海神と迷子 7 ゼウスは
千栄理に近付くと、ポセイドンから彼女を離し、「女の子を泣かせるなんて、どういう了見じゃ!」と彼に向って怒りを露わにする。どうやら、ポセイドンが
千栄理を泣かせたと思い込んでいるようだ。これはまた面倒なことになったと、ポセイドンは内心で溜め息を吐く。しかし、その誤解は
千栄理の手によってすぐに解けた。
「あの、ゼウス様。ポセイドンさんは悪くないですよ? 私が勝手に泣いちゃっただけで……」
ポセイドンはむしろ、自分にとって良いことをしてくれたと説明すると、ゼウスは「え? そうなの?」と拍子抜けして
千栄理の手を放した。詳しい事情を説明すると、ゼウスは納得してくれたようで、取り敢えず、ポセイドンの部屋に行くことになった。
ポセイドンの部屋に戻り、勝手知ったるといった風にソファ席に座るゼウスとその脇に控えるヘルメスとアレス、ヘラクレス。アレスとヘラクレスは肩に担いでいた家具をそっと部屋の隅に置いた。一つは箪笥のようでエレガントな装飾で飾られており、もう一つは鏡台が付いた化粧台のようだ。当然、この部屋の主であるポセイドンに言及される。
「おい、なんだそれは」
「何って、衣装箪笥じゃよ」
「余の部屋に勝手に置くな。殺すぞ。そもそも誰のだ」
「誰って、
千栄理ちゃんに決まっとるじゃろ。女の子なのに衣装箪笥の一つも無いなんて、可哀想じゃろう? うちのヘラなんぞ衣装だけで城を一つ建てたんじゃぞ」
千栄理のと聞いて、肝心の本人は大変恐縮した様子で、「こんな高価な物を受け取る訳にはいかない」と言ったが、ゼウスは耄碌した振りをした。
「え? なんじゃ? よく聞こえんのう。あ、それとこっちはドレッサーじゃ。中に化粧道具も一式入っとるからの」
「う、受け取れないですっ! 今でも充分良くして頂いているのに……」
「ええんじゃ、ええんじゃ。女神達のお下がりじゃから。もう使わん物を持って来ただけじゃから、使ってやって欲しいぞい」
「で、でもぉ……」
「なんだ、人間。オヤジの好意を無下にするつもりか?」
それまで黙って聞いていたアレスが𠮟りつけるような口調で、
千栄理に迫る。その巨躯にびくりと彼女が少し怯えてポセイドンの二の腕を軽く掴むと、ゼウスが彼を制してくれた。
「まぁ、アレス。そうカリカリするもんじゃないぞい」
「そうですよ、アレス兄様。ここぞとばかりに偉ぶらなくてもいいじゃないですか」
「何を言うか、ヘルメス。オレは偉ぶってなどいない! この女がさっさと受け取らないのが悪いんだろう! それと、さっきから気になっていたが、不敬だぞ、人間! ポセイドン様を『さん』付けで呼んだり、腕を掴むなど……!」
アレスが凄めるのは、そこまでだった。ぎろりとポセイドンに殺気の込められた視線を向けられ、言葉に詰まる。それどころか、ぶるぶると震えてみるみるうちに青ざめていく。神同士の上下関係を間近で見せつけられると同時に、
千栄理は初めてポセイドンに恐怖を覚えた。思わず、掴んでいた手を放し、アレスと一緒になって謝ってしまう。
「も、申し訳ございませんっ! ポセイドン様!!」
「ご、ごめんなさい……ポセイドンさ……様。私、馴れ馴れしかったですか……?」
先程とは別の意味で涙を浮かべる
千栄理の頭に、ぽんと柔らかいものが乗せられた。ポセイドンの手だ。そのままゆっくり撫でられて恐る恐る彼の顔を見ると、あれほどの殺気は鳴りを潜め、いつもの無表情がそこにあった。
「お前はそれでいい」
それだけ言われ、
千栄理は安心すると同時に、何故この神が自分を選んだのか、少しだけ分かった気がした。
一方で、一部始終を見ていたゼウス達は皆一様に驚き、アレスなどは口をあんぐりと開けたまま固まっていた。それはそうだろう。あの誰も寄せ付けない孤高の神が、何の力も持たない人間の女をいとも容易く許し、殺さず傍に置いてあまつさえ、触れることまでも許しているなど、誰が想像できようか。ゼウスにとっても半分賭けであったが、良い方に転んだようで、一先ずは安心した。
「あの、失礼ですが、そちらのお二方は?」
「おお、紹介が遅れたのう。こっちの大きいのはアレス。そっちのムキムキしとるのは、ヘラクレスじゃ」
『ヘラクレス』と聞いて、
千栄理は色めき立った。
「ヘラクレスさん! ギリシャ神話のヒーローですね。初めまして、私、
春川千栄理と申します」
立ち上がり、ぺこりと頭を下げる
千栄理に、ヘラクレスも礼儀正しくお辞儀をする。
「その様子だと、もう知っているようだが、改めて名乗ろう。オレはヘラクレス。何か困ったことがあったら、遠慮なく頼ってくれ。力になるぞ」
