海神と恋人 36 ハデスの城に着くと、彼は部屋は充分余っているから好きな部屋を使うと良いと言ってくれたので、
千栄理は一番景色がよく見える部屋を選んだ。小さいけれど、バルコニーが付いている部屋で、大きな鉄紺色のベッドもある。部屋全体に使われている青系統の色が却って、
千栄理を落ち着かせてくれた。この部屋を使いたいと言った時は「本当に良いのか?」とハデスには心配されたが。
「大丈夫です。きっとまた元に戻れるって信じていますから」
千栄理がそう言うと、ハデスは「お前は強いな」と微笑んだ。確かに服をビリビリに破かれた時は心底恐怖を覚えた彼女だが、ポセイドンにもそうする程の理由があったし、それについては彼女は罪悪感すら覚えていた。
彼女は相手を傷付けないようにと、いつも言葉を濁してしまう。始皇帝の告白に対して、どっちつかずな反応しか見せなかったことは紛れもない事実で、他にも様々な出来事が重なって、心が追いつけなくなってしまった。そのせいで、ポセイドンから心が離れてしまっていたのだ。だからあの時、ポセイドンの不安を払拭するどころか、増長させてあんなことをさせてしまった。
「帰ったら、ポセイドンさんに謝らないと」
「何故だ? お前は悪くないだろう、
千栄理」
独り言のつもりで小さく呟いた彼女の言葉を、ハデスは聞き逃さなかった。「少し話をしよう」と
千栄理を窓際の小さなテーブルと椅子の方へ促しながら、ハデスはお茶と茶菓子を持って来るよう、部屋の外で待機している召使いに命じた。足音が遠のいていくと、
千栄理と向かい合う形で彼も座る。席に落ち着くと、ハデスは話し始めた。
「お前とポセイドンの間でどのような会話があったかは詳しくは分からんが、お前が戻るという報せを受ける直前まで、彼奴は終始落ち着かなくてな。その間に、彼奴は自分の空想で憔悴していた」
「自分の空想? ですか?」
そこでハデスはその時のことを思い出したのか、少しおかしそうにくすくす笑った。そこで部屋のドアがノックされ、ハデスが入室の許可を出すと、ワゴンにお茶とお菓子のセットを載せて召使いが入ってきた。なるべく音を立てないようにしているのか、滑るように近付いてきて、流れるようにお茶の準備を整えると、静かに退室していった。
ハデスはお茶を一口飲んでから続ける。
「それが……おかしなものでな。初めはお前が人間の国を気に入って帰りたくないとヘラクレスに駄々を捏ねていると思っていたようだ。だが、お前が攫われて帰れないのだと聞くと、飛んで行くような勢いだったが、末弟に止められた。いきなり、彼奴が出て行ったら、滅ぼしかねないと思ったのだろう。末弟の命で手を出せぬと分かってからは、空想の力が働いてな。次第に不穏な方へ考えて自分を追い詰めていった。要するに、彼奴は自分で自分を追い詰め、それをお前にぶつけただけだ。だから、お前は何も悪くない。彼奴が勝手に思い込んだだけのこと」
「……でも、ポセイドンさんを不安にさせてしまったのは、事実です。私にも責任はあります」
俯き、自分の服を握る
千栄理をハデスは少々痛ましいものを見る目を送る。
今回の件に関して、誰が悪かったのかという観点だけで考えるなら、答えは「誰も悪くない」のだ。
千栄理は、以前からヘラクレスとあの国に行く約束をしていただけ。ヘラクレスは、人間達の仕事を手伝いに行っただけ。ポセイドンはそれを見送っただけで、
千栄理を攫った始皇帝はその実、打算から始まった恋の衝動に身を委ねただけ。誰かを好きになることに罪など無い。ハデスも
千栄理と同意見だった。
しかし、今回の場合、その「誰も悪くない」ことが一連の騒動を引き起こしたとなると、神も人も業が深いなと彼は思った。
