海神と迷子 10 それからは特に話すことも無く、
千栄理は未だに落ち着かない心臓を持て余しながら、体を洗い、また温まってから上がった。
脱衣場に戻って体を拭き、そういえばと、
千栄理はポセイドンが見繕った服と下着を確認する。下着まで彼に選ばせてしまったことに、申し訳なさと羞恥を感じながらも、一つ一つ見ようと籠の中にある緋色の服を広げて見た。
「……ドレス?」
さらさらとした緋色の生地のワンピース型のドレスだ。肩と胸を覆う形で、袖は無く、胸のすぐ下で紐を結ぶタイプだ。ここに来る前にポセイドンが衣装箪笥を物色していた時間がほんの僅かだったので、本当に目についた物を取って来たのかと思うと、
千栄理は益々申し訳なくなった。そもそも、自分が駄々をこねなければ良かっただけなのだが、全ては後の祭り。三着のうち、どれかに袖を通さなければならない。その覚悟を決めて、二着目を手に取った。
「わぁ、綺麗」
二着目は典型的なギリシャ風衣装のようで、端の方に金糸と藍染糸で葡萄蔓の細かいライン刺繍が施されているが、どう見ても一枚の布でしかない。着方すら分からない
千栄理は、畳んでそっと元に戻した。最後に広げて見たのは、真っ白な七分袖のワンピースだった。
千栄理はよく知らなかったが、これだけが寝巻きに該当するネグリジェだ。
白く柔らかで、仄かに水分を含んだようにしっとりしている生地に、胸元を包むようにあしらわれた様々な花の刺繍が民族衣装のような趣があって可愛らしい。刺繍の周りや袖口にはフリルが付いていて、ちょっと自分には可愛らしすぎると思った
千栄理だが、文句を言える立場ではない。三着のうち、これが寝巻きに相応しいとして、下着を確認する。服が真っ白なので、色物は透けてしまう可能性がある。下着も三着あったが、一着は紫と濃い色だったので、脇に置いて後の二着を見た。
一着目は薄ピンクの下着で、細かいレースが飾られている。骨盤から下を隠すように連なっている装飾に、少し嫌な予感がして、
千栄理はくるっとひっくり返してみた。
「こ、これは……」
彼女の思った通り、ショーツの背面はTバック、キャミソールはリボンのみで編み上げただけの物だった。ごめんなさい、さようならと思いながら、見なかったことにした。
最後はこれまた真っ白の下着で、過剰なくらいフリルが施されている。しかし、それ以外はショーツもキャミソールも目立って変わったところは無く、安堵しながら、
千栄理はそれらに袖を通していく。
下着を身に着けたところでポセイドンが上がり、濡れた髪もそのままに風が彼の体を包み、乾かしてしまうと、壁際に置いてあったコートかけに掛けてあった藍色のガウンを羽織る。彼がこちらを向かないうちに、急いで
千栄理はネグリジェを着てしまうと、髪を手で整えながらポセイドンへ向き直った。ポセイドンは少しじっと彼女を見つめ、特に何も言わずにそのまま何も無かったかのように脱衣場を出ようとする。
千栄理もその後ろ姿を追いかけて脱衣場を後にした。
彼の部屋に着いて早々、服を着たことで緊張の糸が解けたのか、急に眠気が訪れ、
千栄理は欠伸を一つした。それをポセイドンに見られていたことに気付き、少々恥ずかしそうに居住まいを正す。
「眠れ」
それだけ言って自分のベッドに行くよう促すポセイドンに、
千栄理は歯磨きをしてからと制止する。「早くしろ」と急かすポセイドンを宥めつつ、
千栄理は化粧台に近づき、引き出しを開けた。偶然か、ヘルメスが気を利かせてくれたのか、そこには歯ブラシが一本、袋に包まれて入っていた。隣には歯磨き粉もある。
それらを持って
千栄理は湯殿へ引き返し、大急ぎで歯磨きを終えると、部屋に取って帰った。部屋に入ると、ポセイドンは既に奥に置いてある天蓋付きのベッドに入っており、
