海神と恋人 38「終わったよ」
バルコニーから戻ってきたベルゼブブは救破の返り血が付いていたが、その肌を焼くことは無い。
千栄理が怯えつつも、そういった意味の視線を向けると、彼は事も無げに言った。
「あいつは僕の腹から生まれたからね。あいつの黒い血は僕には効かないんだ。……さて、そろそろ再生が始まっているだろうから、僕は行くよ」
それだけ言い残してベルゼブブは汚れた服のまま、部屋を出ようとした。その背中にハデスの腕から解放された
千栄理が呼び掛ける。
「あ、あのっ……ありがとうございました。また助けて頂いて」
「触るなよ」
近付いて手を伸ばして触れようとした
千栄理に、ベルゼブブは冷たく言い放った。前に会った時とはまた違う突き放すような冷たさを孕んだ声に、思わず手を止めた。拒絶されたことに少しショックを受ける
千栄理の隣に立ったハデスが、穏やかに笑んで説明する。
「大丈夫だ、
千栄理。此奴は今もお前を守ろうとしただけだ。悪意は無い」
「ちょっ……と、ハデスさん」
余計なことを言わないでと言いたげに、少し眉間に皺を寄せるベルゼブブ。そんな彼を見て、ハデスはまるで「形無しだな」とでも言うようにくつくつと笑った。
「そうだったんですか? じゃあ、本当にベルゼブブさんは優しい神様なんですね」
「そんなんじゃないから。~~~~っ。僕はもう帰りますよ!」
千栄理とハデスの温かい眼差しにいたたまれなくなったようで、ベルゼブブは少々乱暴に扉を開けて出て行った。残ったハデスと
千栄理は部屋の惨状を見て、部屋を移るかどうしようかと訊かれた
千栄理だったが、新しい部屋を使って掃除の手間を増やすことも無いと、この部屋を使い続けることを選んだ。そのついでに彼女はおずおずろ口を開く。
「お義兄様、明日ポセイドンさんに電話してみようと思います」
「! もう、大丈夫なのか?」
少々心配そうな表情を浮かべるハデスに、
千栄理はいつものようににっこり笑って「はい」と返事をした。
「ここに来てからもう二週間も経ってますし、そろそろ私もポセイドンさんも落ち着いて話し合えると思うんです」
もうすっかり安心しきった顔をしている
千栄理。一瞬、どうしたものかと考えたハデスだったが、ここは彼女の意志を尊重しようと思い、止めるようなことはしなかった。
「今までご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」と
千栄理が下げた頭をハデスは優しく撫でる。
「何を言う。言っただろう、
千栄理。お前はもう余の妹だ。迷惑などと思ったことは無い」
「もし、またポセイドンに嫌気が差したら、頼ると良い」と冗談混じりに言うハデスに、
千栄理は「そんな、悪いですよ」と可笑しそうに言った。
翌日、身だしなみを整えてから、
千栄理は持ってきていたスマホでポセイドンに電話を掛ける。ワンコール鳴らないうちに出た素早すぎる彼の対応に、少しだけ驚いた。
「………………なんだ」
「おはようございます、ポセイドンさん。えっと……もう起きてたんですね」
「………………うむ」
何だか声に元気が無い。というより、電話にすぐ出た割には反応が極端に鈍い。その様子にいち早く気が付いた
千栄理は、「どうしたんですか? お体は大丈夫ですか?」と声を掛けてみる。ポセイドンは相も変わらず、たっぷりの沈黙の後、「うむ」としか返って来ない。何だか様子がおかしい。心配になった
千栄理は一度、電話を切ろうとしたが、ポセイドンに「切るな」と言われ、手持ち無沙汰なまま、少し待っていた。
「…………会いたい。お前の顔が見たい」
それだけだったが、声音から彼が謝っているのだと分かった。はっきり謝罪の言葉を述べたことの無い彼だが、ここまでしおらしい声も聞いたことが無い。今度こそはっきりと謝罪の言葉を聞こうと思っていた