「そんなに思い詰めることは無いが、余が言っても納得はしそうに無いな」
「……すみません」
「良い。答えが出るまでここで自由に過ごすといい」
お菓子が入ったバスケットに掛けられている布巾をハデスが取ると、そこには焼きあがったばかりのマフィンと苺ジャムの瓶が入っていた。マフィンにはスライスされたアーモンドが乗っている。それを見て、ポセイドンの城を出る時に言ったことを思い出した
千栄理は、今更ながら恥ずかしくなってきて、熱くなる頬を両手で冷まそうと当てる。そんな彼女に、ハデスはまた可笑しそうに目を細めた。
「先程、我が妹が言っていたことを試してみようかと思ってな」
言いつつ、ハデスはナイフでジャムを少し取り、マフィンに乗せる。未だに羞恥で彼の目を見られない
千栄理は、ほんのり赤い頬のまま少し居心地が悪そうに視線を逸らして言った。
「わ、忘れてください。私ったら、本当に……子供みたいで、恥ずかしい」
とうとう手で顔を隠してしまう
千栄理。それを見てハデスはまた声を立てて笑った。
「今更か。余は随分と愉快な妹を持ったようだ」
「も、もうっ。ハデス様の意地悪!」
「ふふふ、すまぬ。ふむ……以前から思っていたのだが、その呼び方は少々堅いな」
「え? 堅い、ですか? なんとお呼びすれば……」
「余はお前の
義兄だ。好きなように呼ぶと良い」
千栄理は少し考えてから「えっと、じゃあ」と切り出す。
「ハデス……お
義兄様?」
目の前に座っているハデスの雰囲気から連想された単語に、言われた本人は至極嬉しそうに口角を上げた。そのままジャムが乗ったマフィンを一口囓って咀嚼すると、飲み込んで苦笑した。
「甘いな。だが、苺の香りがマフィンとよく合う。後味が随分と爽やかなものだな」
「紅茶と合う」という評価をしてくれたハデスの言葉を聞いて、自分の好きな物を褒められた
千栄理は嬉しくなり、満面の笑顔を見せる。それだけで彼女の羞恥心などどこかへ飛んで行ってしまったのか、「そうなんです!」と言ってハデスの好きな物は何かと訊く。
そんな当たり前で他愛の無い話をしていると、ハデスも心が和み、日々の疲れが癒やされていくのが分かる。なるほど、下層の人間達が彼女を治癒の女神と言ったのは、あながち間違いでもないかもしれぬ。神になる時が来たら、そういった力を授かるかもしれないなと考えつつ、ハデスは紅茶をもう一口飲んだ。
「ポセイドンさんにも、食べてもらいたいな……」
独り言なのか、ぽそりと呟いた
千栄理の表情は寂しげで、ハデスは一瞬、この二人を離したのは誤ったかと思ったが、彼女は自分で気が付いたのか、はっとした顔をした。
「あ、帰りたいという訳ではないんです。ポセイドンさんと一緒にいることを考えると、まだ少しどきどきしてて、緊張してしまうので。……でも、いつかまたこうしてポセイドンさんと穏やかな時間を過ごせるようになれたらなって」
「ここまで彼奴に付き合ってきたお前なら、大丈夫だ。また元通りになれる。彼奴も心の奥底ではそれを望んでいるだろう」
「そうなん、ですか……?」
どこか自信が無さそうに訊く
千栄理を見て、ハデスは意外だなと思いつつ、「なんだ、自覚が無かったのか?」と逆に質問した。
千栄理は更に不思議そうな顔をして、言葉を選んでいるようだった。
「婚約した後でもポセイドンさんは私を自由にしてくれていて、だから、私達の間には確かな信頼関係があると思っていました。だから、私……あの服は本当に皇帝陛下に戴いただけのもので、折角観光するのだから、服も相応の物をと」
「それでお前は袖を通し、彼奴は勘違いしたのか。何とも……」
つくづく弟の難儀さを思い、ハデスは仕方ないなと笑うしか無かった。