海神と恋人 35「全く……前から彼奴は頑固だと思っていたが、今度という今度は度が過ぎている。
千栄理はどうだ?」
「今、お休みになられたところです」
「
千栄理ちゃん……怖い思いをさせてしまったのう」
心配そうに
千栄理を見つめるハデスとゼウス。プロテウスは恐る恐る、主人はどうしているかとハデスに訊くと、彼はまた苛立たしげに「ああ」と言い、衝撃の一言を放った。
「
千栄理は暫く余が預かると言ったら、『勝手にしろ』だと。はぁ……本当に面倒な弟を持ったものだ」
「え?
千栄理様を冥界に?」
意外と心配が綯い交ぜになった表情で問うプロテウスに、ゼウスが後を引き継ぐ。
「ポセイドンも今は意地になっておるからの。このまま
千栄理ちゃんと一緒に居させたら、
千栄理ちゃんが可哀想じゃて。だったら、ハデスがうちで預かるって言ったんじゃ」
「今の
千栄理に必要なのは、休息と考える時間だ。ポセイドンとこれからどうしていくか、ここより静かな冥界の方がゆっくり考えられるだろうと思ってな。……ポセイドンにも、少し頭を冷やす時間が必要だ」
「余が全ての責任を負う。危険な目には絶対に遭わせぬ」力強いハデスの言葉に、プロテウスはもちろん皆の長兄を信じるつもりだが、問題は
千栄理が行きたいと言うかどうかだろう。そのことを確認すると、皆その場で話し合う。もし、行かないと答えた場合は、ゼウスの宮殿の一画を借り、侍女もつけるということで話がまとまった。一度、ブリュンヒルデに預けようかという話も持ち上がったが、他国の神に迷惑はかけられない上、ギリシャ神のみで解決したいというハデスの意向により、その話は無くなった。
それから暫くして、起きた
千栄理はまだ眠そうに目を擦りながら、ハデスに上着の礼を言うが、服が破けたままなので、また彼の上着を借りることになった。
「
千栄理、話がある」
「なんですか? ハデス様」
千栄理に先程の話をすると、彼女はまだ少し呆けているような顔でちょっと考え、不安そうに「冥界へ、ですか……?」と呟く。不安げな
千栄理にハデスは「大丈夫だ」と安心させようと微笑む。
「決して危険な目には遭わせぬ。保護者として余が全ての責任を持って、お前を守ろう」
その言葉と微笑を見て
千栄理はまた少し考え、ハデスを信じようと「行きます」と答えた。
「では、すぐにでも発つか。プロテウス、
千栄理の荷造りを」
「畏まりました」
「ハデス様。荷造りでしたら、私、自分で……」
「お前はここにいろ。ポセイドンがお前に何もしないという保障は無い」
そう聞くと、
千栄理は複雑そうな顔をしつつも、「はい」と答えてプロテウスに「お願いします」と頭を下げた。
「暫くは仕事も休ませる。ヘルメス、ヘスティアに連絡を」
「畏まりました」
直ぐ様ヘルメスはスマホでヘスティアに連絡を取り、少し話して電話を切ると、仕事の方はいいから、今はゆっくり休んでとヘスティアの伝言を
千栄理に伝えた。それを受けて、
千栄理は俯いてぽつりと零す。
「皆さん、ごめんなさい。私のせいで……」
思い詰めている彼女の頭に、ハデスの手が優しく置かれた。
「何を言っている。お前はもう余にとっては妹も同然。この程度のことで負い目に感じる必要は無い」
「ほっほっほ。皆、
千栄理ちゃんが大好きじゃからの。
千栄理ちゃんが悲しむ姿は見たくないんじゃよ」
「ごほん。という訳だ、
千栄理。だから、その……お前はそんなことを気にするより、休むことに専念しろ」
アレスの素直じゃない励ましの言葉で、
千栄理に漸くいつもの笑顔が戻ってきて、一同は少し安心した。
荷造りと
千栄理の着替えが終わり、プロテウスから受け取ろうとした彼女の代わりにハデスが持ってやる。プロテウスから三日分の着替えが入っていると聞き、滞在期間が延びれば、ハデスが追加で服を買ってやるということで
