愉快犯の思惑(3DV) 突如として響き渡る下の階からの騒音を耳にするや否や、ダンテは無理矢理覚醒させられた意識の中で深く溜め息を漏らした。
ああ、またか。
まだ出来たばかりの事務所とは言え、決して真新しいとは言い難い建物の天井からはパラパラとコンクリートの粉が落ち、無遠慮にも髪や顔へと降りかかるその細かい灰色を鬱陶しげに振り払いながらのそのそとベッドから這い上がる。窓から射し込む日の光はまだ薄暗いものの、時刻が早朝である事を告げていた。
そう、これはここ最近、連日のように行われている一件だった。
「……あいつ等も飽きねえな…」
こうも毎朝の様に繰り返されていれば騒ぎの犯人は容易に想像できる。となるとこれ以上面倒な事になる前に、自分が仲裁役にならねばならないのが酷く億劫でならない。
壁伝いに響く瓦礫の音に頭を抱えながら、重い体を引きずって一階へと足を運ぶと、目の前に広がる光景は案の定悲惨な事態に陥っていた。
修理から戻って来たばかりのアンプやジュークボックスは無残な形で横這いになっており、既に傷のついたソファからはクッションがはみ出ている。
その隣には、ぎらついた双眸をこちらへと向けている蒼いコートの男の姿。
やっぱりあんた等かよ。
「おはよう坊や。今日もよく眠れたかしら?」
いつの間にか背後に移動したネヴァンが何食わぬ顔で語り掛けて来る。数分前まで凄まじい攻防を繰り広げていただろうとは思えない程、余裕の滲む柔らかな声。
この騒動が今まで通りのものであるならば、この魔女と兄が犯人である事にまず間違いないのだが。
「今日も元気そうで何より。出来ればもう少し優しく起こして貰えると助かるんだけど、」
当然のように耳の縁へと触れる唇を追いやって肩を落とした次の瞬間、淡く発光する刃が飛来する。
「!?」
慌てて横へ飛びのくと、それは魔女の臙脂色の髪を二、三本ほど掠め、奥の壁に衝突した。
「チッ……外したか…」
「外したか、じゃねーよ危ねえな!頼むからこれ以上穴開けんな!」
「知るか。……ああ、今のがお前だけにでも当たっていれば俺の憂さも少しは晴れただろうに。残念だな」
「はあ?」
「フン」
「本当どういう神経してんだよ……」
……って、違う。俺はバージルと喧嘩しに来たんじゃなくて。
「なぁ、こいつが朝っぱらからこうなるなんてどうせ碌な事じゃないんだろ。……どうなんだ?ネヴァン」
途端、俺達の遣り取りを横で面白そうに見ていたネヴァンが、心外だとばかりに肩を竦める。
「あら、私はお兄様と仲良くしたかっただけよ」
悪びれる様子も無い甘ったるい猫撫で声にバージルが苛立ちを抑えること無く舌を打つ。どうやら両者共に反省の色は無いようだ。
「どの口が。朝食の邪魔をした挙げ句、突然精気を吸おうとするのが貴様の友好の証か」
「そんなに怒らないでくださらない?折角の綺麗な顔が台無し。それに、この子はたまに分けてくれるわよ」
「煩い。大体ソレは貴様の主だろう、俺には関係無い」
「そう?だとしたら貴方はどうして坊やとの食事の後にいつも以上に苛立っているのかしら」
「何の話だ」
バチバチと火花が飛びそうな二人の間で、ダンテは行き場の無い手をさ迷わせたあと頭を掻く。
話の真意は見えないにしろ、確かにネヴァンの押しに負け、彼女の言う"食事"を俺と済ませた後のバージルは、普段に比べ幾らか気が立っている事が多かった。理由を訊いたとこらで答えてくれる筈も無いので、ダンテも必要以上に言及する気はなかったのだが。
それが何故、今になって話題に上がるのだろう。まだ眠りから覚め切らない頭ではどうも合点が行かない。
「あのなぁ」
その間にもひしひしと肌に感じる殺気が強まると、いよいよ本格的な身の危険を察知して口を開く。こうなればこちらにも余計な火の粉が降り懸かるのは確実だからだ。
