2/26「終末の宴2」展示短編集新作
東屋の秘密…次ページ
二人の時間…3ページ
海神の口笛…4ページ
既作
狩人の月…5ページ
彼の耳(千栄理視点)……6ページ
ある日の配達……7ページ
いつからか、中庭の隅にある東屋には、毎日のように一つの籠が置かれるようになった。
最初に気が付いたのは、千栄理が庭の手入れをしている最中で、東屋の小さなテーブルの上にちょこんとそれはあった。清潔な布を被せられていたそれに、千栄理は少し警戒しながらも、そっと捲って中を見る。中に入っていたのは、小さな箱だった。表面にヘスティアの店名と炎のマークが入っていたので、店で売っているお菓子の箱だと分かる。いつからここに置いてあるのか分からない上に、誰が置いたのかも分からない。布を退けて、他に手紙などは入っていないか確認するも、籠の中身は封が切られていないお菓子の箱が一つだけ。普通の人間であれば、この時点で籠を元に戻し、見なかったことにするだろうが、千栄理はそうしなかった。
もしかしたら、ポセイドンへの贈り物かもしれないと思った彼女は――これまでも何度か、女神や妖精からポセイドンへの贈り物を渡すよう預かったことがある――籠の中に丁寧に折り畳んだ布を入れて、ポセイドンの部屋へ向かった。
ポセイドンに籠のことを訊いて実物を見せると、彼は少し籠を調べてからふ、と口元に微かな笑みを浮かべた。その表情を見て不思議そうな顔をする千栄理に「安心しろ。毒は入っていない」と言い、彼女に返した。
「それは余にではなく、お前への贈り物だろう」
「私に? でも、何方からでしょう?」
「さぁな。扱いはお前の好きにしたらいい」
それ以上、ポセイドンは何も言わなかった。言葉通り後は千栄理に任せる、ということだろう。丁度、休憩を取ろうと思っていた彼女は、有り難く紅茶と一緒にお菓子を食べることにした。ちょっとだけ不安に思ったが、ポセイドンが大丈夫と言うのだから、害は無いと判断したのもある。
翌日にも籠は置いてあった。昨日と寸分違わぬ景色に一瞬、千栄理は昨日のクッキーは夢だったのかと疑いそうになるくらいだ。しかし、また布を捲ってみると、クッキーは夢ではなかったと千栄理は確信した。今日は花束が入っていた。全てこの中庭には無い、赤や黄色といった派手で賑やかな色とりどりの花が摘まれてそのまま入れられている。可愛らしい花籠に千栄理は喜んで、ポセイドンにも見せようと城の中へ持ち帰った。
また次の日にも籠はあった。今度は赤ワインのボトル。酒に詳しくない千栄理はその酒がどれほど価値のある物かは全く分からないが、どちらにせよ高級そうな物に、受け取ろうかどうしようか迷ったようだが、誰からの物なのか分からない以上、返す宛が無い。仕方なく、彼女はワインボトルをポセイドンのところへ持って行った。
「またあったのか」
部屋に戻ってワインボトルを見せると、ポセイドンは少し考える素振りをして、受け取った。
「はい……流石にそんな高価そうな物は受け取るべきか、ちょっと迷ってしまって」
「そうだな。確かにこれはなかなかの物だ」
「お菓子とお花のお礼も言えてないですし、こっちでも何か……あ、お手紙を書いて籠に入れておいたら、きっと読んで頂けますよね?」
「手紙か。ふむ……そのくらいなら、許す」
「許す」という言葉に少々の違和感を抱いたが、特に追及することも無く、千栄理は便箋と封筒を持ってきて、ソファ席に座り、考え考え書き出していった。
手紙を書き終わると、封筒に入れてしっかりと封をする。籠の中に手紙と布を入れると、東屋のテーブルに置きに行った。
その後も名も知らぬ誰かからのプレゼントは置かれ続け、千栄理はその度、お礼の手紙を返した。時には手紙の他にお菓子を一緒に入れたりしていたが、返事は一切無く、代わりにプレゼントが置かれるばかりだ。
何度目かのプレゼントを受け取り、千栄理はポセイドンにぼやく。
「一体、どこの何方なんでしょう? できるなら、お礼は直接言いたいんですが……」
