海神と恋人 20「
千栄理様っ!」
血相を変えてタオルを手に飛んできたプロテウスの手により、二枚目のタオルに
千栄理は包まれた。頭を包んで髪を拭かれているので、本格的に
千栄理が見えなくなってしまう。
「んぷっ!? ぷ、プロテウスさん?」
いつも冷静沈着、常にポセイドンと
千栄理の傍らに静かに佇んでいる彼からは想像できない焦りっぷりに、
千栄理は意外そうに見上げて大人しく拭かれていた。彼女が何も言わないので、プロテウスは髪を乾かす手は休めず、そのまま続ける。
「なんて無茶をなさいます……! あなたがこんなにお転婆だったなど、聞いたことがありませんっ! 一つ間違えれば、命を落としていたやもしれませぬぞ!!」
薄らと彼の目に涙が滲んでいるのを見て、
千栄理は自分の軽率さを反省すると同時に「でも……」と一つの理由を添えた。
「あの時、あの子の声が聞こえて、助けなくちゃって思ったら、体が勝手に動いてました」
「あの子」と
千栄理が指すのは、岩に挟まっていたイルカのことで、彼女の一言にプロテウスはもちろん、ポセイドンとハデス、ゼウス、他の神々も皆一様に驚いた。浜辺から沖の、しかも海中にいるイルカの声を聞くなど、ただの人間に到底できる筈は無い。それこそ海を司る神でもない限り、不可能だ。
「
千栄理、それは本当か? だとしたら、お前は人の身でありながら、神と同じことができるということになるぞ?」
真剣な眼差しのハデスに、
千栄理は少し圧倒されながらも、「聞こえちゃいました」とはっきり肯定した。今までこんな例は無かったと、ハデスを始め、神々は神妙な顔で互いに見合わせたり、何事かひそひそと相談したりしていた。ざわつく周囲に、
千栄理は少し不安になって、恐る恐るハデスに訊く。
「あの、ハデス様」
「なんだ?」
「あの、私、やっちゃいけないことをしたんですか?」
不安そうな彼女の表情に、余計な心労をかけてはいけないと思ったハデスは否定しようとしたが、それを遮るように知らない男神の声がした。
「勇魚の声を聴いたっちゅうことは、嬢ちゃんは神になる資格があるっちゅうこっちゃなァ」
そちらへ目を向けると、そこには赤紫のスーツに柄物の派手なシャツを着て、頭には金のシャチホコが乗った黒い烏帽子のような帽子を被った男神がいた。サングラスを少し斜め下にかけているせいか、三白眼で睨まれているような感じがして、怖い。見るからにヤクザそのものという出で立ちの男神に、
千栄理は驚いて半身だけプロテウスの陰に隠れる。
「いさな?」
少し怯えながらも話は聞いていたらしく、
千栄理は聞き覚えの無い単語を不思議そうにオウム返しした。その呟きに傍らにいたポセイドンが説明する。
「イルカやクジラのことだ。彼奴らを総称して、そう呼ぶ者もいる」
「そうなんですね」
「あいつらの声っちゅうのは、独特でな。神の中でも、わいやポセイドンのような海神にしか聞こえへん特殊な言語や。それを聞き取れたってことは、それだけ神に近づいとるっちゅうことやろ」
「そうなんですか?」
「そういうことになるな」
「何やそのユルい反応!」
「ご、ごめんなさい」
ぎろり、と威圧するように睨まれて、
千栄理は思わず謝ってしまった。
千栄理が威圧されたせいか、傍らに立つポセイドンも負けじと睨み返す。
「ポセイドン様、恵比寿様。どうか、この場はお収めを。
千栄理様のお体が心配です。そろそろお召し換えをなさった方が宜しいかと存じます」
プロテウスがそう言った側から、
千栄理がくしゅんっ、とくしゃみをした。このままでは本格的に風邪を引いてしまうと察したポセイドンは恵比寿を睨みつつ、すぐさま彼女を抱き上げ、早足で宮殿へ戻って行く。そのすぐ後ろに寄り添うようにして、プロテウスは静かに付いて行った。
