海神と迷子 2 二度目は無いと言ったのに。
足元ですやすやと寝息を立てて眠るその小さな女の傍で海神ポセイドンは、ただ静かに佇んでいた。ここのところ、この女は毎日来ている。兄を殺したこの広間で他の生き物を見つけるのは、いっそ嫌味にも取れて、彼はほんの僅かに眉をしかめた。女が目覚めれば、いつものようにあの井戸まで案内し、さっさと帰さなければならない。何故こんな時期に自分の周りをうろちょろするのか、彼にも原因は分からなかったが、一つだけ確かなことがある。
ここは天界。本来なら、生きている人間は来ることができない筈だ。しかし、現にこの女の魂は夢を通して来ている。夢で毎日彼岸と此岸を行ったり来たりしているようなものだ。ここから予想できることは、即ち――
「死期が近いのでは?」
ヘルメスが言っていたことだ。この女が初めて来たあの日、ゼウスからの言伝を伝えに来たあの食えない神は、女を帰した後にこんなことを言ってきたのだった。魂だけが冥界を通さず、天界に直接来ているとなれば、そう言われても仕方がない。
ならば、これほど迷惑なことは無い。死ぬのだったら、さっさと死ねばいい。許されるのなら、今ここで殺してやりたいくらいだが、今は人類を見守ると言われている期間だ。簡単に手を下せない。ならば、こいつの国を洪水で罰してやろうかとも考えたが、労力としては全く見合わない。何故、神である自分がこんなくだらない理由で動く必要がある? たかだか人間の女一匹に何を思うことがある。却ってそれは時間の無駄のような気がした。しかし、手間が掛かることだけは事実。今後もこの女が我が城へ立ち入るなら、どうしてくれようか。
矛を逆手に掴み、頭の高さまで振り上げる。今、ここで誰に知られること無く、殺してしまえば、面倒は省ける。人間が一匹死んだところで、下界もましてや天界でも誰も気付きはしないだろう。女はこんな状況でもまだ目を覚まさない。ポセイドンは眉一つ動かすことは無く、そのまま矛を打ち下ろそうとしたが、女の体に触れる直前で静止した。
「おや、殺さないのですか?」
背後から現れたのは、白々しい顔をしたヘルメスだった。
千栄理にとっては執事風の男のことだ。ポセイドンが静止した理由でもある。背後にこの神の気配を感じたので、彼は殺す手を止めたのだった。ヘルメスは女に近付き、少し屈んでその顔を覗き込む。何かを吟味していたようだったが、それもすぐに興味を削がれたのか、伯父の方へ向き直った。
「もう少し美しければ、ゼウス様に会わせることも考えましたが、その必要は無さそうですね」
「ほら、ポセイドン様。後はどうぞお好きに」とわざとらしく身を引くヘルメスに、ポセイドンは無表情のまま、ただ一言放った。
「余を愚弄するか、ヘルメス」
「とんでもございません。ただ、私はあなた様がこの人間をどうなさるおつもりか、興味があるだけでございます」
微笑みを絶やさず、しかし決して見逃すものかとある種の気迫さえ感じる甥に、ポセイドンは何だか面倒に感じ始めた。次の人類存続裁定までに神としてやることもあまり無く、退屈を持て余していたのは事実だが、その間は読書をして暇を潰していたものだ。こんな虫一匹にかかずらっていられる程、暇でも酔狂でもない。もう一度矛を掲げ、そのまま振り下ろそうとしたところで、今度は他ならぬ獲物の手によって邪魔をされた。
「んんぅ……」
身動ぎし、起きる気配を醸し出した女に、ポセイドンはそのまま振り下ろせば良いものを、何故か矛を引き、一歩下がった。
緩慢な動きで女は上体を起こすと、まだ寝ぼけているのか、眠そうに目蓋を擦る。そうして、漸くポセイドンの姿を認識すると、いつも決まってにっこりと微笑むのだ。
「こんにちは。すみません、今日も来ちゃったみたいです」
彼に対して微塵も警戒していない、それどころかポセイドンに対して安心感すら覚えている様子の彼女に、ヘルメスは一人この人間は狂人か単なるバカかと考えていた。柱の陰から二人の様子を見ていると、女は全く無視されているというのに、「あ」と思い付いたような声を上げ、ポセイドンに一歩近付いた。
「前に来た時、お名前を聞けなかったので、私から。
春川千栄理といいます。あの、あなたは?」
彼と視線が合わないのを気にしているのか、