「さて、余も知らぬ。知らぬが、それなら受け取らなければいいだろう?」
「それは……だって、受け取って欲しいって思って置いて行ってくれている訳ですから。次の日になってもそのままなのは、私だったら、悲しいですよ。だから、それはできません」
「なら、諦めることだな」
ポセイドンの柔らかな表情に、未だ少し納得いかないが、それならいつか、自分の前に現れてくれるかもしれない誰かのことを待っていよう、と千栄理は思うのだった。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音がする。黒く大きな暖炉の中で踊る火は不規則に形を変え、黒い瞳に映る。もう終わった失敗作に関する資料を破いて、ただ無心に火の中へ放り込む男神ベルゼブブの背後に、一柱の神が歩み寄る。
「またポセイドンさんのところに行って来たの。アダマンティン」
ちら、と目だけで振り返るベルゼブブ。彼がアダマンティンと呼んだその神は、異様な姿形をしていた。虫を模した半機械の体、ノイズが混じる低い声、かつての征服神としての面影を多分に残す神は、ふんと横柄な態度で鼻を鳴らし、「お前には関係ねぇだろ」とぶっきらぼうに言う。
「それにしても、キミに花を贈る趣味があるとは思わなかったよ」
「うるせぇな、見てんじゃねぇよ」
元々そんなに交流も無ければ、仲が良い訳でもない二柱の間に、暫しの沈黙が流れる。ふと、ベルゼブブは横目でアダマンティンを見、その手に持っていた可愛らしい封筒に目が留まった。
「それ、何?」
「あ? ああ、昨日回収したやつん中に入ってた」
「ふぅん。あの子から?」
「なんでお前に教えなきゃなんねぇんだよ。これは、オレだけが持ってりゃいいもんだ」
乾いた擦れた音を立てて、アダマンティンは封を開け、一枚の便箋を取り出す。読みやすい大きさの文字で丁寧なお礼とできれば直接言いたい旨が書いてある。結びの言葉の後には『春川千栄理』の文字。だが、彼に直接会うつもりは無かった。
「何もあんな回りくどいことしなくても、直接会いに行けばいいのに」
「それは、できねぇ」
「……どうして? キミは僕と違って自由じゃないか」
かつて、「神ではない」と断ぜられ、オリュンポスの神々の座から堕とされた神は、極力ポセイドンと自分は会わない方が良いと思っていた。自分の存在が弟に悪い影響を与えるとか、天界を支配しようとした罪悪感があるとか、生憎とそういった理由ではない。
「合わねぇんだよな、オレとポセイドンはよ」
そう、彼は気が付いてしまった。あの日、ポセイドンに自分の味方になるよう言った日に、彼は弟の手によって胴を裂かれたあの日に、真っ二つになった自身の体をぼーっと見つめながら思ったのだった。自分とポセイドンは元々の性質からいって、合わないのだと。それだけだ。
「だから、オレは様子を見るだけで良いんだよ。……まぁ、兄貴として弟を見守るのは当然だからなっ!」
珍しく、何か思い詰めたような表情をしていたので、何か重い理由があるのかと思っていたベルゼブブは、予想の遙か斜め下をいく回答に内心心配して損したと思った。しかし、それをおくびにも出さず、むしろチベットスナギツネのような顔で「あっ、そう」とだけ言っておいた。
ガリガリとペンをひたすら動かす音が響き、ポセイドンはただ無心で大量の書類に目を通し、サインをしていく。三日前からずっとこの調子で、神の肉体を持つが故に睡眠を摂らなくても、仕事ができてしまうので、千栄理は心配していた。時折、お茶を持って行くついでに様子を見たり、寝るよう声をかけたりしていたが、返事をするばかりで、全く効果は無い。
しかし、今日こそは何としても寝てもらわなくては、彼の体が心配だと固く決意し、千栄理はまたお茶を淹れて持って行った。
「ポセイドンさん、どうぞ」
「ん」
