海神と恋人 26 泣きじゃくる女の子の目の前に屈み込み、
千栄理は「大丈夫?」と声を掛ける。彼女の存在に気が付くと、女の子は痛いと泣きながら彼女を見上げた。金髪で青い目の可愛らしい子だ。このままでは可哀想だと思った
千栄理は「ちょっとだけ待っててね。痛くなくなるおまじないしてあげる」と言って、あの本を開いてある一文を読んだ。
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翳した
千栄理の手から白い光が溢れて、女の子の傷を包む。その光が収まると、傷など最初から無かったかのように元に戻っていた。女の子は泣き止んで、不思議そうに膝を触り、小首を傾げつつ、元気良く立ち上がる。
「ありがとう! お姉ちゃん」
「ふふ、どういたしまして」
にぱっと笑う女の子につられて、
千栄理も微笑む。すぐに近くにいたのだろう母親が駆け寄って来て、
千栄理に頭を下げつつ、女の子を連れて行った。
「ありがとうございます、女神様」
去り際に女の子の母親が言っていた言葉を訂正しようとした
千栄理だが、それより先に立ち去られてしまったので、機を逃してしまった。
「神様じゃないんだけどなぁ」
少々困った笑顔を浮かべて、店内に戻ろうとした
千栄理だったが、それより早く背後から声を掛けられた。振り返ると、そこには知らない老人が杖をついて立っている。
「何でしょうか?」
「女神様。図々しい願いだとは分かっとりますが、私の足を診て貰えませんでしょうか。このところ、足が痛くて痛くて、夜も眠れんのです」
「わ、私は女神様じゃなくて……」
断ろうとした
千栄理だが、老人が本当に痛そうに膝を摩っているのを見て、やはり同情した彼女は、再び本を開いて呪文を唱える。老人の膝を白い光が包み、光が消えると、嘘のように痛みが無くなったと、彼は小躍りし始めた。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 女神様、このご恩は決して忘れません」
子供の怪我も、老人の痛む膝も治した彼女を見ていた通行人達は、もうただの通行人ではなくなっていた。皆、自分や子供や親の怪我を治して貰おうと、彼女の周りに集まってくる。店先が俄に騒がしくなり始めたところで騒ぎに気付いたヘラクレスが来てくれた。
「これは一体、どうしたんだ?
千栄理」
「あ、ヘラクレスさん。た、助けてくださいっ」
ヘラクレスの登場に、一瞬怯んだ人々だが、彼が特に何もしないと分かると、また
千栄理を女神様と呼んで治癒して貰おうと願い始める。人々の勢いに怯える
千栄理は、ヘラクレスに向けて助けを求めた。このままでは危ないと判断した彼は、
千栄理を抱き上げて集まってしまった人々に言う。
「皆、すまないが、女神は疲れてしまったようだ。また日を改めてくれないか?」
ヘラクレスの言葉に、一同は不満そうに声を上げたが、彼が頭を下げると、人々は恐れ多いと言いつつ、散り散りになっていく。嵐のように起こって、嵐のように去って行った人々に、
千栄理は少し落ち着きを取り戻し、ヘラクレスに礼を言った。
「なに、このくらい軽いものだ」
「……さっきの人達は、どうしてあんなに集まって来ちゃったんでしょう」
「どの地区にも医療の神や医者はいるが、彼らにも限界はある。神より人間の方が多いから、どうしても金銭や時間、医者自身の体調に左右されてしまって溢れてしまう患者がいるんだ。神々の殆どは上層から滅多に降りて来ないから、余計にだろう」
「じゃあ、アスクレピオス先生は?」
「彼は好きでこの国に住んでいる。オレと同じで人間が好きなんだろうな。……アルゴー船のこともあるだろうが、彼も神々の中では珍しい方だ」
「アルゴー船って、確かヘラクレスさんも乗ってましたよね? あのアルゴー船ですか?」
