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    しおり
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    しおり
    恋へと誘う夜半の芳香午後の薔薇あの日の幻可憐な小道双子紫陽花喫茶乙女椿片恋百日紅夢ビオラ邸恋へと誘うつらつら椿落ち葉踏み静音ブーケ狭間の空色糠星の降る星のない底海の彼方の暖かい場所月光の織物幼い願い事心手渡して夜半の芳香
    歩道橋を駆け上がる。自分の呼吸音がうるさい。ひび割れた階段を革靴で跳ねてイアホン越しの声が静かに語る星空を見上げた。
    『こんな途方もない夜に隠れても君の気配ははっきりわかる』
    今日の彼は吸血鬼対策課の隊長役だ。吸血鬼が日常にいる世界で、強大な力を持つ吸血鬼のバディとさまざまなトラブルを解決していくラジオドラマ。見上げる星も違えば彼が語り掛ける相手も自分ではないけれど、この声を聴けば会社勤めの疲れも吹き飛ぶ。夜を賛美していた声がただ一人に向けた憂いを帯びたため息を漏らす。疲れた声に滲むバディに向けた情に背筋が痺れた。色っぽい妬ましい彼の視線が俺に向けばいいのに。
    『出ておいで。貧弱な私にビルの壁を登らせるつもりか?』
    羨ましい。吸血鬼が出てきて彼に憎まれ口を叩く。この吸血鬼役の声優さんだって素晴らしいのだ。けれど俺の耳は彼の声だけを追いかけ、相手役に羨望と勝手な消沈を抱いてしまう。彼の声で浮き上がっていた心を奮い起こしてイアホンを外した。歩道橋を渡り終えてコンビニに寄り夕飯と明日の朝飯を買い込む。家に着くのは九時過ぎ。書きかけの小説が完成したら出版社に持ち込むのだ。
    コンビニを出て十数歩。夜空に両腕を突き上げる。いつか彼の目に俺の小説が一文でも触れますように。
     急き立てるように吹いた風が甘く香って、物憂げな彼のため息のようだった。

    午後の薔薇
    「花ってこんなに匂うんだ」
    「うん?」
     隣を歩く作家先生が不意に呟いた。自販機のコーヒーを手に図書館横に併設された公園を歩いていた所だ。半袖一枚ではまだ肌寒く、春の抜けるような晴天は館内から出てきた目に眩しい。日陰のベンチに並んで座ると彼の銀髪がふわりと揺れた。
     くんっと空気を嗅ぐ。手に持ったコーヒーの匂いしかわからなかった。彼のいうような強烈な匂いが花壇のネモフィラやチューリップの香りとは考え難い。
    「どこから匂う?」
     降参のつもりで問いかけると彼はじっと私をみた。
    「ドラさん。ドラさんから薔薇の匂いがする」
     くんっと彼が私の首筋を嗅ぐ。ぎゃあと叫んで飛び上がらなかったことを褒めてほしい。彼の言い方だと私が花になってしまうが、生憎私はいい年をした人間のおっさんだ。薔薇の香水だってつけたことはない。

     私の恋人は作家のロナルドくんという。銀髪碧眼高身長にギリシャ彫刻のような体躯という二・五次元俳優を地でいく彼だが、見目ばかり注目され続けた弊害で自己肯定感が底辺という生き難い性質を備えてしまった難儀な男だ。彼の原作ドラマに主演した縁で親しくなり、今日は作品の資料集めに図書館デートをしていた。ネットでなんでも調べられる時代だが、本の背表紙を漠然と眺めるのも楽しく、色々な時代の背景知識を仕入れるきっかけにもなっていいらしい。今日はめぼしい収穫がまだない。それ故の現実逃避に必死なのか遠慮なく首筋に突っ込んでくる鼻面を押し返す。手の平で鼻が潰れてもなお美しい顔面に視線のやり場に困った。
    「ドラさん真っ赤」
    「匂いを嗅がれたら大抵こうなる。他の人にするんじゃないよ?」
    「するわけない。俺もなんか匂う?」
    「私はいまコーヒーの臭いしかわからないなあ」
    「俺の鼻が効くのかな? 狼人間ってこんな感じ?」
    「さあ。人狼なら吸血鬼の天敵によく書かれるね」
     くんっと今度は空気中の匂いを嗅いでいる。彼はなおもしばらく鼻を動かすとぬるくなったコーヒーに口をつけた。
    「ドラさんのコーヒーが飲みたい。一緒に探してもらった資料、なんで殺し方ばかり出てくるんだろう」
     ベンチに置いていた手が重ねられる。おお、甘えている。私はわあわあと舞い上がる内心を職業役者の意地で押さえつけて「そうだねえ」とさも思案するように明後日のほうを向いた。
     彼の小説は愛らしいアルマジロと痩せすぎた男が毎度主人公だ。彼らは作品ごとに怪盗にも未来人にもなる。次回作は吸血鬼として書くために物語の舞台設定や吸血鬼の特徴を掘り下げるべく資料集めに来ていたのだが、吸血鬼関係で出てくるモノは退治方法が多かった。いかに邪悪であるか、どのようにして殺せばいいか。架空の存在ではなかったかと錯覚するほどの熱を感じるものも多く見られた。
    「性癖や習性が載ってたのもあったじゃないか。タンバリンで踊るとか」
     空いている方の手でタンバリンを鳴らす真似をする。それは書くと彼がいうのでいつの日か私はタンバリンを鳴らして踊る事になるかもしれない。彼の作品のモデルはデビュー作から一貫して私なのだ。
    「何が知りたかったの?」
    「得意料理とか」
    「そら豆の天ぷらとか春らしくていいね」
    「好きな色とかタイプとか」
    「美しいものが好きだよ。面倒くさい男も嫌いじゃないな」
    「抱き心地とか!」
    「柔らかくはないんじゃない?」
     飲み掛けの缶を揺らして水音で気を紛らわせる。斜向かいに植えられた薔薇の膨らんだ蕾に視線を注ぐ。
     彼の視線がくすぐったい。これは口説かれているんだろうか。既に恋人で同棲までしているのだが。私が返事で遊んだからこうなったのか?
    「柔軟剤だ。試供品で貰った薔薇の香りのやつ」
     突然発端の会話に答えが出た。ロナルドくんにドラッグストアのお使いを頼んだら大量の試供品をもらって来たのだ。私のシャツが臭うなら彼のパンツも同じ臭いがしているだろう。
    「ロナルドくん」
     君も花だったじゃないの。日差しが傾いて来ている。資料探しを続けるならそろそろ館内に戻ったほうがいい。作家先生は重ねるだけだった手を握りやけに嬉しそうに私の言葉を待っていた。
    「原稿のネタを探しに戻ろう」
     かわいそうなほどぺしゃりと崩れるものだから頭を撫でて励ました。花も柔軟剤の匂いも吸血鬼のあれそれも観測や記録の有無で存在が消えたり発生したりするわけでもない。しかし原稿は書かないと増えないし雑誌に穴を開けると連載は消えかねないのだ。
    「それとも私の習性を作品に書く?」
    「エッチすぎて無理」
     解語の花が拗ねた口調でぼやくと風のように唇を奪った。
    「真っ赤」
    「うるさい」
     にやけヅラの青年がスマホの着信音で締切前の作家先生に戻る。電話相手にオーバーリアクションで話す彼から微かに薔薇の香りがした。

    あの日の幻
     叶わない恋をしている。好きな相手を聞かれそう答えると兄嫁か義理の母かと食いつかれるのが学生時代からの常で、相手はテレビの中の人だからと続ければ肩透かしだ夢見がちだと芸能人に話は移る。誰も本気で気にしているわけではない。夢見がちはその通り。相手を口にするつもりもない。ずっと叶わない恋をし続けている苦しさを正論で否定されてもどうしようもないのだ。こんな風に他人と向き合うことを避けてばかりだから友人の一人もいないのだろう。

    「お前に出すブラウニーは無いよ! 死にな!」
     ドレスを着たどう見ても痩せすぎの男性がチョコレートブラウニーの皿を縋る男から遠ざけて一喝していた。小学五年生の二月に見たこの強烈なテレビのワンシーンが初恋だ。バレンタインに憂鬱になっていたこどもは目から鱗が落ちテレビに食いついていた。
    「すごい」
     こんなふうにはっきり言われたら泣いてしまうかもしれないが、くれるのかくれないのかはっきりしない女の子に囲まれるよりずっといい。テレビの彼は終始憤然としてドレスを捌き歩き去る。
    「格好いい」
     好きだ好きだとその時から騒いだ。今思えば昼のメロドラマに興奮し出した弟に兄は心配しただろうが、兄は役者さんの名前や他の出演作を調べてくれた。
    「ブラウニー夫人出てるぞ」
    「ブラウニー夫人も夜更かしする子どもは嫌いじゃろうなあ」
     ブラウニー夫人と兄が言えばどんな時でもカチッとスイッチが入り背筋を伸ばしていうことを聞いた。中学生の頃には夫人の夫に自分を当てはめた妄想でノート数冊分の小説を書き、高校になると彼の他の出演作でも同じことを続けた。創作を書くようになっても俺の主人公は彼しかいない。
     短編を持ち込んだ出版社で対応してくれた編集者さんは一読でモデルが彼だと言い当てた。彼はテレビより舞台で主に仕事をしていて一般の知名度はあまり高く無い。だから、と区切られバレないと思ったのかと呆れられるかと思った。しかし編集者さんは怖いくらいの笑顔で俺がひたすら惚れこむ彼の魅力を読者にもどんどんみせて好きになって貰いましょうと短編の連載を提案してくれたのだ。編集者さんの悪魔の誘惑に俺はひたすら書いた。どんな難問も理不尽も、愉快な宴さえ彼を縛ることはできない。彼は痩せて非力だが知恵が回り、オリハルコンの甲羅を持つ無敵のアルマジロが相棒についている。いつだって彼は居たい場所にしか居ないのだ。
     総合文芸誌でデビューした彼とアルマジロのシリーズはテイストを変えて色んなジャンルに進出した。企画を聞くたびに震え上がったが、果敢に挑戦し続けた成果を出版社は評価してくれた。
     俺がずっと恋をしているひとが俺の原作小説に主演してくれると出版社の授賞式で教えてくれたのだ。

    「だから、ドラさんが俺の初恋なんです」
     ずっと歳上に見えていた憧れの人は十しか離れていなかった。十代でブラウニー夫人を演じた当時は化粧のしすぎで肌荒れが大変だったらしい。
    「嘘みたいな話だが私の初恋もお父様だしなあ。次が兄でその次が君だからロナルドくんが初恋といってもいいんじゃないかな」
     ダイニングテーブルのラップトップを閉じてドラさんが淹れてくれたコーヒーを飲む。
     ずっとずっと叶わない恋だと思っていた。憧れの人が役を受けてくれて、撮影中何度か現場に差し入れを持っていかせてもらった。二時間のスペシャルドラマだ。撮影期間もそう長く無い。
     打ち上げでドラさんが連絡先を聞いてくれた。それから一年。恋人になって同棲している。
    「それ本当の本当?」
    「ほんとほんと。若い頃から役者をしていたから学校との両立で忙しかったし、卒業したら役者で生計を立てようって思うともっと忙しくなって、軌道に乗ったら入院しちゃったしさ。恋愛と縁がなかったんだよ」
     ドラさんは絶対もてたはずだ。人当たりがよく料理上手で聞き上手。共演者たちが放っておくはずがない。いうとドラさんはないないと手を横に振り、言い難そうに「成人するまで現場に髭が来てたんだよ。そんなの痛すぎるだろう?」と苦笑した。
    「ノースさんに感謝します」
    「なにいってるんだよ。恋愛的な意味で私を好きになってくれるなんて君くらいだよ」
    「それは絶対ないので。でも俺がドラさんの初めての恋人って怖いくらい幸せ」
    「それで泣くんだ?」 
     ドラさんが指を伸ばして涙を拭ってくれた。愉快そうな表情だけど心配してくれているのも伝わる。俺が彼を思うように彼も俺を思ってくれているのだと何度も伝えてくれた。
    「次が当たったらまたスペシャルドラマになるんだろう? 私ね、そろそろ相棒が欲しいんだ」
    「え。アルマジロのジョンは」
    「ジョンは一心同体のパートナー。無敵のアルマジロだけどスパイと戦ったりバーでエスコートしてくれる役はそろそろ人間も必要だと思うんだ。編集さんもいいと思うって言ってくれたよ」
    「いつのまに!」
     編集者さんの了承が出たらそれはもう決定事項だ。心臓が縮み上がるのに呼吸と鼓動が速くなり、脂汗が出て気持ち悪くなってきた。
    「ど、どんな相手がいいんです?」
     自分でもよく聞こえないくらい小さな声だ。色んな意味で理想像を聞くのが怖い。ドラさんは俺の頭を抱えて背中を撫でてくれた。
    「何を考えたんだね。私は」
     俺と共演したいのだと彼が早口で耳に吹き込む。脳内でブラウニー夫人が「書きな!」と勇ましい号令をかけた。

    可憐な小道
    『ビーフシチュー作りすぎたんだけど、持っていっていい?』
     ドラさんからのメッセージに俺は自宅で毎度のごとく五体投地した。伺います! と返すと秒でもう家出ちゃったと返ってくる。おお神よ。神はドラさんだがことこの件に関しては悪魔もドラさんだ。
     お付き合いを始めて三ヶ月、ドラさんは何故かうちに来たがっている。

     ドラさんのお家はセキュリティもしっかりしたマンションだった。お芝居の小道具や衣装、演じてきた役の台本が綺麗におさまった部屋は魅力的で四方に向かって拝礼した。整頓されたキッチンで魔法のように調理される昼食をご馳走になって日暮れまで未来のメカのようなゲーム機で遊んだのだ。翻って我が家は魔窟である。
     会社勤めの時代から住んでいる四畳半二間続きのアパートで、一間は執筆資料が本棚に収まりきらずいい加減なブロック分けで積み上げてある。デビュー当初は出版社に毎回違うジャンルを求められたこともあり即返却したオカルトホラーの資料以外は無節操に基本資料が揃っている状態だ。どれも十全に作品にいかせたとはいえないので再挑戦を試みて引っ張り出すうちに山が崩れ雪崩が起きる。執筆スペースは資料スペースと生活スペースの間の机で、比較的片付いた生活スペースこそドラさんの祭壇がある。出演作品のメディアはもちろん額装したポスターや舞台の半券、パンフレットなど飾ってある。執筆スペースから振り向けばポスターのドラさんのお顔が見られる配置だ。本人に見られたら非常に気まずいが信心から撤去はできない。来客は全く想定していない部屋なのだ。五体投地はいつも祭壇を拝む角度でやっている。
     それでビーフシチューである。とても嬉しい。好物といったのを覚えていてくれたのだ。尊い。ドラさんは最寄り駅までしか知らないため駅まで迎えに行くことになる。受け取ってそのままお帰りいただくのはあり得ない。俺はスマホを掴んで持ち込み可能のなんかいい感じの店を検索した。ラブホとカラオケしか該当せず違うと声が出た。次に貸し出しスペースを検索した。なんかいい感じの部屋を自宅と偽ろうと考えたのだが検索中にやっぱり違うだろと声が出た。嘘は良くない。特にひとを騙すような嘘は絶対碌なことにならないのだ。ならどうする? どうしよう?
     自宅を見回す。せめて雪崩の山を積み上げよう。窓を全開にして埃っぽい紙の山をせめて見目良い紙の山にしようと着手した。無情にもスマホがぴろんとドラさんの駅到着を知らせたのだった。