顔を上げず、最低限の返事をしたポセイドンの斜め後ろにそっと回った千栄理は、少しの間じっと彼の顔を見ていたかと思うと、いきなりぎゅっと抱きついた。そこで漸く手を止めたポセイドンは、濃い隈ができた目で彼女を見る。顔は確かにこちらを向いているのに、その目はどこか焦点が合っておらず、遥か遠くを見ているようにも見えた。痛ましい姿に千栄理は眉を下げて訴える。
「……なんだ」
「ポセイドンさん、寝てください。私にこんな簡単に後ろを取られちゃうなんて、体が弱ってる証拠です。一度、ちゃんと寝た方が良いです」
「…………………………。大丈夫だ」
「あ、今意識失ったでしょ! ダメです。寝ますよ」
もう限界らしく、瞼は半開きでその中の黒目は時折、あらぬ方向を向く始末。これは危険だと思った千栄理は、ポセイドンの手からペンを奪い取ってデスクの上に置いた。
「千栄理、余に構う――」
「構います! ほら、寝ますよ、ポセイドンさん。寝るまでお仕事禁止です!」
ぐいぐいと彼の手を引いて、強制的にデスクから離す千栄理。彼女に引っ張られてふらふらと、ベッドまで辿り着いたポセイドンは、そのままなだれ込むように千栄理を抱き締めてベッドに倒れた。
「わっぷ!? ぽ、ポセイドンさん!?」
「んぅ……」
もそもそと千栄理を腕に抱きつつ、手探りで毛布を掴むと、ポセイドンは頭から被った。薄暗い毛布の中で間近に感じる恋人の温もりと安心する匂い、肌の感触に未だ慣れず、どきどきと胸の高鳴りを感じていると、はっと千栄理はあることに気が付いた。
「ポセイドンさん、靴! まだ脱いでないですよ!」
「むぅ……」
千栄理に言われて、怠そうに一度起き、乱雑に靴と腰布を脱ぎ捨てると、ポセイドンはまた千栄理を抱き締めて眠る体勢に入る。引っ張り込まれる瀬戸際に千栄理も何とか靴を脱ぐことに成功し、大人しく彼の腕に収まった。
再び薄暗い毛布の中に舞い戻ると、ポセイドンは非常に眠そうな顔ながらも、千栄理を自分の方へ向かせ、その小さな唇にキスをする。触れるだけのものだが、いつもより少し長めで間隔が短い。突然のキスで千栄理が気を取られている隙に、ポセイドンは自分の足と彼女の足を絡めた。ちゅ、ちゅ、と音を立てて何度も何度もされるがままになっていると、段々呼吸ができなくなり、千栄理は彼の胸に手を突っ張って離れた。
「息できないです……っ」
「許せ。お前に触れたまま、眠りたかった」
僅かに千栄理の腕から力が抜かれたのを見逃さず、ポセイドンは千栄理の手を掴んで横に退けると、更に身を寄せて彼女の首筋に顔を埋めた。丁度目の前にあった鎖骨にもキスをするばかりか、ペロッと舐めてきたポセイドンに、千栄理は「ひゃっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「エッチなことしないでくださいっ」
「お前が愛いのが悪い。余はお前に触れていたい」
「もう……じゃあ、舐めるのはダメですけど、キスなら良いですよ」
「ん」
晴れてキスの許しが出たところで遠慮なく何度も鎖骨や首筋に送られる。くすぐったいが、ポセイドンが眠るまでの辛抱だと思い、千栄理は気を紛らわせようと、彼の金髪をふわふわと撫でた。
そのうち、うとうとしてきたポセイドンは、普段は絶対に見せない惚けた顔をして、ゆっくり瞼を閉じ始める。完全に閉じる直前に、彼は彼女にしか聞こえない声で言った。
「……千栄理、愛して、いる」
「……ポセイドンさん?」
やがてくうくうと聞こえてくる寝息に、千栄理は苦笑を漏らすと、引き続き彼の髪を撫でながら、「私もですよ、ポセイドンさん」と小さく呟き、ポセイドンの額にちゅ、とキスを送った。
翌日、丸々一晩寝てしまったポセイドンはやはり眠ったことを少し後悔していたが、腕の中ですやすやと眠る千栄理の寝顔を見られたので、良しとした。加えて、あんなに進まなかった仕事が嘘のようにどんどん減っていく様を見て、驚くと同時に、時々は彼女に癒やされるのも良いのかもしれないと密かに考えていた。