千栄理の質問に頷いてヘラクレスはアルゴー船のことを少し話してくれた。アスクレピオスは当時は非常にやる気のある若い医神で、もっと現場経験を積もうと乗船したようだが、旅をしていくにつれて、その過酷な厳しさに精神が摩耗していってしまった。彼は元々自分でも健康には気を遣っていたが、ある時、リムノス島に停泊すると、そこに住む女性達に勧められた煙草にとうとう手を出してしまった。それ程までに追い詰められていた。それからというもの、開き直ったように彼は精神安定の意味でも煙草を吸うようになり、今でもアルゴー船の旅はトラウマになっているらしい。
「確かに厳しい……いや、過酷な旅路だったから、あいつの気持ちは分かる。犠牲者も出て、自分を責めたりもした。それまで弱音を吐いたところなんて、見たこと無かったのにな」
普段の気怠げな表情と飄々とした態度をしているアスクレピオスからは想像がつかないと
千栄理は思ったが、余計なことは言うまいと黙っておいた。彼だって医神の一柱だ。人間達を思ってこの国に住んでいるのだろう。
「アルケイデス、この後はどうするんだい? 今日は
千栄理さんを連れて観光?」
カストルの質問に、ヘラクレスは「ああ、いや」と言って続ける。
「今日はそれもあるが、一件だけ建設の仕事を手伝う予定なんだ。部材を運ぶのに、人手がいるらしい。カストル、その間だけで構わないから、
千栄理を見ていてくれないか?」
「ああ、分かったよ」
もう完全に子供扱いされている
千栄理は、不満そうに頬を膨らませて抗議するも、それすら微笑ましいものを見る目でいなされてしまう。
「あの……」
そこに弱々しく入った女性の声に、一同はそちらへ振り返る。
千栄理達のテーブル前に立っていたのは、先程怪我をした女の子の母親だった。傍らにはあの女の子もいる。
千栄理は居住まいを正して、彼女と向き合う形で立ち上がった。母親は申し訳なさそうな顔をして丁寧に頭を下げる。
「先程は大したお礼もできず、申し訳ありませんでした」
「あ、いいえ。そんな、大したことはしていませんから」
「いえ、そういう訳には参りません。娘がお世話になりまして、本当にありがとうございました。女神様だとは知らず、ご無礼をいたしましたこと、お許しください。これは少しばかりですが、どうぞ女神様へ。私からの気持ちです」
そう言って差し出された白い封筒に、中身を察した
千栄理は慌てて「受け取れません」と断る。あわあわと困っている
千栄理に、細身とふくよかな少年達が「貰っておけ」と言ったが、結局彼女は気持ちだけで充分だから、女の子の将来の為に使って欲しいと言って受け取らなかった。何度も礼を言って立ち去った母娘を見送っていると、ヘラクレス達も席を立って会計に向かう。
「
千栄理、ここを離れよう。少々目立ち過ぎたようだ」
ヘラクレスにそう言われて周囲を見回すと、いつの間にか
千栄理達、否、
千栄理は注目の的になっていた。何故、皆に見られているのか分からない彼女は、ヘラクレス達に連れられるまま、店を出る。
外に出て建設現場へ向かっている間、
千栄理は不思議そうに先程感じた疑問を呟いた。
「なんでみんな私達を見てたんでしょう?」
「
千栄理、あんたマジで言ってんのか?」
「みんな、僕達じゃなくて、君を見てたんだよ」
「私? どうしてですか?」
「あんた、さっき女神様って言われて否定しなかっただろ」
少年達に言われて
千栄理は「あっ」と声を上げる。お金を断るのに必死で、否定する暇が無かったのだった。
「さっきは、その……」
「大丈夫。僕達は分かってるから。きっと女神様もお許しになってくれるよ」
「帰ったら、ちゃんと説明しとけよー」と言って笑う少年達につられて、
千栄理も「うん」と嬉しそうに返した。