これが夢なら良かったのに 陸 民尾が心理実験を繰り返し始めて二年。中学三年生に上がり、学校に在籍するのも残すところ、後一年となった。心理学以外の本も読むようになり、社交性も以前よりは身に付いたが、それでも人を実験に巻き込んだり、試すような真似をする悪癖は直らなかった。以前は学校帰りで我慢できていたことでも、最近は少々我慢が効かなくなってきてしまい、学校でも軽い心理実験をするようになった。しかし、それが思いがけず功を奏し、民尾は一躍クラスで一目置かれる存在になった。安実は素直に喜んだが、民尾は少し不満だったようだ。別に彼は注目を浴びたくてやっていた訳ではない。ただ純粋により多くの人間の心理学的記録が欲しかっただけだ。
そんな最中、民尾にまた新しい友人ができた。今までの友人達とは少し違う、穏やかで物静かな少年で津上聡樹といった。少々顔色は青白かったが、凜々しい顔つきの線の細い少年だった。読書が好きなようで、いつも何かしら本を読んでいた。多くは小説だったが、民尾自身は彼の読む本にあまり関心は無かったようだ。思えば、友人と言っていいのかも怪しい関係ではあった。その少年はいつも民尾の近くにわざわざ寄って来て、本を読み、時折民尾に話しかけてくる、というちょっと変わった子だった。彼なりに少しずつ距離を詰めて行きたいのだろうと安実は思っていた。彼女の予想は当たっていたようで、いつの間にか二人はいつも一緒に行動するようになっていた。しかし、民尾は実験の邪魔になるとして、表面上は好意的に接しながらも、内心では非常に邪険に思っていた。
ある日の日曜日。津上の家に来るよう誘われた民尾は、渋々ながらも彼の家を訪れた。彼の家も民尾の家と同じくどちらかというと裕福なようで、事前に知らされていた住所に向かうと、なかなかに大きな和風の家が民尾と安実を待っていた。
「凄いお家だね、民尾」
「うちと同じくらいだよ、安実。……ここまで来たし、帰っていいかなぁ?」
「だめだよ。折角、お誘いしてくれたのに何の連絡もなしに帰るなんて」
「……安実、最近、俺のこと否定してばっかりだね」
素っ気ない民尾の一言に、安実は口ごもる。
「それは……だって……」
「やぁ、民尾くん。来てくれたんだね」
ぎいと門扉が開いて、津上が顔を覗かせる。民尾は現実に起きたことを処理しようと安実を放置し、津上の方へ意識を向けた。
「うん……」
「嬉しいよ。君になら、僕の趣味を見せても良さそうだと思ったからね。さぁ、入って」
いつもと違って妙に神妙な雰囲気を醸し出す彼に、民尾は無表情で門の内側へ足を踏み入れた。
津上の言う趣味とは蝶の標本作りのことだった。あんな言い方をするから一体どんな趣味だと思った民尾だったが、普通過ぎて密かに失望した。整然と並べられた標本を何気なく眺めていると、民尾はあることに気が付いた。
制作順に並べられた標本箱。その中のある箱から先が何だか作りが雑になっている。よくよく見ると、その箱の中の蝶達は所々羽が破れていたり、触角が片方無かったり、酷い物では胴が縦に裂けて辛うじて針で留まっているといった有り様だった。普通にこれだけ見せられたら、初めて作ったから失敗したものが多いのかと思えるが、制作順に並べられた中で、その箱は丁度真ん中くらいの位置に置いてある。じっと民尾が見入っていると、いつの間にかすぐ隣に来ていた津上に、びくりと民尾は体を震わせて少し距離を取った。
「気が付いたかい? 民尾くん」
「……君の言った趣味って、本当はこっちなの?」