その後、眠る直前のことは覚えていないらしいポセイドンの様子に、千栄理は密かに微笑みを零す。普段絶対他人に見せられない姿を、自分の前では簡単に見せてくれたと恋人の特権を感じた嬉しさが、ちょっと表に出てきてしまったからだった。
最近、ポセイドンは遊戯室でゲームをする時、必ず千栄理を膝の上に乗せるようになった。彼女をここに入れて以来、ずっとそうしている。大人しく彼の膝の上に乗っていれば、その他に何をしていても、特に何か言われるようなことはない。だが、一度膝の上から降りようとすると、「どこへ行く」と必ず少し睨まれながら問われるので、彼女はその度、「お茶を取りに行きますので」とか「ちょっと御手洗に行きたいです」と答えて部屋を出入りしていた。
用事を済ませて帰ってくると必ず手招きされ、膝の上に戻ると頭の上に顎を乗せられてぎゅっと一度だけ抱き締められる。まるで、ぬいぐるみのように扱われているが、特に千栄理は気にしていなかった。密かに「ライナスの毛布みたいだなぁ」とは思ったが、それだけだ。
彼がゲームをやっている間、千栄理は特にやることも無いので、時々お菓子を摘まみながらぼーっと目の前のゲーム画面を見ているしかない。ポセイドンがやるゲームというのは、千栄理にはよく分からないが、一人称視点のアクションゲームだというのは分かる。襲いかかってくる敵を一撃も受けずに槍で次々倒していく様は、かなりの上級者だとゲームをあまりやったことの無い千栄理でも容易に分かった。
そうして圧倒的な力で敵を薙ぎ倒していると、ポセイドンは必ずすることがある。今回も例に漏れず、いつものように始まった。
「……」
微かに唇を開け、呼気と共にメロディを紡ぐ。千栄理はポセイドンの口笛が好きだった。気分が高揚している時にしかやらないので、強請ってもなかなかしてくれない。だから、彼がこうして自然と口笛を吹いてくれるのを千栄理はただ待っている。
紅茶を飲みながらひたすら待つ時間も、彼女は好きだった。彼と結ばれてからはこうして待っている何気ない時間さえ、愛おしく感じる。きっとこれが幸せなんだろうなと、千栄理は毎日が奇跡で溢れているような心地さえしていた。
ポセイドンが紡ぐ旋律は、どこか物悲しくも切なく安心感があって、何とも言えない趣がある。もっと機嫌が良くなると口笛はハミングになり、千栄理の髪に指を通すようになる。おそらく彼は無意識にそうしているのだろうが、いつになく優しいその手つきに髪や頬を撫でられ、頭上から流れてくる心地よい旋律に、千栄理は次第にうとうとと船を漕ぎ出す。大好きな人に存分に触れられながら眠りに落ちるのは、千栄理だけが知っている幸福だった。
ある日、仕事を終えて空いた時間は中庭の手入れや趣味の時間などに充てている千栄理は、その日も庭いじりをしていた。片手に持ったゴミ袋の中にむしった雑草を入れている時、ふと、あのメロディを思い出し、自分でもできないか少し練習してみることにした。
見様見真似で唇をすぼめ、それらしく吹いてみる。しかし、あの甲高く、澄んだ音は出てこない。何度か繰り返し練習していると、背後でふっ、と誰かが息を噴き出す音がした。誰もいないと思っていた千栄理は驚き、弾かれたように振り返る。そこには仕事から帰って来たらしいポセイドンが佇んでいた。風に麦わら帽子が飛ばされないように手で押さえつつ、立ち上がった千栄理は慌ててポセイドンの許へ駆け寄る。
「わ、笑わないでくださいっ!」
「ふふ。教えてやろうか?」
「えっ!? 良いんですか?」
「今日の仕事は終えたからな」
そのまま東屋へ足を向けるポセイドンに千栄理も付いて行く。東屋に足を踏み入れ、互いに向かい合う形でテーブルに就くと、ポセイドンはまず、千栄理にもう一度やってみせろと言った。少し恥ずかしげに千栄理が先程と同じように唇をすぼめると、彼はほんの少しだけ指で彼女の顎を上向かせて、その唇に軽く口付けをした。
「教えてくれるんじゃないんですかぁ!?」
やや不満そうな顔で見つめてくる千栄理に、ポセイドンはおかしそうに微笑み、やっと説明に入った。
