海神と恋人 10 ポセイドンに対面した釈迦は一見無関心を貫きながらも、内心「何これ」と思っていた。
千栄理を彼の城まで送り届け、さっさと退散しようと思っていた釈迦だが、それより早くポセイドンと会うことになり、今は鬼みたいな形相で睨み付けられている。ここまで敵意を剥き出しにしてくるとは、余程
千栄理を気に入っているのだろうという考えに至りつつ、少なからず彼女に同情した。今からこんな調子では、今後
千栄理は苦労するだろう。「じゃ、オレ帰るね」と言って出て行こうとすると、服の端をぎゅっと掴まれ、「折角なので、少し休憩なさって行ってください。お釈迦様」と言われる。
ウソでしょ、
チェリちゃん。この状況でそういうこと言う? 普通。ちらとポセイドンちゃんを見ると、「まだいたのか」とでも言いたげに益々眉間の皺が深く刻まれる。わぁ、表情だけでこんなに「はよ帰れ」って言われたの初めて。う~ん……
チェリちゃんに何かあったら、助けようと思ってたけど、こういう関係なら大丈夫か。あ、でも、最後にこれだけ言っとこ。
別れ際、
チェリちゃんの頭に手を置いて、手ぇ乗せやすい子だなぁとか思いながら一言付け加える。
「
チェリちゃん。何かあったら、来なよ。話くらいは聞くから」
ちょっと驚いてたけど、すぐ
チェリちゃんは笑って会釈する。こういうところは素直で可愛い。
「はい。ありがとうございます」
「それと、ポセイドンちゃん」
「………………なんだ」
めっちゃ嫌そうだけど、今日のことを言っておかないと、
チェリちゃんが可哀想だから。
「今日遅くなったのは不可抗力だし、怒らないであげなね。あんまり縛り付けると、
チェリちゃん保たないし、たまには友達と遊ばしてやりなよ」
「黙れ。余に命令するな」
はあ? こっちの台詞なんだけど? だから、この神と顔合わせたくなかったんだよね。一瞬だけ睨み返してから「じゃ、そういうことだから」とだけ返して背中を見せたと同時にまた
チェリちゃんに呼び止められる。意外としつこいな、この子。首だけ回して振り返ると、ぺこりとお辞儀をしてから
チェリちゃんはにっこり笑って口を開く。
「今日はありがとうございました。お釈迦様、また遊びにいらしてくださいね。私も遊びに行きます」
「……
チェリちゃん、ポセイドンちゃん以外にあんまそういうことしない方が良いよ」
「え?」
不思議そうに首を傾げる
チェリちゃん。ああ、はいはい。分かってたけど、分かってないのね。りょ。今の一言で益々ポセイドンちゃんの殺気が凄いことになってきたから、帰ろ。巻き込まれるの嫌だし。最後に手を振る
チェリちゃんへ同じように返して、さっさとポセイドンちゃんの城を出た。早く家帰ってお菓子食べよ。
釈迦が行ってしまうと、ポセイドンは
千栄理の手を掴み、そのまま自室へ帰る。
千栄理は何度か転びそうになりながらも付いて来て自室のソファに座ったポセイドンの膝に乗せられた。
「彼奴はああ言ったが、何か言うべきことはあるか?
