夜更けの烏 悪夢から目覚めた筈なのに、脳がまた悪夢を思い出している。これはただの回想でしかないとわかっているのに、血に塗れた自分の掌を見る度に息が詰まる。そんなつもりじゃなかった、殺したくなかった。それだけは持たないように生きてきた筈なのに、抱いた欲望の名前は殺意だった。いよいよ詰まった空気は行き場を失い自分の首に爪を立てるがただ痛みを感じるだけ。そのまま意識を飛ばせてしまえば良かったのかもしれない。
くんっ、と後に引っ張られた気がして思わず後ろを見た。見てはいけなかった。異形の者がニンマリと口角を上げて不気味にこちらを覗き込む。言われずとも理解してしまった。詰まった息を無理矢理やっと吐き出して、そうして口から漏れたのは「やめて」という懇願だった。本能的な恐怖を引き摺り出されて、自分はコレに壊されたんだと嫌でも理解させられた。続けて言おうとした「助けて」は残念ながら声にならなかった。言えたとしても何の意味も無い。お願いだからこれ以上見せないでくれ、下卑た笑い声も聞かせないでくれ。頼むから。
いっそ殺してくれと願いそうになったところで目が覚める。深呼吸をしてただの夢だと言い聞かせるが、自分の心臓の音が煩くて落ち着かない。一服して呼吸を整えようにもこれでは息が詰まるだけだ。そう、あの悪夢みたいに。
ふと部屋の外で何かが動いた気配がした。皆が寝静まった時間に起きているのが誰なのか、スパローでの生活に慣れ始めた自分はそれを知っていた。それだけで騒つく感情が現実に戻ってきて自分の心音に急かされるような不快感も和らいだ。
縋りたい一心。ドアを開ければ彼は気付く。
「あ、秋樹君まだ起きてた」
それはまるでたまたま鉢合わせたみたいな言い訳じみた言い方だった。
「…眠れなかったんですか?」
秋樹くんの言葉には少し間があった。ああ、見られている。声は震えなかったはずだ。それでも彼には見えている。
「うん、そうなんだよねぇ。寝れなくってさ」
何故。
「えーと」
まだ説明を求められてもいないのに言葉に詰まる。息が詰まった後には、言葉にも詰まる。
「うん、そうか。そうだよなぁ」
不安だとか、だから安心したいとか、直接的な言葉で自覚するのが怖いとか。そんな言葉に出来ない弱さを見られても不快にならないのは、彼が俺の自分を守る為に組み立てた言葉の形も見つめてくれているからだ。俺が烏丸奏雨であることを許されている。
「多分秋樹君は俺が体調よくないの分かってると思う…というか言ったか。その、原因としては、まぁ、すんごく悪い夢を見ちゃった…んだよね」
そして守られている、いつも。だから自分も何かを彼に与える事が出来たなら、そう考えるのは自然な事だった。
「だから、その…また怖い夢見るの嫌だからあったかい飲み物飲む間だけ手つないでもらっていい?」
この手で触れたら彼の掌も汚れてしまうんじゃないか、そんな不安は不思議と無かった。自分が何を彼に与えたしても混ざらない色が彼にある事を誇らしく思っているのはきっと自分だけでは無い。そしてそれが嬉しくてたまらない。
「わかりました。じゃあミルクティーでも淹れましょうか」
「うん。ありがとう」
「お部屋に持っていきましょうか?」
「あー、うん。そうしようか」
秋樹君がキッチンでミルクティーを淹れる様子を想像しながら目を瞑る。お湯が沸けてティーカップの中でティースプーンが回る、日常に帰って来た音だ。紅茶の香りがミルクに混ざってさらに柔らかくなる、日常に帰って来た香りだ。ドアを開けて彼が持ってきてくれた二つのカップがテーブルに並んで、ソファに腰掛ける。日常に帰って来た景色。秋樹君と手を繋ぐ。隣に君が居る。日常に、帰って来れた気がした。
「怖い夢ってどんな夢だったんですか」
これは俺が暈すのわかった上で聞いている。知りたい情報は多分、計測ではわからない俺の細かな状態。
「う~ん、そうだな…すごく怖かったから話さなくてもいい?」
ちょっとわざとらしい言い方をした気もする。
「ああ、そっか…。すみません」
多分秋樹くんの納得した口ぶりも一つの理解だけから出たわけじゃ無い、とか。それは考えすぎか、とか。悪夢に突っ込んでいた片足がやっと安心できる場所に帰って来た感覚がして、まだ眠いはずなのに思考が回り始める。
「いや、秋樹君は悪く無いから。気にしないで。俺こそ変なこと言ってごめん」
冷静に考えたら、俺はわりととんでもないお願いをしたような気がしないでもない。この歳になって、夢見が悪いから手を繋いでほしい、なんて。
「いえ。……でもちょっとうれしかったです」
「ん?」
情けなさを自覚できるくらいには落ち着きを取り戻した自分に掛けられた言葉は予想していなかったもので、思わず疑問符を浮かべる。
「怖い夢を見て怖かった時に、僕と一緒にいたいと思ってくれたこととか。多分怖いことを経験したあとって、安心したいじゃないですか。それってつまりは僕と一緒にいると安心してくれてるってことなんだなと思って。勝手ですかね」
草木も眠る時間にまだその金木犀色の瞳は俺を観察はすれど、急かしはしない。それが心地良かった。それを伝える言葉を探しながら、秋樹君が淹れてくれたミルクティーを飲む。花が揺れるのを見て心が温まるような、そんな気持ちは結局今の俺には表しようも無く。
「確かに…。あぁそっか。…その通りです。俺は秋樹君に安心しています」
それはただの再確認だったかもしれない。けれど言葉にすれば自分でも見える形になった気もして。
「お。本当ですか。やったぁ」
いつもの口調から崩れて、秋樹君が笑う。悪夢の中でも塗り潰されなかった、暖かい夢の中でこの笑顔を見た気がする。
「やだなぁ。俺のことバレバレじゃん」
「当たり前じゃないですか。僕のこと誰だと思ってるんですか」
「すーぱーうるとらアンドロイド」
「あ、急に適当になった」
「なってないよ」
軽口を重ねて笑う。口角は上げるものじゃなくて勝手に上がるものなんだと思い出す。
「いやぁ、秋樹君に頼んで良かった。烏丸おじさんはうまく眠れそうです」
「良かったです。じゃあ片付けて僕も寝ますね」
「うん。お休み」
「おやすみなさい」
静かに部屋のドアが閉まる。秋樹君につないでもらっていた手で自分の心臓あたりにそっと触れた。心音はもう自分を急かすのをやめて、ただ自分が生きている事を知らせていた。
草木が眠る、夜が更けて静かで寂しい時間。けれど確かにそこで息をしている。
「烏も安心して夜には眠る、か」
紅茶に砂糖とミルクが溶けるように、微睡んでいく。暖かさと甘さに包まって、烏丸は眠った。