一通り彼の説明を聞き終えると、早速千栄理は実践してみようと練習を始める。いじらしい努力をする恋人を表情には一切出さず、ポセイドンは相も変わらず可愛いといっそ感心すら覚えていた。
三日後、書類を片付けているポセイドンの許へ嬉しそうに駆け寄ってきた千栄理は、「見てください、ポセイドンさん!」と言って、口笛を披露した。あれからずっとできるようになるまで練習していたのかと思うと、ポセイドンはもう愛しくて愛しくて堪らなかった。
「ポセイドンさんのお陰で口笛を吹けるようになりました。ありがとうございます! 次はポセイドンさんがよくやってくれるあのメロディを吹けるようになりたいです!」
恋人のことはできるだけ理解したい。彼女からそんな姿勢と思いを感じられて、ポセイドンは益々嬉しくなり、上機嫌に「良かろう」と答えた。
「ポセイドンさん、今日はハンターズムーンなんですって」
「……だから、なんだ」
得意げな顔をして見上げて来る千栄理に、ポセイドンは少々不機嫌そうに眉間の皺を深くしながら、訊き返した。全く興味を示さない彼に、千栄理は「ハーベストムーンの次に来る不定期の満月のことですよ。今年は凄く綺麗なんですって」と律儀に説明する。狩人の月。今夜の月はいつもよりどこか色濃く、仄かにミルクめいたベールを纏っているような趣がある。
月など仰いで何になるのか、ポセイドンは正直そう思わないではいられなかったが、彼女が見たい見たいとせがむので、一緒に窓辺へ近づいた。妙に月の位置が低かったため、初めはどこにあるのか分からなかった様子の千栄理の頭を、ポセイドンは片手で?を押して少し調整してやった。
「綺麗ですねぇ」
窓から差し込む月光はいつもより強いが柔らかく、今夜ばかりは自分が主役だと言いたげだ。
「……狩人の月、と言ったな」
「はい。そうですけど、そんな風には見え……!?」
いつの間にか千栄理とポセイドンの距離が詰められ、彼が腕を回せば抱き締められるくらいの距離になっていた。ぐい、と実際に背に左手を回されて千栄理はすっかり逃げ道を失くしてしまった。そのままじっと見つめられ、千栄理は当惑し、まごつき始める。
「あ、 あの、ポセイドンさん?」
彼女がいくら呼びかけても、彼はぴくりとも反応しない。どうしたのだろうと不思議やら恥ずかしいやらで、千栄理は目を泳がせた。その反応を見て、ポセイドンは何事も無かったかのように身を引き、その固い口元にふっと薄っすら笑みを浮かべる。珍しいこともあるのだなと考えているうちに、彼は彼女の耳元に唇を寄せて確かに言った。
「お前は気を付けることだ」
「はっ……え……」
すぐに無表情で離れ、去って行くポセイドンの後ろ姿を見送りながら、千栄理
は火照る顔を誰にも見られまいと両手で覆い、その場に蹲った。
ポセイドンさんのお耳は、先が尖っている。
パンの配達を終えてお城に戻って来た時、ポセイドンさんにただいまを言うため、私は城内を駆け回った。やっと見付けた彼は、書斎にいた。珍しく、窓際のソファの上に横になって眠っているポセイドンさんに、起こすのも忍びなくて何か毛布みたいなものを掛けようと、彼の私室へ行って、一枚の毛布を取って来た。
ぱさりと掛けてあげると、ふと、ポセイドンさんの耳が髪の間から覗いているのが目に入った。私とは違うとんがった白い耳。可愛い。きっと触ったら、ひんやりしているのだろうなと思い、何となく人差し指と親指でふにりと摘んでみた。
その瞬間、びくりとポセイドンさんが反応したかと思うと、手首を掴まれ、がばりと起き上がった。ちょっと髪がボサボサで、それが何だか可笑しかった。
「……何をしている」
「ごめんなさい。ちょっと触ってみたくなってしまったんです」
「…………」
寝起きのせいか、ポセイドンさんはむっとした顔をして私を見ている。怒らせちゃったかな。と思った瞬間、ぐいと引っ張られて毛布の中に引き込まれる。わっ、わっ……。ポセイドンさんの腕の中だ……!
