海神と迷子 9 ゼウス達の姿が見えなくなると、
千栄理はポセイドンの部屋に戻ることにした。玄関扉をしっかり閉め、真っ直ぐ戻る。
部屋の扉をノックし、中から「入れ」と彼の声が聞こえると、「失礼します」と言って彼女は入室した。
「お見送りして来ました」
当たり前のようにポセイドンの隣に座った
千栄理は、少し考え、先程感じたことを彼に問う。
「あの、ポセイドンさん。私のことを守るって仰ってましたけど、どうしてそこまで?」
「愚問だな」
ポセイドンは
千栄理の髪を一房掬い、彼女の気を引く。彼女と目が合うと、答えた。
「お前は余のものだ。余が己のものをどうしようと、勝手だろう」
さも何でもないように言ってのけるポセイドンに、
千栄理は一言言ってやろうかと口を何度か開閉させたが、結局、怖気付いてしまった為、口を噤んだ。
それからはまたポセイドンに読み書きを習い、夕食を済ませた後、湯殿に行くと言うポセイドンに
千栄理は、了承の返事をした時だった。
「何をしている。早くしろ」
「へ? 何がですか?」
「……貴様は身を清めないつもりか?」
どうにも話が噛み合わないので、よくよく訊いてみると、なんとポセイドンは一緒に入る気でいたらしい。恋人同士でもないのに、どうしてそこまでしなければならないのかと慌て出す
千栄理に、ポセイドンは至って冷静に返した。
「余と共に入らなければ、死ぬぞ」
「どういうことですかっ!?」
「この城の湯殿は、余に合わせて造られている。故に足場が無い。身長の低いお前は溺れて死ぬ」
そう言われてしまうと、
千栄理は考えてしまう。一瞬、もしかしたら、嘘なのではないかと思ったが、この神がそんなくだらない嘘を吐くとは到底思えない。しかも、一緒に入るということは、必然的にお互い裸体のまま密着するということで、頭の中で想像しかけた
千栄理は、耳まで真っ赤になって顔を覆った。
「どうした」
「ど、どうしたじゃないですよぉ! い、一緒に入るって、それって、それって……うぅ〜〜〜〜」
顔を覆ったままその場に蹲り、芋虫のように身を縮こまらせる
千栄理に、ポセイドンは呆れて溜息を吐いた。彼女がそのまま動かないところを見ると、彼女の体と絨毯の隙間に腕を差し込み、ひょいと持ち上げて歩き出す。
「えっ? えっ? あの……」
彼女が何か言っているが、一切聞き入れずにポセイドンはゼウスが持って来た衣装箪笥の中からいくつか服と下着を見繕い、すたすたと部屋を出て、真っ直ぐ湯殿に向かう。
「下ろしてください! 自分で歩けますからぁ!」
やっと下ろされた時には、脱衣場に着いており、目の前でさっさと脱ぎ始めるポセイドンに、恥ずかしさから
千栄理は、叫んだ。その瞬間、がっとポセイドンの大きな手で頭を掴まれ、顔を塞がれる。
「煩い。喚くな、雑魚が」
「む〜! う〜!」
息ができずに、被さっている彼の手をぺちぺちと叩く。すると、存外簡単に手を退かされて、
千栄理は諦めることにした。ここまで来てしまったら、仕方ない。腹を括ろうと服を掴むも、目の前にいるポセイドンの存在に、どうしても抵抗を感じてしまう。
「ポセイドンさん」
「なんだ」
「恥ずかしいので、後ろ向いててください」
「貴様の体に興味は無い」
「無くても向いててくださいっ! それか、先に入ってください!」
「ちっ……」
全く世話が焼けるとでも言いたげに舌打ちをすると、ポセイドンはくるりと背中を見せて残りの武具と服を脱ぎ始める。
千栄理も彼に背中を向けて、おずおずと服を脱ぎ始めた。傍から見れば、二人きりで背中合わせに脱衣しているという奇妙極まりない光景だが、彼女の精一杯の抵抗である。
服と下着を全て脱いでタオルを巻き付けたところで、振り返る。しかし――
「ひやぁあああああっ! ま、前! ポセイドンさん、前隠してくださいぃ〜!!」
「喧しい」
千栄理がもっと男に慣れていたなら、彼の裸体を見てギリシャ彫刻のようだと思ったかもしれないが、生憎、今の彼女にそんな余裕は無い。今はただただ、異性と入浴するということ一点に対して、恥ずかしがっているばかりだ。これから毎日こんな生活を送らなければならないのかと思うと、心臓が持たない。また先程と同じように両手で顔を覆い、ポセイドンに背中を向けていると、またひょいと簡単に、今度は後ろから抱き上げられた。そのまま横抱きにされ、間近にポセイドンの顔が迫る。
「下を見たくなければ、余の顔でも見ていろ」