    『駅着いたよ』
     とうとうロナルドくん家の最寄り駅まで押しかけてしまった。来るからには満足間違いなしの極上ビーフシチューランチを保温容器に用意してきたし、カトラリーも度数の低いワインもある。敷物も用意したので断固拒否された場合は公園か河川敷でピクニックにしてもいいかと思っている。初めからそういえばよかったのだが、逃げ道の提示は後にしたかった。推し作家兼初めての恋人なのだ。一目だけでも生活スペースを覗きたかった。後からするから後悔という。駅に着いた途端に私は怖気づいていた。
     これで嫌われたらどうしよう。既読はついたが返信が来るまでの間にどきどきする。私生活に踏み込み過ぎただろうか。でも彼がそう簡単に私を嫌うとは思えない。しかし聞いてないだけで彼に同居人がいた場合は? 恋人と言ってもまだ三ヶ月だ。別れても前の恋人と一年近く同居した知人もいるし気の合う友人と暮らすライフスタイルも珍しくない。
     本当にただただ迷惑なだけの押しかけかも知れない。ずんと急に荷物が重くなった気がした。通知音がぽこぽこと鳴る。恐々見ると『すぐ行きます!』とメッセージと転がるアルマジロのスタンプが押されていた。キュルキュルっと高速回転する摩擦音が聞こえそうな迫力に驚く。なにこれ可愛い。さっきまでの不安も忘れてスタンプを検索する。帽子を被った銀髪碧眼の恋人が砂煙を上げる勢いでドスドスと走ってきた。

     挙動のおかしいロナルドくんとなんだか居た堪れない私でぎくしゃくと並んで歩く。ここまで来て急に謝るのは虫がいい。横でカクカクと動く手の指先を掴む。
    「来てくれてありがとう」
    「おおおお俺の方こそありがとうございます!」
     一瞬跳ね上がった体が荷物をさっと抱え直した。この反応はそこまで嫌がられていないか? いつも通り顔が真っ赤になっている。荷物を気にしているが密閉してあるから大丈夫。駅から歩くこと十数分。ロナルド君の家は外階段のついた二階建てのアパートで、彼の部屋は一階の角部屋だった。大仏キーホルダーのついた鍵を回し年代物の鉄扉を開く。そこは小さな宇宙だった。
     玄関すぐの生活スペースは特徴的な飾り棚がある以外は最低限の家電と水回りがあり、執筆スペースを挟んで銀河が渦巻いていた。まさに秩序と混沌。生まれくる世界。ふらふらと混沌に吸い寄せられ推し作家の創作資料に黄色い悲鳴をあげた。
    「これ! 蒸気都市の地図に似てる! 参考資料?」
    「あ、はい。その辺の山は全部蒸気の時です」
    「アイスクリーム作戦の時のメニューカタログ! 海軍物の時の設定資料!」
     大体どの作品の資料かわかるのが楽しい。見当がつかないものは未発表か新作のものかと鼓動が早まる。夢中になっていると背後で大きな腹の虫が鳴いた。
    「ドラさんに引かれなくてほっとして腹が」
    「引く分けないよ。傷まないように整理したい気はあるけどね」
     お昼にしようと声をかけたが執筆机以外どうやらテーブルがない。
    「あの、よければ河川敷にいきませんか?」
    「そうしよう」
     床にレジャーシートを敷くよりはずっといいだろう。シェアハウスどころかロナルドくん一人で生活するにも部屋に色々足りていない気がする。一人用の小さな冷蔵庫に使っている様子のないガスレンジ。ベッドも見えないが押し入れから布団を上げ下ろししているのだろうか。
    「ドラさん?」
    「ロナルドくん好きだよ」
    「俺も大好きです!」
     家中をひっくり返して彼の生活を整えたり、もし一緒に住むならと考えてしまう。それはきっとまだ早いのだ。資料の山をもう一度振り返って靴を履いた。

    「さっき資料見てるドラさん見て、一緒に住めたらって考えてました」
     河川敷はロナルドくんの家から五分ほど歩いた場所にあった。お腹の減った若者をレジャーシートに座らせてとっておきのランチを並べる。
    「私もだよ。君の部屋を整えて、私の居場所を作ろうとも考えてた」
     スープジャーを開けるとシチューの香りが広がる。ロナルドくんは私を凝視していた。
    「主役はシチューだが?」
    「俺の主役はいつだってドラさんです」
     グラスにワインを注ぎカッティングボードでチーズとパンを切ってそのまま並べる。用意をする私をじっと見るロナルドくんがあうあうと口を動かしていた。
    「召し上がれ」
    「結婚を前提のお付き合いで、いいんですよね」
    「ンフ」
     スプーンを差し出した手を包み込まれた。さっきまではここまでの自信はなかったけれど、当然でしょう? という態度をとってしまう。
    「そうか。君と住むならルームシェアじゃないんだね」
     私の手を包む彼の手を握り返す。急に来たことを謝り、来てよかったと心から伝える。彼と暮らすのはそう先ではないのかもしれない。

    双子紫陽花
     私には守護天使がついているらしい。特定の宗教の話ではない。二十代の半ばで長期入院を余儀なくされた時、兄が見舞いに持って来てくれた雑誌に付箋が貼ってあったのだ。新人作家のデビュー作という短編の主人公はまるで私のようだった。黒髪の痩せすぎた男など世にいくらでもいるけれど仕草や口調で自身のように思ってしまった。作中の私は怪しげな手紙にニヤリ笑って乗ってやり、少々悪どいほどの用意周到さで罠を避け鋭利に謎を解いていく。緊迫した場面で紅茶を振る舞い、身嗜みの手を抜かず女性にはあくまで紳士的。いっそ天晴と拍手したくなる戯画化は大いに病身を慰めた。

     それから間を置かず作者の短編は誌面に載った。主人公はいつも私だがテイストは度々に違う。前は冒険活劇かと思えばSFをやりホラーまでやる。一体この作者の頭はどうなっているのかとネットに情報を求めたが出版社の公式アカウントしか出てこない。暇に任せてアレコレ勝手に考えた。こうまで私の癖や仕草を把握しているのだ。舞台関係者か常連客ではなかろうか。それなら知人の誰も耳打ちしてこないのは解せないが。童話パロディが載った回に初めて作者のコメントが寄せられていた。
    『作品のモデルにさせて頂いている方が闘病中と知り心から回復を祈念しています。勝手ながらあなたの生き生きとした演技に憧れて物書きをはじめ、今日まで続けて来ました。お目に止まることはないでしょうが自分を含めたくさんのファンがあなたの健康を第一に、次にお仕事の復帰を願っています』と。届いているとも! 思わず声が出た。そして私もあなたのファンだ、いつも分身の活躍に心を躍らせていると手紙を書こうとして作者に対するスタンスが定まらず保留にした。私は勝手に長い付き合いの親友の気でいるが向こうは私が読んでいることも知らないのだ。
     代わりに雑誌を寄越した兄に彼の作品が映像化するならなんとしても自分がやりたいと鼻息荒く捲し立てた。ラジオでもいい。彼の作品なら近いうちにメディア化する確信があった。兄はリハビリが済んでからだと苦笑いし、兄から聞いたらしい父が出版社の授賞式の招待状を持ってきた。
    「役のオファー受けてきたよ。脚本楽しみだね」
     あんまり嬉しいと礼より歓声が先にあがる。わあわあと抱きつき父の背を叩く。私の勢いに父も珍しく驚いてワッと言っていた。
    「出版社の方から話があったんだよ」
     そっと撫でてくれる背から全身に電流が走る。もう一度ぎゅっと抱きついてリハビリに気合いを入れた。

     壇上の彼を見た私は目を疑い、頭が真っ白になり体が凍りついて兄に支えられた。輝く銀髪に青空の碧眼をもつギリシャ彫刻のような美しい青年だった。伏し目がちで全身をかすかに振るわせ、作家より格闘家のような逞しい手で華奢なマイクを持ち謝辞を述べている。
    「挨拶に行くか」
    「無理です」
     一目惚れだった。一瞬で恋は散った。アレと並ぶには傍の編集者のように実力で彼を支える者でなくてはならない。生半可な恋や愛では秒で自分を見失う。また顔だけで食っていける美しい人間コンテストで優勝しそうな生き物の姿を露出させない出版社を尊敬した。彼の作品は力がある。しかし彼の写真は一枚欲しい。最後は満点の笑顔で挨拶を終え壇上を降りた彼は魂が抜けたような顔をした。とてもアンバランスで愛しいと思う。
     会場の招待客としてではなく、彼の作品を主演する役者として初対面を迎えたい。美しいって暴力だなとくらくらする頭で呆けた息を吐き退室した。

     役者として初顔合わせの日、彼は私を見るなり赤面した。一目惚れの相手だ。私も顔が熱くなるのを感じながら役者根性で冷静を装い挨拶し握手に手を差し出す。彼は私の手を取り愛していますと跪き、次の瞬間飛び上がって奇声を発し平謝りして担当編集者に廊下に引き摺られていった。これが私が守護天使を知り、出会うまでの顛末だ。
     打ち上げで聞いた話だが、彼は私の舞台を見に来る時は高身長と銀髪が光を反射して他の客の迷惑になると考えスプレーで黒髪にしてなるべく体を小さくして目立たないように見ていたらしい。夢は自身の作品に私が主演し、作者として挨拶することだったというから私たちは案外似たもの同士だった。

    喫茶乙女椿

     柱時計がポンとなる。顔を出した木彫りの小鳥が尾羽をパタパタ動かし戻っていく。
     曲線を描くカウンター席と丸テーブルが三つ並ぶ小さな喫茶店だ。カウンター奥の調理スペースではフリルのエプロンワンピースを着た痩身の男性がホットケーキを焼いている。ツンと逆立った角のような黒髪は艶やかで顔色の悪い肌に赤い紅をさしていた。
    「ホットケーキ出来たよ。冷めないうちに食べな!」
     威勢のいい言葉の割にサーブする手つきは洗練されている。バターとメープルシロップがたっぷりかかったふわふわのホットケーキに香り高い紅茶。小皿に塩入りのナッツ。
    「こんにちはー、ドラルクン夫人!」
    「席に着く前に手を洗ってきな!」
     来客に一時向けられていた視線が奪われた。先の客が俯いて静かにホットケーキに手をつけると皿の下に紙ナプキンが挟まれていた。袖の中にそっと滑り込ませる。夫人は目を伏せてカウンターの中に飾られた亡夫の写真を見たようだった。

     午後六時に開店し九時で閉店する喫茶乙女椿は元は伴侶の店だった。それも人間にすれば三世代は前の話で、継いだ女装の彼は今も夫人と呼ばれている。
    「今どき吸血鬼退治人なんて流行らないだろ。そんな派手な見目で動き回られちゃ迷惑だよ」
    「そりゃあ悪かったな」
     ホットケーキを食べていった目立たないサラリーマン風の男は赤い外套に銀髪碧眼の美丈夫に様変わりして店の裏手に立っていた。
     黒いワンピース姿になった夫人は赤い唇を曲げて男を睨む。夕もカツラには気づいたがカラーコンタクトに肉襦袢も巻いていたのだろうか。こうも筋骨隆々とした相手とは思わなかったのだ。昼間はどこかボケたお人好しの空気さえ感じていた。
    「竜の末子吸血鬼ドラルク。情報屋のドラルクン夫人。俺を呼び出したのはどっちだ?」
    「今生もハズレか」
    「初対面だろ?」
    「お初だとも。呼び出したのは無遠慮に嗅ぎ回る退治人をあしらいながら旦那を待ち続けてるドラルクン夫人さ。そしてあんたは不合格。とっとと消えな!」
     かんっと煙管が壁を打った。か細い手首と黒手袋のあわいが夜目に青白く輝いて映る。
    「夫人、」
     うるせぇ。男が突き動かされるように踏み出すが罵声で止められる。今までになく苛烈に睨みつける目は涙に滲んで、確かにここに立つ高貴な身の上の吸血鬼はたった一人を待ちづけているのだと男の魂に知らしめた。中途半端に立ち尽くし、男は任務も何もかも忘れ見惚れていた。

    「う、えっぐ。ひっく」
    「ロナルドくんティッシュ」
    「ドラルクン夫人が健気で可哀想で!」
    「君何度見てもここで泣くなぁ。もっと愉快な回をみたら?」
    「どの回も神回なので!」
     出演作の数十年ぶりのリメイクに呼ばれたと思ったら、当時脇役だったドラルクン夫人の完全公式スピンオフだった。それも夫人が吸血鬼になっている設定で前作から百年以上後の話だ。喫茶乙女椿で邂逅する過去のスパイ仲間や海を渡って追ってきた退治人、近所の子どもの誕生日パーティーなどやりたい放題の脚本に前作の子孫設定の当時の子役たちとの撮影は楽しかった。小道具の亡夫の写真立てにセピア加工したロナルドの写真を忍ばせると監督が回想シーンに似たモデルを連れてきて、それがロナルドの実兄だったという一幕もあった。同棲前に挨拶にいったが女装で会うことになるとは思わなかった。
    『これからも弟をよろしくお願いいたします』
    『こちらこそよろしくお願いします』
    『あいつが夫人に一目惚れした瞬間から見とります。行き過ぎた所は遠慮なく躾けてください。俺に言うてもらえたら言い聞かせます。なるべく見捨てんでやってください!』
     まさかああまで低姿勢に頭を下げられるとは。一人で会うのは初めてで、本人の前では決して語れないエピソードを幾つも聞かせてくれた。家で夫人の格好はしないほうがいいと力説する姿は怖いくらいだった。半田君からも聞いたが彼はなかなか過激に私を愛してきてくれたようだ。
    「ロナルドくん」
     鼻をびーっとかむ恋人の背中をさする。風呂も済んであとは寝るばかり。原稿中の恋人は何故かブルーレイを再生して号泣しているが、彼が焦がれる役の中身は隣にいる。
    「ドラルクン夫人の格好したら私を構ってくれる?」
     怖いもの見たさというか。少しばかり面白くなかったのだ。しなだれかかって顎を掴んだ。
     にっこり目を合わせた彼はびしょ濡れの目をかっぴらいて力強く「ドラさんのままがいいです」といった。
    「俺はドラルクさんを愛しているので」
    「ドラルクン夫人でエロ小説書かなかった?」
    「今はドラさんで書いてます」
    「え。なにそれ読みたい。読みたい? うん。読みたいな」
     推し作家の自分のエロ小説を読みたいか一瞬審議したが好奇心が勝った。自分で言い出してから青くなり尻で後退り始めた恋人を追いかける。
    「あの、エロ小説みたいなことします?」
    「作者が音読までしてくれるってこと?」
     青い悲鳴と黄色い悲鳴が入り混じる。わくわくと興奮した悪魔のような顔が獲物を部屋の隅まで追い詰めていった。

