海神と迷子 5 それから
千栄理は図書室や武器庫――井戸に向かう途中で横切っていた建物がそれだった――ポセイドンの書斎や客人用の部屋などを見て回り、最低限の部屋しかないことに気付いて武神の城らしいなという印象を持った。その中で、やはりあの中庭はこの海神の良心のような、ゆとりのような、そういった表には出てこない部分のような気がして、
千栄理は何だか嬉しく思った。
「あ、そういえば、ポセイドン様。彼女に地下をお見せになりますか? 一応、見せておいた方が後々トラブルは避けられるかと思いますが」
『地下』という単語に、
千栄理の表情がぱあと明るくなったのを見て、ポセイドンは些か眉を寄せて難色を示した。彼の表情から、
千栄理は故郷に伝わる民話や童話を思い出し、もしかしてその地下というのは、人間は入ってはいけないものなのだろうかと考えた。
「……入っちゃいけないところなんですか?」
「そうですねぇ。そこに住んでいる神にもよりますが、ポセイドン様、如何なさいますか?」
ヘルメスの問いにポセイドンは暫く考えている様子で、ちらりと横目で
千栄理を見た後、漸く許可を出した。但し、地下に行く際には自分が前を歩くという条件付きで。では、殿は私が務めましょうとヘルメスがにこやかに返すと、ポセイドンは勝手にしろと言いたげに地下へ向かう。
玄関ホールの奥にある他の扉より少し小さな扉を開けると、湿った空気と下へ続く石造りの階段が一同を迎えた。ひんやりとした空気に思わずぶるりと震えた
千栄理に、ヘルメスはどこからともなく取り出した大判のストールを彼女に渡す。礼を言って急いで肩を覆う彼女を待ち、ポセイドンは階段を降り始める。
千栄理もその後ろ姿を追い、ヘルメスは扉を閉めて最後尾に付く。ふと、ヘルメスはポセイドンと
千栄理の後ろ姿を見て、ここで謀反を起こして彼女を人質に取ったらポセイドンはどういう反応をするのか、ちょっと見てみたい気もしたが、特に意味は無い上に今後のことを考えると、後が面倒なので、その考えをすぐに捨てた。
階段を降りきると、少し先にはまた扉があり、通路も狭くなっている。ポセイドンがその扉を開けると、冷気と共に水の匂いが
千栄理とヘルメスを迎えた。
松明に照らされ、炎の揺らめきに合わせて水面がきらきらと煌めいている。池というにはあまりにも深く、澄んでいて、湖というにはあまり大きくはない。貯水池代わりの地底湖だろうか、鍾乳洞いっぱいに広がる青に、
千栄理は「わぁ……!」と感嘆の声を漏らした。
「ここは我々神々の間でも神聖な場所です。ここからポセイドン様は下界の海へ降り立ち、人間達の生活や海の様子を見て回っています。なので、決して汚したり、ポセイドン様の許可無く入ることは、たとえ同じ神でも許されるものではありません」
「えっ。そんな大切な場所に……良かったんですか? ポセイドンさん」
しかし、ポセイドンは何も答えず、縁まで歩いて行くと、
千栄理を振り返った。「来い」とその瞳が言っていて、彼女は素直に彼の隣に駆け寄る。彼女が隣に来ると、ポセイドンはその逞しい腕で彼女の体を自分へ引き寄せ、足をとん、と縁に掛けた。途端に風も無いのに水面がざわめき、まるで巨大な化け物が口を開けるかのように、一気に水が左右に押し広げられた。その風圧と飛沫に
千栄理は思わず目を瞑る。
「見よ」
促されて、ゆっくりと目を開ける。そこには何とも不可思議な光景が広がっていた。割れた地底湖の底、本来土や岩盤がある筈の底には、また真っ青な水面があった。ここから遠く、微かに規則的に動いているところを見ると、海に繋がっているのは本当らしかった。
地底湖の水が轟音を立てて流れ落ち、共に吸い込まれる風に身を攫われるのではないかと危惧した
千栄理は、思わずポセイドンの手と腰布をぎゅっと握った。
「恐れるな。その目に焼き付けよ」
