海神と迷子 11 朝食を食べ終えると、ポセイドンは読書の続きを始め、
千栄理はネグリジェから着替えようと、衣装ダンスを開ける。
改めてじっくり見るのは、今日が初めてだ。昨日のようなことは避けられるよう、予め中を整理しておこうと思い立ったのだった。衣装ダンスの中は実に様々な服が掛けてあったり、奥の方に畳んで置いてあり、使われている色や生地も様々ある。奥の方の棚は全部で四段、手前の引き出しは四つ付いており、
千栄理はその中から比較的馴染みのあるような服を探す。
女神達のお下がりだとゼウスは言っていたが、服の系統も様々で、多くはギリシャ風の物が占めている。古典的なドレスから、辛うじて現代風と言える物までまちまちだ。やたら、フリルやリボン等が多いドレッサーな印象だということに目を瞑れば、だが。スカートが嫌いという訳ではないが、比較的動きやすい服装を好む
千栄理にとって、どれもこれも難易度が高い。この高難度衣装ダンスを何とか攻略しようと彼女が手に取ったのは、比較的胸元のフリルが大人しい白のヴィクトリアブラウスと黒地に小花柄のフレアスカート。もうこれで良いやという諦観も含まれた選択だった。
スカートの下に何か履く物を探したが、生憎と丁度いい物が無かったので、白の靴下とワインレッドのメリー・ジェーン――ストラップで留める丸みを帯びた女性用の靴――を履いた。きっと他人が着ていたら、素直に可愛いと思うだろうが、自分が着ると誰にともなく妙に恥ずかしい気になってしまう。化粧台に備え付けてある鏡で見ると、格好だけなら、どこかのお金持ちの令嬢に見えた。別に今日は外出の予定は無いが、化粧道具を確認しようと、引き出しを開けた。化粧台の引き出しは端の方に一列ずつ、真ん中に大きな引き出しが二つと収納が多い。
千栄理はまず、左の引き出しに手を添えた。
一段目はまるで世界中の筆を集めてきたかのように、ありとあらゆる筆が入っていた。極細い物から、一体何に使うんだと思う程太い物まで。二段目はこれまたありとあらゆるファンデーションとアイシャドウが入っていた。この引き出しの空間が歪んでいるのではないかとさえ思えてくる。それ程、中に所狭しという出で立ちであった。三段目はマスカラとビューラー、チークが何種類か入っていた。マスカラとチークはそれ程多くはないが、ビューラーだけが家庭の仕事にほとほと嫌気が差したご夫人が自分の持ち物を一切合切鞄に詰め込むように、一層戦慄を覚えるくらいの量が入っていた。開けた引き出し達を閉め切り、右の引き出しに近づいて開けてみる。
一段目には左の列の続きのようにまた大量のリップやグロス、口紅が入っていた。この化粧台を整理した女神様がもう自棄になったとしか思えない。二段目は髪を巻くアイロンがいくつか入っているだけだった。元々普通の人間だった彼女にとって、これ程落ち着く風景も無いと思ったが、よくよく考えてみたら、そんなに何種類もアイロンを持っていることは無かったなと思い直した。三段目は化粧の説明書きがこれまた化粧品のメーカーや種類ごとに一つ一つは薄い冊子だが、分厚く積まれていた。なかなかの重さで、開ける時に少々抵抗を感じる程だった。右の列もそっと元に戻して、
千栄理は最後に真ん中の大きな引き出し二つを開けてみた。
左の引き出しを開けると、部屋の中に一斉にざわめきが溢れてきた。驚いて咄嗟に閉めると、ざわめきも一緒に止む。
「……えっ!?」
千栄理の上げた素っ頓狂な声に、ポセイドンが振り返って視線をそちらに寄越す。一瞬、彼に一緒に見てもらおうか考えた
千栄理だったが、読書の邪魔をしては悪いと思い、思い切って引き出しを全開にした。がやがやと沢山の人の声が聞こえる。その多くは女性の声で、彼女は彼女の今までの常識をかき集めても理解し難い、到底信じられないものを見た。結論から言ってしまえば、引き出しの中に店がある。それもみんな化粧品を扱う店だ。引き出しの中に広がっているというよりは、引き出しが入り口になっているようで、どう考えても、引き出しの容量以上の空間がそこに広がっている。中では既に女神達や妖精達が楽しそうに買い物をしており、時折、こちらを見上げては