千栄理は近づいた。青緑色のビロードカーテンが付いた天蓋は今はタッセルで留めてあり、開けられたままの状態だ。ベッドは広く、身長の高い彼の為に誂えた物だろう。
千栄理には、一回りも二回りも大きく、まるで高級ホテルのベッドのようで、内心気分が高揚していた。
「すみません、お待たせしました」
「入れ」
当然のように自分の隣を空け、毛布を捲って招く彼に
千栄理はえ、と意外そうな声を上げた。
「一緒に寝るんですか?」
「言っただろう。お前の寝る場所が無いと。早くしろ」
「じ、じゃあ、失礼します……」
ベッドに上がって毛布を上げ、横になる
千栄理。マットレスは適度に柔らかくも少し冷えていて、微かにポセイドンの香りがする。それに密かに緊張していると、彼女が横になったのを見てポセイドンはガウンを床に脱ぎ捨てた。再び彼の裸体を目にすることになり、
千栄理は驚いて上体を起こす。
「え? え? ポセイドンさん?」
「どうした」
「ど、どうしたって、なんで服脱いじゃうんですかっ!?」
「……余は眠る時、いつもこうだ」
「え、あ……そうなん、ですね。……や、やっぱり、私ソファで寝ます」
そう言ってベッドから降りようとした彼女をポセイドンは、彼女の手首を掴んで引き留めた。
「何故逃げる」
「だ、だって、ポセイドンさん、裸だし……その、恥ずかしいです」
「……湯浴みの時からお前はそればかりだな」
「普通は、恋人でもない男女が同じベッドになんて寝ないんです! ま、ましてや片っぽが裸なんて……!」
無表情だが、何を思ったのか、ぐいぐいとポセイドンに半ば無理矢理ベッドに引き込まれ、
千栄理は抵抗らしい抵抗もできずに抱き締められた。眼前に広がる肌色に、恥ずかしさから逃げようとする
千栄理だが、天蓋のカーテンを閉じられ、視界が真っ暗になる。
「何もしない。眠れ」
がっちり抱き締められているせいで観念するしかなく、
千栄理が押し黙ると、ポセイドンは眠る体勢に入る。ベッドの柔らかさ、シーツの肌触り、すぐ隣にある人の肌の温もりとポセイドンの匂いに、疲れているせいか、
千栄理の瞼はゆっくりと下がり、そのまますぐ眠りに就いた。
翌朝、髪を撫でる風の感触で目が覚める。ポセイドンは既に起きたのか、ベッドにはいなかった。
千栄理もすぐに起き、あることに気付いた。下界にいた頃よりずっと体が軽く、目覚めがすっきりしている。澄んだ、清らかな森の中にいるようで、
千栄理はすぐにでも体が動いたのだった。
裸足のまま、ポセイドンの姿を探すと、すぐに見つかった。彼はソファに座って読書をしているようだった。
「おはようございます」
千栄理が声を掛けると、ポセイドンは本を閉じて視線をやる。
「起きたか」
ソファ席には既に朝食の準備ができており、
千栄理はその光景を目にすると、大急ぎで歯磨きと洗顔をして来ると言い残して、脱衣場へ走った。寝起きのせいで、何度か転びかけたが、持ち直し、脱衣場に着くと、超特急の単語が脳内を駆け回り、早く早くと意識して済ませる。髪を手ぐしで粗方梳かし、軽く周りの掃除をしてから、これまた大急ぎで部屋に戻った。
戻って来るや否や、大慌てで席に座る
千栄理に、ポセイドンは「急がなくとも、逃げぬ」と口端に笑みを浮かべる。微笑ましいものを見るような態度を示され、
千栄理は子供扱いされたと思い、気恥ずかしくなって思わず言い訳のようなものを口にする。
「だって、ポセイドンさん、ずっと待っててくれたのに……」
「そうだな。余を待たせるのはお前くらいだ」
決して嫌味で言ったのではないと分かる柔らかな眼差しに、今度は別の意味で目を合わせられない
千栄理は、誤魔化すように「早く食べましょう」と言った。