海神と迷子 0 暖かい。目蓋に降りかかる眩しい日の光を受けて、
千栄理は目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、段々焦点が合ってきて、天井が異様に高い、見慣れない場所だと分かった。
「んぇ……?」
寝ぼけ眼でぼうっと見知らぬ天井を見、次いで背中に硬い床の感触を認めた。漸く目を開ききると、彼女は一瞬、今自分がいる場所が分からなかった。頭の方から暖かい日光が差し込み、ぽかぽかと上半身を温めている中、床に寝転がっているとしか分からない。
「え……?」
周囲を見回しながら、ゆっくり起き上がると、やはり見覚えの無い場所で、縦に少し長い長方形の部屋に両端には柱が並んで装飾を支えている。その奥には組格子の大きな窓があり、そこから日光を引き込んでいる。それだけの部屋だった。どこかのダンスホールか、家具の無いホテルのロビーのように見えるが、それらとも少し違う厳かだが寂しい空気を感じる。床に座り込み、辺りを見渡しても殺風景な場所だった。
千栄理はここに来る前、確かに自分のアパートで眠った筈だった。ここは夢なのだろうか。だとしたら、妙な現実感を伴っていると思った彼女だが、特段悪夢では無さそうなので、辺りを少し見て回ることにした。床に手を付いて立ち上がった時、何か気配を感じ、そちらへ目を向けた。
「わっ!?」
いつの間にか、真横に男が一人立っていた。視界に入って来ていなかったので、
千栄理は心底驚き、数歩飛び退く。男は彼女よりずっと背が高く、鍛え上げられた腹筋を曝け出すような青い衣装と武具に身を包んでいる。どこか異国風の端正な顔立ちに少し長めの金髪。彼の髪が風に靡くと、日光を受けてきらきらと優しく輝き、その美しさを更に引き立てている。男は背筋を真っ直ぐ伸ばして、彼女の姿など眼中に無いという風だった。
「びっくりした。あ、あの……ここはどこ、ですか? あなたは……」
夢の中だとしても、妙に現実感が抜けず、ついそんなことを訊いていた。男は黙っている。彼女が話しかけても、男は目すら合わせようとしなかった。聞こえなかったのかと思い、もう一度似たようなことを訊いたが、男はやはり黙ったまま、ゆっくり歩き出す。
部屋の出口まで進み、男がこちらを振り返った。相変わらず目は合わないが、
千栄理はもしかして帰り道を知ってるのかもと思い、男に付いて行くことにした。彼女が近くまで駆け寄ると、男は何も言わずにそのまま部屋を出て行く。彼女もその後ろ姿に付いて行く。男の歩幅が大きく、彼女は少し早足で付いて行った。
あの広間を出ると、見事な中庭に出た。一段低く掘られた地面には小さな川が流れており、その川を跨ぐようにして周囲の建物に石畳の通路が敷かれている。川辺には水芭蕉や睡蓮、水葵など色とりどりの花が咲き誇り、庭を美しく飾ってさながら一枚の絵画のようだった。歩きながら川を覗き込むと、そこには何匹かの小魚達が泳いでいた。一瞬、その光景に目を奪われそうになったが、男を見失ってはいけないと思い、慌てて彼女は目を背けて男の姿を追った。と、突然男が立ち止まった。もう少しでその逞しい背中に顔をぶつけそうになったが、寸前のところで止まる。
「ど、どうしたんですか?」
「おや、お客様がいらっしゃっているようで。伯父様」
男越しにまた違う男の声がする。その背中から少し顔を出して覗いてみると、黒髪の執事風の若い男が人の良さそうな微笑みを浮かべて立っていた。伯父様と言っていたので、この二人は親戚関係なのだろう。それにしては、年齢差が合わないと
千栄理は思った。目の前の金髪の男はどう見ても二十代かそこらに見え、執事風の男と歳の差があるようには見えない。何か複雑な事情があるのかもしれないとそこには一切触れずに、挨拶だけはしなくてはと