    片恋百日紅
     薄桃色の花が頭上で風に揺れている。ベンチに落ちた花弁は縮れ、甘く香る。白粉の香りに似ている。言えばお母さんの香りだと今日の連れは美しい顔でにこりといった。
    「あけみさんはお変わりなく?」
    「ああ。母の日のプレゼント選びに付き合ってくれてありがとう」
    「私もついでがあったからね。半田君とも久しぶりに会えてよかった」
     今日の連れは役者友達の半田あけみさんのご子息の桃くんだ。小さい頃にあけみさんの練習についてきたり、彼自身子役もしていたから年の離れた弟のような感覚がある。警察官を進路に選び役者を辞めてしまったから会うのは数年ぶりだった。
    「ロナルドと付き合っているとは、本当に?」
    「そうだよ」
     そして彼はなんとロナルドくんの同級生だったらしい。久しぶりに連絡をもらった時からこの話になると思っていた。スナバで買ったドリンクを両手で包んで笑顔を作る。彼面白いよね。そう言って心の守りを固めるつもりだった。桃くんにすれば年上のガリガリのおっさんが自分の同級生と付き合うなど苦言を呈したくもなるだろう。
    「ロナルドをよろしく頼む!」
     構える私に桃くんは両手を膝に置いて深々と頭を下げた。
    「あいつはとんでもないお人好しで他人に言われた事を間に受けすぎる大馬鹿者だが、貴方が好きなことだけは下手な誤魔化しを使っても誰にも踏み込ませなかった頑固な馬鹿だ。学生時代からずっと貴方のことだけを追いかけて、拗らせすぎて貴方相手の小説を書いていた」
    「え」
     熱量と情報量が多すぎる。桃くんがガバッと音がしそうなほど勢いよく体を起こす。顔を紅潮させた真剣な視線が突き刺さった。
    「あいつは目立つ馬鹿だが、馬鹿だから自覚がない。クラス一同であいつの恋を見守ってきたが成就するとは誰も思っていなかった」
    「桃くん待って。クラスって、その私も読んでない小説みんなで読んだの?」
     ロナルドくんは友人がいないといっていたが、桃くんの話ではロナルドくんがわかっていなかっただけか。彼は自己肯定力が低すぎて向けられる好意をスルーしがちだから十分あり得る。
     桃くんは頷いて犬歯を見せた。いたずらっ子の顔だ。
    「カメヤが全ページデータに残している」
    「ロナルドくんは気づいてない?」
    「ああ。あいつは自分は空気だと頑なに思っていたから。エロ小説なら揶揄うつもりだったがなかなか読ませる純愛小説だ」
    「読みたい!」
     推し作家の未公開作品だ。興奮しすぎて桃くんが膝に置いた手に重ねた。
    「桃君お願い!」
    「うわあああああああだめえええええ!」
     体が浮いた。桃くんが目を羊のように細くして見たことのない愉悦の顔をしている。
    「馬鹿めロナルドおおお! ドラさんをつけてきたな!」
    「え、ついてきてたの?」
    「ごめんなさい!」
     背後から抱えられてベンチから離された。ロナルドくんだ。彼に抱え上げられたまま振り向くと涙と鼻水を洪水させて真っ赤な顔になっていた。黒いキャップは変装のつもりだろうが格好いい。虹色のソーセージを挟んだホットドッグの謎シャツもアリに見えるから美形は不思議だ。
    「ドラさん捨てないで!」
    「捨てないが。どこから聞いてたの?」
     身長はそう変わらないのに足がつかない。ロナルドくんは丸太のような両腕で私の胴をがっちり捕まえ持ち上げている。
    「悪いと思って、会話は聞こえない距離に!」
     桃くんがスマホで連写している。彼は拡散はしないだろうが外だ。下ろしなさいと腕を叩く。しかし会話も聞こえない距離でついて来ていたとは。
    「誘えばよかったね。心配かけてごめんね」
    「母の日のプレゼント選びを付き合ってもらっただけだ。じゃあなロナルド、ドラさんまた」
    「またはねぇよ半田のばああか!」
    「ロナルドくん!」
    「ごめんなさいいいいいい」
     同級生とはこういうものなんだろうか。桃くんは大きく手を振って去っていく。ロナルドくんは私を隠すように抱き込んで捨てないでと繰り返している。ゼロ距離で聞く泣き声は大変心に悪い。しかし、さっきの絵面は私でも誤解しただろう。幻の作品が読みたかっただけなのだが、会話が聞こえなければわからない。
     だがだがしかしだ。学生時代にクラスメイトに自分の小説が共有されていた挙句データまで取られているとは私から伝えていいものだろうか。
    「ロナルドくん。半田桃くんはお母さんが役者友達の縁で交友があるんだけどね、いま君の未公開作品があると聞いて私も読みたいとお願いしていたんだよ」
     これくらいぼかして言えばセーフだろうか。なんのことを言っているか彼は分かり、私は内容までは知らない態度を取る。
     ミッと発して固まった彼から抜けだし再度ベンチに座った。隣に座るよう促す。ドリンクはすっかり濁った水になっていた。
    「君のファンだから作品は全部読みたくなるんだ」
     突っ立ったままの彼にハンカチを差し出す。彼は真っ赤な顔にハンカチを押し当ててよろよろと隣に座った。
    「読ませてくれる?」
    「お、あ、俺がドラさんに片想いして好き勝手書いたやつだから、ドラさん不快になるかも」
    「ブラウニー夫人?」
     また泣いてしまった。よしよしと背中を撫でる。あのキャラクターに恋をしたとは聞いていたけどどんな話を書いたんだ。泣かせてしまったのにいよいよ読みたくなってしまった。
    「もう両思いで、恋人で、一緒に住んでるんだから」
     私は欲深い悪い大人なので弱っている部分につけ込んでしまう。桃くんはこんな私を知れば同級生から引き離そうとするだろう。
    「君がブラウニー夫人の旦那さんだね」
     絶対離れてやらないが。ぴとっと彼にもたれ掛かる。結論から言うと彼は鼻血を出してぶっ倒れた。

    夢ビオラ邸
     小さい戸建てに住んでみたいとドラさんが以前舞台裏動画で言っていた。その時の劇は注文の多い料理店のアレンジで、ドラさんはお店の支配人役をしていたのだ。手足が長いスラっとした体型に彫りの深いドラさんが怪異を演じると登場しただけでぞくぞくとした。怪し恐ろし美しいとはよくいったもので、ドラさんに促されたら大抵のことは怯えながらでもやってしまうと思う。
     そのドラさんも俺もマンション住みだった。お付き合いすることになって、同棲までしてくれる話になって。プロポーズは保留になったけれど断られはしなかった。俺がドラさんのマンションに行く方向で話をしていたけれど、小さな戸建てに住んでみますか? と聞いていた。
     庭のある小さな家。和室も一部屋あってほしい。料理が趣味のドラさんが満足するだけ広いキッチン。俺はドラさんのそばに居たいからちゃぶ台かダイニングテーブルでパソコンを開かせて貰えば十分。
     そんな風に話すとドラさんはなんだかいつもよりキラキラして「新居だね」と言った。
    「新居」
    「二人で新しく家を借りるなら新居だなって」
     建てましょう! と立ち上がった。ドラさんは同棲がうまく行ったらねと笑う。
    「一緒に暮らして初めてわかることってあるよ。ねえロナルドくん、私シンヨコに住んでみたいんだ」
     翌日二人でシンヨコの不動産屋に行った。ドラさんが最近気にいりにコミックスの舞台らしい。不動産屋も承知しているようで家賃八千円はありませんよとあった方が怖いことを上機嫌のドラさんと話していた。

     同棲がうまく行ったらもう一度プロポーズをしよう。一緒に住むなら同じじゃない? とあの時ドラさんは言ったけれど、違うからこそ保留になったのだ。水が染み出る余地もないくらいみっしりと隙間なくドラさんのパートナーになりたい。入籍だってさせて欲しい。脳内のブラウニー夫人が「書きな! 甲斐性なしに息子はやれないよ!」という。同時にドラさんの言った一緒に暮らして初めてわかることでドラさんを呆れさせる恐怖と、ドラさんの新しい面を見られる興奮で家探しの間夜中に何度も目が覚めた。

    「ロナルドくん。私ここがいい」
    「俺もここがいいです」
     大きな手すりのついた立派な木の階段がある家だった。広い玄関を入ってすぐ二階に続く階段があり、一階の奥はキッチンとリビングダイニング、和室と風呂とトイレがある。和室から庭に降りられるのもいい。二階は飴色の木材が敷かれたワンフロアになっていた。仕切り板とレールも組み込まれていて三部屋に分割もできる。
    「綺麗でしょう? 元々劇団さんの合宿用に建てられたんですが、完成までに経営者が何度か変わった挙句結局手放しちゃって。一二度使われただけなんです。一般のご家庭にはちょっと使いづらい間取りですが役者さんなら使い用もあるかなと」
     不動産屋が笑う。
    「ご存知でしたか」
    「娘がファンです。決してご迷惑をおかけせず詮索せず最大限お役に立つようにと厳命されてます」
     商売柄当然ですともと言い添えて二時間ドラマの原作になった俺の文庫本を出した。
    「サインだけ頂いてもいいですか?」
    「勿論! 原作者先生のサインも?」
    「いただけるんですか? 自分は作者さんのファンで」
    「も、もちろん! ありがとうございます!」
     ドラさんにいたずらっぽくウインクされて名乗り出る。不動産屋は素っ頓狂な悲鳴をあげた。
    「ええええええっ」
    「自分なんかですんませっ」
    「そうではないです! 有名人とかかと思っていたので!」
    「作家です」
     半泣きになった俺の頭をドラさんが撫でた。不動産屋もよほど動転したのか肩で息をしている。
    「彼も次のスペシャルドラマで俳優デビューさせるつもりなんです。発表があるまで秘密ですよ」
     まるで作中の彼のようにドラさんが気障っぽく唇に指を当てる。俺はすっかり魅了されて両手を組んで推しを拝んだ。

     新居予定の階段に並んで腰掛けている。この家の主人のような重厚感のある階段だ。ひんやりとした節くれた手すりは力強さに溢れていた。
    「寝室どうする?」
    「え、あ」
     一般のご家庭には使い難い間取り。確かにそうだ。二階はワンフロア丸々ドラさんの稽古場に使ってほしい。舞台道具や何やら運び入れればスペースもだいぶ埋まるだろう。
     残りは和室とリビングダイニング。実質和室一択。
    「屋根裏部屋があるんだって」
    「じゃあ俺はそこで!」
    「屋根裏部屋に入ると出てこれないって噂があるんだって。それもあって借り手もなかなかつかないって不動産屋さんがいってたよ」
    「ひえっ」
     屋根裏の鍵をとりに不動産屋は外している。
    「屋根裏部屋楽しみだね」
     柔和に笑んでドラさんが言った。あれ。
    「なんか怒ってます?」
    「寝室別のつもりだったの? なんて怒ってませーん」
    「一緒でいいんですか」
    「いちいち確認とって覚悟決めさせなくても私もロナルドくんと居たいよ。あのね、私庭にビオラ植えたいんだ。和室で締切に唸るロナルドくんを土いじりしながら見てお茶にしようか、とかいうの」
     くふっと甘い息が鼻先で齎される。
    「夜は二階の仕切りを立ててベッドルームにしてさ、ひっろいフロアの一角で君と絡まって寝たい。そういうのはお嫌?」
    「お嫌じゃないです」
     とんでもなくえっちで可愛い恋人のぷーんとそっぽを向く鼻にじゃれつく。外で車の音がする。不動産屋が戻ったのだろう。
    「まぁ屋根裏部屋次第だよね」
     からっと空気を変えるドラさんに俺は噂を思い出して青くなった。ホラーもオカルトも苦手だ。
     屋根裏部屋は劇団が処分に困って押し込んだ諸々で足の踏み場もなく、迂闊に手を出したら最後確かに当分帰れなくなりそうだった。

