海神と恋人 29※※ご注意※※
・この連載シリーズはポセイドン夢です。始皇帝夢ではありません。
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
始皇帝に抱えられたまま、千栄理は彼の宮殿へ入った。割とすぐ戻ってきた主君の姿に、側近は安堵の溜息をつこうとして、その腕に抱えられた千栄理を見、「何やっちゃってるんですか、陛下ーーーー!!」と一人で阿鼻叫喚の有様だった。
「朕はこの娘が気に入った。だから、こうして連れて来たのだ」
「陛下、陛下! お止め下さい! 一国の主がゆ、ゆ、誘拐など……!!」
「誘拐? 何を言っている。同行者達には連れて行くと言っておいたぞ」
「のう? 千栄理」と同意を求める始皇帝だが、千栄理は少し考えて「確かに言うのは言いましたけど……」と戸惑う。思い返すと、あれは伝言などよりは宣言だったが。始皇帝は側近にもう一脚椅子を持って来るよう命じ、彼が呆れつつもその通りにすると、千栄理を座らせ、自分は王座に戻って冠を被った。そこで彼は何かに気付き、千栄理に向かって手招きする。
「千栄理、何故そんな遠くへ座る。もっと近こう寄れ。朕に顔を見せよ」
まるで友人でも誘うかのように、自分の隣に来るよう命ずる始皇帝と早くも主君の行動に、卒倒しそうになる側近、立ち上がって椅子の傍で戸惑う千栄理という構図が出来上がる。
「陛下、いくら何でも陛下の隣に座らせるなど……!」
「では、そなたも来れば良かろう。千栄理、朕を待たせるな」
「は、はいっ」
椅子を持って始皇帝の隣に来た千栄理は、床を傷付けないようにそっと置いて、座り直す。王座よりは少し低い椅子なので、失礼には当たらないだろうが、彼女自身も本当にここで良いのか、迷っていた。
「あ、あの、皇帝陛下、本当に良いんですか? 私、ここに座ってて……」
「無問題。わざわざそう訊いてくる辺り、そなたは自分の立場を弁えているな。朕の命を狙っているという心も持っていない」
「だから、そなたが件の女神だと分かった」と始皇帝は続けた。千栄理はそのことも気になっていた。
「あ、そうです。なんで私がその……女神だって分かったんですか?」
正直、まだ彼女の中で『女神』と呼ばれることには抵抗があったが、ここは話をスムーズに進めるため、仕方なく出した。始皇帝はその質問にも「簡単なことだ」と快く教えてくれた。
「あの地区に出入りしている日本人は少ない。見たところ、荷物らしい物を一切持っていないところを見ると、そなたは旅行客という訳でも無かろう。あの地区では、アジア諸国の者は目立つからな。女神の噂を聞いた時、目立つ年若い娘を見付け、我が国の諸事情を少し漏らせば、真の女神ならば、食いつくと思った」
そこまで読まれていたのかと千栄理は驚き、始皇帝を凝視すると、彼は「どうした? 朕の顔に何か付いているか?」と見当違いなことを言い出す。どうにも読めない始皇帝の態度に、千栄理は慌てて「いいえ」と視線を外した。
「良い機会だ。千栄理、朕と共に国を見て回ろう。そなたに女神としての務めを果たしてもらう前に、我が国の現状を見て欲しい」
折角だから服も中国の物をと、また側近に命じて始皇帝が用意させている間に、断らなければと思う千栄理だが、半分は少し街を見たいという欲求は確かにあった。下界にいた頃は、海外旅行など一度もしたことが無く、少し憧れていた部分もある。決してカストル達のことを忘れた訳でも、気にならない訳でもないが、誘拐される直前に始皇帝の言っていたことが本当なら、何か自分にできることがあるのではないかとも、考えてしまう。