その小さな手を握り返して、ポセイドンはそれだけ言った。
暫くして、もう一度ポセイドンが縁に足を掛けると、地底湖は口を閉じて沈黙した。先程の光景をしっかりと目に焼き付けた
千栄理は、自然と荒くなっていた呼吸を整え、ポセイドンを見上げる。彼女の視線を感じて、彼も
千栄理を見つめる。
「ポセイドンさんは、凄い神様なんですね」
何を当たり前のことをと顔に出すポセイドンに、
千栄理は困ったように眉を八の字にして俯いた。
「私、本当にここに来て良かったんでしょうか。…………ごめんなさい。ポセイドンさんが怖くなった訳じゃないんです。でも、なんだか……」
今の感情を言葉で言い表せない様子の
千栄理は、水面に映る自分の姿をただ、じっと見つめている。ポセイドンはそんな彼女に、ぽつりと言葉を投げかけた。
「どのように思おうと、お前は下界より余を選んだ。そこに意味を見出すも見出さぬもお前次第。だが、努々忘れるな。お前を選んだのも余だということを」
他人が聞いたら、きっと冷たいと思うだろう。一見、突き放しているように見えても、その手から伝わる温かさに、
千栄理は元気づけられ、「はい」と返事をして少し力を込めて握り返した。自分が迷っても、きっとこの人なら、この神なら自分を導いてくれる。そう思うと、
千栄理はひどく安心した。
最後に残されたのは、ポセイドンの私室だけとなり、一同は地下から出てそちらへ真っ直ぐに向かう。扉の前まで来たところで、ポセイドンは振り向かずに
千栄理だけ来いと言った。
「へ? 良いんですか?」
てっきり場所のみ教えられるものだと思っていた
千栄理は、素っ頓狂な声を上げたが、ポセイドンは「他に貴様が寝る場所が無い」とだけ告げる。確かに万一の時のために客人用の部屋を使う訳にもいかないだろうと納得した
千栄理は、「お邪魔します」と声を掛けて、ポセイドンの後に続いた。彼女が入室した途端に閉められた扉の前でヘルメスは、残念そうに肩を竦めて扉越しにゼウスの許へ戻る旨を告げ、さっさと立ち去ってしまった。
中は二部屋で区切られており、奥の部屋は海が見えるように城の壁面より少し出っ張った造りをしていた。全体的に落ち着いた寒色で壁や家具が統一されており、そのどれもが素人目に見ても値段の付けられない物なのだろうと、
千栄理は精巧な透かし彫りがされたソファの背もたれを見て漠然と思った。書斎や図書室にも多くの本棚が置いてあったが、ここにも同様に大きな本棚が壁に埋め込まれる形で置いてある。並んでいる本の背表紙をちらと見ても、
千栄理には読めない文字で書かれていた。
「ポセイドンさんは本が好きなんですね」
「退屈しのぎに過ぎぬ」
「どんな本を読むんですか?」
「…………特にない。その時、目に付いた物を読む」
上から下へ視線を滑らせ、読めそうな本は無いかと探しても、どれも
千栄理の知らない文字と言葉で書かれているタイトルに、彼女は首を捻った。
「……何て書いてあるんですか?」
「読めぬのか?」
ふっ、と少々小馬鹿にしたように笑うポセイドンに、
千栄理はむっとして、彼に向き直る。
「だって、私の故郷の字じゃないから仕方ないじゃないですか」
「意地悪ですね」と拗ねる
千栄理に、ポセイドンは本棚から一冊手に取り、それを彼女の頭上にぽんと乗せた。
千栄理が乗せられた本を受け取ると、彼は奥の部屋へ行き、窓際の机に就いて手招きする。彼女が近寄ると、強引に膝の上へ乗せて彼女が持っていた本を机上に広げた。
「あの……?」
「お前に字を教えるのも一興かと思った。何より、このポセイドンが選んだ人間が字も読めぬ愚か者では困る」
あまりの言い草に何か言い返そうとした
千栄理だが、彼らの使う字が読めないのは事実なので悔しく思いながらも、ポセイドンの授業を受けることにしたが、まだ怒っていることをアピールするように頬を膨らませて黙り込んだ。