海神と迷子 6 ごーん、ごーんという正午を打つ壁掛け時計の音で、二人は結構な時間が過ぎていることに気が付いた。基本的な文字を覚え、やっと単語に入ったところだった。下界にいた頃なら、昼食の時間だが、天界ではどうなのだろうと
千栄理が考えていると、こんこんと規則的なノックがされる。
「入れ」
誰か入って来るのなら降りようと、彼女はポセイドンの膝から降りた。
控えめな音を立てて入って来たのは、あの水の召使い達だった。ぺこりとお辞儀をして食器を乗せたワゴンを押し、いそいそとソファ席に昼食の準備をしていく。無言でてきぱきと二人分の準備を終えた召使い達は、またぺこりと頭の部分を下げて、一人とワゴンを残して出て行った。後に残された一人は、
千栄理に座るようソファ席へ促す。待たせてはいけないと、慌てて席に着く
千栄理の向かいに、ゆったりとポセイドンが座った。
昼食は鱈のムニエルとグリーンサラダ、ご飯と南瓜のスープのようだ。ムニエルには、チーズベースのとろみのあるソースとバジルが掛かっていて、チーズの良い香りがする。一目で手間が掛かっているだけでなく、丁寧な仕事をしていると分かる料理の様相に、
千栄理はこれから毎日このような食事を摂れるのかと思うと、嬉しくなると同時に少々申し訳なく思った。
「いただきます」
両手を合わせて料理の前で軽く会釈する
千栄理に、ポセイドンは訝しげな視線を向ける。その視線に気付き、
千栄理は「どうしました?」と問うた。
「今のは、なんだ」
「私の故郷での食前の挨拶です。ご飯を食べる前に、食材になってくれた生き物や作ってくれた人に感謝するんですよ」
「良い心がけだな」
思わぬ言葉に、
千栄理はまじまじとポセイドンを見、彼が見つめ返すと、にっこりと微笑んだ。自国の文化を褒められたことに、嬉しく誇り高い気持ちになったからだった。一瞬、虚を突かれたようで、ポセイドンは僅かに瞠目したが、すぐに視線を外して食事を始める。それが瞬きのうちのことだったので、
千栄理が彼の変化に気付ける筈もなかった。
いざ、
千栄理も食事に手をつけると、そのあまりの美味しさに、一口食べる毎に「美味しい」と言っては口元が緩んでしまう。この料理は神が口にする物なので、下界の食物より美味なのは当然だが、
千栄理はそれ以外のものも仄かに感じた。
母も、昔同じ料理を作ってくれたと思い出してしまった。メニューの組み合わせは少し違うけれど、母が焼いてくれたのは鮭だったけれど、温かくて美味しかった。ほろり、と涙が一筋頬を伝う。もう覚悟を決めた筈なのに、別れを告げた筈なのに、家族や友人達のことがまだ心のどこかで引っかかっていて、忘れないでと訴えてくるような気がしていたたまれなくなる。唐突に自分はひどく場違いなところにいるのではないかとすら、思えてくる。
涙を止めようとしている
千栄理の手を取って、ポセイドンはまたその頬を伝う涙を拭った。それでも間に合わず、ぼろぼろと零れ始め、とうとう
千栄理は泣き出してしまった。
「ごめっ……ごめんなさい……ごめんなさい……! 私……私……っ!」
「会いたいか」
「ぐすっ……え?」
一瞬、意味が分からなくて
千栄理は訊き返したが、ポセイドンは特段気分を害した様子は無く、冷静にもう一度繰り返した。それでも一拍遅れて理解した
千栄理は、驚愕に思わず立ち上がった。
「ほんとですか?」
「直接会えはしない。見るだけだ」
「もしかして、あの井戸を通じて……?」
こくり、と頷くポセイドンに、彼女の涙は止まり、「良かった」と小さく呟く。希望を見出して少し落ち着いた彼女に、ポセイドンは早く食事を済ませるように助言する。召使いが差し出したハンカチで涙を拭った
千栄理は、うんうんと頷き、食事を再開した。
スープの最後の一匙を口に入れ、嚥下する。「ご馳走様でした」と手を合わせたかと思うと、スイッチが切り替わったかのように立ち上がって、彼女はポセイドンの手を取った。彼はとっくに食事を済ませて、彼女の食事が終わるのを待っていた。
「ポセイドンさん、お願いします」
じっと見つめて彼の許しを乞う
千栄理と、彼女の顔を見つめ返すポセイドン。と、何を思ったのか、ポセイドンはテーブルの上のナプキンに手を伸ばし、取って
千栄理の口元を拭ってやる。
「付いていた」
「…………あ、りがとう、ございます」
恥ずかしさから赤面して、ぷるぷると震える彼女に、ポセイドンは思わずといったようにふ、と笑いを含んだ息を吐き出した。肩を震わせて笑いを堪えているポセイドンに、
千栄理は今度は耳まで真っ赤にして怒る。
「わ、笑わないでくださいっ!」
「貴様が、悪いんだろう……ふふっ」
「もうっ! い、行きましょうよ。早く!」
誤魔化す意味も込めてぐいぐいと手を引っ張る
千栄理に、「引っ張るな」と注意しながら、ポセイドンも立ち上がり、
千栄理だけがキャアキャアと騒ぎながら退室した。
後に残された召使いは、いそいそとワゴンに食器を乗せ、
千栄理が置いて行ったハンカチを手に静かに出て行った。
井戸に着き、期待の眼差しを向ける
千栄理にポセイドンは槍を手に、井戸の縁をこんこんと二回叩いた。すぐに水位が上がり、水鏡が何かを映し出す。ゆらゆらと揺らめく水面が凪いでくると、そこには
千栄理の母の姿が映し出された。
「お母さん……!」
千栄理の母は丁度、電話を受けているところで、話しているうちにふと硬直し、口元に手を当て、そのうち立っていられなくなったのか、電話台に手を付く。そうして話を終えると、受話器を置いてその場にくずおれた。肩を震わせて泣いている母の姿に、
千栄理の目にもまた涙が込み上げてくる。
「お前が死んだと報せを受けたのだろう」
井戸を覗き込んでいる姿勢のまま、
千栄理も母と同じようにその場にくずおれ、流した涙が井戸の水面に落ちると、母の姿は波紋に掻き消された。その姿を追いかけるように水面に手を伸ばすも、無情に水鏡は元に戻ってしまう。絶望に打ち震え、井戸の縁に縋り付くようにして泣いている
千栄理の肩に、ポセイドンがおずおずと手を伸ばしかけた時だった。
「ポセイドン! お前さん、なーにをやっとんじゃ!」
声のした方へポセイドンが目を向けると、武器庫の扉のところにヘルメスとアレス、ヘラクレスを従えたゼウスの姿があった。