海神と恋人 24 今日は朝から
千栄理はそわそわと落ち着かなかった。というのも、今日はヘラクレスの案内で人間達の街に行く約束をしていたからだった。彼の友人達にも
千栄理を紹介したいという話から始まったことだ。
街と言っても本当に街の規模ではなく、『人間達の街』という名前の国なのだそうだ。天界に住むことになった最初の人類アダムと神々の間で決まったことで、神々が人間を管理し易いように一つ所に住むよう、取り決めたのが始まりとされている。それからは今日に至るまで、国はどんどん領土を広げているようだ。
「そんなに沢山の人が一つのところに住んでるって、どうやって国をまとめているんですか?」
「各地区に分かれて自治を行っているんだ。地区ごとにそこを治める領主を任命して統治している。下界で過ごした時代、文化、宗教、政治、全て異なるが、定期的に連絡を取り合いもするし、議会も開いてその都度、各地区の政策を決めている。定期的な話し合いで地区同士の団結力を強めてきたんだ。その代わりに、新しく住民が増える時以外は無闇に侵略したり、領土を広げるようなことはしてはならないとゼウス様との法で定めているんだ」
「ゼウス様との法?」
「そのようなこと、お前が気にする必要は無い」
出かける準備をしながらヘラクレスから『人間達の街』について話を聞いていると、朝から少々不機嫌なポセイドンが
千栄理とヘラクレスの会話を遮る。明らかにヘラクレスに嫉妬しているのが見て取れた。何だか日に日に彼の独占欲が増しているような気がして、
千栄理は少し心配だった。
「
千栄理」
「はい。どうしたんですか? ポセイドンさん」
少しの間を開けて考えた後、彼は口を開く。
「早く帰ってこい」
表情から、きっと彼は言いたいことがたくさんあったのに、自分の為に我慢してくれたのだろうと分かった
千栄理は、安心させようとにっこり笑って「はい、もちろんです」と返した。
「大丈夫ですよ、ポセイドンさん。ちゃんと帰って来ます。どこにも行きませんから」
「必ずだ」
「はい」
出かける直前に今生の別れのように抱きついてきたポセイドンの背中に、
千栄理も精一杯腕を広げて応える。存分に抱き合っていると、満足したのか、ポセイドンは漸く腕を解いてヘラクレスに「
千栄理を頼む」と託した。
「もちろんです。
千栄理は必ずオレが責任を持って、無事に送り届けます」
「危険な場所には近付けさせるな。目を離さぬようにな。
千栄理、よく知らぬ輩には付いて行くな。ヘラクレスを待て。此奴と離れる時には必ず行き先を言うようにしろ。それと……」
「だ、大丈夫ですよ。ポセイドンさん。私だって、子供じゃないんですから」
「そうだが、あんなところにお前を送るのかと思うと、余は気が気ではない」
「あんなところって……そんな、戦地に行くみたいに言わなくても……」
「余にとってはどちらも大した差が無い」
「そんなこと、言わないでください。大丈夫ですよ。人間は悪い人ばっかりじゃないですから」
「ならば、余に誓え。必ず無事に帰って来ると」
どうにも離れ難いポセイドンの様子に、逆に
千栄理の方が心配になったが、彼を安心させる為にも、丁度屈んでいる彼の頬にキスをする。
「ポセイドンさんに誓います。必ずここに帰って来ます。だから、お仕事頑張って下さいね」
誓われてしまった手前、これ以上、引き止められなくなってしまったポセイドンは、まだ少し不満気な顔をしていたが、最後に念を押す意味でヘラクレスに「
千栄理を任せる」と言って、彼らを送り出した。
人間達の街はここからだと、少々遠いので、
千栄理はヘラクレスに連れられて天界の上層から下層へ繋がる扉の前に来ていた。ここは、丁度上層の中心にある大きな両開きの扉で、青黒い大理石のような石でできた壁に縁取られている。不自然に草原の真ん中に扉だけがぽつんと建っている姿を見た時、
千栄理は何だかシュールな趣があるなと思った。
「
千栄理、あれが天界の上層と下層を繋ぐ扉エリュシオンだ」
「何だか寂しいところにあるんですね」
「ああ、神々が人間達の街に行く時にしか開かない扉だからな。鍵を持っていないと、通れないようになっているんだ」
「鍵?」
千栄理の疑問にヘラクレスは頷いて手に持っている棍棒を指し示した。まだよく分かっていない彼女は、不思議そうな顔でヘラクレスの顔を見返した。
「エリュシオンを通る時は何か一つ、神器を持っていないといけない。それが神であることの証明になるんだ。
千栄理の場合は、ポセイドン様のペンダントにオーディン様の本があるから、大丈夫だな。人間達の街に行っても落とさないように」
「もう、ヘラクレスさんまで私を子供扱いして。大丈夫ですよ。お守りも御本もちゃんと持ってます」
「はは、すまんすまん。ポセイドン様のご心配が移ってしまったみたいだ。では、行こうか。心の準備はいいか?