千栄理は次第に不安そうな表情になるも、自分から触れる素振りは無い。嗚呼、そこで手でも取ってしまえば、また面白そうなものを見られるかもしれないというのに。このまま放って置いても進展する気配も無いので、ヘルメスはささやかながら叔父の手伝いをすることにした。
今まで気配を殺していたので、まるで今来ましたとばかりの表情を作り、二人に歩み寄る。
「おや。またおいでになったんですね」
ヘルメスの姿を認めると、
千栄理は先程と同じように挨拶をした。
「伯父様に何か?」
「あの、お名前を聞きたかったんですけど……」
一部始終全て知っていたが、ヘルメスはわざとらしく「なるほど」と呟き、ついでに自己紹介をした。
「では、僭越ながら、私から。
千栄理さんとお会いするのは二度目ですが、あの時は挨拶ができませんでしたからね。初めまして。私はヘルメス。普段はゼウス様の執事をしております。以後、お見知り置きを」
「ご丁寧にありがとうございます。……って、え? ゼウス様って……」
ぽかんと口を開ける
千栄理にヘルメスは笑うのを何とか堪えて微笑むだけに留まった。
「ええ。あのギリシャ神話で有名なゼウス様です。もしかして、ご存知ない?」
「し、知ってますっ。知ってます、けど……。え? だって、あれは大昔の神話で……」
「そこからでしたか。実はあなた方の世界に伝わる神話は全て事実なのですよ。あなたが生まれるずっと前から、私達は存在していますので。こうして、お会いになれるのは、滅多なことではないのですがね」
千栄理はまだ混乱している様子だったが、芋づる式に自分の隣にいるのが誰なのか、はっと気が付いたようだった。
「じゃあ、ヘルメスさんの伯父さんって……」
「ええ。そのお方は海の神ポセイドン様。我が主ゼウス様の兄に当たるお方です」
「え、えぇえ? うええ?」
驚き過ぎて
千栄理の口からそんな素っ頓狂な声が上がる。その間抜けな声にヘルメスは心底可笑しそうにくすくすと笑った。彼女は混乱している中でも彼女なりに噛み砕いて理解したらしく、困惑に満ちた「はぁ……」という肯定とも否定とも取れない声を発した。未だ半信半疑という様子。これは神の御業でも見せない限り、完全には信じないだろう。しかし、ヘルメスにはそんな彼女に配慮してやる理由は無い。この女が何か粗相をしようものなら、即刻ポセイドンが手を下しているだけだからだ。
「信じられない、といったご様子ですね」
「ご、ごめんなさい。でも、分かる気がします。ポセイドン……さんは、そんな感じがしていましたから」
「……へぇ。それは驚きですね。ポセイドン様」
「あの、でしたら、ヘルメスさんには原因が分かりますか? 私、ここのところ、毎日ポセイドンさんのお城に来てしまって、迷惑を掛けてしまっているので。きっとポセイドンさんも勝手にお城に入られて嫌だと思いますし……」
「余の……」
彼女の言葉を遮るようにして、ポセイドンが発する。その声は静かだが、重みのある響きだ。矛を構えることは無いが、彼女を一瞥し、殺気に非常に近い怒気を放つ。それに怯えてへたりこんでしまう彼女に、ポセイドンはただ静かに言い放った。
「余の感情を騙るな。お前如きが決めることではない」
「…………は………………はい……」
流石のヘルメスも可哀想にと思う程、彼女は怯え、がたがたと震えていた。それと同時に彼は「あれ?」と思う。
千栄理には悪いが、彼女のポセイドンが嫌がるかもしれないという言葉に、あのように返すとは、つまり。
なるほど、そういうことですか。これは面白いことを聞いたとヘルメスは一人密かに笑む。まさか、あのポセイドンが人間の女を少なからず想っているとは。目の前の二人にはまだ距離があるが、これはもしかしたらもしかするかもしれない。そう思うと、ヘルメスの行動は早かった。
「では、ポセイドン様。私はこれで失礼させていただきます」
「え、あ、あの……」
それではと一礼して、あっという間に姿を消したヘルメス。彼が立っていた場所を呆然と見、
千栄理は絶望した。どう考えてもこの状況からいつもの調子に戻すなど、不可能に思えた。第一、
千栄理にとっては今正に重大な事件が起こっていた。
ふい、とポセイドンが中庭に続く扉へ歩いて行く。いつもの案内が始まったとは思ったが、やむを得ないとその背中に声を掛ける。
「あっ、あのっ! すみません、ポセイドンさん。あの……こ、腰が、抜けて……立てませぇん……!」
