海神と迷子 33※※ご注意※※
・キャラ崩壊
・他の夢ちゃんがいる
以上のことを踏まえて、それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
「やぁ、よく来たね。君を待ってたんだ」
くるりと回転椅子に座ったままこちらに体を向けたのは、黒一色という出で立ちの線の細い男だった。黒く短い癖毛は前髪が長いせいで片目しか見えておらず、その目も光は無く、どこか淀んでいる。黒い神父服のような丈の長い服にストラを掛け、一見すると、人間に近しいが、彼の耳がポセイドンと同じように尖っているところを見ると、人外のようだ。しかし、神とはまた違う重い雰囲気を纏っている。この男の容貌や纏う空気に千栄理は警戒し、出入口の扉から動かなかった。その代わりとでも言うように男は立ち上がり、どんどん彼女と距離を詰めていく。彼が足を進める度、千栄理は本能的に距離を取ろうと後退る。
「あ、あの……」
「君は早く用事を済ませたいだろうけど、僕は君に話があるんだ」
椅子から立ち上がり、男が一歩彼女に近付く。ただならぬものを感じて、彼女は一歩下がる。
「人間としての君に用は無い。僕が興味があるのは、あくまでも神嫁としての立場であり、その性質だ」
こつこつと黒革のブーツを鳴らし、また一歩男が近付く。千栄理はもう二歩下がる。
「神嫁、というのは極偶に誕生する神に見初められた魂のことだけれど、その性質には不思議な共通点があって、果たして君は一体どうなんだろうっていう観点からの興味なんだけど……」
元々椅子から扉まではあまり距離は無い。ひやり、と背中に金属のような冷たさを感じて、もう後は無いと嫌でも悟る。男は千栄理のすぐ目の前まで来て、止まった。
「ああ、自己紹介が遅れたね。僕はベルゼブブ。君達人間が言うところの……」
「悪魔だよ」と囁く声ととろりとした真っ暗な瞳に、千栄理は恐怖で気が遠くなるような感覚を覚えた。目眩に似た感覚もしたが、今彼女の体は扉に凭れ掛かるようにして立っている。支えがあるのに、倒れる訳が無いのに、背中に感じる冷たさと厚みは何の安心も得られなかった。徐にベルゼブブが顔を近付ける。それ以上、傍に寄って欲しくないと千栄理は床に座り込んでしまった。彼は少し腰を折っただけで、それ以上近寄っては来なかったが、じっと彼女を見る。品定めをしているような不躾な視線に抗議することもできず、彼女は心底怯えきっていた。嫌でも肌で感じる彼の底の知れなさ。悪意があるのか、無いのか、全く分からない、人間とも神とも明らかに違う気配に、千栄理は未知への畏怖を刻み込まれて支配されているのだった。
「君は本当に不思議なことに、純度が高い。たかだか人間の魂魄としては異常とも言える。君の生育環境や主観的体験を記録の上では見てみたけれど、情報としては不十分だ。だから、実際に話を聞いてみたくなったんだけど、その様子からはちょっと見込めないかな。こうして、僕と対面しているだけで恐怖に屈しているし、まともな話ができそうもない」
「鎮静剤を打とう」とベルゼブブの声が耳に届く頃には既に、千栄理の首筋に注射器が刺さっていた。
非常に慌てた様子で入って来た有翼人の女性に、プロテウスがどうしたのかと訊くと、女性は息せき切って報告した。
「ポセイドン様に……お伝えくださいっ……! 千栄理が……こちらの手違いで、ベルゼブブのところに……!!」
「ロキか……」
プロテウスがはっと気が付いた時にはすぐ後ろにポセイドンが佇んでおり、話を聞いていた。彼は今の報告だけで全てを理解したらしく、無言で槍を持ち出し、「少し出る」とだけ言って風のようにその場を去った。女性は間近で感じたポセイドンの圧から解放された拍子に、その場に頽れるようにしてへたりこんだ。自分は女性の介抱をしようと、プロテウスは水を飲ませるため、女性に肩を貸して中に招き入れた。