自分が人間達を助ければ、それが回り回って神々と人間、双方の架け橋として役目を全うできるのではないか、神々と人間の関係に何か良い作用をもたらせるのではないか。ポセイドンの為に自分ができることは、ただパンを運ぶだけではなく、もっと実質的なことができたら、どんなに良いだろう。突然、目の前に転がってきた可能性に、彼女はどこまでやれるのか、試してみたくなった。
「皇帝陛下」
「ん? どうした?」
「あの……少しだけなら、大丈夫です。私、街を見てみたいです」
何か決心したような表情の千栄理を見て、始皇帝は一拍遅れた後、「好!」とまた嬉しそうに言った。
「それでこそ、治癒の女神だ。そなたは正しい選択をしたな。ついでに少し観光もしよう。そなたに見せたい場所があるのだ」
「見せたい場所、ですか?」
「うむ。なに、行き着くまで秘密だ」
「そなたなら、きっと気に入る」と自信ありげに言い切る始皇帝の笑顔に、千栄理は不思議そうに小首を傾げていたが、それ以上、追及してもきっと教えてくれないのだろうと思い、服を渡されるまで大人しく待っていようと椅子に座り直した。
渡された服は中国の伝統衣装、漢服だった。始皇帝の服と揃いのように目の覚める程赤く、煌びやかなものだ。あまり目立つ格好は恥ずかしいと言う千栄理に、始皇帝は「何を言う」と反論した。
「朕の許に治癒の女神が降り立ったのだ。祝いの衣装を着せ、皆に見せびらかして然るべきだ」
「降り立ったんじゃなくて、皇帝陛下が連れて来たんでしょう!?」
「そうとも言うが、どちらにせよ、朕がそなたを見つけた。ならば、朕と揃いにするのは当たり前だろう」
「そっ……」
「そんな恥ずかしいセリフを!」と言いかけた千栄理だが、彼に厭に優しく微笑みかけられて少しだけ真剣な気持ちになってしまう。しかし、すぐに視線を外して首を振った。いけない、自分にはポセイドンという恋人がいるんだからと慌てて自分を律する。この人にはそういう感情は無いと胸の内で言い聞かせるも、何だかこの人の笑顔に心のどこかがくすぐられるような心地がして、千栄理は変な気分だと思った。
そんな気持ちを表情から読まれないように誤魔化す意味でも、勢いでその真っ赤な漢服に袖を通してしまった。
「うむ。そなたの髪色にもよく似合う。愛いな」
「またそういうことを……」
髪に触れながらあまりにも始皇帝が直球で褒めてくるので、千栄理は戸惑いつつも、頬をほんのり赤らめて、思わず袖で顔を隠してしまう。しかし、彼はそれ以上のことはせず、「千栄理は恥ずかしがり屋なのだな」と妙に納得して髪から手を放した。何だか良いように遊ばれているような気がして、千栄理はむっと唇を引き結んだが、始皇帝はそんなことどこ吹く風という風情だった。
「では、行こう」と自然に千栄理の手を取って歩き出そうとした始皇帝だったが、彼女が布靴に慣れなくて歩きにくそうにしていると、すぐに気が付いてまたその腕に抱きかかえる。
「じ、自分で歩けます!」
「そうか? その割には歩きにくそうにしていたぞ。無問題。そなたは軽いからな」
そんな訳がない。人一人分の体重が腕だけに掛かっているのだから、十二分に重い筈だ。頭の中で必死にそう言い聞かせて、変に舞い上がったような気持ちを落ち着かせようと、千栄理は必死だった。大丈夫、私は重い。変な言い訳をぼそぼそと口の中で呪文のように唱えている間に、始皇帝はさっさと宮殿を出ようと歩を進める。すたすたと歩く始皇帝の腕の中で大きな扉の開く音に、はっと気が付いた頃には、後は外門を潜れば城下町に入るだけという段階だった。そこまで来ると、流石に他人に今の姿を見られることを考えて、千栄理は慌てた。
「こ、皇帝陛下! もう大丈夫です。自分で、自分で歩きますから!」
「別に朕はこのままでも良いぞ?」
「恥ずかしいから、下ろしてくださいっ!」
「そなたの顔が見えて良いのだがなぁ」と妙に渋る始皇帝を何とか宥めて、漸く千栄理は中国の地に足を付けた。