    恋へと誘う
     性癖の専門性が高過ぎてエロ雑誌の穴埋めにも滅多に呼ばれない官能小説家ショットさんが仲間というのはおこごましいが、新進気鋭著作のドラマ化も果たしたロナルドは作家仲間の飲み友だ。今日は相談があると誘われて着いた店は完全個室のお高い和食料理屋だった。何この店。プロポーズとか両家の食事会とかで使う店じゃねえの。着いた途端にビビった俺はアイドルのように美しい顔を緊張で強ばらせたロナルドに震え上がった。
    「告白しようと思って」
    「ごめんなさい!」
    「へ? え、お前も無理だと思う?」
     注文を済ますなり切り出したロナルドにガバッとテーブルに両手をついてお断る。ロナルドは目を丸くして驚き、ずんっと暗い顔になった。
    「やっぱファンの好きと恋人は違うよな」
     ぼそりと噛み締めるように呟いている。罪悪感に心臓が悲鳴を上げた。いやお断ることは悪いことじゃないけども、こんな店で告白させるほど思わせぶりな態度をとっただろうか。
    「友達としていいやつだとは思うけど」
     気まずい。料理が今来ても困るが来ないのも困る。いやどんな面して振ったやつと飯食えばいいんだ? 帰るべきか?
    「いつから?」
     友人として好きや愛してると言ったことがある。あくまでも友人。ノリと勢いの発言だった。いつからこいつにとって残酷な言葉になっていたんだろう。
    「八歳」
    「は?」
     出会ったのは二十代初めだ。オータムの新年会でイキのいい新人として同じ生簀に放り込まれたのが初対面だった。
    「テレビで初めてドラさんを見て。初めはかっこいいなって憧れだったんだけど、役によって全然違う表情とか舞台裏動画のお茶目な姿とか。本当に可愛くって」
     俺のことじゃなかった!
    「俺のことじゃなかった!」
    「ドラさん一筋だわ!」
     やべえ思わず心の声と同時に叫んだ。ロナルドと二人で中腰になり大声を出していた。引き戸がそっと開く。
    「お待たせいたしました」
     にっこりと微笑まれてもオーラが怖かった。二人揃ってそそくさと座り料理が並び終わるまでびしっと姿勢を正していた。
    「それでドラさんってモデルかなんかか?」
    「俺の小説のモデルにさせて貰ってる役者さん。ドラマ化した時は主演引き受けてくれて、連絡先交換してデートも何度か」
     俺は何分「は?」と口を開けっぱなしにしていただろう。ロナルドは嬉しそうにデレデレし始めグラスの水滴で「の」の字をぐるぐる描き続ける。そうかと思えばスマホを出して痩せた男の写真を見せてきた。中にはロナルドの肩にぴったり頭を引っ付けた自撮りアングルのツーショットもある。
     初めこそあらぬ勘違いで逃げたくなったがここは滅多に来れないお高い店なのだ。滝のように浴びされる惚気を早々に聞き流し料理に手をつけた。ふんふんこいつの小説の主人公ね。売れていくロナルドにモヤモヤして新作を読めない時期もあったが、どんなジャンルでも主人公はいつも同じだ。痩せ過ぎたキザで紳士な男とアルマジロ。どんな窮地も知恵と工夫と人の縁に助けられてどうにかくぐり抜けていく万能型とは言えない主人公。非力をカバーする機転に読者は夢中になる。著者情報を一切出していないから、こいつのファンは写真のドラさんこそ作者と勘違いするだろう。
    「本当に好きなんだな」
     俺にはそこまでの人物描写はできない。性癖を全面にいかにムダ毛を魅力的に書くかの作風だから同じ土俵にないのだが、ああも瑞々しくかけるほど自作の登場人物にも愛着を持てたことがない。ロナルドは力強く頷き、それからへにょりと眉尻をさげた。
    「告白してもいいと思うか?」
    「もう付き合ってる距離じゃねえか!」
    「付き合ってくださいって申し込めてないんだよ! 官能小説家ットさん、ロマンチックを教授してくれ」
     ロマンチック。卵焼きをつまみ煮物を頬張り魚に齧り付いて美味を堪能する。
    「お前はこの料理みたいな文句のつけようもねえ恋を手にしてまだ多くを望むのか」
     ロマンチックってなんだ。星空の観覧車とか夜の海とか高級ホテルの最上階とか。思いつく全ては作品に書いてター女史にこき下ろされた。こいつも恐らく読んでいるはずだ。俺の引き出しはもう尽きた。なんか偉そうに誤魔化そうとしたのに料理に手をつけたロナルドがしょんぼりと肩を落とす。
    「ドラさんの手料理の方が美味しい」
    「それもう付き合ってんだろ! あーんとかやってもらってんのかチクショウ!」
    「まだだわ! ついてるよ? はあったし、泊まってく? もあったからそろそろ告白しても引かれないかなって!」
     なんでそれでまだ付き合ってないんだ。俺は爆発しろと叫びたい気持ちをお店の方への畏れで押さえ込み、目下一番恐ろしい質問を口にした。
    「泊まったのか?」
     俺とお前の童貞同盟はとうに破られていたのか? 尋ねた俺にロナルドは勢いよく首を横に振った。
    「まだ付き合ってないんだぞ! ドラさんに俺は獣なんですよって説明してもわかってくれない。おでこにちゅってされて笑われた」
     殴らなかった俺を褒めてくれ。叫ばなかった俺を讃えろください。ここまでくると相手が不憫だ。
    「ドラさんの方はもう付き合ってるつもりじゃねえの? そこまでして貰ってていまさら付き合ってくださいって言うのは逆に驚かれるんじゃねえのか?」
     内心で荒ぶりドッと疲れた。ロナルドは何があいつをそうさせるのかしおしおと縮んでいる。
    「告白して付き合ったら恋人になってキスもハグも合法になるんだぞ。おおおおお泊まりだってセセ……ッスだって」
    「恋人になっても合意は必要だぞ」
    「勿論! ドラさん優しいからいつもいいよって許してくれるから! 俺止まれる自信がねぇんだよ」
     飯は食い終えた。俺は立ち上がりロナルドの肩をポンと叩く。
    「振られたら牛丼奢ってやるよ」
     勝ち確だろそれ。

    「ロナルドくん、私とお付きあいしてくれますか?」
     電話をかけるとロナルドくんは高級料亭にいた。仕事かと切ろうとすると違うんですと馬鹿正直に人と会って、といってくる。え、なに浮気? 咄嗟に出た言葉は半ば本気で、相手は電話越しにもわかるほど本気の号泣で違います振らないでと訴えて来る。何があったのか本当に不安になった。そういえばまだ付き合ってもいなかった。迎えに行ってみればべしょべしょの五歳児に好きですと泣きつかれる。知ってるよと宥めて外に出しタクシーに乗せて連れ帰ってしまった。
    「お返事は?」
    「下心いっぱいでいいですか」
    「ンフフ私もいっぱいあるよ」
    「あるんですか?」
    「あるよ」
     酔っ払ってはいないのだ。酒の一滴も飲まずにぐずぐずになって、その癖私を抱えて離さない。
    「おーへーんーじーは?」
     銀色の髪をかき混ぜる。べしょルドくんは「お付き合いしましゅ」と私の下腹部に顔を突っ込んでふごふごいった。
    「あはは。ロナルドくん、正気に戻ったらリテイクね」

    つらつら椿
     まっすぐな目で見つめられている。大好きな空色の双眸と強い意志で結ばれた唇。いつも人の良さそうな笑みを浮かべているのに、凛々しい顔をすると獲物を決して逃がさない凄腕のハンターの風情がある。ダイニングテーブルで向き合って私は少し困った顔になっていた。どうしたらいいのかわからないのだ。
    「そんなに地方公演について来たいの? 観光する時間とかあんまりないよ?」
    「ドラさんと一週間も離れたくない」
     行くことはもう決定事項なのだ。顔を見ればわかる。自分と離れたくないからついてくると言う恋人を世の巡業者はどう対処しているのだろう。ロナルドくんと私は二人とも恋人を持つのは初めてなのでモデルロールがわからない。
    「ロナルドくん」
     へにょへにょと眉が下がっていく。ロナルドくんの顔が少しずつ崩れていく。
    「そんなに嫌? ドラさん外食続くと調子崩すから自炊できるホテルに鍋釜持ち込もうと思って。簡単な食事なら俺が作るよ。仕事の送迎はさせて。邪魔にならないように俺は別の部屋に泊まるから」
    「嬉しくてさ、喜んでいいのかわかんないんだよ。いいのかな?」
    「いいんだよ! やったー!」
     焦って辛いことまで言い出した恋人にストップをかける。彼が地方公演についてくるということが自分でも戸惑うほど嬉しくて堪らないのだ。

     ロナルドくんも公演に同行するのでホテルは自分で別にとることを伝えるとマネージャーのミカエラは一つ頷き、共演者のフォンが「ごいすーえっちですね!」と興奮して希美さんに嗜められた。
    「ロナルドさんもお芝居に出てはどうかしら。セリフのない王子様の役とかどう?」
     王を止められず突っ立って顔芸するだけの王子役はフォンが一人二役でやることになっている。希美さんの提案にフォンは綺麗な顔を興奮で崩していいですねと食いついて来た。
    「王様のドラさんをただじっと見て悶える恋人とかえっちじゃないですか!」
    「エッチから離れなさいよ。ロナルドくんはそのうち本人脚本の私の相棒役でデビューさせるんだから、まだ世間様には内緒だよ」
     あらあらと希美さんが、それもそれでとフォンが盛り上がる。出発当日は劇団のバスに同乗せず車に鍋釜を積んでついていくことになった。ミカエラに独占欲が怖いと言われたが初めての恋人で勝手がわからないのだ。どう振る舞ったものか教えて欲しいと胸を張る。フォンに恋人はエロ本で学んだのかと迂遠に聞かれた。出張に恋人がしがみついてくるのはエロ本でよくある導入そのままらしい。公演中は体力の関係で無理だ。その辺も伝えないといけない。

    「それで、やっぱり独占欲が強いかな?」
    「俺こそ執着やばいってショットにいわれた」
    「ついてくる事? 私は嬉しいよ」
     ショットさんはロナルドくんの作家友達だ。ニッチな官能小説を書くらしいがまだ作品を読めていない。検索のヒントをロナルドくんがなかなかくれないのだ。
    「それでロナルドくん。大事なお知らせがあります」
    「なんでしょう」
     いつものダイニングテーブルでコップの麦茶を飲み干す。神妙な顔つきになる私に、ロナルドくんも椅子に座り直した。
    「公演中はエッチできません。体力的に無理です」
     私としてはなら行かないとか言われたりしないかと数パーセントはドキドキしていた。ロナルドくんはキョトンとして「うん」と頷いた。
    「そりゃ勿論。公演でへろへろのドラさんをしっかり介抱して最後まで舞台に立てるよう支えるから。え、そんな心配してたの」
    「あーーーー、もう! 好き!」
     年下の恋人が愛しい。腕を伸ばしてロナルドくんの手を掴む。テーブルの下で足をバタつかせているとロナルドくんがクスリと笑った。
    「ドラさん可愛い」
    「ふふん。こんなに君を好きになって幸せな私が羨ましいだろう!」
    「いや俺だって! ドラさん大好きで毎秒幸せだから!」
    「恋人って嬉しいね。終わっちゃったら椿みたいに首ごと落ちそう」
    「終わらねぇよ! 怖いよ! 椿?」
    「そこはわかりなさいよ作家先生」
     テーブルの上で掴んだ手をぐにぐに揉んで指を絡めた。ああ可笑しい。なんて幸せなんだろう。
     ロナルドくんはどれだけ私が好きか、絶対別れないと言い募りながら手を見下ろし顔を赤くしている。私も別れたくないよごめんね、と耳元に囁き返した。

    落ち葉踏み
     ドラさんの指が踊る。菜箸で卵を溶きほぐしじゅわっとフライパンに流し込む。おむすびに薄焼き卵を巻き、酢飯はお揚げに詰めれば四角い稲荷寿司。トマトとアスパラガス、金平牛蒡に唐揚げ。ヒレカツ、チキンカツはサクサク切って冷ましている。
    「味見する?」
     弁当作りを覗き込んでいた俺にドラさんが菜箸でカツを一切れ差し出してくれる。あまりの尊さに両膝をついた。
    「おお、我が王よ」
    「我が命よ。薔薇の口唇を開き真珠の歯で受け止めておくれ」
     キッチンに膝立ちで大口を開ける。ドラさんは熱いよと声をかけて口に入れてくれた。美味しい熱い美味しい尊い。作業の邪魔になるので立ち上がって隅に避ける。ピピっとアラームが鳴って洗濯機が任務終了を知らせた。
    「干して来る」
    「おねがーい」
     黒エプロンの紐がきゅっと結ばれた後ろ姿は絵画のようだ。毎秒尊さに膝をつきたくなってしまう。眼福と堪能しいそいそと風呂場に向かう。
     朝日の差し込む脱衣場で二人分の洗濯物を取り出す。ドラさんのシャツ、俺の靴下。昨日着てた諸々とタオル。濡れた洗濯物を抱きしめて幸せを噛み締める。無意識だったがモノは自分のTシャツだったのでセーフだ。胸元が少し湿った。
     洗濯籠を持って庭の物干し台へ。まだ気温は上がらないが空は十分に明るい。九月のピクニックに持ってこいの天気に洗濯を干す手も踊るようになる。今日は脱稿のご褒美デートだ。ドラさん手作りの弁当を持って少し大きな公園に行く。大人サイズのアスレチック遊具があるから思い切り動いて運動不足を解消するのだ。
     ピンチに二人分の靴下を連ねて挟む。
    「あー、幸せー」
     ハンガーにかかった洗濯物にニヤけてしまう。好きな人が恋人なだけでも凄いのに、一緒に住んでいるって奇跡だ。隣をずっと独り占めしている。
    「尊い」
     声に出た瞬間彼の下着を持っていたが他意はない。俺の下着とのサイズ差に耽美を感じてふらついたりしていない。

    「あー、幸せー」
     庭からロナルドくんの声がする。感じ入った声にふふっと小さく笑ってしまう。同棲を初めて五年になるのに彼はいつまでも幼げで可愛い。大きなタッパーに詰めていくおかずも子持ちの弁当箱かと思うようなラインナップだ。
    「幸せだねえ、ロナルドくん」
     独り言を言って朝食用の鍋に味噌をいれる。弁当のおかずの残りと常備菜に味噌汁で朝ご飯にしてしまう。芝居の稽古と趣味のゲームで出来ていた日常から休日に弁当を持ってアスレチック公園にピクニックとずいぶん様変わりした。彼は専業作家だから自分が家にいる日を増やすだけで一緒に過ごせる時間が増える。
    「干したよ」
    「ありがとう。朝食にしよう」
     庭から戻った彼はもう太陽の匂いがする。お盆をもって待機する頬にキスをした。
    「わ」
     真っ赤になった彼の盆に食器を乗せていく。
    「おじいさんになっても宜しくね」
    「おおおおれも宜しくお願いします!」
     ふはっと笑ってダイニングに向かう。公園から帰ったら洗濯物は乾いているだろう。庭を掃いて、花壇に植える花を相談しよう。和室から眺める花はどんな花がいいだろう。

    静音ブーケ
     六年前のドラさんから手紙が届いた。
    「え?」
     初めの戸惑いは郵便受けの前。突っ立ってじっと手元を見る。
     ドラさんは朝から出かけてしまっている。俺はダイニングテーブルでラップトップを開き原稿を進めていた。和室に資料をとりに行ったり、庭でラジオ体操をしたり二階から一階まで拭き掃除をして気分転換をしながら朝から書いてそろそろ夕だ。郵便物を見ていなかったと思い立って今である。
    「あれ」
     宛名は出版社付になっていた。裏には差出人の名前だけ書いてある。たくさんの疑問符を浮かべながらダイニングに引き返す。消印が六年前の六月。手触りから上質な菫色の封筒。
     六年前の俺は受け取っていない手紙。もう一度宛先を確認する。間違いなく、絶対絶対間違いなく俺宛だ。
    「読んでいいよね?」
     ドラさんに知らせるのは後でいいだろう。稽古中に連絡するには緊急性がないし、読むな触るなと言われる気がする。生唾を飲み込んだ。読みたくてたまらない。

    『ロナルド様
     初めてお手紙差し上げます。先日、月刊小説オータム六月号に掲載された作品を拝読したまらず筆を取らせていただきました』

     白地に封筒と同色の罫線が入った縦書きの便箋に背筋が伸びる。細く流麗な達筆。まるでドラさん本人の佇まい。デビュー当時から読んでくれていたことに改めて心臓がバクバク跳ねて苦しい。本当に死ぬかもしれない。いやだ読み終わるまで死ねないしドラさんが帰ってくるのに死ねない。オーケー、俺は死なない。手汗をデニムで拭う。消印をもう一度確認した。六月号は五月の終わりに出る。本当にすぐ手紙を書いてくれたのだ。
     手紙はデビュー作でこんな素敵な話を書けるなんてすごいと作品の各部について褒めてくれていた。だらしなく頬が緩み顔が赤くなる。