意味深な民尾の視線に、津上は口元に手を当てて上品に笑った。その笑いの示す意味に気づきながらも、民尾は変わらず無表情だった。むしろ、彼のあくまでも猟奇を装っている一面が垣間見えて、不快ですらあった。常日頃から赤の他人に対して心理実験を行っている民尾から見て、ただの虫を殺して喜んでいるような輩は、全く矮小な人間のように思えた。津上は民尾がそんなことを思っているなど露知らず、恥ずかしそうに微笑んだ。
「君になら、見せても大丈夫だと思ったのだよ。普通の人間には理解されない趣味だからね。蝶を生きたまま標本にするなんて、残虐極まりない。でも、君になら打ち明けられると思ったんだよ。二つの人格を持つ、君にならね」
え、と民尾と安実は同時に津上を見た。目の前にいる少年は微かに頬を染め、民尾にどこか熱っぽい目を向けている。呆然として何も言えないでいる民尾に構わず、彼はほうと溜め息をついた。
「僕はね、君が時折見せる女の顔をひどく愛しているんだ。ああ、勘違いしないでくれたまえ。僕が愛しているのは民尾ではなく、安実の方だ」
「……安実のこと?」
「あみ……そんな名前なんだね。……何だろうね。名前まで愛しいと思ってしまうよ。これが恋というものか。君はあまり自覚が無いかもしれないが、彼女はとても好感の持てる子だよ。いつも君のことを気にかけて、こんな僕にも優しくしてくれる素敵な女性だ。そして、僕は……そんな彼女に恋をして、正直に言おう。僕は君に嫉妬している。いつも彼女と一緒にいられる君が憎いとさえ、思ってしまう。それは本当に済まないと思っているよ。……ねぇ、民尾くん。今日、君を家に呼んだのはね、厚かましいかもしれないが、彼女に会わせて貰いたかったからだよ。何とか取り計らってはくれないかい? 今、彼女は何をしているのかな? 彼女と代わることはできるんだろう? お願いだよ、民尾くん。僕は彼女に会いたいだけなんだ。会わせてはくれないだろうか。一目だけでもいい。ほんのちょっとでも会えたら、僕は満足なんだ」
じりじりとこちらににじり寄って来る津上に対して、民尾は逃げようと彼が一歩進む毎に一歩後退る。津上は最早民尾など見ていなかった。彼を通して、ただただ安実をうっとりとした表情で見ていた。愛おしげに安実の名前を呟き、民尾の頬に触れようとした寸前で、民尾はその手を振り払った。
「やめろ! 触るな!」
振り払われた津上は、やっと民尾に気が付いたように呆然と凝視し、民尾は得体の知れない気味の悪さから、自分の体を抱き締めて部屋の端へ逃げ、距離を取る。膝と頭を抱えた民尾はぶつぶつと何度も同じ事を呟いていた。
「安実は渡さない。安実は俺のだ。安実は渡さない。安実は俺のだ……」
がたがたと震えて他人を拒絶する民尾に、津上はその様子から今日は彼女に会えそうもない、とどこまでも自分都合のことを考えていた。
民尾が落ち着いてきた頃、津上は床に置いてある標本箱を全て棚に乱雑に押し込み、民尾の方へ振り返って言った。
「今日は残念だったけれど、民尾くん。その気になったら、いつでも彼女に会わせて欲しいな。もちろん、君が良ければの話だけれど」
「………………誰が会わせるか」
憎々しげに睨んでくる民尾に、津上は苦笑して何も言わなかった。それからすぐに民尾は「帰る」とだけ言って、逃げるように津上の家を出て行った。津上は門まで見送りに行ったが、民尾は一切後ろを振り返ることなく、真っ直ぐ家に帰った。
その日から民尾と津上の距離は開き、あまり会話もしなくなった。正確には津上の方は近寄って来るのだが、民尾は意識的に彼を避け、彼が話しかけてきても露骨に無視をしていた。初めは気にならない様子の津上だったが、日を重ねる毎に彼も民尾から距離を置き始めたようで、あまり姿を見なくなった。しかし、彼は諦めた訳ではなかった。
