海神と迷子 1 目が覚めてからまたあの夢だと認識するのにそう時間は掛からなかった。前と全く同じ場所、同じ陽の差し方、同じ時間に
千栄理は同じように倒れていた。否、その場で眠っていたと言った方が良いのだろうか。両の目をぱちりと開け、ゆっくりと起き上がる。まだ何となく眠いような気がして、目蓋を擦った。
二度目のことだが、今回も前回と同じ方法で帰れるのだろうかと考え、
千栄理は『彼』の姿を捜した。ここにはいないようなので、前に来た時と同じ扉を開けて中庭へ出ようとした。彼がいなくても、あの美しい庭をもう一度見たいと思っていたからだった。しかし、前はあんなに簡単に開いた扉も鍵が掛かっているのか、押しても引いてもびくともしない。仕方なく諦めて、
千栄理は彼がここに来るまで待つことにした。
その間、この大広間を見て回ってみようと壁に沿って歩き出す。柱の奥にはいくつもの縦長な組格子の窓が嵌め込まれ、十分な日光を広間に注いでいる。硝子が青みがかっているせいか、差し込む光はどこか海の底を連想させる柔らかいものになっていた。その窓から見える中庭に
千栄理の目は惹き付けられ、それだけでも少し不安が晴れた。そのまま端の方までゆっくり歩きながら景色を楽しんでいると、ふと、人の気配を感じて立ち止まる。
「あ……」
そこには捜していた彼がいた。
千栄理と同じように窓の外を見ているのか、彼女の方には目もくれない。その姿を見ていると、
千栄理は何となく、彼が人とはどこか違うもののように見えた。本当は気安く話しかけて良い人ではないのかもしれない。話すのが嫌いなのかもしれない。けれど、彼女の頼りは彼しかいないのだ。帰る為にも話さない訳にはいかない。
「あの……すみません。私……」
「二度と来るなと、言った筈だ。
雑魚」
前回と同じくまた無言で案内されるのかと思いきや、彼は彼女と言葉を交わした。交わしたと言って良いかは分からないが、言葉を発したのは確かだ。相手に意思疎通のやる気があると分かると、途端に
千栄理は嬉しくなった。少々口が悪いのは頂けないが、折角なので、何故またここに来てしまったのか説明する。
「あの、でも、私。ここに来ようと思って来てる訳では無くて……。勝手にここに来ちゃうんです。あなたは嫌かもしれませんけれど、眠るといつの間にかここに来てしまって……」
途中から尻すぼみになる彼女の言葉。それもそうだろう。彼女の説明を受けても尚、彼は窓の外から視線を外しはしなかった。説明を続けるべきか否かおろおろしていると、いつの間にかすぐ目の前に彼が近付いて来ていた。足音など一切聞こえず、一瞬にして距離を詰められたようで、
千栄理は驚き、少し後退る。彼の手にはあの三叉の矛が握られており、威圧感を放っている。今度こそその武器が自分に向けられるのかと彼女は恐怖したが、彼はそのままゆっくり歩いて行き、中庭に続く扉を開けた。鍵が掛かっていたのではないのかと
千栄理は不思議に思ったが、直ぐ様理解する。彼と自分では筋肉の付き方がまず違うので、もしかしたらあの扉は思ったより重いのかもしれない。
また前と同じように案内を始める彼に、彼女も黙って付いて行く。二回目ともあって、彼女も何となく道順を覚えてはいたので、前回よりは周りの景色を楽しむ余裕があった。中庭も美しいのだが、建物も無骨な印象を与えながらも規則的に隙間無く組まれた石の並びが完璧と正確による美を生み出している。西洋の城を想起させた。吹く風は冷たく、
千栄理の身を芯まで冷やそうとしているようだ。
くしゅんっ、と思わずくしゃみが出てしまい、ちょっと気まずくなった彼女は、誰に誤魔化すでもなく、小さく笑った。その時、彼がいきなり立ち止まり、矛の持ち手側の先を地面に付けて空を仰ぐ。すると、吹いていた風は不思議な程にぴたりと止み、彼はまた歩き出した。会話も無く、静かな時間が流れる中、気を紛らわせるためにも、何か話した方が良いかと
千栄理は逞しい背中に向かって口を開く。
「ここ、お花がいっぱいで、凄く綺麗なところですよね。前に来た時もあなたは居ましたけど、ここはあなたのお家なんですか?」
話しかけても、やはり彼は何も答えない。でも、きっとそうなのだろうと彼女は思った。この場所はいつも静かな彼によく似合っている。でも、綺麗だと思うと同時に寂しいところだとも思う。
今日はあの執事風の男とも会わない。目の前の彼は会うといつもこの調子なので、誰かが訪ねて来ること自体、珍しいのだろう。ここには彼と
千栄理しかいないようで、会話が無いと、この場所は小川の水が流れる音や花や草や木が風にそよぐ音がするくらいで、それら以外は無音と言って良い。不思議なことに、これだけ自然豊かなのに、鳥の一羽もいないのだ。どこか現実離れした空気と場所に、
千栄理は落ち着かなかったが、嫌とは思わなかった。
ただ、目の前の男が殆ど何も話さないので、何を考えているのか分からなくて、少し不安になる。不安になると同時に、彼が何者なのか、知りたくもなった。そういえば、まだ名前も聞いていなかったと今更気が付いた。同時に自分もまだ名乗っていなかったと気付いて、
千栄理は何だか申し訳なくなった。
「あの……」
自己紹介をしようとしたが、考え事をしているうちに着いてしまったらしく、彼が横に退くとそこに井戸があった。あの井戸だと思うと同時に、もう帰らなければいけない時間なのかと少し残念に思う。またあの時のように井戸の水位が上がり、今度は無言で「立て」と訴えてくる男に向かって、
千栄理は思い切って訊いてみた。
「あの、次、また会えたら、お名前を教えてくれませんか?」
相も変わらず、男は何も答えないばかりか、目も合わせない。重い沈黙が流れる中、男が矛で地面を一度叩く。それが合図だったかのように井戸の水がうねり、
千栄理の体を巻き上げて井戸の上へ乗せた。また水に包まれていく中、微かに彼の最後の言葉が届いた。
「次など無い」
朝。いつものように目が覚めて、
千栄理は複雑な表情を浮かべた。どうして彼はあそこまで素っ気ないのか、他人に興味が無いのだろうか。
「名前、知りたかったなぁ」
次こそは名前を教えてもらおうと
千栄理は意気込み、朝の支度をしようとベッドから起き出した。