    『病床で御作に触れ主人公のとんでもない大冒険を追体験させていただきました。次作を心から楽しみにしています。』

     彼は最近まで出演作の広報でしかSNSを使っていなかった。六年前の当時はこの頃から一年半も更新が止まる。舞台の準備中と考えた俺は情報を探しながら日々妄想を逞しくし小説を書いていた。彼が病床にあると知ったのは彼と親しい役者がぽろっとラジオで漏らしたからだ。
    『毎年年末年始は彼の一家と過ごすのが楽しみなのだが、今年は闘病中で残念だ。来年はまた一緒に劇をやろう。復帰を待ってるぞ』と。情報と嫉妬羨望を齎した役者さんはノースさん。ドラさんの師匠にあたるらしく出演情報はチェックしていた。これを聞き俺は後書き欄を貰った。ドラさんが病床についてからほぼ一年後になる。
     ため息だろうか、腑抜けた息が出る。ドラさんは本当にデビュー作を楽しんでくれたのだ。手紙に書き出してくれた箇所も気に入ってくれたのだろうけれど、一番の肝は主人公の追体験と言う部分だ。彼がモデルなので普通に読むよりも強くそう感じてくださったのだろうありがとうございます。律儀な彼は末尾にでもそう書くのが誠実と考えた。同時に彼の性格だと自身が病床にあるとは見ず知らずの相手に書かない。それも自分をモデルに好き勝手書いた新人に本人から接触するのは避けるだろう。萎縮させては悪い等慈悲深く考えたはずだ。この手紙が当時出されなかったことは理解できる。
     今なら出してもいいと思ってくれたのだ。
     手紙に手を合わせ和室の神棚に飾った。後で無限に読み返す。手を入念に洗ってインディコブルーのレターセットを出した。

    『ドラルク様
     まずお手紙を下さったこと厚く御礼申し上げます。同時に謝罪とお願いをさせてください。私はこのデビュー作以前、物書きをはじめてからずっと貴方をモデルに書かせていただいています。これからもずっと、書き続けさせて欲しいのです。貴方は私にとって世界そのものなのです』

     児童の頃からドラさん一筋に惚れているのにファンレターは一通も出したことはない。彼はテレビの中の人であり、舞台役者さんであり、憧れの人であると同時に俺の欲全てをむけてしまうひとだ。ひたすら鉛筆を握って書き続け、いつか彼に演じてほしいと願ってはいたけれど叶うなんて思っていなかった。作家になること自体一度勤め人になるまで考えてもいなかったし、作家を目指してからは彼の目に一文でも触れますようにと願っていた。俺という生きた人間を認識してほしい願望もオファーを受けて貰えるまで妄想するのも恐れ多すぎた。いつもズリネタにしているのだ。ご本人様に手紙を綴るなど気持ち悪いファン味が滲み出て迷惑をかけてしまう気しかない。
     しかし今は恋人なのだ。同棲だってしていて、「新婚さんみたいだねえ」と天ぷらを揚げながらご機嫌麗しいドラさんに言われたこともある。
     だから大丈夫と自分に強く言い聞かせてペンを動かす。もちろん今はメモ用紙に下書きだ。

    『貴方が私の本棚を眺めている姿が好きです。一緒に暮らして初めてわかることがあると家を探している時に仰いましたね。私は貴方と暮らす一瞬一瞬が眩しくてなりません。脱稿明けに迷惑をかけてしまう私を怒鳴りつけたり一緒に一晩中踊ってくれたり、いつも申し訳なく思うのですが新しい姿が見れたと思い返して嬉しさを噛み締めています』

     ここは後で怒られるかもしれない。脱稿ハイは捨てられても仕方ないくらい迷惑をかけている。いつもひたすら謝り倒すのに反省していないように読める。文章に苦労しながらなんとか下書きをまとめ便箋に書き写す。
     ドラさんとは比べ物にならない汚い字に泣きたくなる。そうだ。字が汚いからファンレターを書けなかったって理由もあった。
     切手欄に文房具屋で見つけた切手風アルマジロ写真を貼る。屋根裏部屋に上がると思った通り書物机に消印スタンプが出ていた。日付を今日のものにして封筒に捺す。
     スタンプの日付を元に戻し郵便受けに向かった。
     外はすっかり暗くなっていた。

     ◇ ◇ ◇

     彼の作品を読み始めた当初、作者は併せ持った優しさと鋭さを調和させられる人なのだと思っていた。端役まで前後の人生を想像させる捨てキャラのなさや物語のご都合主義で進まず主人公も恐らく作者も難儀しただろう箇所の面白さ。客観と主観の切り替えのうまさに唸り、繊細な心理描写に立ち尽くす。彼の多種多様な作品は一貫して読者と作者が同じ目線にある。低年齢層向けの話でさえ愉快痛快だけではなく苦悩懊悩も切なさも読者を惹きつけている。
     彼の人間味あふれる作風は肌に心地いい。しかしこれを書く作者にとって世間は居心地の良いものでないだろう。当時はそう思っていた。

     七時過ぎに舞台の稽古場から帰ると郵便受けに封筒が入っていた。朝入れておいた菫色のものではなく濃い紺色。玄関の明かりで見るとインディコブルーだとわかる。愛らしいアルマジロの切手シールがたまらない。
     精一杯綺麗に書いてくれただろう私のフルネームに胸が熱くなる。六年間出せないまま捨てられもしなかったファンレターをポストにいれたのは偶々目についたからなのだけど、返事が来ることまでは考えていなかった。
    「ただいま」
    「おかえりなさい」
     転がりだすように内側からドアを開きロナルドくんが迎えてくれる。
     私の手に封筒をみて耳先まで赤くなった。
    「ご飯できてますよ!」
    「ありがとう」
     帰宅のキスを交わす。彼はいま、きっと幸せだ。作品を書いていた当時だってきっと勝手に想像していたほど世間にもみくちゃにされてばかりではなかっただろう。彼は善性が強く繊細だがひたむきに前を向く地力もあり多様な興味を持てる人間だ。
    「ずっと幸せでいようね」
    「はい!」
     脈絡のない言葉に力強くうなずいてくれた。私の推しが今日も尊い。

    狭間の空色 

     夜が明ける。ヴリンスホテルの最上階に朝日が射し込み床に倒れて眠る人々を照らした。ドラさんは俺の肩に頭を預けうとうとしている。起きている数人に壇上から閉会を告げた一族のご当主は、転がる親族たちの肩を叩いて起こしながらやってきた。
    「おはよう。泊まってく?」
    「おはようございます。もう少ししたら帰ります」
    「そう」
     ドラさんのお父さんは凄みがある。高身長なだけでなく存在が大きく見える。小説に書くなら王侯貴族だろうか。
    「ドラルクと仲良くね」
    「はい」
     にゅっと麒麟が首を倒すように腰を折りドラさんを覗き込んだ。頭をひと撫でして「狸寝入り?」という。
    「んー」
     ドラさんは演技かわからない声を上げてぐりぐりと肩口に頭を擦り付けてくれる。髪が顎に当たって気持ちがいい。
    「あと三十年したら結婚していいよ」
    「長いでしょ!」
     ドラさんが飛び起きた。お父さんはお兄さんを起こしにかかっていた。ぷいとそっぽを向いたドラさんは朝日に目を細めておはよう、と早口で言う。眩しいばかりに美しく、耳先まで赤くしてかわいらしかった。

     ドラさんとお付き合いして二年目、同棲一年目の暮れの夕飯時に「父と会う?」とドラさんがさらりといった。その日はカレーでスイートコーンが入った甘めの味付けだった。人参が星型だったのは偶にある可愛さで、型抜きされた輪はサラダで格好良く輝いていた。
    「ご挨拶!」
    「ただの新年会だよ。世界中飛び回ってるお父様が今年は新横浜でやるっていうから君もどうかと思って」
     去年はアムステルダムで開催されたらしい。世界的に感染症が流行していたからお兄さんからドラさんは出席を止められていたそうだ。お付き合いのご挨拶もドラさんの親族には電話でしかまだできていない。
    「前にノースさんがラジオで言ってたのって」
    「うん。髭はお兄様の親友だし前は良く来てたんだけど、お父様が地雷の火薬調節極めてからはあまりこないかな」
    「なんて?」
    「なんでもないよ」
     ドラさんがにっこり「あーん」とフォークに刺したトマトを差し出す。俺は大口を開けて地雷って爆竹を大袈裟に言っているのかなと思った。新年に花火を打ち上げたり爆竹を鳴らすのはニュースでままみることだったから。
     ノースさんは俺が駆け出しのころラジオでドラさんの一家と年末年始を過ごすのが楽しみだと言っていた役者さんだ。ドラさんが珍しく髭と切り捨てる遠慮のない間柄。一度俺のことも髭な感じで呼んでほしいとねだったら五歳児呼びで撫でられて別の扉が開いてしまった。
    「じゃあ参加で連絡しとくね」
     ドラさんが茹で卵を「あーん」と差し出す。俺は嬉し恥ずかし「あーん」イベントとドレッシングの爽やかさにノースさんが参加を見送った火薬量の詳細をすっかり聞き忘れてしまった。
     そこから手土産に頭を絞り、しっとりと年末を過ごして迎えた元旦。俺とドラさんのお兄さんはバニー衣装を身につけていた。

     新横浜ヴリンスホテルの最上階が新年会の会場だった。その時点で規模がおかしい。ドラさんのお兄さんは会社経営をしているから取引先の関係など来るのかと思ったがそうではなく、世界中に散らばる一族が集まるらしい。
    「お祭り好きが多いから」
     ドラさんが楽しそうにいう。夕からの開催だからかビュッフェの横にバーカウンターもある。
     ソフトドリンクを取りにいく合間もドラさんは次々声をかけられていた。
    「お兄様、お義姉様」
     長身の男性と小柄な女性にドラさんが声を上げた。白髪をオールバックにした壮年の男性はずいぶん歳が離れて見える。逆に黒髪を長く伸ばした女性は人形のようでドラさんより若く見えた。
    「ドラルクさんとおつきあいさせていただいています!」
    「うむ。ドラルクからいつも話を聞いている」
     ビシッと腰を折るとお義姉さんがよろしく頼むと返してくれた。鷹揚としていて格好いい。お兄さんがドラさんを抱き上げぐるぐると回す様子もお義姉さんは微笑ましそうに見ている。
    「お義父さんは忙しい人だから私たちが親のようなつもりで育てたんだ。ドラルクは体が弱い。その体躯で守ってやってくれ」
    「はい!」
     それはもう必ず。しっかりと頷いたがまさか当日の話とは思っていなかった。会場の照明が一段階落ちた。お兄さんがドラさんを俺の横に下ろしお義姉さんの肩を抱く。
    「ヘローエブリワン! 今年は巨大スゴロクをやろう」
     壇上にスポットライトが当てられる。長身で細身の男性がにょきっと立っていた。白髪に彫りの深い顔立ち、飄々とした語り口はドラさんに似ている。
    「早く上がれば豪華景品もあるよ」
    「ロナくんの著作収納ボックス付きがある!」
     ドラさんがぐっと俺の腕を引いた。
    「あ。海外の画家さんがデザインしてくれたって編集さんが」
     一点ものが発注されたのだと聞いている。権利の関係で出版社にも話は通されたらしい。その発注者が彼なのだろう。会場に明かりが戻る。壇上には他に牛がいたし車もあった。
    「お父様! 賞品だけください!」
    「ズルは良くない」
     ドラさんが声を張り男性が首を振る。
    「さあ始めよう」
     静まり返っていた会場がにわかに騒がしくなった。巨大スゴロクが会場に現れ、お父さんが人間がコマになって進むのだと自ら実演してみせる。三の目が出たパネルがぼんっと爆発した。お父さんは十数センチ宙に浮き上がって垂直に落ち、パネルに書かれた「地雷」を見せて新たな地雷を設置する。
    「ミラさんはサイコロを振る人! 私が進む人ね」
     お兄さんがお姉さんの両肩を抱いて言った。似たような光景がそこかしこで見られ、俺も「ドラさんがサイコロを振る人で、俺が進みますね」と言っていた。
     そして俺とお兄さんはバニーになった。

     ゴッ。どこかのマスで地雷が爆発し天井付近まで人を乗せたままパネルが浮き上がる。そのまま垂直落下。配られたヘルメットをしっかり被り頭を抱えた男性は着地と同時にころりと倒れた。待機していた看護師(この方達も親族。医療関係者は新年会で救護役に回れるので一族に人気らしい)が担架に乗せて連れて行く。救護所は賑わい、スゴロクの参加者は残り少ない。
    「ホテルに怒られないんですか?」
    「今日は貸し切りだ」
    「なるほど?」
     そういう問題だろうか。俺とお兄さんは初手で四を出しバニーになった。他の参加者が爆発しないぞとこぞって四を狙い出した姿は当分忘れないだろう。
     バニー衣装の慣れないハイヒールが歩き辛い。お兄さんはバニーになった上から食虫植物に食いつかれて台車に乗っている。マスの移動はお義姉さんが押していた。
     暫定一位だったゴルゴナさんが巨大扇風機に吹き飛ばされてしまったのでお兄さんと俺がトップだ。ゴールまであと五マス。どちらかがあがれば沼あり鰐あり爆発ほかなんでもありのスゴロクは終わる。
    「ロナくんサイコロ振るよ!」
    「お願いします!」
    「ポールくん本当にドラルクと仲良いね」
     ポールはさっき止まったマスでポールダンスを披露してついたあだ名だ。お兄さんのじっとりした声に元気良くはいと答える。ポールダンスは取材で知り合った世界的ポールダンサー仕込みだ。
     ドラさんの出した目は二だった。二マス進みパネルをひっくり返す。最後まで語尾ににゃんをつけることになった。
    「当たりですにゃん!」
    「ミラさんお願いします!」
     お義姉さんが出した目は四。お兄さんが台車から降りてぴょこぴょこ跳ねて進んだ。
    「すまないポール」
     お兄さんがめくったパネルは始めに戻るだった。
     肩を落としたお兄さんをお義姉さんが台車に転がし乗せていく。
    「頼んだぞドラルク、ポールくん!」
     お義姉さんにドラさんが頷いた。
    「いくぞロナルドくん!」
    「はい! ですにゃん!」
     気合いをいれたドラさんの出した目は二だった。俺とドラさんも始めに戻り、他の参加者は放心する。一同を見回したお父さんは賑わう救護所を見て「せっかくだからみんなでやり直そう」といったのだった。

    「ロナルドくん疲れたでしょ」
    「楽しかったです。毎年こんな風なんですか?」
    「トライアスロンだったりレース編みだったりするよ」
    「レース編みですか?」
    「詩を読んだりエベレストを登ったり」
     手を繋いで早朝の新横浜を歩く。トライアスロンやレース編みでは爆発はないなと思ったら「爆発するよ」とドラさんが囁いた。
    「来年も一緒に来てくれる?」
    「喜んで」
     お兄さんがしていたようにドラさんを両手で抱き上げて一回転した。交差点の前。誰の目もなく、信号は赤。俺の腕には新年会のお土産と一点物の収納ボックスが入った袋も下がっている。
     ドラさんがくすぐったいと身を捩って額にキスを一つくれた。

