海神と恋人 33※※ご注意※※
・地震の描写が出てきます。
それでも大丈夫という方は、次ページへどうぞ
アレス率いる神軍隊は、天界の下層へ降り立つと、真っ直ぐ人間達の街、中国地区へ向かい、外壁の手前で止まった。外壁を見張っていた監視員が見つけると、アレスは腰に提げた剣を抜き去り、監視員へ向けて声を張り上げた。
「聞け! 我らが父ゼウス様の名において命ずる! お前達が女神と崇める娘は、海の神ポセイドン様の伴侶である! 娘が戻らない故、ポセイドン様はお怒りだ。お前達に半刻の猶予を与える。その間に娘を返さなければ、我らギリシャの神々、貴様ら人類共を攻め滅ぼすぞっ! そう伝えろ!」
監視員は慌てて外壁の中へ戻り、上官に報告する。報告を受けた上官は監視モニターで国外の様子を見ていたので、すぐに国全体に警報を鳴らすよう指示し、一言一句違えずに各国へ呼び掛けた。女神を返さなければ、国が滅ぶとあっては皆必死に千栄理を捜し始める。そんな中、最初の異変が起こった。
最初の変化は地面だった。地響きを伴って人間達の街を襲ったのは、木造建物に罅を入れる程の地震。欧州の国やアメリカでは街灯がいくつも倒れ、窓ガラスが割れて落ち、アフリカでは乾いた大地が裂けて雷鳴が轟き、オセアニアではサイクロンが発生。アジアでは家々の外壁が崩れ、瓦が落ちてくる始末。幸いライフラインにダメージは無く、海からも遠い為、津波の心配は無いものの、皆中央施設に避難しようと国境ゲートに向かっている。
「千栄理、大事ないか?」
「は、はい……」
始皇帝の宮殿も例外ではなく、いくら平民の家屋より丈夫に造っていても、あちこちに罅が入っている。幸い崩れはしなかったが、それより千栄理を恐怖させたのは、この地震はポセイドンが起こしたものだと肌で感じていたからだ。
「ポセイドンさんが、怒ってる……」
「なに? ……!?」
次に起こった変化は植物。割れた地面から物凄い勢いで伸びた草々は宮殿に、否、国中に溢れ返り、有り得ない動きで建物に絡みついていく。
そして、それは始皇帝の部屋にも及んだ。窓や障子を破って入ってきたそれらは、ざわざわと壁際に生え揃い、白い花を咲かせる。
「これは……水仙か? だが、こんな生え方をする水仙が存在するのか?」
「ハデス様……?」
「失礼致します! 皇帝陛下!」
ラッパ水仙を切り開いて入ってきたのは、始皇帝に仕える武将のようで、少し遅れて側近も入ってくる。
「術が破られましてございます! 最早ここまで。陛下、その娘を神々へ差し出すしか鎮める術はございませぬぞっ!」
「………………な、らぬ。それはならぬ」
「陛下! ご判断を! このままでは、国が滅びます!」
始皇帝達が話している間、背後に気配を感じた千栄理は思わず声を上げる。
「あ」
「千栄理!?」
一瞬だけ全身の血が引くような怖気を感じた始皇帝は、反射的に振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。
ヘルメスの手引きによって宮殿を出た千栄理は、彼の腕の中で街の惨状を目にしていた。幸い建物が崩れたりはしていないようだが、復興には時間が掛かるだろう。街の人々は皆避難した後のようで、通りに人影は無い。
「ヘルメスさん、これは私のせいで……?」
「…………。これでも、私の力で最小限に留めたつもりです。ポセイドン様が地震を起こし、ハデス様があなたを隠していた術を破る為、止むなくこのような方法を取らせて頂きました」
「どうしてですか!? 皇帝陛下だって、もう一度、ちゃんとお願いすれば、きっと――」
「千栄理さん」
たしなめられるように名前を呼ばれ、千栄理は口を閉じてヘルメスの顔を見る。意外にも、いつもどこか余裕のある笑みを浮かべている彼にしては珍しく、悲しげな表情をしていた。
