野良犬だけがうろつく道路に曙の霧が緩やかに降り、そこにしんと軒を並べる大きな商家の塀なる裏戸。
塀の内の際には庭木が茂り、中の様子を窺い知る事も覚束ない。
まだ薄暗がりに沈む通りで不意にからりと戸が開き、深々と帽子を被った洋装の男が家の女に送り出される。
頭を下げた女の方を見もせずに、ひっそりと脇に待たせた人力車に男の足は向けられた。
後ろで静かに戸が閉まる。
確かにその男。確かに一人。
それを見定めて音もなく向かいの屋敷の屋根から何かがふわりと飛び降りた。
まだ消す者もなく灯る街灯に手元がきらりと光る。
その、落ちる影の耳が地を蹴る音を拾った。
(─── !!)
やにわに閉まった戸がバンと開き、男が幾人かばらばらっと走り出た。入れ替わりに洋装の男は戸の内に転がり込む。
場に散った男たちは影にさっと手を向けた。
そこに降り立ちながら影が何かを地と街灯に叩きつけたのはほぼ同時。
不揃いな銃声が高く響き、天から降り注ぐ轟音と地を揺るがす衝撃が辺りを貫いた。
甲高い声を上げて目を押さえ、車夫がその場に頽れる。
塀の内外、一帯が全て黒い。
立ち込める煙が眼に刺さる。吸い込んだ鼻から喉から肺を刺すように侵す。
口を押えて咳込んだ塀の内の男の後ろに影が差した。
被った帽子が地に落ちる。
その髪をぐいと後ろに掴み上げた後ろの影は、瞬時にのけ反る男の首の襟から浮いた太い血筋を短刀で切り裂き返す刀で耳を削いだ。
何が起こったかもわからぬ顔のまま、男は派手に血飛沫を前に噴き上げ棒のように倒れる。
充満した煙にむせ目は未だ利かぬ中、赤く錆びた鉄の匂いをかすかに嗅ぎつけた男たちが太い叫び声を上げた。
不審な爆音に近隣の家々から人が飛び出してくるのが霞んで見える。
その時もうくだんの影はそこから遥か遠くに駆け去っていた。
「 …ッ」
裸の上腕がずきりと
痛みそこから血がたらたらと落ちる。
被ったガラスが髪を振る度パラリと散る。
駆ける足を緩め腕の裏表、穴の入口を見て取ると天元は短刀で己の腕に刃を入れた。
張り詰めた皮膚を少し裂き、その下に刃先をこじ入れて探り当てた小さなものを弾き出す。
跳弾を一つもらっただけとは運が向いてる。
気付くのが後少しばかり遅かったなら。
…くそ!
塗り薬をべっとりと塗り込み、ぴたりと封じた切り口を幾重にも細い晒しできつく結わえると、天元はまた音もなく白みつつある朝を走り始めた。
室を隔てる襖を外して続き間となった広い座敷の両脇をぎっしりと正装の男女が埋める。
正面には白の打掛に古風に結い上げた髷を白い角隠しで覆った小柄な姿があった。隣に居るべき主客の座は空だ。
当たり前の娑婆なら夜に訪う筈の嫁も宴もここにはない。
夜は
稼業の時だ。
銘々の膳を前に騒々とそこここで交わされるさざめきの中、下からすっと火薬の臭いを漂わせて影が入って来た。
それを見止めた周りの男らが口々に野次を飛ばす。
「よう花婿!遅いぞ」
「お帰り!嫁がお待ち兼ねだぜ」
「馬あ鹿!遅れて登場するのが色男ってもんだ!」
脇に居並ぶ黒一色の
連中のど真ん中を大股に歩いて正面にどんと胡坐を掻いた少年は、小さな革の巾着袋を取り出し空席の上座の横に坐した紋付の男の前に放った。
しんと静まった空気の中、男はその革袋を開けると中身を手のひらに転がした。
どす黒く血に染まったちいさな萎びた肉片。それを男はじろりと眺める。
「三筋の墨。確かにな」
男は一言そう言う。
途端にどうと座が沸いた。
やんやの掛け声が両脇から飛び、口笛を吹きならす者もいる。
「さすが坊ちゃんだ!」
「祝言の前に軽く一仕事たあやるねぇ!」
「嫁より男を刺す方がお好みかあ!?」
その中に少年の声がびんと響いた。
「的は一人でいると聞いた」
息子の言葉を意にも介さぬように男は言う。
「ほう、違ったか?」
「知っていたくせに」
男の横に座る黒髪の少年が口を挟んだ。わずかに幼いその顔は天元に瓜二つだった。
「朝方拾った
手下を締めたら歯三本目で吐いたぜ」
「宇髄の惣領が来ると前々から掴んでたと」
「いつもいつも、試すようなことをする」
物騒な事を淡々と口にし、しかしその目に何の思惑もひらめいてはいない。