ふと、千栄理は目を覚ました。いつの間に意識を失っていたのか、まだ少しぼうっとする中、今の状況を認識しようと周囲を観察する。今は簡易ベッドのような物に寝かされており、意識はあるが、何故かひどく体が怠くて起き上がれなかった。
「あ、意識戻ったね」
「あ……う……」
ひょこっと視界の端から覗いたベルゼブブの顔に、何故か千栄理は恐怖を感じることは無かったが、何か喋ろうと口を動かしても言葉として意味を成さない。自由に話すことができない彼女に、ベルゼブブはあっさりと理由を説明した。
「今は君の意思で話そうと思っても、話せないよ。そういう術と薬を使ったからね。今の君は僕に訊かれたことに対してしか話せない」
「うぅ……あぁ……」
意識ははっきりしているのに、自由に話せない状況に千栄理はパニックになり、暴れようとしたが、指先一つ動かすことは叶わなかった。他にも薬か何か使われたのだろうか、医者でもない彼女には今の自分の体がどういう状態なのか、ベルゼブブに言われたこと以外見当も付かない。この男は自分をどうするつもりなのか、全く意図が分からず、千栄理は今すぐにでも逃げ出したくてたまらなかった。
「意識が無いうちに採血はしたから、君の体には今後一切触れない。代わりに今からする質問に正直に答えて」
「はい」
するりとさっきまで言葉にならなかった口が舌が、いとも簡単に勝手に動くことに千栄理は内心驚き、同時にとてつもない不快感を覚える。
「驚いた。君って心の底から素直な性質なんだね」
微かに瞠目し、そんなことを零したベルゼブブだったが、千栄理には関係の無いことだった。自分の意思を全く無視して、内面を暴かれようとしていることに、ひどく不愉快になっていた。こんな一方的なことが許されていいのか、この一連の行為は対話ですらない。まるで物のようだ。あまりの扱いに、千栄理は怒りを覚え、拒否の言葉を発したかったが、それすら今の彼女には許されない。たった独りで苦しんでいる彼女を無視して、ベルゼブブはバインダーに挟まれた書類とペンを手にベッド脇の椅子に座った。
「じゃあ、最初の質問。異類婚姻譚って知ってる?」
「遅くない?」
千栄理が中に入ってどのくらい経ったのか、体感でしか分からないロキだったが、もう一時間は経とうとしていることは確かだ。瞳に確認させるとかれこれ四十分は経過している。事前にベルゼブブから聞いていたのは、「話を聞く」ということだけだ。そんなこと、普通ならすぐに終わるだろうと踏んでいたから、ロキはちょっとした肝試しくらいの気持ちで彼女を一人で行かせたのだ。しかし、戻って来る気配が全く無い。流石にまずいと思い始めた時だった。
背後に何か気配を感じ、反射的に振り返ると、そこには怒り心頭という様子のポセイドンが黙って立っていた。いよいよまずい状況だ。ただでさえ、千栄理の姿が見えないのに、下手に正直に事情を話せば、今度こそ首が飛ぶ。ロキは至って何も知らない振りをした。
「あれ? ポセイドンさん、どうしたの? そろそろ仕事の時間じゃなかったっけ?」
「…………」
昨日とは打って変わって全くの無反応に、安易に近付くのは危険だと判断したロキは、さり気なく瞳を自分の後ろに退かせた。その一瞬。殆ど音も無く、肉迫したポセイドンの槍を、瞳を突き飛ばしながら、間一髪避ける。既に状況を知っているらしい迷いの無い刺突に思ったよりずっと状況は悪いと悟ったロキは武器を取り出し、次の突きを寸でのところで防御する。
「あっっっぶなっ! 急に何すんのっ!?」
話を聞く気も無いらしいポセイドンは、片方の短剣を槍で弾き飛ばし、ロキの首に槍の切っ先を押し当てる。眉一つ動かすこと無く、ただひたすらに殺すという意思を表してポセイドンは一言のみ言い放った。
「貴様らを罰しに来た」