火は運命をおそれず生きて 月が明るい。
豪奢な透かし彫りの吊り灯籠からこぼれる火よりくっきりとした、その冴えた光が、中天から静かに降り注いでいる。
彼は東三条邸の簀子に立っていた。兄がうけついだ今の邸ではない。もっと昔の……彼が幼い頃の、温度と匂いが、そこにあった。
彼は、自身の、町尻の邸第にいたはずだった。
熱と絶え間ない咳に侵され、起き臥しもままならなかった身体が、いまは嘘のように軽い。息を深く吸えるのは、いつ以来だろうか。申慶賀の日のことが、遠い夢のようだった。
肺腑に感じる大気も、もと居た邸とはちがっていた。
病床にいても感じられた、薬玉や屋根に葺いた菖蒲のにおい、五月のまといつくような濃く湿った草いきれ、それらはここになかった。彼の膚をさらさらと撫ぜているのは、乾いてぴぃんと張った冬の風だ。それでも、不思議と寒さを感じない。見下ろすと、臥していたときの白い小袖のままだ。足の裏の木床は磨きこまれて滑らかだった。
彼は小さく息を呑んだ。影が、ない。
これは夢なのだろうか。それとも。
彼は、振り向いた。一間ほど離れて、烏帽子に狩衣姿の少年が、月に照らされた簀子に背を向けるようにして、柱に凭れて蹲っていた。少年は、震えを押さえるように、ときおり片手でもう片方の手を強く握りこみ、暗い室内を茫洋とみつめている。彼にはまるで気付いていないようだった。表情はわからない。だが、知っている、と思った。この夜を。この少年を。
ふいに、冷たい手で喉を掴まれたような気がした。――少年は、彼だった。
人を殺めた日の、彼だった。
そのとき、糸で引かれたように、少年が顔を上げた。彼をみとめて、髭もない、幼さを残す顔が、みるみるうちに青くなる。腰が抜けてしまったのか、咄嗟に立ち上がろうとしてがくんと膝が折れた。一気に頬にカッと朱が散ったのは、無様な姿を見られたせいだ、と彼は奇妙に冷静な頭で思った。この夜、誰とも顔を合わせたくなくて人払いをしていた記憶が、不意に蘇ってきた。
お前は、誰だ……!?
少年が、ぎり、とこちらを睨みつける。引き攣り掠れた声だった。よもや仇討ちでもしようというのか、この私を、と蚊の鳴くような声が続くのを、彼は聞かなかったふりをする。下人ならいざ知らず、明らかに貴族の外見の彼に対して、少年は気後れしているらしかった。無防備な単衣姿も困惑させていることだろう……見ず知らずの他人の邸でそんな姿はしないものだ……近付くな、という制止も弱々しい。
いったいなんと答えればいいのだろう。迷いながらも、彼は威圧感を与えぬように少年の目の高さに合わせてその場に座り込んだ。誤魔化したところでどうしようもないだろう、と思った。
だから、彼は「その名」を、口にした。
これから先の世の。
付け加えると、少年の目がいっぱいに見開かれた。信じられぬというように首を横に振る。ふざけておるのか、と絞り出す声にはやはり力がなかった。
すまない。さぞや驚いておるだろうが、おまえが案ずるようなことはない。
かような現れかたをしておいて、信じろというのか。もののけではないのか。
おまえならきっと直ぐにわかってくれると思うてな。人を呼びたいならそうすればよい。まこと私がもののけであれば役にも立たぬであろうが。
ずるい言い方だ、と胸中で彼は苦笑する。おまえなら。おまえだけ。そういう承認を、ずっと、欲しがってきたことを知っている。……父は、それをよく見抜いていて、彼を使ったのだ……
ふいにせり上がってきた哀しみの切れ端を飲み下し、彼は少年を見つめた。少年は居心地悪そうに彼から目を逸らし、何事か考え込んでいる様子だった。もともと自分なりにきちんと理路を知りたがる性質だったから、納得を得ることはそう無理筋ではないかもしれない。鏡を見たときの記憶をなぞっているのか、少年の眼差しが躊躇いながら彼の貌を往復する。同じ黒子の位置。彼と引き比べて、自身のまだ影も形もない髭が気にかかるように、上唇におそるおそる指をふれていた。
眉根を寄せて、少年が詰問する。
どうして、ここに来たのだ。
私にもわからぬ。気が付いたらこの屋敷におった。
……たしかにこれでは、もののけでないと己でも言い切れない。夢でないならば、自分はまさしく霊なのだろう。影がないことに、少年は気付いているだろうか。これ以上、無用に怯えさせたくなかった。そして、おそらくこの状態なら、病を移すことはない、と信じたい。
触れて確かめたいなら構わない。
私の穢れなら案ずるな、と付け加えて一か八かで手を伸ばすと、少年ははっとしたように身を強張らせた。それが何を意味するのかが脳裏に閃いて、彼は動きをとめる。
すまなかった。無理をせずともよい。
いや……。
少年の透き通るほど蒼褪めた顔に、怯えと戸惑いが綯い交ぜになって浮かんでいる。それは未知のものに対する恐れだけではない。そこに確かに触れえぬものがあった。お互いにあることを知っていて、あえて言葉の外に押しやっている、その黒々と冷えた淵が。
貴方はまことに、私、なのか?
