海神と迷子 13※ご注意※
・戦闘シーンありです。
それでも、いいよという方のみ次ページへどうぞ
「さて、わたしはそろそろ帰るとしよう」
「二度と来るな」
「ポセイドンさん。ダメですよ、そんなこと言っちゃ」
何だかんだで昼近くまでいたハデスは、漸く重い腰を上げ、そのまま帰ろうとした。その背中に「置いて行くな。持って帰れ」とポセイドンがテーブルの上にあったアルバムを投げる。それを振り向き様、片手でぱしっと受け止めたハデスは、一瞬だけ何か含みのある笑い方をした。あんな分厚いアルバムを投げるポセイドンも人間離れしているが、それを片手で易々と受け止めたハデスも大概だ。外見こそ人間と同じだが、その身に秘めた力はやはり神なのだろうと、千栄理は暢気に考えていた。
「見送りは結構」と言い、ハデスはさっさと部屋を出てしまう。はっと気が付いた千栄理が、彼を見送ろうと扉を開けたが、既にそこに彼の姿は無かった。あまりの速さに驚き、諦めるも、召使い達がティーカップやバスケットを片付けているのを見て、千栄理も彼らを手伝うが、身振り手振りで断られてしまった。
昨日も彼女は思ったのだが、この城で過ごすに当たっては、やることが無い。家事は水の召使い達がやってしまうし、神々から戴いた物も全て見てしまった。さて、どうしたものかと考えていると、隣に座っていたポセイドンが徐に立ち上がり、手に槍を持つ。
「どこか出かけるんですか?」
何となくそう感じて声を掛けると、ポセイドンは千栄理の方へ振り向き、ぽそりと呟いた。
「海を見てくる」
「私も一緒に行って良いですか?」
少し考えてからポセイドンは「駄目だ」と言う。それに「えぇ……」と抗議らしい声を発した千栄理だが、物の見事に無視されてしまった。これからの時間が全くつまらなくなってしまうと思った千栄理は、殆ど無意識に彼の腰布を指先でそっと摘んだ。
「ポセイドンさんが行っちゃったら、寂しいです」
「………………途中までなら、許す」
ポセイドンの言う海は、どうやら下界の海のことで、前に一度だけ見せてもらったあの地底湖から行くらしい。地底湖を開いたところまでは見たが、今日はその中にポセイドンが行ってしまうと思うと、冗談ではなく、千栄理は寂しく不安に思う。二日目から早速一人で留守番をするというのは、まだ勝手がよく分かっていない彼女からすれば、あまり居心地の良いものではない。城内で唯一の頼りであるポセイドンと離れてしまうと考えただけで、心細かった。だから、ついぽそりと零してしまったのだ。
「どうしても、行くんですよね」
まじまじと見つめてくるポセイドンに、はっと我に返った千栄理は、「何でもありませんっ。お仕事頑張ってください!」と慌てて否定して離れようとした。迷わずその手を掴んで、ポセイドンはベッドへ近付き毛布を取ると、千栄理の体に掛けてやった。
「地下は寒い。これでも巻いていろ」
彼女が何か言う前に彼はそのまま片腕に抱き上げて退室し、地下へ向かう。地下への扉を開け、無言で階段を下るポセイドン。彼が歩く度、鎧と石畳がぶつかり合う金属音が響く。彼の体温が毛布越しに伝わり、千栄理はそっと彼の肩に頭を預けた。金属音に混じって、とくとくと聞こえるポセイドンの心音に、千栄理はひどく安心していた。そのままうとうとし始めた頃、「着いたぞ」と声を掛けられて千栄理は何とか夢見心地な意識を現実へ向ける。
地底湖は以前と変わらず青く清浄な水が満ち満ちており、時折、上からぽたりぽたりと落ちてくる雫によって波紋をいくつも並べていた。湖畔で下ろされた千栄理が息を吐くと、少し白くなって虚空に消えていく。寒い、と呟いてぎゅっと毛布を握った。
「余が行ったら、上に戻れ。ここにいる必要はない」
「大丈夫です。……待ってます」
湖畔に座り込む彼女に「強情な奴め」とため息混じりに呟いて、ポセイドンは湖を開く。またあの地響きと共に水飛沫と風が下から舞い上がり、千栄理の髪を撫でる。前と違うところは、下へ続く階段が現れたことだ。長い長い階段はずっと下まで続いている。下界の明るさに目を細める千栄理の頭を撫で、ポセイドンは彼女に聞こえるように、その耳元で囁いた。