「あ……う……。…………はい」
流石にここまで来て、下ろせとは言えなかった。
千栄理はポセイドンの腕の中で縮こまり、言われた通りに彼の顔を見ていたが、今更ながら、間近で見るポセイドンの整った顔に、心臓の鼓動が早まり、頬に熱が集まる。ふい、と視線をそれとなく外す
千栄理を少し見つめ、ポセイドンは特に何を言うでもなく、洗い場に向かった。
洗い場に着くと彼女を下ろし、入浴前に湯で流すよう促す。
千栄理は胸元でタオルを押さえつつ、少し離れて体を流す。ポセイドンは神通力で湯を操り身を清めると、流し終わった様子の彼女を再び腕に抱いた。
広い浴槽に入ると、確かに水位が高く、ポセイドンの腕に抱かれている
千栄理の胸まで沈んでしまう程だ。彼が大きな窓に近い場所に立った時、漸く彼女は気付いた。
「あれ!?」
千栄理はいつの間にか自分の体に巻いていたタオルが無くなっていたことに気付き、ポセイドンを見上げるも、彼はこちらを見ようとしない。
「ポセイドンさんっ、私のタオル……っ」
「湯が汚れる」
「そっ、それは申し訳ない、ですけど……。で、でも、今お互い裸なのに……っ」
否応なしに自分の中でどんどん大きく聞こえる心臓の鼓動に、
千栄理はもうポセイドンと目を合わせることができずに俯いてしまう。
「見ろ」
指で顎を持ち上げられ、視線で窓の方を示される。そちらへ目を向けると、薄曇りの空に満月が昇っていた。降り注ぐ月光は柔らかく、優しい。星は無い、ただそれだけの夜空だったが、気を紛らわせるには充分だった。
「綺麗……」
「顔を合わせるのが嫌なら見ていろ」
「……ポセイドンさんが嫌な訳じゃないですよ」
「いちいち言うな、雑魚め。分かっている」
「〜〜〜〜っ! あのっ!」
ばっと弾かれたように顔を上げ、
千栄理は強気にポセイドンを睨んだ。睨むと言っても、殆ど他人と争ったことが無い彼女なので、全く怖くはない。ポセイドンは目を合わせてくれているが、全く興味を持っていないようにも見える。
「朝から思ってたんですけど! 『雑魚』とか『女』とかじゃなくて……」
そこで昼間の彼が発した殺気を思い出してしまい、自然と失速してしまう。遂に根負けしてしまった
千栄理は、また俯いた。
「名前で、呼んで欲しいです……」
「……それは、余に対する命令か?」
「命令じゃなくて、お願いです」
そこでポセイドンは、
千栄理を縁に座らせ、自分はその隣に立って、湯で前髪を撫で付けた。普段は見えない彼の白い額が晒される。
千栄理は、何となく両腕で体の前側を隠した。
「お前は存外、手が掛かる」
「なっ……!?」
言うに事欠いてそれかと思い、もっと何か言ってやろうかと口を開きかけた
千栄理をポセイドンは遮る。
「名で呼ばずとも、分かるだろう」
「そういう問題じゃないです! 嫌なんです!」
「何故だ」
「何故、って……だって、名前で呼ばれないなんて、何だか、ここに居ちゃいけないみたいじゃないですか。私の存在をポセイドンさんはずっと認めてないみたいで……」
「オレの目を見ろ! オレはお前の兄だぞっ! 敬意を払え!!」
かつて、同じようなことを言った者がいたなと、ポセイドンは思い出した。あの男も自分を認めろと、味方になれと言ってきた。恥知らずな、神ではない者。
同時に、
千栄理に少し失望した。この女も結局はあれや他の有象無象と同じかと。それまで映っていた
千栄理の姿が色を失っていくような気がして、ポセイドンは僅かに目を細めた。この程度の者なら、必要無い。殺すか。
「それに、寂しいし、悲しいです」
ぴた、とポセイドンは槍を呼び出そうとした手を止めた。彼の挙動に気付かずに、
千栄理は続ける。
「私、もっとポセイドンさんと仲良くなりたいです。もっとあなたのことを知りたい。折角、こうして出会えたんですから。そう思うのは、いけないことですか?」
「……知って、どうする」
「あなたと同じ時間を過ごしたいです。同じものを見て、感じたことを話したり、昼間にやった勉強みたいに、私の知らないことを教えてくれるあなたともっと一緒にいたいです」
「ダメ、ですか……?」と訊いてくる
千栄理に、ポセイドンは二回瞬きをして、一歩彼女に近付いた。
「余の全てを知りたいなどと、お前は存外、強欲な女だな。
千栄理」
頬に触れ、髪を少し退かされて耳元で囁かれる名前に、
千栄理は一際、心臓が高鳴るのを感じた。それ以上、何も言えずに俯く彼女をポセイドンはまたその腕に抱いた。