    糠星の降る
     二階にどかんと鎮座する寝台の横に共有の本棚がある。舞台で扱う各国の古典や服飾、歴史。ドラさん曰く電子化されない類の大型本や絵本、小説や漫画も詰め込まれている。俺の蔵書の大半は執筆資料なので和室の本棚だ。上下を往復する本もあるがこの本棚にはドラさんの本が多い。
     俺はありがたいことに職業作家をしているけれど、勿論というか当然に他人の小説も読む。好きな作家もいるし新刊を楽しみに指折り発売日を待ちわびたりもする。出版社のイベントであちらが○○先生ですよと教えてもらうと鼓動が早くなったり本にサインを入れて欲しいなと思うことだってある。
    しかし、しかしだ。ドラさんが他人のサイン会を楽しみにしている現実を受け入れられない。なんて度量が小さく心の狭い奴だろう。愛する人の楽しみを一緒に楽しめないなんて!
     忸怩たる思いで「前は公演と被っていけなかったんだ。三年ぶりのサイン会だからとても楽しみ」とドラさんが珍しくはしゃいでいた作家の本を手に取った。ドラさんの愛読書だ。同じタイトルがソフトカバーと文庫版と漫画版で並んでいる。この並びだけで泣ける。手に取ったのはソフトカバーだ。このカバー折り返しに著者近影が載っている。
     イケメンなのである。俺のように職業を確認されるガテン系作家ではなく、ドラさんと並んだらドラマの文学サロンシーンがそのまま撮れそうな標準体型の醤油顔だ。年もドラさんと同じ。趣味は舞台鑑賞とある。うがぁああと無音で叫んだ。本を一度置きドラミングもしてみた。ドラさんがバナナを差し出しウホルドくんと笑ってくれる妄想が見える。ウホンヌ!
     再度本を手に取る。歯を食いしばって初めから読み直した。面白い。わかっているのだ。軽快な語り口でテンポ良くストーリーが進んでいく。戦時下の東欧で威勢よく啖呵をきり、よっこらしょと生きていく一家の物語。伏線回収も鮮やかにおやすみなさいで幕を閉じる。空には星。遠く戦闘機が飛んでいる。まだ大丈夫、まだ遠いと繰り返すことへの危機感と日常への愛おしさが残る。
     漫画版も手に取っていた。途中で明かりをつけ、簡単な夕食と風呂の用意をする。ドラさんは七時過ぎに帰宅した。出迎えた俺に目を丸くして頬を撫でてくれる。
    「ただいま。どうかした?」
    「おかえり。どうもしないよ」
     ハグして離れる。ふーん、とドラさんは納得しないけれどどうかしたとも説明できない。玄関先で困っていると両手で顔を挟まれた。ちゅっと唇が重なる。手も唇も冷たい。昼間暑くても夕からはぐっと気温が下がる。
     ドラさんはポンポンと俺の頭を撫でて横を通り過ぎていった。
    「サイン会俺も行ってもいい?」
    「いいよ」
     手を洗う水音とふはっと息を吐き出すように笑う声が聞こえる。
    「ロナルドくん、それは嫉妬っていうんだよ。君に一番いらないものだ」
     ご飯と味噌汁とホッケの干物。ドラさん作り置きのナスの煮浸しと豆のサラダ。
     食卓で今日の出来事を互いに話して、つっかえながら本を読んでいたと言う俺にドラさんがいう。
    「どの作家の作品も唯一無二だ。私は多読だし好きな作家も色々いるけど、飛び抜けて君のファンで、君だけの伴侶だよ」
     でもね、と声をひそめる。浮かれ舞い上がっていた俺も緊急着陸した。
    「君はサイン会とかしないで。君に愛されている自信はあるが、君の前に列をなす若い男女を想像するだけで死にそう」
     ドラさんこそ俺の唯一無二なのにあんまり真剣な顔で言うから頬の肉を噛みながら頷いた。気を抜くとすぐだらしない顔になってしまう。
    「五年くらいしたら耐えられると思う」
    「五年で捨てないで!」
    「捨てるなんてあるわけないだろう。五年でしっかり自信を持てるくらい愛し合っていこうって話だよ」
     声がどんどん小さくなりドラさんがぷるぷると震える。真っ赤になって顔を覆う伴侶に俺はもう一度とスマホを片手にしつこくねだって叱られた。

     後日二人でサイン会に行くと列整理をしていたオータム編集部の桑原さんが俺たちのことを耳打ちしてくれたようで、彼はドラさんの手を両手で握りロナルド先生のファンですと真っ赤な顔で語ってくれた。俺はドラさんを、桑原さんは彼の肩を掴み引き離す。ドラさんは終始笑顔でサインだけ下さいと銀色の星が輝くソフトカバーを差し出していた。

    星のない底
     ドラさんとの初デートは土砂降りの喫茶店だった。二階で個展の貸し出しスペースをしている店で、俺に見せたい作品があるのだと誘ってくれたのだ。ドラマ撮影の打ち上げで連絡先を交換出来たものの、何と声を掛ければいいか考えすぎてショートしていた俺は飛びついた。予定の確認に明日でもと食いついた俺をドラさんは面白そうに笑って翌週末に決まった。一週間先だ。一週間の猶予がある。俺はドタバタと何とか格好がつくように美容院に行ったりしたかったのだけれど、急な掌編小説の依頼が入り出版社に缶詰になった。ようやく家に帰れたのは前日で、携帯できなかったスマホにドラさんからの着信履歴が残っていたことに五体投地と土下座を誰もいない部屋で痙攣的に繰り返した。
     デート前日の午前零時になる所だった。震える指でメッセージアプリに今日までの経緯を打ち込み、恐る恐る用向きを尋ねる。延期かキャンセルか放置の粗相に既読もつかないかと心臓がキリキリした。この頃にはもう雨音が聞こえ始めていた。三日前には最初の着信があったのだ。万一彼の身に何かあったのならどうしようと悪い想像に胃まで悲鳴をあげる。
    『原稿お疲れ様でした。どんな作品か楽しみです。電話かけたのは大した用事じゃないんだよ。気をかけさせてごめんね』
     数分で返信が来た。どんな用事でも貴方の用事なら最優先事項ですと叫びながら打ち込んでいた。馬鹿だ。俺は心底愚かなのだ。既読は即ついたがリアクションはなかなか来ない。当然だ。ただの知人にこんなこと言われて何と返せるんだ身の程を知れ。セルフ罵倒で床に額がめり込んだ。
    『明日楽しみにしてます。大雨みたいだから無理しないでね。よく寝てください。おやすみ、作家先生』
     俺は溶けた。午前一時を前に外はバケツをひっくり返したような土砂降りになっていたが俺は全く気づかなかった。
     そして数時間後に土砂降りの喫茶店でドラさんにあった俺は真剣に深夜の俺を殴り倒したい気持ちになっていた。
    「脱稿おめでとう、ロナルドくん」
    「真っ青じゃないですか」
     上品なジャケットを羽織った最愛の人は真っ青だった。完璧な表情もファン歴年齢マイナス八歳には無理をしたものに見える。
    「ソファ席使わせてもらいますね」
     先に来ていた彼を抱き上げ奥のソファ席に連れて行く。店員さん(店長さんだった)はカウンターにあった彼の荷物と膝掛けを持ってきてくれた。膝掛けをドラさんにかけ、ようやく俺はその前に屈んだ。
    「すみません」
     滝のように冷や汗が出た。ドラさんは怖いくらい軽かった。抱き上げた時の硬い骨の感触を体が貪欲に覚えた。死んでも忘れない。
    「なんで? 私の方こそごめんね。気圧頭痛が出てしまって。さっきは格好よくて驚いたよ」
     優しい声に顔を上げる。どこか格好良かっただろうか。粗暴も良くとってくれる慈悲が沁みる。
    「あ。少し楽ですか?」
     少し顔色が良くなっている。会話になっていないが俺の好感度よりドラさんの体調だ。ちぐはぐなことをいう俺にドラさんは困ったように笑った。
    「おかげさまで」
     耳が赤くなっている。他に客はいないが恥をかかせてしまった? あうあうと口がみっともなく震えた。
    「ロナルドくんあのね。多分きみわかってないけど本当にすごく格好良かったよ。舞台の王子様みたいで、だから下向かないで顔見せてよ」
     どんどん声を小さくしてドラさんがいう。耳だけでなく顔中が真っ赤だった。可愛い。
    「可愛い」
    「はい?」
    「可愛いです」
     促されて向かいのソファに座る。ドラさんは君も可愛いよと早口で言ってくれた。俺は叫び声を飲み込む。コーヒーと小さな焼き菓子をつまみ、書き上げたばかりの掌編の印刷をドキドキしながら渡す。ドラさんは目を大きく開いて喜んでくれた。

     二階に上がるとドラさんは泳ぐように作品を見て回った。大きな棚やイーゼルの狭間を行く細い影は、夏をテーマにしたカラフルな作品群にすっかり溶け込んでいる。
     販売品の表面がやたらザラザラしたポストカードは貝を砕いて絵の具がわりにしていた。海を浮き輪が漂う図柄に持ち主を探してしまう。
    「ロナルドくん。君にこれを見せたかったんだ」
     ドラさんが示した作品は大きな油絵だった。透けるような青空の下一面にひまわりが咲いている。降り注ぐ陽光は銀色の円環。吹き抜ける風が見えるようだ。
    「ドラさんですね」
     爽やかで凛としたドラさんのようだった。温かな日差しも匂い立つような生命の力強さも舞台を飛び回る彼そのものだ。
    「君みたいだと思ったんだよ」
     ドラさんはピンと来ていないようだった。隣の絵を示し私ならこっちじゃないかねという。夜の海岸に麦わら帽子が一つ残された絵だった。綺麗だが寂しい。浮き輪の漂うポストカードと同じ作家だ。
    「俺が必ず帽子を届けますね」
     本人がいうのなら否定することはない。
    「帽子も浮き輪も必ず手渡しますから」
    「なんでそんなに好きにさせるんだ?」
     ドラさんが言って口を抑える。
    「まだお付き合いされてないんですか?」
     二階に上がっていた喫茶の店長さんが驚愕の声を上げた。思わずと言った様子で彼女も口を抑える。俺も口を抑えてから発言していないことに気づき、絵の前で立ち尽くす彼の前に進み出る。
    「俺のこと少しでも好き、です?」
     恐る恐るお伺いする。彼は涙目で口をぎゅっと閉じて頷いた。ぽすっと胸を叩かれる。
    「君は?」
    「大好きです」
     驚くドラさんを抱えてステップを踏んだ。作品を倒さないように階段でくるくるとまわる。ドラさんは自棄っぽく一緒に踊ってくれて、店員さんは雨に踊ればをかけてくれた。

    「私も気圧と緊張でおかしかったけど、君も脱稿ハイだったんだね」
     今日もあの日のような土砂降りだった。新居の和室でドラさんが俺の膝枕になついている。締め切り前の俺はパチパチとキーを打つが集中できない。当時を思い出すと恐怖と甘酸っぱい気持ちで叫び出したくなる。今では初デートだったと言えるが当時はドラマ撮影後はじめて会ったのだ。仕事抜きで初めて会ってアレだ。お兄さんがいたら入店直後に殴り飛ばされていた。
    「ファンとして好いてくれてるのかもって不安だったのが馬鹿らしくなったよ」
    「下心もありますが生涯ファンです」
    「ンフ、わーたしも。作品仕上げてね、先生」
     励ましながら太ももを摩られる。悪戯を仕掛けながらもぐんにゃりしている伴侶はとても色っぽい。柔い髪の毛を撫で、歯を食いしばって原稿に向かう。予報通りなら書き上がる頃には雨も止んでいるはずだ。

    海の彼方の
     ドラさんはきっちりした格好が多いけれど、稽古の時はTシャツとジャージが多い。衣装ならかなり変わった格好にもなる。
    「お、あ、あ、うぅ」
    「作家先生泣いちゃったよ」
    「感極まったのね」
     今日は夏に公演する人魚姫の衣装合わせだった。今回は俺の短編のアレンジということで稽古場にお邪魔させてもらっている。ドラさんは蛸の人魚だ。腰から蛸足に覆われたドラさんがメンダコモチーフのベールを被っている。
    「綺麗です」
     泣いて蛸足の前で膝をつき拝む。衣装を濡らさないように服の裾で目を覆った。
    「腹筋えっぐ」
     背後から声がする。顔を拭くのにめくったシャツから缶詰執筆の息抜きで鍛えた自慢のシックスパックが見えていた。
    「ロナルドくんお腹隠して。足動かしたいから下がってくれる?」
    「はいぃ」
     名残惜しいが後ろに下がりシャツを下ろす。ドラさんは胴体と蛸足の間を見下ろしてうごうご身じろいだ。蛸足は内部のペダル操作で動きが出せるようになっている。足がペダルにかかる音はしたけれどドラさんは顔を赤くして苦戦していた。
     ドラさんは海の魔女役だ。童話のように人魚姫に人間になる薬を渡すが、これは海に地上の物品を納入していた業者の配達が滞るようになった為、腕に覚えのある人魚姫が調査にいくためだった。
    「かならずお菓子の材料を持ち帰る」
    「危ないから止したほうがいいと思うんだけど」
    「案じてくれるな。お前のクッキーを食べないと私は生きている気がしないんだ」
    「私変なもの入れてないからね?」
     人魚姫は魔女の作るお菓子が大好き過ぎて海の都ではクッキーモンスターと恐れられている。住人は物資が届かないことより人魚姫がクッキーを食べられないことで日増しに凶悪な面相になっていくことを恐れていた。
     物語では沈没船から助けられていた王子だが、ここでは遠泳中に足を攣って溺れたところを人魚姫に助けられ一目惚れしていた。業者の配達が滞るようになったのも王子が人魚を地上に誘き出すための罠だったというお話。見事罠を見破る蛸魔女ドラさん、罠ごと粉砕する人魚姫の活劇譚だ。
     蛸足が一本だらんと持ち上がって横に振られた。
    「希美さんこれ重くて動けないわ」
    「あら。ローラーをつけたら動けるかしら?」
    「どちらに運びますか?」
     蛸足を抱えて立ち上がった。ドラさんがぎゅっと頭に抱きついてくれて嬉しい。片目が隠れて見えないけれど肋骨が顔に当たってどきどきする。
    「凄いね。これ足だけで四十キロくらいあるよ?」
     蛸足がモチモチぷるんぷるんしている。耳に注がれる声に脳みそが沸騰する。
    「大丈夫です」
     重さなんて感じない。ドラさんのベールが頬をくすぐる。
    「王子が魔女を抱えてさらうシーン、ロナルド先生ならできるわね」
    「ぼくは無理ですね」
    「ロナルドくん?」
     王子の衣装を当てていた金髪美形がやたらと頷く。そこまで認識して俺はドラさんを最後にもう一度ぎゅっと抱きしめて希美さんの前に下ろした。
    「ちんちん痛いです」
     ドラさんにだけ聞こえるように耳に囁き返す。
    「お手洗い行っておいで」
     ぽんぽんと肩を叩かれ前屈みになって離れる。恥ずかしてたまらない。ここは稽古場だから甘えてはいけないのだ。

    「蛸のロマンスでスピンオフしてもいいと思う?」
    「全年齢ならいいんじゃない?」
     ドラさんと希美さんの声だ。俺がトイレに急いだ後にドラさんが真っ赤な悪い顔で劇団の人に言う映像を後日フォン君が見せてくれた。エッチすぎて言葉も出ない俺に彼は映像をくれた後元データは消すと約束してくれたのだった。