しかしダンテの制止は、またもネヴァンの声によって掻き消されてしまった。
「顔に似合わずやきもち焼きなのね、お兄様ったら」
その瞬間、呆気に取られたダンテとバージルの視線がかち合う。
「……はい?」
同色である筈の兄の蒼にははっきりと動揺の色が見て取れ、弟の蒼にはただただ不思議そうな色だけが滲んでいた。
「貴様、……俺が何だと?」
「聴こえなかったかしら?悋気を抱いているのねって言ったのよ。――それとも、辞書が必要?」
「ふざけるな。そんな感情をコレに抱く筈が無いだろう、馬鹿か」
「本当に?」
「当たり前だ。これ以上くだらん事を吐かすと」
そう言っていよいよ獲物に手を掛ける。
そんなバージルを横目にネヴァンは未だ余裕の表情だ。
「なら、貴方の代わりに、今ここで坊やを頂いても構わないのよね」
いやだから、俺抜きに話をすんなって。
そろそろ本格的に事務所が危ない。そんなダンテの心中など毛程も汲む気は無いらしく、どこか勝ち誇った微笑と共にネヴァンの細い指がダンテの頬を這う。その不気味な色の肌は妙にひやりとしていて、幾らシルエットが申し分の無い女性の姿であるとは言えど、どうにもこの人間を模っただけの体温が好きになれなかった。
それ以前に、この魔女は一体何を言っているのだろう。
「俺の意見は完全に無視ってわけか?」
あまりに理不尽な要求である事は此処に居る全員が理解している筈だ。しかし肝心のバージルはと言えば、拒否も許容もせずに呆然とこちらを見つめている。
「……付き合い切れん。勝手にしろ」
「あ、おいバージル!」
「煩い、来るなクズ」
と、遂には構えて居た閻魔刀を鞘へと戻し二階の自室――と、言ってもダンテの部屋なのだが――へと苛立たしげに戻って行ってしまったのだ。状況が上手く飲み込めていない俺と、意味深げに笑みを強める魔女をだけを残して。
「可愛らしい子ね」
「いや何処が……」
暫く開け放たれたままの扉から色めきを帯びた深い色彩の瞳へと視軸を移し、取り残された自分と、ものの数分の内に起きた一連の出来事を把握した所でダンテの口からは再び大きな呼気が零れる。
「だってあの人、坊やの前では楽しそうにしてるのに、私が声を掛けても一切合切無視なんだもの。自信を失しちゃうじゃない?」
「はあ?」
そもそもあいつが楽しそうな顔してる事なんてあったのか。
「それに貴方もたった今、好い物が見れたでしょう?」
「…………」
そう言われてしまえば、普段以上にあからさまに、理不尽に苛立つ様子の兄も、八つ当たりの様に吐き付けられる暴言を含めた今までの反応も、今回の件でなんとなしに繋がった。しかし正直言って、行動がリンクしたからとはいえあのバージルの事である。未だに信じられない部分の方が多い。
「……バージルが、ねえ」
幾らかの疑念を拭いきれないのも確かだが、声に出し反芻する口許が勝手に綻びそうになるのも禁じ得ず、今回ばかりはこの騒がしい朝に感謝しなければならないな、と今までの澱んだ気分に反した高揚に苦笑する。
「どうせタダ、って訳じゃないんだろ?」
「あら。物分かりのいい子は好きよ」
「で、何が望みなんだ」
「一週間、私が困らないだけの食事、なんてどうかしら」
「却下、死んじまう」
「それは残念。でも安心して頂戴。今回はただの気紛れよ、坊や」
「……珍しい事もあるんだな。ちょっと胡散臭いが、何でまた?」
「ふふ。魔女もたまには、愛くるしいキューピッドになりたい時があるの」
何一つ変わらぬ穏やかな音で語る彼女が、幼い子供の頭を撫でるかの如く背を叩く。
細やかな礼とばかりに唇を落とした手の甲は、相変わらずとして人、ましてや天使等と呼ぶには何もかもが欠落していたものの、慈しみ深いその所作だけは認めてやるべきなのだろうか。
そうしてまるで聖母の様にも思えるしなやかな指先の動きに送り出されるまま、ダンテはゆっくりと兄の後を追う。