「ふふふ。安実、苦しい? 止めて欲しい?」
言葉で返答できずにこくこくと頷く安実の首を掴んだまま、民尾はぐっと引き寄せてよりお互いの魂を密着させ、耳元で囁いた。
「じゃあ、俺の嫌いなところ、言って」
唐突にぱっと手を放され、安実は咳き込みながら民尾の横に倒れ込んだ。横になって咳き込んでいる安実の隣にころんと転がって来た民尾は、期待の眼差しで彼女の言葉を待っている。安実は苦しさから解放されると、きっと民尾を睨む。
「こういうところが、嫌い……! いつも突然で突拍子も無いし、熱中してたかと思ったら、急に違うこと始めたり。お母さんや私の言うことだって聞かないし。自分勝手で他人を思いやるなんて、できないし、今だって首を絞めたりして……! もう最低!」
普通なら、ここまで嫌いなところをつらつらと挙げられれば、誰だって傷つくないし気分を害するだろう。しかし、民尾の態度は全く真逆で、心底可笑しそうに全身を震わせて笑いを堪えているようだった。そして、そのうちダムが決壊するように、堰を切って民尾の笑い声が辺り一面に響き渡った。
「……何が可笑しいの?」
「ふっ、くくく……! だって……だって、安実……! そんな、そこまで嫌いな奴の体から、一生出られないんだって思ったら……ぷっ、くくく……あははははははは! 可哀想だねぇ! 本当に君は可哀想な奴だよ!!」
侮蔑だ。まるで矮小な虫を見るかのような目を向けて笑い続ける民尾からは、明らかに侮蔑の感情が読み取れた。押し黙る安実に構わず、民尾は一頻り笑った後、安実をもう一度抱き寄せた。今度は壊れ物を扱うかのように優しい。
「でもね、安実がいくら俺のことが嫌いでも、俺は安実が好きだよ。大事な、大事な、俺の半身……。安実は俺の一部だもんねぇ」
安実の頭を撫でつけながら、民尾は歌うようにうっとりと呟き、彼女の額にキスをする。
「安実の顔、見たいなぁ……」
ぎゅっと抱き締められ、ぽつりと零されたその言葉に、民尾には自分の顔が見えていないのだと安実は今更ながらに思い出した。
中学に上がると、周りの女の子達は一気に恋愛を中心に考え始めると言っても過言ではない。それは民尾のクラスの女の子達も同様だった。言ってはなんだが、民尾は身内の贔屓目なしに端整な顔立ちをしている、と安実は思う。それに加え、小学校時代に彼が起こした一件で、民尾は違う中学校に入ることになり、学校では目立つような行動もしていない。何故かは知らないが、民尾は学校ではひどく大人しい学生だった。傍目に見れば、いつも窓際の席にいる大人しい、少し顔立ちの良い少年。周りの女の子達が放っておく訳が無かった。しかし、民尾はそうやって積極的に話しかけて来る女の子達を、表面上は穏やかな人柄を演じながらあしらい、内心で馬鹿にしていた。
「みんな、よく知りもしない相手に、ああも好意を隠そうとしないなんて……うふふ。弱みになるって考えないのかな? 愚かとしか言いようがないね。ねぇ、安実」
いつものように自室で心理学の本を読みながら、民尾はそう言って笑った。そして、安実もいつものように賛同しなかった。
「それは、当たり前だよ。好きな人とは仲良くしたいって思うもの」
それを聞くと、民尾は「へぇ」と感心したように言って本を閉じた。
「君でもそういう気持ちになるものなんだね? 安実が恋したら、どんな風になるの? 気になるなぁ」
「し、知らないよ! 他人を好きになったこと、まだ無いから……」
意外にも食いついてきた民尾に戸惑いながらも、安実は正直に答える。最近になって学んだことは、民尾相手にはなるべく嘘をつかない方が良いということだ。民尾は「ふぅん」と聞いているのかいないのか、よく分からない返事をして、何気なく呟いた。
「まぁ、でも、そんなことさせないけどね」
「だから、そんなこと訊かれても困るし……え?」
一瞬、聞き逃しそうになった安実だが、流しそうになる瀬戸際で彼の言ったことを理解し、自分の耳を疑った。「どういうこと?」と訊くと、民尾はうっとりと頬を赤らめて言った。
「だって、安実は俺のでしょう? この世で俺の体の中にしかいない、俺だけの存在でしょう? そしたら、人並みに恋愛することなんて、できないもんねぇ? それとも、俺の体を使って男と恋してみるの? ふふふ。それはそれで面白そうだけど、俺の尊厳を無視するようなこと、安実はしないもんねぇ?」
まるで頭から民尾に押さえ付けられているような圧迫感を覚えながら、安実は俯き、「うん」と頷くしかなかった。彼に言われたことは、安実自身も薄々思っていたことだ。いつになったら元の自分に戻れるのか、先の見えない不安から安実は目を逸らし、知らない振りをした。
そんな矢先だった。民尾が女の子と付き合う、なんて言い出したのは。相手は同じクラスの子で、白い花の髪飾りが印象的な、長い髪の淑やかな子だった。これで少しは民尾も普通の情緒を身に付けてくれるだろうと、少し安心すると共に、重く冷たい霧が胸の内に広がっていくのを安実は感じた。私にはあんなことを言ったのに、自分だけ。そんな毒が一瞬頭を過り、安実は頭を振ってその思いを押し込める。安実がそんな思いを抱えているなど知りもしない民尾は、彼女とのデートをした夜は必ず、夢の中で安実に嬉しかったことや楽しかったことを語って聞かせた。安実もなるべく平静を装おうと、黙ってうんうんと頷き、聞くようにしていた。
民尾が彼女と付き合い始めて一ヶ月が経った頃、唐突に民尾は彼女から振られることになった。それというのも全ては彼自身が、それまでの二人の関係を跡形もなく破壊したからだった。放課後、いつものようにデートに行こうと誘った彼女に向かって、民尾は溜め息交じりに突き放すように言った。
「もう君と付き合う理由、無いんだよね。君のお陰である程度、恋をした人間の行動パターンや心理状態を知ることができたし、君の記録は全て取ってあるから、もう君はいらなくなってしまったんだぁ」
やはり悪びれもしないでそう言いのける民尾に、彼女はショックを受け、「最低!」と彼の頬に紅葉を作った。しかし、民尾は怒るでもなく、悲しむでもなく、去って行く彼女の後ろ姿を見送りながら不思議そうに小首を傾げた。
「どうしてあんなに怒るんだろう? 今まで良い夢を見ていられたんだから、お礼を言われてもいいくらいなのに……」
「本気で言ってるの? 民尾」
安実は民尾の言ったことが信じられなかった。安実は彼が生まれてから今まで、他人に優しくしたり、相手の立場に立って考えるように言ってきたと思っていた。しかし、この時彼女はそれらが何一つ彼に伝わっていないと痛感すると同時に、密かに安堵に似た気持ちを抱いていた。そんな安実の胸中を見透かしたかのように民尾はにやりと笑い、嬉しそうに「もちろん」と肯定した。