海神と迷子 12※ご注意※
・本誌ネタバレががっつりあります。
・キャラ崩壊してます。
それでも大丈夫という方のみ次ページへどうぞ
化粧台の設定が終わった頃、コンコンと控えめなノックがされた。ポセイドンの許しが下りると、あの召使いが一人、恭しい仕草で入って来た。
「なんだ」
言葉を話せない召使いは、もう一度ぺこりとお辞儀をし、表面に何か景色のようなものを映し出す。驚く千栄理をそのままに、ポセイドンはいつもの無表情で見ていた。千栄理は見たことの無い、眼帯をした端正な顔立ちの銀髪の男だ。城門のところで召使いに何か話している。音声は届かないので、見た目の印象のみだが、千栄理は優しそうな人だと思った。それ程、彼は穏やかな表情をしていた。彼女が不思議そうに小首を傾げる。それとは対照的に、ポセイドンは少し考え、「通せ」と言った瞬間、がちゃりと部屋の扉が開かれ、今見た映像の男が同じ姿でそこに立っていた。
「久しいな、弟よ」
「弟……?」
「……」
千栄理が目の前の男とポセイドンを交互に見る。『弟』という単語から、彼はポセイドンの兄だろうことは簡単に推測できる。ポセイドンの兄。そこから弾き出される名前は唯一人。
「もしかして、こちらの方はハデス様ですか? ポセイドンさん」
「ほう。末弟からは聞いていたが、本当に人間の娘を飼っているとはな」
「何の用だ」
警戒するようにポセイドンは一歩、千栄理の前に出る。
「何用とは、随分な挨拶だ。お前よりそこの小娘の方が口の利き方を心得ていると見える。愛弟に会いに来るのに、理由が必要か?」
ぶっきらぼうなポセイドンとは対照的に、冥府の王ハデスは言っていることには棘があるが、全く仕方がない奴だと言いたげに綻ばせている。ポセイドンはその表情に何も応えない。彼の態度にハデスは別段気にした風も無く、部屋の中に足を踏み入れた。
お茶を出した方が良いのではないかとおろおろする千栄理に、すぐさま召使い達がやって来て、お茶の準備を始めた。テーブルにクッキーとマフィンという最低限の茶菓子が入ったバスケットが置かれ、無言で三人分のお茶が用意される。自分も同席していいのだろうかとポセイドンを見上げる千栄理を、彼は当然のように自分の隣に座らせた。その光景にハデスは一瞬瞠目するも、すぐに平然とした顔をする。
「何故、冥界から出てきた」
「言っただろう。愛弟に会いに来たと。というのは、まぁ、冗談として。今日はお前達を祝いに来た」
「…………何の話だ」
本当に意味が分からないという顔をするポセイドンに、ハデスはきょとんとした後、失笑した。
「何、と来たか。ふふふ。お前は相変わらず、面白い奴だな。そんなもの、お前達の結婚祝いに決まっておろう」
「貴様もか」
「ちょっ、ポセイドンさん。お兄さんに向かって、『貴様』なんて……」
慌て出す千栄理に、ハデスは微笑みながら手で制する。
「いや、いい。慣れている。恥ずかしい話だが、此れはわたしに対していつまでも反抗しているのでな」
「で、でもぉ……」
「ゼウスにも言ったが、余は結婚などしない。聞いていないのか?」
「……そうか。では、こちらから贈る物は何も無いな。折角、お前の花嫁のために用意したのだが」
すっ、とハデスが一枚のメモ書きをテーブルに滑らせた。そこには極小さな文字でずらずらと嫁入り道具らしき物の名前が載っていた。その夥しい量に、ポセイドンは完全なる真顔になってしまう。
「多過ぎる」
「何を言う。これでもだいぶ削った方だ」
「全く」と言いながら、千栄理の目の前に分厚いアルバムを置くハデス。彼女が興味を示すと、彼は懐かしそうな笑みを浮かべて説明した。
「何ですか?」
「我ら兄弟のアルバムだ。ポセイドンの赤ん坊の頃の写真も入っている」
「しまえ。そして、帰れ」
着実に外堀から埋めようとしてくるハデスをポセイドンは、一刻も早く追い返そうと睨むが、彼はどこ吹く風という様子で、アルバムを開いた。そこにはポセイドンがまだ赤ん坊だった頃の写真や少年の頃の写真が沢山保管されていた。金髪の癖っ毛に青い目のふくふくとした可愛らしい姿や本を読んでいる少し大人びた幼い横顔に、千栄理は思わず、素直に「可愛いですね」と零した。そんな彼女の前に置いてあるアルバムにポセイドンは手を翳して一部見えないようにする。
「見るな」
「えぇ、ダメですか? もっと見たいです。ポセイドンさんの思い出ですから」
「花嫁もこう言っているぞ、ポセイドン。観念しろ」
「せめて、余のいないところでやれ」
「では、別の部屋に移るか」
「本当にそうする奴があるか。今すぐ我が城から出て行け」
むすっとした顔をしても、決して槍を出さない辺りに、ポセイドンがそこまでハデスのことを邪険に思っている訳ではないと分かる。それとも、単に逆らえないだけなのか。あの傍若無人な海神が? と千栄理は内心思ったが、必死に表情には出さないようにした。
「なんだ、その顔は」
しかし、ポセイドンにはすぐにバレた。「何でもないです」と言った千栄理だが、すぐさま「今余計なことを考えたろう」と言い当てられてしまう。何かそれらしい言い訳を考えようとした彼女だが、誤魔化しにもならない笑いを浮かべるだけだった。
「ところで、わたしは花嫁の名前を聞いていなかったな」
「あ、ごめんなさい」
千栄理がにこやかに名乗ると、ハデスは一転して真剣な表情になり、手を組んで彼女を真っ直ぐに見つめた。
「千栄理、ポセイドン以外にそう簡単に気を許すな」
突然、そんなことを言われた千栄理は心底驚き、困惑する。彼女のそれまでの人生で、そんなことを言われたことが無かったからだ。母にはいつも明るく、誰にでも優しく振舞っていれば、今がどれだけ辛くとも、いずれ幸福があちらからやって来ると言われて育ってきたのだから、尚更だった。困惑しきりの千栄理の様子に、ハデスはふ、と表情を緩め、「お前は本当に純粋な魂だな」と零した。
「お前には難しいだろうが、そもそも神や、増してやここに住む人間など、お前にとって良い者ばかりではない。特にここではどれ程下らぬ思想を持ってお前に近付く者がいるか、分かったものではない。一見して邪念が無さそうな相手でも、必ずしもお前を害しない訳ではない。ただ、勘違いするな。皆が恐れているのは、あくまでもお前の背後にいるポセイドンだ。神の花嫁になるとは、そういうことだ」
「嫁じゃない」
「……はい、分かりました」
ハデスの言っていることは、分かる反面、千栄理は少し寂しく思った。本当に純粋に自分の味方と言えるのは、ポセイドンだけなのかと思ったからだった。彼女の不安げな表情を見て取って、ハデスは付け加えた。
「……ギリシャの神くらいは、信用していても構わん。わたしや弟を裏切るような愚か者は、まず、いないだろうからな」
気を遣ってくれたのだろうかと少し悪い気もしたが、それ以上に千栄理は嬉しくなり、努めて明るく「はいっ」と返事をした。
「嫁ではない」
少し蚊帳の外になってしまったポセイドンは、最後の抵抗とばかりにむすっとした顔のまま、もう一度呟いた。