「くだらぬ児戯をするな」
「……はい」
思ったよりは怒ってなかったみたい。良かった。でも、この近さはダメだ。近過ぎて心臓がばくばくする……。これ、ポセイドンさんに伝わってるよね……?
そう思うと、ますます心臓がどうにかなってしまいそうで、顔に熱が集まって、もう、ダメかもしれない。ふに、と耳に柔らかい感触がして、一気に頭の中がはてなで埋め尽くされた。ふにふにと何かに耳を揉まれている感覚に、ポセイドンさんを見上げる。
多分、顔が真っ赤な私とは対照的に彼はいつもの無表情で一瞬、私の勘違いかなと思ったけど、彼の腕が私の体に回されていることを確認すると、やっぱり犯人はポセイドンさんだ。それにしても、耳を揉まれる度、なんだか変な感覚がする。
「あの、ポセイドンさん」
「なんだ」
「あの、耳、摘むのやめてください」
「貴様がしていたことをそのまま返しているだけだ」
「うぅ~……」
「神である余に勝とうなど百年は早い」とそれきりポセイドンさんはなかなか解放してくれなかった。勝ち負け、なのかなぁ。
それはいつものように配達に出かけた時のことだった。
いつものように釈迦のところへパンを届け、お菓子を貰った帰り道に、千栄理はその男と出会った。
「やあ、可愛いお嬢さん。そんなに急いでどうしたの?」
柔和な笑みを浮かべて挨拶をしてきた男に、千栄理は誰だろうと知り合いの顔を順々に思い浮かべていたが、誰も思い当たらない。なので、少々警戒しながら、答えた。
「あの、私これからヘラクレスさんのところにパンを届けに行かなくちゃいけないんです」
「おお、そうか。それは失礼を。でも、少し君の手を貸して貰いたいんだ。僕の友達が洞窟の中で動けなくなってしまってね」
男の言葉に千栄理は、一気に心配顔になり、その洞窟とはどこかと男に訊く。場所だけ訊いて一度ヘラクレスのところへ向かい、彼に手伝って貰おうと考えたのだ。
男は彼女の言葉を聞くと、喜色満面になり、こっちだと彼女の手を取って半ば強引に洞窟へ向かった。
洞窟の前まで着くと、男はこの奥に友達が怪我をして動けないでいると説明する。洞窟は非常に狭く、人一人がやっと通れるくらいの幅しかない。灯りが無いとと言ったが、男は自分は魔法が使えるからと、彼女の前に小さな火の玉を浮かべた。その小さな灯りを頼りに千栄理は洞窟の中へ入って行こうと、パン籠を入口の前に置いて男と共に入った。
湿った空気と黴臭い匂いにあまり深く呼吸したくはないと、彼女の呼吸は自然と浅くなる。洞窟は奥へ進めば進む程、暗く狭くなっていき、やっと彼の友人の許へ着く頃には彼女の服はだいぶ汚れてしまっていた。
「おおい、人を呼んで来たぞ」
「おお、おお。済まないなぁ、嬢ちゃん。この通り、動けなくてよぉ」
男の友人は、地下水の縁に体を横たえており、下半身は水に浸かっている状態だった。このままでは、体温が下がってしまうと素人目にも分かる体勢で、千栄理はとにかく彼を水から上げようと、声を掛けながら肩を掴もうとした時だった。
「まぁまぁ、心配には及ばないよ。俺達は、お前みたいな人間を食えば、元気になれるからねぇ」