「ありがとうございます! その時はよろしくお願いしますね」
そこで今度はアレスに向き直り、また律儀に頭を下げる
千栄理に対して、アレスは腕を組んで待った。
「初めまして、
春川千栄理と申します。アレスさんはオリンポス十二神の一柱で…………えっと……」
そこで言い淀む
千栄理に、アレスは無言ながらも、その眼差しが物語っていた。何か一つはあるだろう、有名な話がと。
「えっと…………えっと………………」
にこ、と笑い、
千栄理は申し訳なさそうに八の字眉で今度は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! それ以上は存じ上げません」
「ええっ!!?? おまっ……人間、お前……! ええーっ!」
信じられないとショックを受けるアレスと、その傍らで口元に手を当て、肩を震わせるヘルメス。どう見ても、笑いを堪えているようだが、堪え切れておらず、時折押し殺したような笑いが漏れている。流石のヘラクレスも苦笑いを浮かべ、ゼウスはいつの間にか用意されていたお茶を飲みながら、まったりとフォローを入れた。
「まぁ、それも仕方あるまい。お前さんとヘラクレスの戦いから随分、経っとるからのう」
「いや、でも、オヤジ。オレだって何か一つくらいは……! オレは軍神だぞっ!?」
アレスが慌てているうちに、ポセイドンが
千栄理の手を引いて座るよう促す。彼女はアレスを気にしながらも、素直に従った。尚も食い下がるアレスの肩にヘラクレスの手が置かれ、宥められる。
「まぁまぁ、アレス。これから知ってもらえば、良いじゃないか。
千栄理だって、悪気があった訳じゃない」
「そ、そうだが……何かへこむぞ」
「本当にごめんなさい……」
再度頭を下げる
千栄理に、アレスは「まぁ、うむ。もういい」と、許した。何度も頭を下げられると、悪い気がしてきたのだろう。ばつが悪そうな表情だ。一旦、話が区切られたところで、ゼウスが井戸でのことについて、
千栄理に話があると切り出した。
「
千栄理ちゃんには酷な話じゃがな。もうお前さんは下界の人間にとって、死んだ人間、霊じゃ。霊は思いの強さで、時折、下界に影響を及ぼす。一番分かりやすいのが、『呼ぶ』ことじゃ」
「『呼ぶ』……ですか」
あまりぴんと来ていない
千栄理に、どう説明しようか考えあぐねている様子のゼウスは少し間を置き、慎重に言葉を選びながら、話を進める。
「ああ、うーん……要するに
千栄理ちゃんが寂しくて寂しくて、家族や友達のことを思うとな。その思いが次第に力を持つ。お前さんが意識してなくとも、じゃ。そして、その力はいずれ、家族や友達のところに届き、本人を殺してしまう。それが『霊に呼ばれる』ということじゃ」
「……あ、私が、お母さんを……?」
自分が母を思えば思う程、母に死の影が近付くという事実に、
千栄理は衝撃を受け、自分の体を抱き締める。それは今、置かれている立場や状況よりずっと怖いことだと彼女は思った。ゼウスはそんな彼女に言い聞かせるように、少し身を乗り出す。
「こればっかりは何があっても変えられん。お前さん自身が強くなるしかない。天界にいても寂しくないように。…………一番良いのは、下界を忘れることなんじゃが、お前さんにはできんじゃろう」
「…………はい」
「
千栄理」
すっとヘラクレスが彼女の隣に来て、目線を合わせるように屈む。
千栄理は薄ら涙を滲ませながらも、彼の方へ顔を向けた。
「オレも、元々は下界の人間だ。オレは自分で天界に来たが、お前の気持ちは分かるつもりだ。大切な人と離れ離れになるのは、辛いだろう。でも、お前が
天界で毎日泣いているのは、お前の母も望んでいない。その気持ちは、お互いに同じである筈だ」
今は悲しいし、寂しいけれど、それは下界にいる母も同じ。母は
千栄理のことを思い、泣き暮れても、いずれは元の生活に戻らなければならない。
千栄理自身もそう望んでいる。しかし、彼女はそうではない。思うだけで、大切な人を死に追いやってしまう。そんなことをしてしまうくらいなら、寂しさなど耐えてみせなければならない。他の神々はいつも傍にいなくとも、ポセイドンだけはきっとこの先も共にいてくれるだろう。そう思うと、自分は決して孤独ではないと確信を持てた。今すぐにとはいかないが、
千栄理は出来得る限りの努力をしようと、ヘラクレスの言葉を胸に刻んだ。
「はい。ありがとうございます、ヘラクレスさん。私、頑張ります……!」
「よし、その意気だ!」
そっと掲げるように差し出された大きな手に、
千栄理はぱちんと手を合わせ、ハイタッチで返した。