千栄理は彼と一緒に出発した。
別れ際、見送るゼウス達に手を振る笑顔の
千栄理を見て、プロテウスが感極まったように目元にハンカチを当ててくずおれそうになる。そんな彼を傍らにいたヘルメスが支え、「大丈夫ですか」と声を掛けると、彼はハンカチの下から悲しげに言った。
「うっ……ポセイドン様と
千栄理様が離れ離れになると考えますと、胸に込み上げるものが……」
どうやらプロテウスにとって、あの二人は推しカプだったのかと、ヘルメスとゼウスも悲しげに呟く。単語の意味を知らないアレスとプロテウスは、きょとんとした顔をした。
遠くからくずおれそうになったプロテウスの姿を見て、一瞬心配した
千栄理だが、ゼウス達がいるので、大丈夫だろうと思い、次第に見えてきたポセイドンの自室の窓へも向かって手を振る。きっと彼は見ていないだろうと思いつつも、彼への愛しさは変わらず彼女の中にあったからだった。
手を振る
千栄理の姿をポセイドンは黙ったまま、窓から見ていた。あれほど、
千栄理を責め立てたが、彼もまたその青い瞳に寂しさを纏わせて、ただ
千栄理がハデスと共に城を出て行く姿を見ているしかできなかった。本当は行って欲しくない。しかし、勝手にしろと勢いで言ってしまった手前、もう後には退けない。
いつ戻ってくるかも分からない恋人の後ろ姿を焼き付けるように、ポセイドンはただ見つめていた。
「
虹の門に着いたら、余の上着を被るといい。他の魔族や鬼共は手出しができなくなる」
「はい」
城門を出る直前、最後に振り返る
千栄理の姿を見て、ハデスはそれ以上何か言うことはなく、彼女の気の済むまで好きなようにさせてやった。
「お待たせしました」と隣に並び立つ
千栄理にもういいのかとハデスが問うと、彼女はいつものように礼儀正しく返事をして、「私、きっとまたここに戻って来られるように頑張ります」と答えた。その言葉と笑顔にハデスもふ、と笑みを零して「休息を取りに行くのだから、頑張る必要は無いぞ」と返す。
「あ、そうですよね。ふふ、私ったら」
「余の城に着いたら、少し話をしよう。茶と菓子も用意させる」
「あの、ハデス様」
「なんだ?」
城門を出たところで
千栄理は「これからお世話になります」と改めてお辞儀をした。ハデスはやはりまた笑って、「こんな時くらいもっと甘えろ」とまた頭を撫でた。「今日からは存分に我儘を言え。余が全て叶えてやろう」と言うハデスに、最初は悪いからと断ろうとした
千栄理だったが、ハデスに「ここでは遠慮は体に毒だ。それに、たまには余に兄らしいことをさせろ」と言われてしまっては、逆に遠慮するのは何だか失礼に思った
千栄理は、
虹の門へ向かいつつ、「じゃあ」と最初の我儘を言ってみることにした。
「おやつはマフィンが食べたいです。苺ジャムいっぱい付けて食べるのが絶品なんですよ!」
何とも可愛らしい我儘に、ハデスは弟達の我儘に比べたら、
千栄理の我儘はささやか過ぎて、その落差にまた思わず、今度は思い切り笑ってしまった。突然、笑い出したハデスに驚いた
千栄理は不思議そうな顔をする。一頻り笑うと、ハデスは温かい眼差しを彼女に向けた。
「ふふ……すまぬ。お前の我儘は随分、愛らしいなと思ってな」
「だ、だって、普段は太っちゃうからってあんまりジャム付けられないんですよっ!? それを今日は贅沢にいっぱい付けちゃうんです! これは凄く罪なことなんですよ!」
「んふふふ。止めろ……これ以上、笑わせるな……っ」
また両肩を震わせて笑うハデスに、
千栄理は不服そうに頬を膨らませてなんで笑うのか、これはどれ程、真剣なことか説明しなければと謎の使命感に駆られていた。