最後の方は恐怖と申し訳なさで変に裏返ってしまったが、自分の身に起こっていることを黙っていられる程、強くも図太くもない。何より本当のことを言わないのは、却って失礼に当たるのではないかと
千栄理は思ったのだ。
一方、彼女の泣き言を聞いたポセイドンはというと、一切振り向くことも無く、暫く黙っていたかと思うと、唐突に舌を打った。それを聞いた
千栄理は焦り、「あぁ〜、ごめんなさいっ」と泣きそうな声で言いながら、何とか立とうとする。しかし、何が面白いのか、膝ががくがくと盛大に笑っている最中なので、とてもじゃないが、上手く立てない。何度か生まれたての小鹿のように立とうと努力をしてみたが、どうしても駄目だった。手を貸して欲しいと目と表情で訴えると、ポセイドンは眉間に皺を寄せてこちらを睨む。まるで「余を顎で使おうと?」と言っているようでいて、その上、傍目にひどく恐怖を煽る顔に見え、
千栄理はとうとう泣き出してしまった。
「ご、ごめんなさ……っ、ごめんなさい……っ。ひっ……ふぅぅ……」
ぎゅっと目を瞑り、涙を止めようとするも、後から後から涙が溢れてくる。更に困らせることになってしまったと申し訳なく思い、ぐすぐすと鼻を啜っていると、いつの間にかポセイドンが目の前まで来ていた。また迷惑を掛けてしまう。否、今度こそ殺されてしまうかもしれない。純粋な恐怖が全身を蝕み、その場に縫い付けられたように動けない。最早
千栄理は涙を流すしかできない、木偶の坊と化してしまったように思えた。
ひょい、といとも容易く
千栄理は抱き上げられた。他でもないポセイドン自身の腕を腰に回され、そのまま彼の肩に頭を預けるような形でぐいと引き寄せられる。一瞬、何が起こったのかよく分かっていない彼女は、暫く口をぽかんと開けていたので、そのまますたすたと中庭へ向かうポセイドンの腕の中にいた。
「え? あの……」
ようやく現状を理解できたのは中庭に出てからで、ずっと運んでもらうのは悪いと思い、
千栄理は遠慮がちに口を開いた。
「あの、ポセイドンさん。もう自分で歩けると思いますので……大丈夫ですよ?」
「……
良い」
「で、でも……」
尚も食い下がると、抱き上げている方の彼の腕に僅かに力が加えられる。それ以上何か言えば殺すと言われているようで、それきり下ろしてくれるような気配も無いので、
千栄理はそれ以上何も言えなかった。ポセイドンに抱き上げられているので、
千栄理はいつもより周りの景色に集中でき、色とりどりの花の中に蝶が一頭、ひらひらと飛んでいる姿が目に入った。紋白蝶だ。
「あ、蝶々」
殆ど反射的にそう口をついて出ていた。はっと我に返った
千栄理は、恥ずかしさに思わず口元を押さえる。泣いて少し精神的に幼くなってしまったように思えたからだ。しかし、誰が反応するという訳も無く、蝶は二人の許まで頼りなく飛んで行き、徐にポセイドンが指を差し出すと蝶はその指に止まった。何か考え事でもしているかのようにてくてくとゆっくり彼の指を歩いて行く蝶の姿に、
千栄理はふっと思わず笑みが溢れた。
「可愛いですね」
やはり彼は何も応えなかったが、そのまま蝶が飛び立つと何事も無かったかのように歩を進める。
千栄理は先程の一連の行動にもしかして、泣き止ませようとしてくれたのではないかと考えたが、彼が、況してや神様が自分のようなちっぽけな存在を気にかける訳も無いかと思い直した。
それからは
千栄理もポセイドンもお互い沈黙したまま、井戸の前に着いた。井戸の前に下ろされ、いつものように水位を上げる彼に
千栄理は恐る恐るといった様子で謝った。
「今日は、ごめんなさい。ポセイドンさん。困らせるつもりは無かったんです……」
しかし、彼からはいつも以上に重い沈黙が返ってくるばかりで、
千栄理も黙ったまま、彼の操る水の中に身を投じるしかなかった。
いつもと同じ朝。だが、彼女の胸中にはいつものような温かい気持ちは無く、ただその両目からは止めどなく涙が溢れていた。
「ポセイドンさん、怒ったかな? 呆れたかな? …………もう、会えないのかなぁ」
起き上がる気にもなれず、
千栄理はベッドの中で一人、しくしくと泣いた。
千栄理の姿が消えてから、ポセイドンは微かな水の名残をその手に掴み、指の間から流れ消えて行く様をただじっと見つめていた。