千栄理」
「はい、もちろんです!」
まだ見たことの無い景色をわくわくと楽しみにしつつ、
千栄理はヘラクレスの手でゆっくり開けられる扉を見ていた。重そうなので、手伝おうと一緒に押した
千栄理だが、実際助けになっているかは分からなかった。重い扉が開けられると、その先は白い光に包まれていて向こうの景色は見えない。ヘラクレスが先に立って振り返り、彼女に手を差し伸べる。
「ほら、
千栄理。大丈夫だ、怖くない」
温かい彼の微笑みに励まされた
千栄理は、迷わずその手を取ってエリュシオンを潜った。
一瞬、眩しさを感じた
千栄理は咄嗟に目を瞑るが、それはほんの瞬きの間で、すぐに眩しさは無くなる。顔を上げた
千栄理の目の前には、天にも届きそうな程、高く白い壁があった。その壁の上には何か透明のドームのような物がある。山を背にして建つ明らかな人工物に、
千栄理はぽろっと呟いた。
「ここが、『人間達の街』? ですか?」
「そうだ。みんな、この中で暮らしてるんだ」
「どうして、こんな高い壁が……?」
そこでヘラクレスは珍しく少し暗い顔をして、現在の人間達が置かれている環境を簡単に話した。ここは天界に存在する人間達の国。皆が一つの国に住み、身を寄せ合って暮らしていると言えば、聞こえは良いが、実態は少し違う。この世界には、神の他にも様々な種族が住んでおり、中には人間に害を成す種族もいる。悪魔や魔族、悪意ある妖精、巨人、鬼までいる。そんな彼らに対抗する術はあるが、いつ襲われるか分からない状況のままでは、安心して暮らせない。そこでヘラクレスや戦乙女達が神々に人間達の保護を求め、彼らの魔法技術を例外的に一部使用する許可が下りた。その技術の一つとして、外敵の侵入を防ぐ高い壁と魔法による防御壁の設置が許されたのだ。万が一、壁が破壊された時の為に、地下に強固なシェルターが用意されているが、幸い今まで使われたことは無い。
魂だけの存在となったことで風邪などの体を蝕む病気から解放された人類だが、それを差し引いても天界での生活は下界より危険なものだ。ヘラクレスはそんな脅威から人類を守ったり、人間達の事業を手伝ったりしているらしく、毎日のようにここに通っているのだと言う。現代では、彼の功績や神話は記録として残っているばかりで、直接の恩恵を授けている訳ではない。現代では下界の人間を導けない代わりに、天界の人間を守ることを選んだのだろうと思うと、
千栄理は少し切ないような気持ちになった。
「
千栄理、こっちだ。入国手続きをするから少し歩くぞ」
ヘラクレスに呼び掛けられて、
千栄理は返事をしつつ、壁沿いに歩き出す彼に付いて行った。