少年の横にはまた似た顔のまだ年若い者たちが幾人か居並ぶ。
しかしその顔はそろって口を噤みただ恐る恐る身内の顔を下から見回すのみだった。
男は息子の言葉には何も応えず、ただその少年にこう言った。
「始末は合ったか?」
「ああ」
「強い者だけが生き残る。我が息子は皆逞しい」
「これでまた一族の名も上がったということだ。名誉なことではないか!なあ」
それからニヤリと笑ってその場を睥睨し、目の前の自分を鋭く見詰める息子に男はだみ声で呼ばわった。
「早く着替えてここに座れ!天元。花嫁が痺れを切らすぞ」
「益々増やせ、我が一族を!精々励めよ!」
少年は無言だった。
父親に頭を下げ、列座を横にすっと立ち上がると衆目の中座敷を出て行く。
白い角隠しの下の猫のような目がその後姿をじっと追っていた。
鳥の子に淡く竹の描かれた襖がぱんと開いた。
油皿の炎が揺れ、辺りを薄ぼんやりと明るみに浮かび上がらせる。
夜目にも白い寝間着を纏った少女はふっくらと真綿の入った絹くるみの布団の枕の前で正座し、畳に額をつけた。
夜にはいささか荒い音を立ててこれも白を着た男、いや背丈はあってもまだ少年の面立ちがそこに歩み寄る。
それから大きな音を立てて少女の目の前に腰を下ろすとどっかりと胡坐をかいた。
少女はその様子に怖じもせず下げた頭はぴくりとも動かない。
ややあって男はさっと立ち膝になると動かない礼のままの小さな背中を覗き込む。
少し苛ついた気を纏って少年は口を開いた。
「顔見せろ」
その声に目の前の背が動き、少女は頭を上げた。
細面の顔にかかる長い黒髪。少し切れ上がった眼差しが目の前の男を静かに見遣る。
「お前はどうされたい?」
その白い
顔に天元はぞんざいな口調で言った。
「姫さんみたいに丁重に傅かれて捏ね繰り回されるのが好みか」
「それとも裸に帯でぎりぎり縛り上げられて尻にがつんと突っ込まれたいか」
「いや、お前なら男に跨って上から責め立てるのも趣向かもしれねえな」
「朝まで啼かせて息もつけねえほど善がり狂わせてやるよ」
「さあ選べ!ほら!」
その姿勢のまま顔色一つ変えずに雛鶴は答える。
「天元様が命じてくださいませ」
「お好みのまま如何様にも」
「今日より私は天元様の妻ですから」
真っすぐに下から見詰められ、少年の赤い瞳は少し遠くに下がるように細められた。
天元はそのまま後ろにどかっと腰をつく。
それからもう一度睨むように雛鶴を見遣って口を開いた。
「礼を崩してお前も座れ」
「それから腹のもんを出せ」
少女は顔を上げてちょっと様子を窺うような
表情を見せた。
それからすっと上体を起こすと膝を揃え、結んだ帯に白い手を入れて小さな懐剣を取り出した。
それを自分の膝の前に横に置き、無言のまま胡坐の天元の方に押し遣る。
一口の短剣を間に置いて、下には何もつけない白い夜衣の少年と少女は向き合って座っていた。
「今時初夜の床に物騒なもんはいらねえぜ」
「粗相があれば自害せよと。親に言い含められております」
「親だと!」
天元は吐き捨てた。
確かに、自害するようなことにはならないはず。
これは
型だ。
でも、なぜこの人は苛々しているのかしら?
夫なる人を前に見て雛鶴は頭の中で考えを巡らせる。
私がお気に召さない?
他に心に決めた方がいらっしゃる?
それとも…?
気に染まない仕事だったから?
いや、祝言では静かに盃を舐めていたじゃないの。
さて次は何と答えよう?
機嫌をこれ以上損ねずさっさと褥に連れ込むのよ。
目的を果たさねばならない。私に与えられた目的を。
大丈夫。今までだってうまくやってきた。 .
少女に、天元が口を開く。
「お前は親が好きか」
投げられた問いは雛鶴の予想とはだいぶん違ったものだった。
だが戸惑いをおくびにも出さず少女は答える。
慎重に。道を踏み外すな。
「好きも嫌いも考えたことがありませんわ」
「宗家の長男に嫁ぎ、立派な子を生す。それが私に与えられた目的ですから」
「俺は親が嫌いだ」
今度こそ雛鶴は狼狽した。
何を言っているのだろうこの人は?
親を弑する謀反の企てでもあるのだろうか?
いや、黙って待てばいずれ総て手に入る筈のものじゃないの。
どういうこと?