「すぐ戻る」
彼女が静かに「はい」と答えると、彼は振り返らずに割れた地底湖の底へ歩き去って行った。
ポセイドンが完全に湖の中に入ると、湖の大きな口が閉じる。元の静けさを取り戻すと、千栄理はまたうとうとと船を漕ぎ出し、遂にその場に横になって目を閉じた。
「ポセイドンさん……早く、帰って来て……」
ごつごつとした岩肌の感触と手足を刺すような寒さの中、千栄理の意識は静かに閉じた。
湖を割って作った道をポセイドンは一人、下って行く。仕事を済ませてさっさと帰らなければ、あの寒さの中、脆弱な人間はどうなってしまうか分かったものではない。そこまで考えて、彼ははた、と足を止めた。神がたかだか一匹の人間ごときにこうも心を突き動かされ、行動にまで移させていることにポセイドンは漸く気付き、次いで何が自分をそうさせているのか、考える。
あの人間は脆弱だから、自分がいないと簡単に死んでしまうから。契った以上、守らなければならないという義務の為だ。……本当にそれだけだろうか。そもそも、孤高を貫いてきた自分がどうして、あの人間と契ったのか、彼にとっては不思議でならない。
「何故だ」
腹を空かせたらしい巨大なシーサーペントの顔が、湖の断面からぬう、と覗く。舌なめずりをするようにちろちろと出された舌をポセイドンは何の気なしに、持っていた槍でそれ毎顔を横半分に斬り払った。断末魔を上げる間もなく水の勢いに攫われ、死骸から噴出した大量の血が湖を真っ赤に染め上げる。その凄惨な有様にまるで見向きもせず、彼は歩みを止めない。頭に浮かぶのは、千栄理に関しての疑問ばかり。
「何故だ」
彼女の姿が見えないと、言い様の無い不安に似たものが込み上げる。神が不安など、感じる訳が無い。
また断面から怪物が覗く。今度はポセイドンの三倍はあろうかという巨大鮫だ。現代では既に絶滅した筈の、メガロドンと言われている種類の鮫だ。大口を開けて真っ直ぐ彼に突進して来る。
「何故だ」
彼女に悲しい顔をさせたくないと思う。なんの力も無い、取るに足らない存在の筈なのに。
断面から飛んで来た巨大鮫を腰を少し反らすという最小限の動きで避けて、槍を突き立てると、鮫は飛んで来た勢いのまま、真っ二つに切れて反対側の断面へ消えた。階段は長く、まだ下界には着かない。
「何故だ」
彼女には、笑っていて欲しいと願ってしまう。神が願うなどあろうものか。一体、何に願うというのだ。
ぎょろり、と水晶でできた巨大な球体がポセイドンを睨む。水を通して青く光る玉の中央には、真っ黒な核がある。否、よく見るとそれは水晶玉などではなく、巨大な目玉だった。何の意思も感じられないような空虚な目玉がぎょろぎょろと忙しない動きを繰り返し、彼に気味の悪い視線を投げかける。続いてその目玉の下からぬるりと現れ出でたのは目玉以上に巨大な吸盤の付いた触手。吸盤の一つ一つに細かい鉤爪のような突起が縁取られ、不気味で悍ましい姿を晒していた。この湖では狭すぎるせいであまり自由に動けないのか、クラーケンは二本の触手をポセイドンの前に突き出すだけだった。しかし、彼の気分を害するのには充分過ぎる程で、眼中に無いという様子でポセイドンは、目の前に広げられた触手共を槍で叩き潰し、貫いて粉微塵にした。悲鳴を上げるようにクラーケンが足を窄め、次いで怒りに燃えているのか、今度はポセイドン自身へ全ての触手を伸ばした。彼に届く直前、一瞬にして姿を消したポセイドンをクラーケンはその巨大な目玉で捜す。周辺にはいない。ぎょろぎょろと焦って捜していると、触手の動きが疎かになり、次に彼を見つけた時にはもう遅かった。すぐ目の前、二つの目玉の間にいつの間にか立っていたポセイドンは、何を言うでもなく、槍を突き立てるように持ち直し、そのままクラーケンの眉間に深く突き刺した。
「何故だ」
下界に着いてからも、疑問は増えるばかりで一向に晴れる気配は無い。けれど、不思議と嫌なものでもない。少し千栄理から離れて考えてみるしかないようだ。帰ったら、またあの笑顔が見られる。そう思うと、ポセイドンは、彼自身も知らないうちに口元を綻ばせているのであった。