「あなたはご自分の価値をまるで分かっていません。ポセイドン様にとって、あなたがどれ程大切で、また人間達にとってもどれ程利用価値があるか、考えてみたことはありますか?」
「自分の、価値……?」
そんなこと、今まで考えたことも無かった。そんな表情をしたまま、千栄理は思ったことをぽつぽつと話す。
「わ、たし……私が他の人の役に立てれば、良いと思って。そうしたら、回り回ってポセイドンさんの為になると、思っただけなんです……」
「そうでしょうね。あなたはそういう人です。ですが、今回のことで分かりましたね? あなたのその気持ちは決して悪ではない。しかし、それがたとえ善意でも、誰かの怒りや恨みを買うことになる。残念ですが、もうあなたは人間の世界では生きていけなくなってしまった」
「帰りましょう、神々の国へ」諭すように呟いたヘルメスの言葉に、ぼろぼろと涙を流す千栄理は頷いた。慰めに規模は大きいものだが、死者は出ていないことを言うと、千栄理は泣きながらもうんうんと何度も頷く。今はそれが精一杯のようで、ヘルメスはアレスと合流するまで終始無言だった。
「どうした、千栄理!? 怪我をしたのか!?」
神軍隊と合流すると、非常に慌てた様子のアレスが開口一番大声でそう言った。答えられない千栄理の代わりにヘルメスが答える。
「今、千栄理さんは傷心中です。静かにしていてくださいね。アレス兄様」
「お、おう」
「では、皆さん。千栄理さんが戻ってきたことですし、帰りますよ」
「え」
唯一、状況が分かっていないアレスを置いて、神軍は「おぉーっ!」と湧き上がる。皆口々に「良かった!」や「おお! お戻りになられたか!」と千栄理を歓迎している。アレスだけが何が何だか、全く分かっていない。
「では、各自戻って通常業務に……」
「ちょ、ちょちょちょちょちょっと待て! ヘルメス! お、オレは人間共を半分は滅ぼすと聞いて来たんだがっ!?」
指示を出しつつ、千栄理を神軍隊が牽いてきた馬車に乗せたヘルメスの肩を、アレスが掴む。思い出したように「ああ」と零した彼は、あっけらかんと言い放った。
「それなんですが、実はあれ、嘘なんです」
「……………………はああっ!? おまっ! ええっ!?」
「この作戦の肝は如何に人間達を本気で威嚇できるかにかかっていましたので、ハデス様からアレス兄様にはそうお伝えするように、と仰せつかりました」
「え、えええぇ……」
「ですが、兄様のお陰で彼女も無事に戻ったことですし、アレス兄様がいなかったら、この作戦は失敗していたかもしれません」
「そ、そうかぁ!? いや、オレは軍神だからな! この程度、造作もない!」
愉快そうなアレスの高笑いを聞きながら、ヘルメスは内心「アレス兄様はこういうところが本当に好ましいですね」と多分に含みがあることを考えていた。
「千栄理……」
民を避難させ、自分だけは最後まで宮殿に残った始皇帝は、唯一手元に残った水仙を見つめていた。もう地震も花が茂ることも無い、不気味な程静まり返っている宮殿の中で、彼は一人、想い人との記憶を反芻する。女神と呼ばれていたが、その実、彼女はごく普通の女性だった。ころころと表情が変わり、自分の言動に様々な顔を見せてくれた彼女。
欲しいと思った。ずっと傍に置いて、共に国を守っていこうと。千栄理となら、それができると思った。
「諦めろと言うのか」
ラッパ水仙。花言葉は『報われぬ恋』。いつか、侍女達が好きな花についてきゃあきゃあ話しているのを聞いたことがある。今になって、それが神々からの嫌味にも挑戦状にも思えた。
「なら、朕は諦めぬ」
水仙に一度口付けると、始皇帝は空を見上げた。空にはこんな日には似つかわしくない程の星が広がっている。
「必ず、そなたを妃に。神の手からそなたを救ってみせる」
誰も答えることは無かったが、始皇帝の表情は希望に溢れていた。