海神と恋人 14 渡された小瓶を手に、
千栄理は悩んでいた。これをポセイドンに飲ませれば、彼は前よりもっと自分を好きになってくれる。でも、そんなことをしていいのだろうか。それは、彼の気持ちを踏みにじる行為になってしまう。
「でも……」
思い出すのは、会場での彼の姿。たくさんの見目麗しい女神や妖精達に囲まれ、言い寄られても、ずっと黙り込んでいた。断る訳でもなく、ただ目を閉じて無かったものにしている彼。そのせいで、彼の周りから一向に退かない女性達。
「……ポセイドンさんは、本当は……」
私を伴侶にして、後悔しているのではないか。パーティが始まる時にはああいうことを言ってくれたが、本当は違うのかもしれない。私が隣にいれば、他の女性達から言い寄られることが無くなると思っていたから、告白したのかもしれない。でも、実際はそんなことは無くて。じゃあ、自分は役立たず?
一度、そう考えると、脳は勝手に関係無い事柄と今の感情を結びつけてしまう。どんどん悪い方にしか考えられなくなってしまった
千栄理は、胸の内に広がる不安と恐怖、焦りに掻き立てられ、居てもたってもいられなくなった。
「……ごめんね、ゲルちゃん。……ごめんなさい、ポセイドンさん」
ぎゅっと小瓶を握りしめ、
千栄理は控え室を出た。
一瞬、意識が落ちたベリアルは咄嗟に床に強かに右手を打ち付け、何とか意識を取り戻した。ベリアルの意識が戻ったと分かった途端、ラミアはまたきつく力を込める。
「しつこいわね! 早く落ちなさい!」
「くっ……! ぼくは、あの子を……
千栄理を神にするんです! 邪魔を、するなっ!」
とにかく喋って時間を稼ごうと彼は藻掻く。ラミアが暴れる自分に意識を向けている間に、ベリアルは外にいるであろうある神にテレパシーを送った。
「ブブくん、緊急事態です!」
「どうしたの、ベリアル」
気怠げな返事に神経を逆撫でされたベリアルだが、今はそんなことに構っていられない。外で待機していたある神ベルゼブブに簡潔に状況を伝えると、ベルゼブブは「分かった」と言って、最後に言い残していった。
「じゃあ、その女の相手よろしく」
一方的に切られた会話に、ベリアルは「やってやろうじゃないですかーー!!」と叫び、猛烈に暴れ出した。
「さて、まずはハデスさんに報告しなくちゃ」
会場にいるハデスにテレパシーを送れば、すぐ返事が返ってくる。事の詳細を掻い摘んで話せば、ハデスは難色を示した。
「余は動けん。弟二柱の相手で手一杯だ」
その一言だけでベルゼブブは諦め、次に会場にいるであろう救破に連絡を取る。女の扱いなら、あいつの方が適任とも思ったからだ。
「なんだよ、ベル。今、オレ、アフロディテちゃんと良いとこなのに」
テレパシーでそう送っている最中でも、救破は隣に座っているアフロディテに無視され続けていた。「私、美しくないものとは話したくないの」と言われてそれっきりだった。
そんなことどうでもいいと思いつつ、ベルゼブブが事情を話し、
千栄理を止めてくれるかと訊いた。
「やだ。お前の困ってるとこなんて貴重だし、面白ぇから、やらない」
この一点張りだった。ダメだ、こいつ。役に立たない。早々に見限って会話を切ると、彼は気付いてしまった。
「どうしよう。僕が行くしかないじゃないか」
襲い来る絶望にも似た感情に、ベルゼブブは深い溜息を吐き出した。こうしている間にも、
千栄理が会場に着いてしまうかもしれない。
仕方がないとまた溜息を零して、彼は会場へ足を向けた。
ポセイドンにこの薬を飲ませる。果たして、自分にそんなことができるのかと思う
千栄理だが、足は止まらない。手の中にある小瓶を見つめて歩く彼女の頭の中では、様々な思いと葛藤が渦巻いていた。
ふと、向かう先に明るさを感じて、彼女が顔を上げると、会場はもうすぐそこだった。この先に足を踏み入れてしまったら、きっともう引き返せないだろう。小瓶を持ったまま、もう一度女性達に囲まれているポセイドンを見てしまったら、確実に飲ませてしまうだろう。
入ろうかどうしようか、入り口の前でもたもたしている