     ◇ ◇ ◇

    「ロナルドくん。君が戸惑う気持ちもよくわかるよ。だがよく考えてくれ、君が断った場合私は別の男と恋人を演じることになる。私は君と演じるつもりで書かせてもらったんだがね」
     ドラさんの好きな演技の中でも五本の指に入る畏怖ドラ隊長が出現した。演技ではなく現実で、場所も自宅の台所。畏怖ドラ隊長に見られているのは俺だ。五体投地も拝礼もする場面でもないし感涙してもいけない。珍しく足を組み不機嫌そうに目を細めるドラさんを、そうさせているのは俺なのだ。
    「愚かな下僕めを踏んでください!」
    「ファー! どうしてそうなるんだ!」
     膝をついて脚にすがった。なんだか違う気もするけれどドラさんが不機嫌なのは嫌だ。踏んでほしいのも本当だが考える時間も稼ぐ。
     人魚姫の舞台は好評だった。蛸足の軽量化とローラーを取り付けたことでドラさんは舞台上を動き、非力なフォン王子も魔女を引きずって攫うことができた。蛸足のドラさんに他人が触れる場面は毎回悶えたけれど、元が俺の書いた児童書のアレンジだ。断固としてドラさんが過剰に触れられる場面はない。一番のロマンチックは人魚姫が魔女のクッキー最後の一枚を噛み締めて攫われた魔女を助け出すシーンだ。騒動を収めた人魚と魔女が別の海に新たな食材でも探しに行こうかと次作を匂わせる会話をして終演になる。その次作がショートドラマで制作が決まり、ドラさんが俺に魔女の恋人役として出演しろという。脚本の叩き台はドラさんが書いた。
    「私はロナルド君と共演したいだけなんだ」
    「ドラさん」
     組んだ足が降ろされドラさんの高い鼻梁が俺の鼻と擦り合わされる。赤みの強い瞳が俺の膝に落ちた。
    「オータム配信限定の短編ドラマならロナルドくんの情報が変に出回る心配もない。君を奪われない予防線を張って恋人役を演じたいんだ。踏んでほしいって性癖なの?」
     正確には俺の股間にドラさんの目が向いている。それだけで反応しそうな息子を腕で隠した。
    「私の脚本がいや?」
    「ドラさんの脚本は素敵でした! 演技の経験ゼロの俺が主演してぶち壊すのが嫌で」
    「他の人と私が恋人演じるのとどっちが嫌? 受けてくれたら踏んであげよう」
    「俺が恋人やります!」
     筋の浮いた青白い足が股間に乗った。
    「いい子」
     体重がかけられる。俺は呻いて脱力し、眉をさげたドラさんを見上げた。
    「イっちゃったね」
     俺の性癖はドラさんなのでこの程度で引かないでほしい。

     オータム独占配信のドラマは人魚姫漫遊譚のスピンオフ。劇の最後で新たなお菓子の材料を探しに人魚姫と他の海に移った魔女が海辺で途方に暮れた男と出会うところから始まる。
    「辛気臭い顔でどうしたんだい?」
     海から上がった魔女を呆然と男が見上げる。魔女はまだ二本足になる薬を飲んでおらず、ぞろぞろと蛸足で浜辺を移動していたからだ。
    「いま解決しました。あなたを書いてもいいですか?」
    「私を? 何にだい?」
    「戯曲に。戯曲に! 蛸の人魚と王子が出会い恋をして踊り出す物語に!」
    「王子はやめとくれ。酷い目にあったばかりなんだよ」
     一人盛り上がる男に魔女は吐き捨てるようにいう。
    「へ? なにがあったんですか?」
    「話してもいいけど私も用事があってね。この辺で美味しいお菓子を知らないかい?」
     戸惑いながら男は思い付く限りのお菓子を口にするが「どんなの?」と聞かれると説明ができない。甘くて美味しいとチョコレートとカスタードの区別くらいしかついていないからタルトかデニッシュかすら答えられないのだ。要領を得ない話をするうちに夜明けが近くなった。
    「夜になったらお菓子の現物を持ってきます。その時にまたお話し聞かせてください」
     海水をちゃぷちゃぷ脚にかけていた魔女は「いいよ」と気楽に答え海へと帰っていった。
     男はその日一日中とっておきのお菓子はどれだろうとあれこれ考えてはお店を行きつ戻りつしたけれど、一度に持って行くと会えるのも今夜が最後になるかもしれないと気づき怖くなった。蛸の魔女と話すのがとても楽しかったのだ。うまく答えられなくても怒らず、からかいを口にして自分から言葉を引き出す。何度も話は脱線して世界一かわいいシャコ貝の話を聞かせてくれた。
    「あなたがお菓子を持ってきてくれる人か? ありがとう、私は魔女のお使いだ。王子の話なら私からもしてやれるぞ」
     その晩海辺にいたのは赤毛の女の子だった。快活で格好良く、魔女の薬で二本足なのだという。
    「魔女さんにはもう会えないんですか」
    「地上は物騒だからな。王子の話もそういうものだ」
     女の子は腰に剣をさしていた。ギロっと鋭い視線が男を品定めする。
    「あいつに菓子の研究を提案したのは私だ。お前が安全とわかるまで友人と合わせるのは恐ろしい」
    「なら俺を海に連れていってください!」
     男がとっておきのクリームブリュレの入った袋を差し出した。
    「俺がお菓子を持っていくので、魔女さんが安全な海で俺に会わせてください!」
    「海中で息ができないだろう」
    「耐えます!」
    「無茶をいうんだなあ」
     ざばっと海から蛸足が出てきた。ぞろぞろと足が這ってメンダコのようなベールを被った男が出てくる。
    「ヒナイチくん、私は彼と会いたいって言ったのに。心配性なのは兄王譲りだね」
    「何かあってからでは遅いからな。悪いがお前の安全が最優先だ」
     女の子は清々しく言い放つ。男が渡した菓子袋を覗きぴょこぴょこと触覚のように前髪が揺れていた。
    「俺をあなたの海に連れていってください」
    「帰れなくなるかもよ?」
    「構いません」
    「なんで?」
     なんでだろう。会って一日も経っておらず、戯曲のネタにするために話を聞きたいはずだったのに。男は先ほどのヒナイチのように清々しく「わかりません」といった。
    「分かるまで会ってください」
    「ンフフ! 私の周りはみんな強情だなあ。お菓子と海でも呼吸ができる薬を交換してあげよう」
     ケラケラ笑って魔女が足の間から小瓶を取り出す。その様子に興奮した男は真っ赤になって「破廉恥です!」と叫んだ。

    「ここで終わりなんですか?」
     破廉恥ですと叫ぶと撮影が終わった。破廉恥です! は咄嗟に出た。ドラさんの脚本は会話をキャストに丸投げだったので読み合わせの時の即興がそのまま台本に書き込まれている。人魚姫役のヒナイチさんは前回同様圧巻の迫力だった。役者の他に副業でSPもしているらしい。俺は最後に叫んだセリフを削除してもらおうとおろおろするうちにどんどん人がはけていった。縋る思いでドラさんを探すと衣装さんに蛸足を脱ぐのを手伝って貰っていた。慌てて目をそらすと正面に担当編集者さんがいた。
    「ロナルドさんお疲れさまでした。後を引く素敵なシャウトでしたね」
    「フクマさん! 俺のシャウトは消せないですか? 今から海中デートを積み重ねてご両親に挨拶して結婚した作家が顛末を戯曲にして後世まで語り継がれるシーンはとらないんですか?」
    「尺の都合ですロナルドさん。これだけ素敵な作品ですからすぐ視聴者アンケートが集まり続編が制作されるでしょう」
     シャウトは消さないでいましょうそうしましょうとフクマさんが続ける。これはもう逆らえないやつだ。
    「海の彼方にお婿入りできるようにロナルドさんも宣伝がんばりましょうね」
     ドラさんの魅力を知ってもらえるように原稿がんばりましょうね、と言われた時と同じだ。フクマさんに何か言われて「はい」以外答えられたことは少ない。今回もやる気を触発された俺は縦に何度も頷いて、
    「ドラさん! 俺必ずお婿入りしますね!」
     と撮影現場で叫んでいた。

    暖かい場所
     風呂の給湯器が壊れた。最近スイッチの入りが悪く、不動産屋にメンテナンスの相談をしようかと話したばかりだった。
    「ごめん」
     給湯器を撫でる。何の気なしに最後の止めをさしたのは俺だ。ただ風呂の用意をすることしか考えていなかった。
    「ごめんな!」
     ドラさんがエプロンをつけたままスマホ片手に出てきてくれた。ボフンとそれなりの音だったので台所まで聞こえたのだ。手際よく俺から聴取して不動産屋に電話し、給湯器の周りを確認して「これだ」と主電源を切る。
    「業者さん明日来てくれるって」
    「俺がやりました」
     冷静なドラさんに自首する気持ちで名乗り出る。犯人は俺です。ドラさんは「直るといいね」と手を繋いでくれた。

     十数分前、俺はドラさんが台所でコロッケをあげている間に風呂の用意をしようと浴室の掃除をしていた。泡を流す段でシャワーがいつまでもお湯にならず、外でカチカチ給湯器がなんとか点火しようと頑張る音が聞こえていた。シャワーを止めて外に回り給湯器の本体に貼ってある手順通り初期化する。三日前にもやっているので慣れたものだ。
    「一度落ち着いて仕切り直そうな」
     側面を撫でて風呂場に戻り、給湯ボタンを押すとボフッと音がして沈黙した。それが我が家のガス給湯器が壊れてしまった音だった。
    「ロナルド君の優しいところ好きだよ」
    「ドラさんの優しさが尊い」
     夕飯はコロッケとかぼちゃの素揚げ、豆腐の味噌汁にもやしのナンプル、無限キャベツ。ほかほかのご飯をよそって両手を合わせいただきますと唱和する。
     ドラさんは俺が給湯器を大切に扱っているのが好ましいと褒め、AIや付喪神が登場する過去作も良かったと褒め、俺を想像力が豊かで優しいと褒めた。
    「道を聞かれたら途中まで連れていってあげたり荷物持ってあげたりするじゃない。人が良すぎて心配になるけど、君はスリや万引きを咄嗟に止める洞察力や詐欺電話を保留する判断力もある。車に撥ねられそうな子どもを飛び込んで助けた時、見ていた人は称賛したけど私は自分が死んでしまったかと思った。君はそんな私に気づいてくれたね。謝ってくれたとき、この危なっかしいお人好しのそばに一生いようって決意したよ」
     味噌汁を飲みコロッケを割り、ご飯を口に運ぶドラさんの語りが止まらない。行儀よく口に含んでいる間は話さないのに、その間が効果的に言葉を理解させる呼吸になっている。
    「年下の若く美しく善性と才能に溢れた英雄ってだけならとても私には隣が務まらないけれど、君は素直すぎる幼さと一途さが煮詰まってタールのようになった性癖を抱えた突拍子のないびっくり箱みたいな面白い人間だから、君の一番近くは私しか務まらないと思えるんだ」
     ドラさんの箸が置かれる。俺はいただきますから一口も食べられずじっとドラさんを見ていて、ドラさんもやっと俺を見てくれた。
    「結婚してください」
    「喜んで。ご飯冷めちゃったかな」
    「いえ温かいです。愛してます」
    「愛してるって楽屋で初めて会った時も言ってくれたよね。君は混乱してたけどあの時のことが君のこと好きでも大丈夫なんだって、自信になってた」
     ご飯がなかなか食べられない。雄叫びと号泣とすごく抱きしめたい気持ちがわなわなと体を震わせる。なのにドラさんは俺の食器を取り上げてご飯と味噌汁を温かいのにかえてくれた。
    「変なタイミングで言っちゃったなぁ」
     うっすら染まった頬が愛らしい。
    「ご飯食べて。美味しいよ」
    「いつも最高に美味しいです!」
     お茶を淹れようとドラさんが席を立つ。
    「あ。今日のお風呂どうしようか?」
     完全に忘れていた。ドラさんごめんなさい犯人は俺です。

     同棲を始める時に俺からプロポーズしたけれど、その時は保留になった。春先に始まった新生活は何かと賑やかに過ぎて、今年はドラさん一族の新年会にも参加した。新年会でお義父さんに三十年したら結婚してもいいと言われて一年未満。あんなの冗談に決まってるし冗談にするとドラさんは笑った。声のトーンが数学教師ドラドラ先生だった。
    「それでお風呂だけど銭湯が近くにあるみたい。創業五十年入浴料金四百五十円! 壁に富士山の絵とか描いてありそうじゃない? もう八時になるし行こルドくん!」
    「俺はドラさんの裸を他の人間に見られたくないのですが!」
    「そんな他人の体ジロジロ見る人いないって。君の方こそ彫刻みたいな肉体美してるじゃないですかロナルド先生」
     眼鏡をかけてスマホを操作するドラさんは当然にとても素敵で、教師役の時のようにくいっと眼鏡のツルを直した。
    「体育教師のロナルド先生。ね、仕事帰りに同僚と一緒に銭湯に行く設定なら息子さんも誤作動しないかな」
     股間を隠す。ドラさんはニヤニヤしていない。本気だ。俺も本気で考えた。体育教師のロナルドは最愛のドラルク先生と一緒に銭湯に行くエロイベントに正気でいられるか? キッパリと首を横に振った。ドラさんは天井を見上げた。
    「それじゃあ完全プライベートなエッチなホテルに行くかい?」
    「よろしくお願いします!」
     勢い良く頭を下げ過ぎてテーブルで額を打った。ぬるっと血が垂れてくる。額が割れていた。血相を変えてドラさんが手当てしてくれる。
    「笑ってるんじゃない! こんなことで怪我なんかするんじゃないよ」
    「ホテル行きますよね?」
     お怒りの様子に恐る恐る念押しする。ドラさんは滅多に出さない高音の「ファー!」を出し、
    「馬鹿野郎! 本当に馬鹿だ。大馬鹿」
     初めはかなり本気の声だったのにだんだん泣き笑いになっていく。
    「銭湯で湯上がりにコーヒー牛乳を腰に手を当てて飲むのやってみたいんだよね。そういう雰囲気の部屋があったらいいよ」
     救急箱を閉じるとぐいっとお茶を飲み干してそっぽを向いてしまった。尖らせた口が少し緩んでバニーボーイ役の時の妖艶さがある。多少遠くても構わないと銭湯部屋のあるホテルを検索すると、なんと銭湯の近くにあった。
    「オーナーが同じみたいです」
    「うっそ。本当だ」
     ホテル自体も銭湯風でレトロ銭湯グッズの販売も人気らしい。期待を込めてドラさんをみる。ドラさんは視線を逸らして耳を赤くしている。
    「湯上がりにコーヒー牛乳飲みましょう」
    「明日業者さんくるから泊まらないよ?」
    「俺が車の運転します」
     ドラさんの口がむにゅっと緩んだ。エッチな期待に目元が染まっている。この人を銭湯に入れられるわけがない。
    「行く」
    「はい!」
     今度はコンパクトに拳を掲げた。
    「安全運転でお願いします、ロナルド先生」
    「鼻血吹きそうなので勘弁してくださいドラルク先生」
     大袈裟だとドラさんが笑う。ちっとも大袈裟ではないのだがこれはいくら言葉を尽くしても伝わりそうにない。急いで入浴グッズと着替え、財布を鞄に詰める。
    「行きますよ」
    「はーい」
     最後にドラさんを抱え上げて愛しい我が家を後にした。