千栄理はぺこりと頭を下げた。
「あの、初めまして。私、
千栄理と言います」
「はい、こんにちは」
「あの、私、気が付いたらここにお邪魔してしまっていて。お暇しようと思うんですけど、帰り道が分からなくて……」
「それで、伯父様に案内を?」
「私が勝手に付いて来ちゃっただけなんですけど……」
執事の男はそこで「ふむ」と何事か考え、ちらりと金髪の男を見やった後、おかしそうに笑った。
「あの……?」
「ふふっ。申し訳ありません。確かに下界への通路はこちらにありますが。そうですか。伯父様がこの方の案内を……」
意味深に呟き、執事は納得したように頷いた。
「では、私の用事は後にいたしましょう。失礼致します」
「え、あの……」
引き留めようとした
千栄理だが、執事はあっという間に姿を消してしまった。あまりにも素早い動きに目で追えなかった彼女は、呆然とさっきまで執事が立っていた場所を凝視していた。金髪の男は気にも留めず、彼女を置いて行くように歩いて行ってしまう。
「ま、待ってくださいっ」
中庭を通り、隣の建物に入って行く背中を追いかけ、
千栄理も男に続くようにして入る。中は薄暗く、日光があまり届いていないようだった。男はこの建物も横切り、隅にある少し小さな扉を開けて外へ出て行く。
千栄理も急いで付いて行くと、そこにはぽつんと小さな井戸があった。今でこそ全く見ないが、昔は当たり前に使われていた、何の変哲も無いごく普通の井戸だ。男は石造りの縁に手を置いて
千栄理を振り返った。やはり視線は合わないが、ここを覗いてみろと凪いだその瞳が言っていた。そろそろと
千栄理が覗くと、井戸の半分程、満たされている水面に彼女と男の顔が映る。一体何が映るというのか、訝しんで見つめていると、ゆらりと水面が揺れた。
「え?」
ゆっくりと水面に見覚えのある部屋が映る。くっきりとある景色が像を結ぶ。見覚えがあるも何も、そこは正しく
千栄理のアパートの一室だった。
「これ……!」
嬉しさで
千栄理は思わず男を見上げる。しかし、それでも男は
千栄理と目を合わせようとしなかった。その素っ気ない態度に、何だか自分一人だけ盛り上がってしまって恥ずかしくなった
千栄理はその場で俯いてしまう。少々気まずい空気を感じながらも、もう一度覗き込もうとして、身を乗り出した。
「待て」
井戸の縁に両手を付いて身を乗り出した彼女の前に、男の無骨な手が制止するように差し出され、そこで初めて男が声を発した。喋ってくれたとまた少し嬉しくなった
千栄理は、大人しく指示に従い、身を引く。男はいつの間に持っていたのか、大きな三叉の矛を持っていた。気が付かないうちに相手が武器を持っていたので、
千栄理はもしやここで殺されるのではと身の危険を感じたが、そうではなかった。こん、と男が矛で井戸の縁を一度軽く叩くと、水面が揺れ、ざざざと一気に水位が上がる。
千栄理が驚く間もなく、あっという間に井戸は青く輝く水で満たされた。
「立て」
「え? 水面に、ですか……?」
男は水面を見つめたまま、それだけ言う。
千栄理は躊躇したが、男を信じて戸惑いながらも言われた通りに井戸へ入ろうと身を乗り出すと、水面が光り、柔らかな風が彼女をふうわりと包んで水面に立たせた。井戸の水が立ち上り、彼女を包む。水に包まれる直前、男は確かに
千栄理に言い放った。
「二度と来るな、
雑魚が」
その冷たい瞳に
千栄理は、背筋に寒いものを感じると同時に意識を手放した。
ちゅんちゅんと窓の向こうで雀が鳴いている。そっと目を開けると、
千栄理はいつものように寝間着でベッドに寝転がっていた。目を覚ましたと同時に、がばりと起き上がる。
「なんでそんなこと言うんですかっ!?」
本日の第一声がそれだった。あの男への怒りと困惑が口をついて出た。