千栄理だったが、それだけでもう許してしまうのだから、自分も彼に甘いなと苦笑してしまった。
「私も、会いたいです」
私はやっぱり彼が好き。きっともう一度会って話をすれば、分かり合える。そう信じて、彼を信じて、帰ろうと彼女は決めた。
「ハデスには、余が言っておく。……余が迎えに行く。お前は城で待っていろ」
「分かりました。待ってますね」
「うむ、待っていろ」
少し名残惜しげに電話を切って、
千栄理は朝の支度と荷物をまとめにかかった。
一方で、電話を切ったポセイドンは、そのままハデスに電話を掛ける。ワンコールで出たハデスは、何か含みがあるような口調で「どうした」と訊いてきた。
「
千栄理と連絡が付いた。今日、迎えに行く」
「やっとか。早く来てやれ。
千栄理も待ち侘びていることだろう」
待ち侘びている。その単語だけでポセイドンの胸に震える程の喜びが湧いてくる。同時に、己に対する不安も少しばかり沸き立ってしまう。
千栄理と顔を合わせたら、自分がどうなってしまうのか分からない。できることなら、以前のように優しく接してやりたい、と思う。
電話を切って、ポセイドンは自嘲に満ちた笑みを浮かべた。
「おかしなものだな。余が……神たる余がこのような……」
惨めな気持ちになるとは。続く言葉は、彼の神としてのプライドにかけて、口にされることは無かった。そのまま机に突っ伏してしまう主人を見て、差し出がましいとは思いつつも、プロテウスは紅茶を彼の手元に置いて言った。
「それが恋というものですよ、ポセイドン様」
「……なんだ、突然」
「いえ、私にも思い当たることがございまして。差し出がましいとは思いましたが、今の貴方様には必要なことかと」
返事は無かったが、沈黙を了承と捉えたプロテウスは、「では、長年お仕え致しました従者として、お話させて頂きます」と続ける。
「今までポセイドン様が心から愛する方は、お一人だけでした。ですが、あの頃は何かと奥方様と衝突することが多かったように思えます」
「……そうだな」
アムピトリテ。かつてポセイドンの妻としてあった海の女神。普段は穏やかで心優しく、滅多なことでは怒らないが、一度怒りに触れると、ポセイドンとも互角に渡り合える程の実力を持っていた女神だった。しかし、夫婦として彼女がこの城に来てからは、共にする時間は多かったけれど、それ以上に意見の食い違いで衝突することが多かった。
ポセイドンとて、彼女を愛していなかった訳ではない。ある時は読んだ本のことで言葉を交わし、笑い合い、ある時は鍛錬と称して仕合ってはプロテウスに止められていた。淑やかな見た目からは想像できぬお転婆だった。だが、それ故に我が強く、仕事のことでポセイドンとよく口論からの死合いが絶えなかった。
「ですが、
千栄理様は全く性質が異なります」
対して、
千栄理は無力な人間だ。神としての威厳は無く、慈悲を持って判断を下せる程の責任も重荷も無い。言ってしまえば、ポセイドンに守られるしかない存在だ。しかし、彼女は壊れやすい故にそれを守り抜く大切さ、難しさ、愛しさをポセイドンに教えた存在でもある。
「
千栄理様もアムピトリテ様も、貴方様にとって全く異なる存在と存じ上げております。どちらの方にも変わりなく、愛情を注ぐことができます貴方様だからこそ、どうか
千栄理様のことを愛を持ってご一考下さいますよう、お願いいたします」
そう言って頭を下げるプロテウスを見、ポセイドンは思い詰めた表情を少しだけ和らげた。
「まさか余がお前にこんな相談をする日が来るとはな。――
千栄理のことは、余も考えている。悪いようにはしない」
「面を上げよ」とほんのり優しげな口調の主人に、プロテウスは捧げるつもりで下げた頭を上げた。