どうするべき?今ここで。
目の前の短剣を雛鶴はちらと見た。
「心配するな」
何も見ぬような顔で目ざとく天元は言う。
「逆賊になりたいわけじゃない」
「ただどうにも是とは思えねえ」
「子を持つためだけに女を娶る。そしてできるのは俺のような倦みくされたガキか」
「また増える」
「騙して犯し、殺す。そのために生まれるガキが」
ちょっと不貞腐れたような声で天元は口を尖らせた。
「俺は自分の女をどう抱いたらいいか判らねえ」
「子を生すためだけに女を抱く」
「そんなことは今の今までやったことがねえんだ」
「それは是か?」
「どうだ?」
耳に馴れない言が雛鶴をまた動揺させる。
今まで知っていたこの男が全く違う人間に見える。
だってこの人は。
この男は誰よりも手際よく犯し、殺し、成果を取ってくる筈だ。
そう、皆が認める里では専らの評判のどこから見ても立派な宗家の跡取り息子だと。
なのになんだろう、この人は。
自分の心の奥底がさわさわと揺れるのに雛鶴は気が付いていた。
「そして、生んだが最後」
「お前は用済みだ」
「お前の家ほどなら大丈夫かもしれねえが、俺の母親を見ろ」
「あの親父はそんなことに頓着しないかもしれない。欲しいのは己が血を引く子種だけだ」
少し肩をすくめ、銀の前髪の下の形の良い眉を天元は寄せた。
「俺はお前を守り切れないかもしれない」
守る。
私を?どうして?
又しても予想だにしない言葉が雛鶴を呑み込む。
己と不可分の
生業を鑑みて、その掟にはあまりにそぐわないその言葉。
でも、この人は。
この人の口から出るものは。
「ならば」
少女は静かに、しかしくっきりと言葉を口に乗せた。
「子を生さずとも抱かれることはできましょう」
「ああ、しかし…」
そこで少年は少しばかり口籠る。
「女の忍びには造作もないことです」
「他の嫁にも私が言い含めますわ」
「嫁が三人もいて誰一人孕まない、となれば…」
「種無しは俺か」
天元は面白そうに片側の口の端を上げた。
「いいのかお前は。それで」
「それが天元様の御心ならば、それがそのまま妻の務めです」
おっとりとした従順を装いながら秘め事を共有する目で雛鶴は夫を見上げる。
手を伸ばし、目の前の細い顎を掴むと天元は己の幼い女房の瞳を覗き込んだ。
そこにある心の奥底まで見定めるような深い赤。
それからふうと息を吐くとその男らしく整ったしかし半ばは少年の面差しの顔面に笑みが広がっていく。
熱く、柔らかな眼差しが自分の全身を包み込み、背筋がぞくぞくとする感覚が湧き上がってくる。
今この男に心臓を握られた気がしていた。
「よし」
懐剣を拾って隅に投げ、枕元の火を消すと天元は厚い賭け布団をがばっと捲り、夜衣に包まれた体をそこに横たえた。
「雛鶴、来い!」
「寝るぞ」
「はい」
正座の雛鶴は瞬きを一つすると帯に白い手をかけた。
「ああ、いやそれはいい」
「え?」
「ただ寝るだけだ」
「今の今までそんなことはした事がねえが、今日からやってみるか」
そう…。
何だか急に力が抜ける。
少女は強張りが解けたようにそっと夫の脇に体を添わせて横になった。
厚い布団が上にかけられ、じんわりと互いの体温がそこに伝わり温もってゆくのを二人は感じた。
触れ合わぬ二つの身体は確かに互いの熱を持ちそこにある。
枕を頭に上を向いたまま雛鶴は控えめに口を開いた。
「あの… 天元様」
「何だ?」
「初めてです… 私も… 」
「殿方と肌も合わせず一つ布団で眠るのは」
「はっ、
未通女同士ってわけか。いいな」
天元は面白そうに軽い笑い声を立てた。
「じゃあそれらしく手でも繋いで寝ようぜ」
そういうと天元は大きな節のある手で布団の下に添えられた華奢な手を握った。
少しは熱く、少しは慣れないその仕草。
「では、お休みなさいませ」
「おう」
目を閉じて言葉が切れ、横たわった二つの身体は静かに息をつく。
どれ程の間があったか、包み込まれた小さな手の上で指がぴくりと動き、手のひらにぎゅっと力がこもった。
目を瞑ったまま天元は言った。
「雛鶴…」
「はい」
「やっぱり乳だけ吸っていいか」
おやおや。
上を向いたまま雛鶴は薄く目を開ける。
今その口調は年相応の少年の響きを帯びて心地よく雛鶴の耳朶をくすぐった。
今宵初めて雛鶴は心から微笑んだ。
「どうぞ」
「乳だけといわずお好きなところをお好きなだけ」
「今日より私のすべては天元様のものですから」