千栄理をここまで連れて来た男が、彼女の手首を掴み、逃げられないように地面へ押さえ付ける。みるみるうちに男の姿が変化していき、醜い犬のような頭を持った化け物の姿になった。もう一人はヒキガエルのようなぶよぶよとした肉に包まれ、粘着質な膿のような物が体から流れ出始める。そのおぞましい光景に、千栄理は悲鳴を上げ、逃げようと必死にもがいた。
「いやっ! 放して! 誰か! 誰か助けてっ!!」
「バーカ。こんなところに誰か来る訳ねぇだろ」
「それにしても、美味そうな女だな。手足を引きちぎって、串焼きにするか」
「いやいや、人間の女ってのは、そのまま食うのが一番美味ぇのよ。踊り食いなんて、最高だぜ」
「え、毎回だけど、それはちょっと引くわ」
ぎらぎらとした獣の目を向けられて、千栄理は恐怖で全身を震わせながらも、暴れて犬男の手から逃れようとするが、悲しい程に相手は千栄理の抵抗を問題としない。まずは足をどうにかしようとカエル男に掴まれたところで、千栄理は堪らず、叫んだ。
「助けてぇっ!! ポセイドンさんっ!!!!」
ドスッ、と何か柔らかいものに鋭く重い物が突き刺さったような音がしたかと思うと、目の前の犬男は突然黙って倒れ込んだ。何が起こったのか分からなかったのは、カエル男も同じようで、恐る恐る相棒に声を掛けるも、犬男は応えない。代わりに地下水が引いていく音だけが洞窟内に響き渡り、一つの道を形作る。その道の奥から現れたのは、ポセイドンその人だった。
「ひ、ひぃっ!? お前……いや、あなた様は……っ!!?」
目にも留まらぬ速さというのは、こういう光景なのかもしれない。カエル男が最後まで言わないうちにポセイドンの槍が振られ、男は地面に脳漿を炸裂させることになった。
「呼んだか、雑魚」
ぽたぽたと槍の先から滴る血を払い、まるで何でもないようにこちらを見るポセイドンに、千栄理は心の底から安心して、彼に縋り付いて泣き出した。
「怖かった……! 怖かったです……!!」
「……だから、余は言っただろう。貴様には務まらんと」
ぐすぐすと鼻をすすり、自分も何かしたかったと言う千栄理の体をポセイドンは大事そうに抱き締めた。それからすぐにこんな洞窟からは出ようと地下水の道を使って、二人は洞窟の入口に出る。
すっかり服も千栄理自身も汚れてしまっているのを見ると、ポセイドンは水を操って彼女の全身を綺麗に洗い流してやる。もうその頃には、ポセイドンと一緒にいることも相まって、元の調子を取り戻した千栄理は、また元気に配達に行こうとパン籠を持つ。
「ポセイドンさん、ありがとうございました。お忙しいのに、すみません」
「貴様、懲りずにまた行くのか」
「だって、今日のパンを待っている神様がいますから」
そのまま行こうとする千栄理の手を取って、ポセイドンは次は誰のところに行くのかと訊いた。
「次はヘラクレスさんのところですよ」
「彼奴か……」
今度は別の意味で心配になったポセイドンは、じとりと目が据わる。それに気付くと、千栄理は「睨んじゃダメですよ」と言ったが、効果は薄いだろうことは、彼の態度ですぐに分かるのだった。