その日、民尾は珍しく美術の課題を教室に残って取り組んでいた。いつもの彼ならやらずに帰っているところだが、生憎と美術の担当教師は少々神経質な性質で、口答えや課題をやらない生徒には最悪ヒステリーを起こす。面倒だが、目を付けられるよりはましだと思い、渋々やっているといった具合だ。
「はぁ……面倒だなぁ。安実、代わりにやってよ」
「だめだよ。民尾が作らないと意味無いよ」
「普通の授業なら分かるけど、こういうのって俺がやる意味は無いと思うんだよね。俺が作ろうが、安実が作ろうが同じことだろう?」
「民尾の感性と私の感性は違うもの。同じものを作っても、きっと違うものが出来上がっちゃうよ」
「ふぅん……そういうもんかなぁ?」
「そういうものだよ」
「安実とお話し中かな? 民尾くん」
背後から聞こえた覚えのある声に、民尾はびくりと身を震わせて驚き、弾かれたように振り返った。そこにはいつかの微笑みを湛えた津上が立っていた。彼の姿を見た瞬間、民尾は明らかに眉を顰め、すぐに視線を外して作品の制作を再開する。
「何しに来た」
「別に何という訳でもないさ。廊下を歩いていたら、丁度君の声が聞こえてきたからね。僕らクラスメートには、君の声しか聞こえないけれど、また安実と話していたのかと思って。相変わらず、仲が良いんだね」
「……何なんだよ、お前。俺達のことなんて、放っといてくれよ」
彼のしつこさに民尾は怒りを露わにしながら振り返った。津上は変わらず、貼り付けたような笑みを浮かべている。否、よくよく見ると、笑っているのは口元だけで、目はぎらぎらと良くない光を宿していた。その異様な雰囲気に民尾が何も言えないでいると、津上は突然、民尾の手首を掴んだ。ぎりぎりと締め上げられるように力を込められる。
「何を……放せよ!」
「民尾くん。僕はね、君を……君達を理解できる。普通の人間とは違う僕は、同じように普通じゃない君達を理解できるんだ。君は安実と離れたくないと思いながらも、彼女のことを邪魔に思っているんだろう? 君は自分の思うままに生きたい、僕は彼女と結ばれたい。そうするにはどうすればいいか、僕は考えたんだよ」
そう捲し立てて津上は鞄から一体の人形を取り出した。それは小さな女の子が持っているような、どこの玩具店にもあるような少女の人形だった。民尾が訝しげな視線を無遠慮に投げかけると、津上は一人色めき立った。
「この人形に安実の魂を移し替えるのさ。降霊術を応用して、君の体から彼女の魂を抜いて――」
ばしっ、と激しい打音が響き、津上の手から人形が落ちる。手を叩かれた彼は落ちた人形を一瞥して、民尾を見やる。
「いい加減にしろよ、お前。安実安実って、気安く安実の名前を呼ぶな。もう俺達のことは放っておいてって言っただろ。それに、俺達を『理解できる』って何だ。図々しい。お前なんかに俺達の何が分かるっていうんだ」
怒りに震えながら津上を突き飛ばす民尾。彼の背後にあった何脚かの椅子が音を立てて倒れるが、二人とも気にも留めない。津上は痛みに顔を歪めながらもゆっくりと立ち上がり、不気味な笑みを浮かべて言った。
「あぁ、成る程。そういうことか……」
その場で少し何かを考えていたようだった津上だが、もう一度民尾を一瞥すると、何も言わずに出て行った。
「…………民尾、ありがとう。あの人、怖くて……」
ずっと黙っていた安実が怯えきった声で民尾に礼を言う。興奮で息を乱していた民尾は、やっと呼吸を落ち着けると、ぽつりと一言零した。
「別に。あいつがしつこかったから……。……もう帰ろう」
「…………うん」
津上の横槍に、もう二人ともすっかりやる気を無くしていた。荷物をまとめ始める民尾の姿を見ても、安実は何も言わなかった。