海神と恋人 22 パーティのざわめきも取り残されたような淋しさも、今は遠い夢のようだと、起きてからポセイドンは思った。今日からまたいつもの日常が始まる。まだ朝日は昇っていない。傍らにはまだ眠っている
千栄理がいる。すやすやと気持ち良さそうに寝ている恋人の顔を見ていると、不思議とポセイドンはまるで奇跡のようだなと考えた。
去年までは自分に恋人ができるとも、ましてやそれが人間などと全く予想もしていなかった。それがある日、ひょんなことから契約し、ひょんなことから一緒に住むようになり、ひょんなことから恋人同士になった。生まれてからずっと天界で過ごしてきた神である自分と下界で生まれ、本来なら地を歩いて死ぬまで自分と交わることなど無かった
千栄理。それがどうしてこんなことになったのか、彼にとっては正に奇跡そのものだった。
少し水を飲んで彼女の隣に横たわっても、彼女は起きる気配は無い。時折、寝言らしきものを言って寝返りを打つだけだ。ころん、と自分の方に転がってきた
千栄理の額に前髪がかかる。それらをそっと指で退けたポセイドンは、顕になった額に口付けた。できれば、こんな時がいつまでも続くように、と。
いつものように
千栄理が目を覚ますと、これまたいつものように目の前にはポセイドンがいて、お互い一番に朝の挨拶を交わす。昨日のパーティについて他愛ない会話をしながら、
千栄理は配達へ行く準備をして、ポセイドンに行ってきますのキスを送ってから城を出る。恋人同士になってからは、以前よりずっとスキンシップが多くなってきて、日毎にぎこちなさが愛しさに変わっていくのを感じる。
彼に触れる度、
千栄理の胸に『好き』が募って、それはやがて『大好き』になり、『愛してる』になる。それはポセイドンも同じようで、最近は行ってきますのキスをすると、どこか寂しげに見つめてくるようになった。
今日も早く仕事を終えて、帰らなければ。そう思いつつ、神々へパンを届け、何件か注文を取り、最後にオーディンの城へ行った時だった。――
千栄理が飛べるようになったので、ロキの罰も終わっていた――
「あ、トール様。おはようございます」
「ああ、
千栄理か。はよう。また野菜ができた。持って行くと良い」
オーディンの城にはトールが手を入れている農園があり、そこで収穫できた野菜を
千栄理は時折、少し分けてもらっている。ある日の配達日に、じゃがいもの収穫をしていたトールを手伝ってから、彼女は寡黙な雷神とも、野菜や花の育て方の話で助言をもらったり、新しい知識を得たりといつの間にか仲良くなっていた。トールは北欧神話では農耕神でもあるためか、単なる彼の趣味か。有難いことだと
千栄理は思っている。袋に沢山詰められた野菜はそのどれもが色濃く瑞々しく、美味しそうだ。今回は嬉しいことに、柔らかく大きな春キャベツが入っている。
「いつもすみません。毎回、こんなに沢山頂いてしまって。また今度、お礼をさせて下さい」
「いや、良い。これはほんの一部に過ぎないからな。礼をされるほどではない」
「でも……」
「お前は少し気を遣い過ぎる。大したことはしていない。持って行け」
「……。では、お言葉に甘えます。ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をして、
千栄理は農園を後にし、オーディンがいる王の間へ向かった。
オーディンにパンを届け、彼が確認をしている間に、フギンとムニンの話し相手になるのも始めて結構経つ。会話をしていると、互いに理解を深めることができ、
千栄理と二羽はもうすっかり友達同士のような関係になっていた。
「おう、
千栄理。今日は何か面白いことあったか?」
「面白いことはありませんでしたけど、またトール様からお野菜を頂きました。いつもありがとうございます。オーディン様、フギンさん、ムニンさん」
「またかぁ」
「トール様も最近、作り過ぎてしまうことがあるので、少し分けてもらったのでしょう。大事に食べるのですよ!」
「はい。あの、それで、いつも頂いてばかりで申し訳ないので、私からもまた何か贈り物をしたいんですけど、何にしたら良いか、思いつかなくて」
「なるほど。それでしたら……」
「いや、それよりあっちの方が……」
千栄理の相談に二羽は互いにカァカァ鳴きながら、あれが良い、いやこれが良いとなかなか意見が一致しない。二羽の相談が終わるまで
千栄理からも、時々は自分の意見を言ってみたりしたが、それでも全く決まる気配が無い。どうしたものかと一人と二羽が困っていると、徐にオーディンがぼそりと零した。
「そういえば、最近、枝の手入れに使う鋏がだめになったと言っていたな」
「あれ? この前も新しい鋏をお使いになっていましたけど……」
「息子は力が強いからな。並の神が使う物はすぐ壊してしまう」
「そうだったんですか。では、今度は園芸用のハサミにします。トール様用に一番丈夫な物をヘパイストス様にお願いしてみますね。ありがとうございます、オーディン様」
またぺこんと頭を下げる
千栄理を見て、オーディンはすっと立ち上がり、彼女の頭にほんの少しだけ触れる。威圧的なものは一切感じないその手の温かさに、ふと、
千栄理は顔を上げた。オーディンは彼女から少し離れると玉座の背後へ回り、こちらへ来るよう手招きした。前から玉座の背後の壁だけ少し奥行きが設けられていたことが気になってはいたが、何だろうと思いつつ、彼女が傍まで来ると、オーディンは無言で壁の一点を指で押した。そこがスイッチになっていたようで、一瞬、押した箇所が光ると、それは明滅しながら広がってドアの形を作る。壁だったその一面はまるで空間に溶けるように薄くなり、口を開けた。ドアも何も無く、下へ向かう階段だけが続いている光景に、
千栄理は怖気付いてしまう。静かにオーディンが階段を降り始め、残された
千栄理は彼の背中に弱々しく、声を掛けるしかない。それを見兼ねてフギンとムニンが振り返り、言った。
「ビビるなよ、
千栄理」
「大丈夫ですよ。ここから先はオーディン様の所有する書庫があるだけです」
『書庫』と聞いて少し安心した
千栄理は、転がり落ちないようにだけ注意して階段を降り始めた。
音も無く降り続けるオーディンの背中を見失わないように、
千栄理は少し急ぎ足で付いて行く。随分長い階段を下った先には、少し背の低い鉄扉があった。迷わず頭を下げて中に入るオーディンに続いて、
千栄理も鉄扉を潜った。
扉の先は書庫と言うにはあまりにも広く、天井も高い。広々とした空間の中にこれまたぎっしり隙間無く本が詰められた本棚が整然と並んでいる光景は、荘厳さすら感じる。
「わぁ……」
思わず感嘆の溜息を漏らす
千栄理に、オーディンは静かに告げた。
「この中の一冊をお前にやろう」
「へ?」
「カアッ!?」
予想外の一言に
千栄理も鴉達も驚き、思わず互いに顔を見合わせてしまう。それきりオーディンは何か言うつもりは無いようで、視線を外してしまった。
広い書庫の中でいきなり一人にされたような心地がした
千栄理は、こういう時は逆らわずにした方が良いと覚えている。先程聞いた彼の言葉を改めて考えてみた。この書庫の中で一冊を選ばせて貰えるということだが、どうしようと彼女は本棚を眺めながら考える。彼女が読めるのは、母語である日本語に加えて、まだたどたどしくはあるが、何とかギリシャ語とラテン語は読める。本棚には大小、新古、厚さが様々な本が並べられていた。殆どは
千栄理が見たことも無い言語でタイトルすら読めない。
どうしようと考えつつ、何となく眺めていると、一冊の本が目に留まった。