言葉遣いに迷うような響きがあり、かすかに彼は苦笑する。
「彼」はいつも、目上の者に従順であろうとしていた。こんなときでさえ、年上であり位も昇進しているだろう相手を立てようとする判断がはたらくらしい。どんなときでも自分がどう見られているかを気にしていたし、そのくせ、在りたい姿を自分で定めることもできず、他者の声にひとりで擦り減っていた。そんな己のなにもかもから目を背けなければ、生きてゆけなかった。
……そういうことになるだろうな。
彼は頷いた。そして、重い息を吐き出した。
いま、おまえしか知らぬことを知っておる、と言えばよいか。
おまえの、咎を。
跳ね上がる少年の鼓動が、我がもののように彼には感じられた。
少年の表情が薄紙を破るように歪んだ。その白い喉がかすかに月明かりに動くのだけが、酷くなまなましかった。
俺にはおまえを裁くことはできない。おまえは……俺なのだから。
言いながら、そうではない、という歯痒さが渦巻いた。そうではない。この時の自分にかけるべき言葉は、きっと、もっと違うのだ。けれど。
光を通さない淵がざわざわと波立つのが見える気がした。ひとを殺めたことを、あの日の己自身を、深くふかく沈めた淵。沈めたものを、引き摺り出してしまう。黒々と凪いだ水面がぐうっと盛り上がり、割れる……
咎など!
少年が押し殺した悲鳴を上げ、それまでの怯みも忘れたように、烏帽子がぶつかりそうな勢いで彼の喉に掴みかかった。彼の小袖の襟をぐしゃりと握りしめる少年の指の曲がりの鋭角が、白くあわれに浮き上がる。
彼は歯を食い縛って、少年の震える腕に揺さぶられるがまま、浅く息を吐いていた。いったん切られた堰は、もはや止められなかった。
貴方なら、貴方は俺なのなら、わかるだろう、あいつが、三郎が、俺を怒らせなければ、俺はあそこに行かなかった。あの女にも、会わなかった。袈裟が、っ、あんなことを言わなければ!
眩暈がした。それは彼が長らく己に言い聞かせてきたことだった。宵闇に身を縮めて、独楽鼠のように頭ばかりが逃げ場を探していた、彼の、言葉だった。
相手が、己でなければ、こうも取り乱すことはなかっただろう。己の心のうごきがありありとわかって、彼は懸命に、込み上げてくるかつての感情に押し流されまいとした。
「彼」の従者は、半年持てばまず長いほうだった。年若い主の癇症に耐えかねた彼らは、何がしかの理由で暇をもらい、あるいは邸の他の仕事を貰い、逃げ出した。太郎ぎみや三郎ぎみの従者が羨ましい、と影で囁き合う声を知っていた。それは余計に、彼の心を捩らせ、頑なにした。
袈裟――袈裟丸は、「彼」にとって唯一、幼い頃から長く仕えた従者だった。虫の居所の悪い彼にも、軽口を叩いてどこか飄々としていた。それもまた舐められているようで気に食わず、足蹴にして強く当たっても、ふらりと居なくなるだけで必ず戻ってくる。
そういうあの男に、甘えていたのだ、と、今ならわかる。
「彼」は、明け透けに苛立ちや鬱憤を誰かにぶつけるときでさえ、身の裡の思いそのものの色やかたちを押し隠していた。ひとに無様を晒すことを、恐れ、憎んでいた。まして殴りつけ、蹴りつけるのはいつも彼にとってより弱い、下に看做した相手、そんな相手にどうして、柔弱な心など見せられようか。けれど、そうしながらも、わかってほしい、という叫びは出口なく押し塞いだ心にどうしようもなく溢れて、己の何もかもを引き裂いていった。……いつも誰かを、傷付けながら。
その果てにあったのが、この日だった。
彼は、つかのま、目をつぶった。怒りとも、哀しみともつかぬ、鈍い痛みが胸を満たした。
おしえてくれ。このまま、誰も知らぬままなのか!?三郎は見ておったのではないのか、父上や、母上には。
少年の耳のわきの後れ毛が、ふわふわと頼りなく夜風にゆれていた。
……それは、話せぬ。
