海神と迷子 8※今回、最後におまけあります。
「さて、それじゃあ、本題に入るが、ポセイドン。お前さん、
千栄理ちゃんの部屋はどうするつもりなんじゃ? 取り敢えず、箪笥と化粧台だけはここに置いたが、場合によっちゃあ、増築って手も……」
「そんな予定は無い」
「ええ〜……だってお前さん、いずれは結婚するとはいえ、今から同じ部屋っていうのは、ちょっと、アレじゃろ〜?」
「待て。貴様、何故、結婚などと出てくる」
ポセイドンの発言に「ん?」と、その場にいる誰もが思った。ゼウスなどは「え? しないの?」と表情で語っている。
「余とこの雑魚は契りを交わしただけだ。それ以上のものは無い」
「いやいやいやいやっ! ウッソじゃろポセイドン! おまっ、お前さん、あれだけ
千栄理ちゃんを懐に入れといて、それは無いじゃろ!?」
「別に入れていない」
「入れとるじゃろがいっ!」
「ひぇ〜! こいつ信じらんねー!」という様子のゼウスに対して、
千栄理も何故かきょとんとしていた。
結婚。流石に意味は分かる。が、自分とこの圧倒的な存在感と力を持つ神が、そういった意味で結ばれるなど、今まで考えたことも無かった。というより、考える暇が無かったと言えよう。いきなりそんなことを言われてもあまり自分のことだとは、捉えにくかった。未だにポセイドンに喚いているゼウスに、
千栄理もそっと質問する。
「あ、あの……結婚、って?」
「ええ〜っ!?
千栄理ちゃんもなのぉ〜!?」
「まるで意味が分からん」と匙を投げそうになるゼウスだが、深く大きな溜息を一つ零して、頭を振ると、腕を組んで説明を始めた。
「全く、仕様のない奴らじゃの。ええか? 契りを交わした者同士が特別な関係になると、今朝言ったじゃろ?」
「はい」
「……」
「それが男女だった場合は特にそうじゃが、他の神や魔族からお互いを守るという意味でも、結婚することが推奨されておる。別に結婚したからと言って、子供を……」
「必要無い」
最後まで言わないうちに、ポセイドンがぴしゃりと話を切ってしまう。
「余にはそのようなもの、必要無い」
「いや、お前さんには必要無くても、
千栄理ちゃんはそうはいかんじゃろ。この子は普通の人間じゃし、お前さんと強い繋がりを持っておいた方が……」
「ならば、余が守ればいい」
ぐいと
千栄理の肩を引き寄せ、槍の切っ先をゼウスに向けてポセイドンは宣言した。
「余がこの女を守る。それさえできれば、異は無かろう」
あくまでも結婚しない意思を強調する兄に、ゼウスはどうしたものかと頭を搔いた。人間は弱い。特に天界では、先程彼が言ったように、他の神を始め、悪魔や天使、妖精などもいる。その全てからたった一人の人間を守るなど、いくらポセイドンが並の神ではないとはいえ、少々無謀に思えた。
「ポセイドン、人間は弱い。お前さんと契りを交わしたと聞けば、震え上がり、
千栄理ちゃんに手を出そうなんて思わぬ輩は多いじゃろうが、それと同じくらい、興味を示す者もおる。中には……言いたくないが、お前さんに恨みを持っている奴もいるじゃろう。そういう者達からその子を守るなど……」
「諄い。余に何度も同じことを言わせるな」
「ワシが……」
ムキ、とゼウスの痩せ細った体が一回り大きくなり、苛立たしげにテーブルに拳が置かれる。真っ白なテーブルに亀裂が走り、その拳の破壊力を物語っていた。ゼウスの怒りに、
千栄理はただ震えてポセイドンの服をぎゅっと掴み、ポセイドンは表情を変えることは無い。
「ワシがまだ喋っているじゃろうが」
「図に乗るな。稚魚め」
「おっ、おおおおオヤジっ! ここで争うのは、違うんじゃないかっ!?」
ポセイドンとゼウス、両者の圧に圧倒されながらも、怯えている
千栄理を見て、両者の間に入るという行動に移したのは、意外にも冷や汗をかいているアレスだった。彼も
千栄理と同じように僅かに全身を震わせ、表情は固く、明らかに恐怖していたが、
千栄理にとっては命の恩人に匹敵する程の功績を今積んだ神だった。ゼウスも息子と
千栄理の様子で察したらしく、ちらとアレスを見、「分かっとるわい」と渋々拳を下げ、元の老人の姿に戻り、座った。ゼウスから戦う意思が削がれるとポセイドンは槍を持ち直し、切っ先を天井に向ける。
「ワシはただ……
千栄理ちゃんには、幸せになって貰いたいんじゃよ」
「私、ですか?」