千栄理の驚いている顔にくすくすと笑って歩き去って行く。何だかすっぴんで外出した時のような場違い感と気恥ずかしさを覚え、
千栄理はそっと引き出しを閉めた。気を取り直して、右の引き出しを開ける。開ける際に身構えたが、右の引き出しには可愛らしいスマートフォンとメモ書き以外には何も入っていなければ、亜空間でもなかった。
「スマホ?」
スマートフォンを手に取り、隣に折り畳んであるメモ書きを広げてみると、ヘルメスのものだろうか、流麗な文字で以下のことが書いてあった。
ゼウス様のご好意により、
千栄理さんのお好みやお似合いの商品が分析できるよう鏡には専用AIも入っております。
お化粧に迷いました折には、是非鏡台のスイッチを押してみて下さいね。
後、何かと入用でしょうから、スマホも入れておきました。神々の連絡先が入っています。
どう活用するかは、
千栄理さん次第です。
遠慮はいらんぞ、チュッ♡
あ、折角じゃから鏡はポセイドン仕様にしといたぞい
多分、最後の一文はゼウスだろう。如何にもお茶目な彼が付け加えそうな文だ。
千栄理はその一文にふふと笑いながらも、気になる単語に疑問符を浮かべる。
「ポセイドンさん仕様?」
「なんだ」
いつの間に背後にいたのか、彼の声が聞こえ、
千栄理は驚いてびくりと肩を震わせた。ポセイドンは訝しげに眉を寄せ、何か言いたそうな表情をしていたが、特に何も発すること無く、彼女を見つめた。
「ゼウス様のメモに、この鏡に入っているAIがポセイドンさん仕様って書いてあったんです。だから、何かなって」
「彼奴め、余に断り無く…………起動しろ、確認する」
「あ、はい」
メモに書いてある通り、
千栄理はスイッチを探し始める。鏡台をよく見ると、下枠のところに四角く赤いスイッチがあった。試しに押してみると、パチッと軽い音がして鏡面が一瞬で黒くなり、何かウィンドウのようなものが浮かび上がってきた。書かれている説明を読むと、どうやら専用AIの見た目の設定について書いてある。曰く、下の表から自由に選べるらしいが、並んでいる名前がどれもこれも海の生き物の名前だ。これがポセイドン仕様かと
千栄理は合点がいった。
「あ、ポセイドンさん仕様ってこういうことだったんですね」
「……やたら、海牛が多いな」
「海牛さん、カラフルで可愛いですからね」
「人気なのか」
「だって、海の中でヒラヒラしていて、綺麗だし、小さくて可愛いじゃないですか」
「ほぉ」
表を指でなぞって下方を見ていくと、海牛の名前が続いた先に魚や哺乳類の名前が並んでいる。どれにしようか、
千栄理が迷っていると、脇でポセイドンがイルカにするよう勧めてきた。
「イルカさんですか?」
「そのうち、『お前を消す方法』なぞ、訊かないと約束できればの話だがな」
「そんな悲しいこと訊きませんよ。ん〜……でも、私、ゴマフアザラシの赤ちゃんも良いなぁって思ってるんですけど」
「存分に悩め。あれならば、仕方ない」
ふと、生き物の名前の横にプレビューのボタンがあるのに気付いた
千栄理は迷わずそれに触れ、ゴマフアザラシの赤ちゃんのプレビューを見てみた。画面いっぱいにゴマフアザラシの赤ちゃんのモデルが登場し、片方の前足を上げて可愛らしく挨拶してくれる。
「可愛い」
千栄理の思わず出た一言に、ポセイドンも納得するように頷く。その流れのままイルカのモデルを見ると、登場する際、何頭かで水面ジャンプをする映像の後、左からすいすいと登場するイルカに、
千栄理とポセイドンは思わず口元が緩んでしまう。
「この子も可愛いですねぇ」
「此奴には特別映像が付いているのだな」
「そうみたいですね。……え~、どうしようかなぁ」
「迷うなら、日によって変えれば良かろう」
「それもそうですね」
じゃあ、と
千栄理は迷わずゴマフアザラシの赤ちゃんを選び、ポセイドンは何かを訴えるようにじっと彼女の横顔を見つめていたが、彼女が気付くことは無かった。