千栄理」
リュックも下ろさないまま、膝に乗せられた
千栄理は少し言いよどんだ後、「ごめんなさい」と頭を下げる。遅くなった理由を伝えると、ポセイドンはリュックごと彼女を抱き締め、「心配させるな」と零す。一度はあんな目に遭ったせいだろう。戦乙女達と過ごした楽しい時間の記憶は、ポセイドンの前では後ろに隠した方がいいものだと直感した
千栄理は、もう一度謝り、抱き締め返す。そこで夕食のことを思い出した
千栄理は、ポセイドンに済ませたかどうか訊いた。
「まだだ。……お前と共にしようと思っていた」
「じゃあ、食べましょうか?」
「……もう少し、このままでいろ」
「寝るの遅くなっちゃうので、それはちょっと」
「貴様……」
じと、と目が据わるポセイドンを宥めながら
千栄理は彼の膝から下りてリュックを下ろし、プロテウスを呼びに行こうと部屋のドアを開けたところでぐい、と背後に引っ張られる。
「わっ!?」
そのままベッドに放られるようにしてポセイドンに押し倒され、
千栄理は驚きに目を白黒させた。そのままポセイドンがのしっと覆いかぶさってきて抱き締められ、顔が見えなくなる。
千栄理の声が聞こえなくなったせいか、グレムリン達がリュックの中で騒ぎ出すが、リュックのジッパーを開けられないでいた。
「あ、あの、ポセイドンさ……」
「……か」
「え?」
「……余ばかり、お前を好いているようではないか」
顔は見えないが、語調からまた拗ねているのだと分かる。
千栄理も少しずつだが、ポセイドンの態度や口調から、彼が何を考えているのか分かり始めてきた。こんなことを口にしてしまったら、また「余の感情を騙るな」と怒られてしまうかもしれないので、絶対に言わないが。
千栄理はぽふぽふとポセイドンの金髪を撫でる。
「そんなこと無いですよ。私もちゃんと好きです」
「ならば、お前の方から口付けしてみせよ」
「じゃあ、こっち向いてください」
「……うむ」
厭に素直なポセイドンはベッドに埋めていた顔を横向けて眠そうに目を細める。そのまま大人しくキスを待っている彼に
千栄理は内心可愛いと思いつつ、ベッド周辺に誰もいないことを確認すると、ポセイドンの顔に覆いかぶさるような格好でちゅっと頬にキスを送る。
「足りぬ」
一度ではやはり満足しないらしく、
千栄理の手を取って二度目、三度目を所望されるので、その度に
千栄理は応えていると、いつの間にかポセイドンにキスの雨を降らせていた。二人きりとはいえ、それでも
千栄理にとっては恥ずかしかったが、他ならぬ恋人の頼みだ。断りたくはない。そうやってポセイドンが望むままに口付けていると、段々彼の機嫌は良くなっていき、これ以上無い程優しい表情をする。
「
千栄理」
「何ですか? え? わっ……!?」
「今度は余の番だ」
両肩を優しく掴まれたと思ったら、そのままくりんと体勢をあっさり逆転させられ、唇を塞がれる。ポセイドンの唇が少し離れると、
千栄理は困った笑みを浮かべて注意した。
「もう……いきなりはびっくりしちゃいます。……んぅ」
「ん…………嫌か?」
「ん……嫌じゃないですけど」
話している間も、ちゅっちゅっと何度も唇を合わせてキスを送られる。頬や額にしていた
千栄理とは違い、ポセイドンのキスは全て彼女の唇に送られるので、
千栄理の恥ずかしさは益々高まっていくばかりだ。その内、互いに手を絡め合い、ポセイドンがキスし易いように
千栄理は僅かに顎を反らす。彼女の意図を汲んだ彼はまた嬉しそうに微笑み、今度は無言でまたキスを送る。
「
千栄理」
「ん……はい」
何度目のキスか、
千栄理がもう数えるのを止めた頃、徐にポセイドンは口を開く。
「お前は余のものだ」
「はい」
「他の男の許になど、行くな」
その言葉を聞くと、
千栄理は可笑しそうにくすりと笑う。その微かな振動にポセイドンは再び眉を顰める。
「余は可笑しいことを言っているのか?」
「いいえ。ただ、ポセイドンさんみたいな神様でも、嫉妬してくれるんだと思って、嬉しいんです」
「…………雑魚が」
何事か言いたげな表情をした後、それだけ言うポセイドンに、
千栄理は「もう、またそんなこと言って」と窘めながらポセイドンの首に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。
「大好きですよ、ポセイドンさん」
「………………余も、同じだ」
珍しく少し積極的な
千栄理に、ポセイドンもそっと抱き締め返す。互いに相手が好きだと再確認したところで、ぱたん、と遠慮がちに部屋の扉が閉められた音がした。物音にさっと顔を上げたポセイドンの目には、なるべく音を立てないよう気をつけながら、夕食の準備を粛々と行っているプロテウスと召使い達の姿があった。