こくりと頷いて、ゼウスは口を開く。またポセイドンに引っ張られて
千栄理は着席した。
「選択肢を与えながら、実質無理矢理連れて来たようなもんじゃしのう。ワシは普通の人間の脆さを知っとるし、ポセイドンはこういう性格じゃろ? 心配なんじゃよ。お前さんが泣くようなことには、極力させたくないんじゃ」
「ゼウス様……。でも、ポセイドンさんが言うなら、大丈夫です。ポセイドンさんは優しい神様ですし」
「え?」
「え?」
「……え?」
暫しの沈黙。ポセイドン以外のギリシャ神は驚愕の表情のまま、
千栄理は訝しげな顔のまま、数秒。
「ポセイドン様が……」
「優しい……?」
辛うじてヘルメスとゼウスが呟き、顔を見合わせる。不思議でしょうがないという顔をしながら、ギリシャ神達はポセイドンへ視線を向ける。複数の視線を向けられても、海神は全く意に介さず、それどころか、退屈そうに眉を寄せて言い放った。
「用が済んだなら、帰れ」
「……仕方ないのう。今日のところは帰るとするわい。しかし、ポセイドン。
千栄理ちゃんとの将来のことは考えておいた方がええぞ」
何も応えないポセイドンに、特に気を悪くした様子も無く、ゼウス達は部屋を出て行こうとする。
千栄理は立ち上がり、部屋の扉を開けて彼らを通した。
「すまんのう、
千栄理ちゃん」
「いいえ。お見送りしますよ、ゼウス様」
「ほっほっ。こりゃラッキーじゃわい。じゃあの、ポセイドン」
彼の反応は期待していないようで、ゼウスはそれだけ言うと、ヘルメス達を率いて部屋を出た。
扉を静かに閉め、一同を見送るべく、後ろを歩くつもりでいた
千栄理だが、ゼウスに隣を歩くよう言われ、言う通りにする。
「もう城内を把握しているんですか?
千栄理さん」
「まだ全部ではないんですけど、玄関とポセイドンさんのお部屋くらいは覚えてます」
「ほっほっほっ。まだここに来て初日だしのう。それなのに、大勢で押しかけてしまって悪かったのぉ」
「いえ、気を遣って頂いて、ありがとうございます。衣装箪笥とお化粧台、大切に使わせていただきますね」
ヘラクレスも
千栄理の隣に来て、話しかけてくれた。
「
千栄理。機会があれば、人間達の街にも遊びに来てくれないか? オレの友達を紹介したい」
「えっ、街があるんですか?」
「ああ。この神域の下には人間達の国があって、そこには幾つか街があるんだ。時々、遊びに行くから、その時にでも」
「はい! 是非!」
後ろで何やらアレスとヘルメスがこそこそと話しているようだが、
千栄理にはよく聞こえず、気にしないことにした。
ゼウスとヘラクレスと話しているうちに、あっという間に玄関ホールに着き、見送りはここまででいいと言われ、
千栄理はアレスとヘルメスに道を譲る。
「ではな、
千栄理ちゃん」
「はい。また遊びに来てくださいね、皆さん」
ぎゅっとゼウスに手を握られ、
千栄理は彼を見た。ゼウスは神妙な顔をして、そっと零した。
「ポセイドンをよろしく頼むぞ。彼奴は周りの神から恐れられとる故に、お前さんを守れるが、彼奴自身を守ることには繋がらん。こんなことを頼むのは、気が引けるし、重荷かと思うが、どうかお前さんが架け橋になってくれればと思うとる」
神の架け橋。自信と確かな実力を兼ね備えている者なら、これほど誇らしい言葉は無いだろうが、
千栄理は違った。困ったように苦笑するも、すぐに秘めた不安が彼女の顔を曇らせる。
「私に、できるでしょうか……?」
つい弱気な発言をしてしまったことに、はっと気が付き、
千栄理は否定するように頭を振った。
「できるかどうかは分かりませんけれど、私、頑張ります!」
「頼んでおいて、あれじゃが、あまり思い詰めないようにな」
「はい。色々ありがとうございました」
「ゼウス様、そろそろ」
「おお、そうじゃな」
ヘルメスに言われて、ゼウスは
千栄理の手を名残惜しげに放す。玄関から離れても手を振り続ける
千栄理に、ゼウスとヘラクレス、ヘルメスは律儀に返しつつ、ポセイドンの居城を後にした。
「ええ子じゃろ?」
千栄理と別れて帰路につく中、ゼウスが息子達を振り返り、サムズアップする。
「何故、オヤジが自慢げなんだ」
「というか、ゼウス様。最後は
千栄理さんと手を繋ぎたいから、やったんでしょう?」
「あ、バレたかのう? だってどうせ繋ぐなら、男より女の子じゃろ」
してやったりと笑うゼウスに、一同は諦観の溜め息を吐いた。