「だ、大丈夫ですよ、ポセイドンさん。私、一人で歩けます」
「お前を抱えて、余が戻る方が早い。また寝込むことになるぞ」
「でも、皆さん、見てますし。恥ずかしいです」
「気にするな」
人間一人の為に、あのポセイドンが自ら進んで動き、世話を焼いている。それだけであの人間は彼にとって、特別なのだと誰もが理解すると同時に、信じられない光景を目にしている。彼女に負けた水の精には一瞥もくれなかった彼の態度に、残された女神達や妖精達は誰も何も言えなかった。自分達は最初から彼の視界にすら、入っていなかったと思い知らされたからだった。
「あはは! 見ました? ブブくん。あいつらのあの顔ったら、ありませんよ!」
海辺に面する崖の上から
千栄理と水の精の勝負を観ていたベリアルは、隣に立つベルゼブブの背中をわざとらしく、大袈裟に叩く。しかし、常人なら一発目で崖から落ちてしまう程の力で叩かれても、ベルゼブブの体は僅かに前後に揺れただけだ。
「ベリアル、わざとでしょ。それ」
「え~? 何がですかぁ~? ぼく、わかんな~い」
「どうしよう。ここから落としてやろうかな」
尚もばしばし叩いてくるベリアルの手を掴んだところで、ベルゼブブの服の裾をちょいちょいと引っ張る者がいた。救破だ。何やら神妙な顔つきで、ポセイドンに運ばれていく
千栄理を見つめている。
「なに、どうしたの? 救破」
若干、面倒くさそうな顔をするも、一応訊いてみるベルゼブブ。救破は
千栄理から目を離さずにそのまま続けた。
「なぁ、ベル。本当にあの子、食べちゃダメなのか?」
「あんなに美味しそうなのに?」と可愛子ぶって小首を傾げる彼に、ベルゼブブは「食べちゃ駄目」と答える。ちょっと本気になりかけている救破の目に、内心焦りを感じていた。お決まりの台詞を聞いた彼は、むすっと頬を膨らませる。
「ケチ」
「あのね、救破。あの子はハデスさんとポセイドンさんの希望なんだ。そんな子、殺したりしたら、僕らが殺されるよ。それこそ、永遠にね」
まだ何事かぶつぶつと文句を言っていたが、ベルゼブブはそんな救破を無視していた。そんな緩い雰囲気の中、ベリアルが感慨深げに呟く。
「それにしても、やっとですね。彼女が神になる兆しが見えてきましたよ」
「そうだね。ベリアル、この後はどういう計画立ててるの?」
「この場ではできませんけど、もちろん用意してますよ。楽しみにしててください」
そこまで話し合ったところで、崖下にいるハデスと目が合うと、ベリアルは自分の存在をアピールするように大きく手を振る。
「あ、ハデス様がこっち向いた! ハデス様ぁ~! ぼく、今日頑張りましたよ~!」
「失敗したけどね」
「いちいち五月蝿いですね」
会場にぞろぞろと戻って行く神々に混じって、ハデスが裏へ回るようにサインを送ってくる。ベルゼブブ達は了解し、目立たないようにそっと指示に従った。
「ハデス様! 褒めてくださいっ。ぼく、超頑張りました!」
宮殿の裏にて合流早々、褒めて褒めてとアピールするベリアルに「よくやった」と頭を撫でるハデス。褒められたベリアルは、ベルゼブブに向かって得意気な笑顔を見せるも、全く相手にされていない。
「一時はどうなることかと思ったがな」
「うぐぅっ!? それは言わないお約束ですよ」
「……なぁ、王サマ」
「なんだ? 救破」
依然として救破はふくれっ面のまま、不満を口にする。
「なんで、あの子は食べちゃダメなの? あんなに美味しそうなのに……」
「ほう。お前から見ても、彼奴はそれ程までに純粋なのか」
「ごめん、ハデスさん。救破の奴、彼女がうちに来てから彼女に対する執着が凄くて」
言っている間にも「食べたい食べたいー!」と駄々を捏ねる救破に、ハデスは呆れた溜息をついた。