    月光の織物
     単発ドラマの打ちあげにしては良い店で飲み食いし、帰りのタクシーを待つ間作家先生と主演俳優殿は並んで月など見上げている。声がぎりぎり聞こえない場所で同じくタクシーを待つフリをしているのは三人。
    「お前はどっちに相談されたんだよ」
    「両方アル。相談料に舞台のチケット買わせてやったね」
    「俺はドラ公の焼き菓子もらったぜ」
    「後で寄越す。決定ね」
     敵役の剛腕のマリアを演じた俺と街娘に扮した暗殺者のターチャン。もう一人は記者役をやった記者のカメヤだ。こいつは作家先生の旧友らしい。さっきから耳をすませて眼鏡を光らせてやがる。
    「おい、もしかして聞こえてんのか?」
    「シッ。読唇術ですよ」
    「背中向けてるアル」
    「ロナルドは分かりやすさの塊なんで大体わかるんです」
     聞きます? と言ってくるがターチャンが馬鹿らしいねと即座に退けた。
    「露骨に好意を見せあっといて連絡先聞くだけで何を盛り上がってるか」
     そうなのだ。作家先生は撮影日にこそっとスタジオに入りドラ公がどっかで話した好物ばかり差し入れし、でかい図体を極力縮めて演技に見入り幸せオーラで周りに花を幻視させ、カットが終わるとタオルだ飲み物だと持って行く。どんだけ好きだよと思えば邪魔しませんとばかりにまた隅っこに戻るのだ。最初は戸惑った現場もすぐに作家先生をでかい犬だと認識した。ドラ公以外にも愛想はいいが、あからさまに熱量が違う。女性共演者やスタッフ数名が作家先生に色めいていられたのはものの数分だった。
    「ファンが連絡先聞くのはハードル高くない?」
    「まだいうか」
     ターチャンの視線が辛辣になる。カメヤもまぁねぇと態度を変えた。
    「あいつ学生時代からずーっとドラルクさんしか見てないから。どうなるか友人としても心配で」
    「心配でカメラが離せない?」
    「ロナルドは絶対やらかすから。良い写真撮れたら結婚式に流してやりたいしね」
     そう言ってシャッターを切った。作家先生がドラ公を抱きしめている。
    「は?」
     低い声が出た。惚れた同士でもいきなり手を出すのは違うだろう。作家先生をぶん殴ってやろうと思ったのにターチャンに腕を掴まれる。
    「手」
     手? 作家先生が伸ばした手にスマホを持っている。二人はぎこちなく離れ、作家先生はスマホをドラ公に渡し直角に腰を折って平謝りしていた。
    「ドラルクがスマホ落として地面に落ちる前にキャッチしたみたいアル」
    「作家の運動神経じゃねぇだろ」
     タクシーが来た。ドラ公を乗せ走り出した車にぶんぶん腕を振っている。
    「途中まで一緒に乗れば良いのに」
     カメヤが残念そうに言う。小走りで作家先生の背中を叩きぎゃあぎゃあ騒ぎ始める男たちを放ってターチャンと駅に向かった。物凄く無駄な時間を過ごした気がする。
    「もう一軒行くか?」
    「マリアの家で焼き菓子を貰う」
     半分くらい昨日のうちに食べておけばよかった。後悔していると着信音がポンと鳴る。
    「連絡先交換できたってよ」
     ドラ公からのメッセージにスタンプを返す。ターチャンにも連絡があったようで苦々しい顔をしていた。
    「どうした?」
     無言で画面を見せられる。作家先生からの長文報告に目が滑る。適当に頑張れのスタンプを押した。ターチャンも一瞥し画面を消したのでいいのだろう。
    「あ」
     今度はカメヤからだ。アドレス交換をした覚えはないが不思議はない。今度ヘッドロックをかけてやろうと脳裏にメモ書きする。
     送られてきたのはさっきの二人だった。
    「どうした?」
    「腐ってもプロだと思ってさ」
     いつ撮ったのか、肩を引っ付けて親密そうに月を見上げる二人の後ろ姿が写っていた。

    前日譚
    「マリアさん賄賂です。打ち上げでロナルド君の連絡先を手に入れてください」
    「は? 自分で聞けよ。むしろまだ渡されてなかったのか?」
     こそっと楽屋にやってきたドラルクが大きな紙袋を渡してきた。年上でキャリアも上だが現場が重なるたびにふらつくドラルクを担いで運ぶうちに随分気やすい仲になった。撮影が終わったばかりのドラマは久しぶりの共演だったが、俺よりでかい原作小説の作家先生が張り付いて世話を焼いていたため担ぎあげる機会はなかったのだが。
    「あの先生あからさまにお前に惚れてるだろ。あんま強引なら俺がはっ倒してやるぜ?」
    「そうならいいんだけど、強火のファンってこともあるでしょう。若いファンの子におじさんが連絡先聞いたらまずくない? マリアさんなら同年代のきれいなお姉さんだし、聞かれるだけなら悪い気しないんじゃないかなと。勿論マリアさんの連絡先は渡さなくて良いから!」
     普段のドラルクなら絶対しない類のお願いだ。女性にこんなことを頼むなんて、と言い終わってすぐにピスピス鼻を鳴らしている。
    「ごめんマリアさん」
    「お前が断られたら俺がぶん殴って吐かせてやるから自分で聞いてみろ」
    「物騒がすぎる」
    「あんだけ毎回差し入れ用意してお前に尽くして、その癖連絡先一つ渡してこなかったんだろ? 躾のいい野郎じゃねぇか。一回だけ好意を信じてやれよ」
     強火のファンでもやることかもしれないが目が違ったのだ。率直に言ってヤバかった。あれが愛や恋じゃないなら信仰だ。
     ドラルクはまだあうあういっていたが着替えるといえば長居を詫びて出ていった。テーブルには芳しい大きな紙袋が残っている。
    「あー、賭けにすりゃよかったな」
     打ち上げで連絡先を手に入れたいのは作家先生も同じだろう。先にあっちが切り出してくる方にもう一袋かければよかった。

    幼い願い事
     あの日恋したテレビの中の人が隣で笑っている。著作のテレビドラマ化が決定したばかりか、主演をずっとイメージして書き続けていたご本人が引き受けてくれた。撮影はあっという間で今夜がもう打ち上げの帰りだ。二次会に行く人たちを見送り帰宅組のドラルクさんと並んでタクシーを待っている。
     やっと二人で話せるのに心臓がドコドコ暴れて口の中はカラカラだ。出会う前から好きで、直接お会いしてもっと好きになったドラルクさんが「ロナルドくん」と呼びかけてくれた。
    「ぼーっとしてお酒回ってきた? お水いる?」
    「ドラルクさんに見惚れてました」
    「あはは。僕もロナルドくんに見惚れてたよ!」
     顔をくしゃくしゃにして笑ってくれる。本気にされていないかもしれないけど、俺の顔を見上げる表情は優しい。顔はいい、顔だけだと散々言われてきたけれどドラルクさんが好んでくれるならこの顔でよかった。
    「本気にしてないな? 僕はね、君のファンなんだ。君の作品を楽しみに生きてる大勢の一人なんだよ。あんな面白くて愉快な話を書いてるのがこーんな綺麗な人間だなんて見惚れて当然だろう」
     幼子に言い聞かせるようにドラルクさんがいう。俺は照れながら聞き入ってしまった。推しがファンだと言ってくれたのだ。冷静でいられるわけがない。
    「それとね、前にドラさんって呼んでくれただろ。うっかりみたいだったけど、そっちで呼んで欲しいな」
    「ドラさん」
    「うん?」
    「今日で終わりにしたくないです」
     どこからか連絡があったんだろうか。スマホを出したドラさんを、電波の先の誰かに取られたくなくてじっと見つめてしまう。酔って少し赤くなった顔が月光に照らされている。どんどん赤くなっていく表情が可愛くてたまらない。ドラさんはファンだと言ってくれたけど、俺はもっとドロドロした厄介な感情でいっぱいだ。
    「ドラさん」
     連絡先を教えて欲しくて声をかけるとドラさんの手からスマホが離れた。反射で一歩踏み出し手を伸ばす。ドラさんを左手で抱え、右手で落下途中のスマホを掴んだ。
    「すみません!」
    「い、いやありがとう! すごいね!」
     三歩下がって平謝りする。差し出したスマホを受け取ってドラさんが手を振って見せた。
    「ロナルド君さえ良ければ連絡先交換しないかなって! スマホ出したんだけど驚いちゃった」
     映画みたいだったよ。珍しく慌てた様子のドラさんが耳まで真っ赤にして俺を見上げている。鼻血を拭いて倒れて頭を打った途端にドラマ化が決まる前の部屋に一人で転がってるんじゃないかと思った。夢になる前に俺もスマホを出して「是非お願いします!」と直角に腰を折った。
    「これからもよろしくね」
     やって来たタクシーに乗り込みドラさんが手を振る。これからがあるのだ。ぶんぶん手を振って見送って、旧友に途中まで相乗りくらいしろと背を叩かれた。それはまだまだハードルが高すぎる。

    心手渡して
    「約束しただろ、ほら」
     逞しい腕が差し出される。出会った頃から逞しい体つきだったが、三十年の歳月で瑞々しい若木が頑健な大樹になった。
    「俺との結婚記念日もう祝ってくれねえの?」
    「可愛こぶるな五十路! そんなことちっとも思ってない癖に!」
     昔はすぐ不安になっていたロナルドくんは三十年ですっかり育った。私が多少ゴネる程度では笑みを深めてあの手この手でイエスを引き出そうとする。まったく可愛くないおっさんになってしまった。
    「アロハでする?」
     上目遣いをやめずバシバシとまつ毛を瞬かせる。発想が豪速球にぶっ飛んでいて面白いのは変わらないのだが。
    「する」
    「やったー! アロハに短パンにビーサンも履いちゃう? もうハワイまで行っちゃう?」
    「ハワイには行かんがサングラスも付けよう」
     舞台小道具を置いてある屋根裏部屋に上がればビーチサンダルもサングラスもハイビスカスのレイだって揃う。数年前に買ったアロハシャツを引っ張り出して試着した。五十と六十のおっさんなのに衰え知らずの筋肉ゴリラと破れ蝙蝠が並ぶと暑い国のヤクザのようだった。
    「カタギに見えないねえ」
    「作家と役者だから自由業は違いない」
    「このままスタジオ行っちゃう?」
     毎年六月十日の結婚記念日は近所の写真館で記念撮影をしている。同じ格好で撮り続けると変化が如実にわかるからとロナルドくんの提案で初年を結婚式で着た白いタキシードで撮影したものだから還暦を迎えても着続けることになっているのだ。幸か不幸か私のサイズは変わらないがロナルドくんは筋肉が育って何度も仕立て直している。今年はアロハシャツだ。ここまで続けたのだからタキシードでも撮って貰うがアロハがメインだと思うと途端に愉快になった。
    「行く」
     ロナルドくんがにんまり笑う。レイは外してパナマ帽をかぶる。タキシードも衣装用ケースに詰めると彼は露骨に喜んだ。
    「写真撮るの本当に嫌んなったかと焦った」
    「そんなわけあるか。私が先に老いるのは当然だが、少しね」
     少し嫌になった。少し怖くなって、少し目をそらしたくなった。
    「祝う気はあるさ」
     隣を譲る気はないのだ。左手の指輪にキスを贈られる。優しい目で囁かされる愛してるは何億回と聞いてもいいものだ。

     写真館につくとアロハのおっさん二人に創業三十年の写真館館主は満面の笑みになった。夏向けの撮影背景を新調したのだという。開業当初からベテランの貫禄があった彼女はテストに丁度いいと私達をセットに立たせた。こういう時悪ノリできるようになったおじルドくんがカメラの前でキスをした。格好のつく角度で腰を抱き寄せもう一度。シャッターが切られる。アロハの壮年ヤクザ風キス写真だ。
    「俺の伴侶がベリーベリー可愛い」
    「おい作家先生語彙力どこやった」
    「ドラさんのお腹の中」
     腹をつつかれエロルドと毒づく。もう一度シャッターが切られ、振り向くとちょいちょいと呼ばれた。
    「ポスターにします?」
    「します!」
    「するな!」
     覗いた写真データは奇跡のように甘ずっぱかった。ガリガリおじいさんの私がいうのもおこごましいが恋愛映画のパッケージを飾れそうだ。あまりに雰囲気が出た写真に恥ずかしくなりアロハは打ち切り例年通りのタキシードで撮影した。ロナルドくんがデータを入手したかは本人の申告待ちだ。

    「ドラさん、俺たち同じ墓にはいるじゃん。俺が先に入っても、ドラさんが先でも死に別れたくらいじゃ大人しく待ってられないと思う」
     怖い霊にはならないように気をつける。夕飯の唐揚げを頬張って五十歳児が言った。唐揚げは出会った頃から変わらない彼の好物だ。量も味付けも変わってきたが常に彼の一番であり続けている。
    「同じお墓なんだ」
     彼と住むならシェアハウスではないのだと気づいた時くらいの衝撃だった。同じ墓に入るのも共同墓地ではないのだ。
    「墓買ったじゃん」
    「そうだね」
     自信たっぷりのイケオジのはずが若造の頃のまま不安を顔に出して私を見ている。死んでも同じ場所に入るのを嬉しく感じるのは相当だろう。
    「君が好きだなと思って」
    「俺も」
     先に死んでおいて待てないなんてごねるつもりはないが、残した彼が心配で覗き見したくはなると思う。絶対に後追いはするなと遺書に書いておこう。
     しんみりともせず、霊になっても風呂場の鏡に文字を書くのはやめて等馬鹿なことを言い合う。三年は次の恋人を作らないでと割と本気でいうと、一人になったら私との回顧録を執筆するという。それも止めて欲しい。昨年刊行された兄貴サーガは話題になったがお義兄さんは半年間旅に出てしまった。
     夕飯の片付けも終わると二階に上がって音楽をかけた。スピーカー部分が百合の花になった巨大なレコードプレイヤーはお父様から貰ったものだ。骨董品で再生すると同じ曲もテンポが変わる。
    「踊っていただけますか?」
    「喜んで」
     手を取り合ってゆっくりとステップを踏む。次第にリズムが早まり軽快にタップも刻む。随分前に彼とダブル主演でドラマをやった時のオープニングをなぞってたまに派手な動きを入れるのもいつも通りだ。当時より随分滑らかに踊れるようになった。ときに笑い声を上げてステップを踏み、私とロナルドくんは次の一年へまた一曲踊り出した。
    yirugf Link Message Mute
    2022/08/28 8:35:43

    恋へと誘う

    人気作品アーカイブ入り (2022/08/28)

    七月発行のロナドラ俳優パロweb再録本です。お手に取って下さった方ありがとうございました。
    通販ページに記載させていただいた通り全文の掲載いたします。
    作家ロナ、俳優ドラさんのワードパレットをお借りした話です。
    #ロナドラ

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