千栄理の背後から、聞き覚えのある声が掛けられた。
「どうしたの」
「? あ、なたは……」
振り返ったその先にいたのは、ベルゼブブだった。依然と変わらず、異様に高い身長に圧倒されそうになった
千栄理だが、あの時とは少し纏う雰囲気が違うと思い、いくらか態度を軟化させる。
「あなたも、いらしてたんですね」
「…………行かないの?」
「え?」
すっ、とベルゼブブは会場の奥を指す。一番奥にはポセイドンと自分の席がある。しかし、
千栄理はなかなか足を踏み出せずにいた。原因は分かっている。まだ自分の中で迷いがあるのだ。それを見透かしたように、ベルゼブブは手を差し伸べる。
「な、なんですか?」
「それ、要らないなら、僕が預かるけど」
「それ」と言われて手の中に視線を移される。ラミアから渡された小瓶のことを言っているのだと、そこで分かった。
「あ、えっと……」
すぐに渡すことができなくて、
千栄理は咄嗟にぎゅっと握り締めてしまった。その行動に、ベルゼブブは僅かに眉を顰める。
「……キミはそれでいいの?」
「え?」
予想外の言葉に、思わず
千栄理は顔を上げて彼をまじまじと見た。相変わらず、何を考えているのか分からない無表情で、ベルゼブブは続ける。
「僕にとってはどうでもいいけど、キミにとって、ポセイドンさんとの関係って、その程度のものだったの?」
どきり、と心臓が跳ねた。真っ直ぐぶつけられた質問に、はっきりと
千栄理は己の罪悪をまざまざと思い知らされた。もしかしたら、自分はとんでもないことをしようとしているのかもしれない。そう思うと、手の中にある小瓶こそが自分とポセイドンの関係に罅を入れてしまう物に見えた。
「わ、たし……私は…………ポセイドンさんを、信じます!」
思い切って小瓶をベルゼブブに渡すと、彼はふ、と口端に笑みを乗せた。
「賢明な判断だね。これで今回の実験はお終い」
「……実験?」
「そう。今回は人間の誘惑に対する耐久性の実験。この小瓶の中身は惚れ薬なんかじゃないんだ。キミは誘惑に打ち勝つことができた人間っていう結果が取れた」
そのまま去って行こうとするベルゼブブの背中に、
千栄理は思わず声を掛けた。
「あのっ、あ、ありがとうございました! ベルゼブブ、さんのお陰です」
千栄理に嫌われているという自覚があった彼は、ぴたりと立ち止まり、のそのそと振り向く。
「……なんでキミに礼なんて、言われなくちゃいけないの? 僕のこと、嫌いな筈でしょ」
「あっ、それは、あの……でも、ありがとうございます。あなたがいなかったら、きっと私、とんでもないことしちゃってたかもしれませんし。助けてくれたので」
そこでベルゼブブはわざとらしく溜息を吐くと、彼女に向き直った。
「キミって、重度のお人好しなの? それとも、重度のバカなの?」
「ばっ、バカじゃないです!」
「いや、バカでしょ。惚れ薬だって言われてほいほい信じて使おうとするんだから」
「使ってないです! もう!」
「それに、一度助けてもらったくらいで、よくそんなに警戒心解けるよね。助けてくれたからって、そいつが必ず良い奴とは限らないのに」
「それは、だって……私は、信じたいんです。助けてくれた人や神様のこと。今は無理でも、いつか分かり合えるって。だから……だから、いつか、あなたとも、お友達になれたらって思うんです」
「……僕のこと、何も知らないくせに」
「それはあなただって! 同じ、じゃないですか」
「奇遇だな。お前も俺を知らねぇらしい。つまりは、俺達きっとウマが合う!」どこかでそんな声が聞こえた気がした。
「ルシファー……?」
「え?」
はっと我に返ったベルゼブブは、驚愕と懐古から一転していつものどこか陰鬱な空気を纏う。
「僕はキミと友達になんてなれないし、なるつもりも無いよ。もういいから、早く
明るい方へ行きなよ。キミは、
暗い方へ来ちゃいけない存在なんだから」
それだけ言ってベルゼブブはさっさと立ち去ってしまった。その寂しさも悲しみも全て背負ったような後ろ姿を、今の
千栄理はただ見送ることしかできなかった。