話せばきっと、少年の辿る道を変えてしまう。
そして、話したところで今の少年に抱えきれるものではないとも、わかっていた。
これが本当に、「彼」が生きてきたかつての時なのなら、そこに今の己がいることで、すでに何かは歪んでしまっているのかもしれない。あの夜を思い出しても、もう一人の己に逢った記憶などどこにもない。どうするのが正しいのか、わからない。少年のなにかが変われば、ここにいる己はもう、それまで生きてきた己ではなくなるのだろうか。
六年。あと六年も、少年は秘匿した罪の露見に怯えて生きることになる。父に報せた袈裟丸は密かに殺され、「彼」は父に明かされるまで、それをも知らない。女の死を、「彼」の罪を隠すため、父の手で新たな死と罪が塗り重ねられる。罪咎の代償に、彼は父の汚れた手駒になった。
――叶うなら、変えてやりたかった。
一族と出世に縛られた生き方しか知らない道。被り続けてきた泥がいつか絹に黄金に変わるとでもいうように、半ば己に信じ込ませてきた。父の役に立ち、愛されなければ、おのれの値打ちなどなく、報われなければ、何の意味もないと思っていた日々。心を寄せてくれた人々を道具のように扱い、裏切ったこと。結局は彼も父の道具で、そうやって罪を重ねて取り戻せる父の心などは初めからなかったのかもしれず、それを、どこかでわかっていたはずなのに、それでもおのれを欺き、おのれの罪に目を瞑って、生きてきた。
そういう道を、目の前にいるこの少年に、歩ませたくなかった。
けれど少年は、もう、決定的な一線を踏み越えてしまった。少年と繋がる自分の中に、その記憶はある。心に、手に、残っている。それは「彼」の、消えない咎だった。
なぜ黙っておる?
少年が声を震わせた。
なんとか言え!
彼はゆっくりと首を振った。
俺が、ここに居るのが答えだと、思うことはできぬか。
何……。
少なくとも、俺はここまで生きてきた。おまえに会えるような人間になった。
慎重に言葉を選びながらも、どこか身体の芯が頼りなくゆれているのを彼は感じていた。
――俺は、俺の言葉を信じていない。この子に何か言えるような人間などと、思うことはできない。
己は、この子が憎いのだ……とも、どこかで思った。その幼さ、心の弱さ、かつての己を許せない。きっと許すべきでないし、先だけを見ることもまた、許されないと思ってきた。悔いたとて過ぎてきた日は変えられない。変えられないことへの憎しみだ。それが、今ここに、目の前に、ある。
答えになっておらぬ。
少年は小さく吐き捨てる。
貴方まで俺に説教するのか。立派な顔をしたところで貴方もひとご――
言いかけて、自身に怯えたように表情が凍る。
襟元を掴んでいた手を放しうつむいた少年に、彼は平坦な声で言った。
虫けらの一人や二人殺したとて、どうということもない、か?
びくりと少年が顔を上げた。
……それは。
今おまえがそう思いたいなら、俺は、それを止めない。
少年を見つめながら、己はこんなに苦しげな顔をしていたのか、と思った。
この状況と立場でさえなかったら、正すべきなのだ。たぶん、殴ってでも。
それでも、彼は知っていた。「彼」が、そうやって自分を守ってきたことを。ずっと長いこと、罪を受け止められる人間では、なかったことを。
ただ諄々と正道を説かれて矯められるような心なら、はなからこんな淵で溺れはしない、と彼は思う。その陥穽に終ぞふれずに生きてゆける人間もいる。けれど、淵を生まれながらに身の奥底に抱える者もまた、いるのだ。
殴るのも正すのもあいつに託してしまうのか、と、彼はつかのま弟の顔を思い浮かべた。……いまの少年には、それこそ、話したところで信じられはしないだろうけれど。
もの問いたげな少年に、彼はひとつ、頷いてみせた。
俺から話せることはないのだ。この先を変えるようなことは言ってはならぬと思う。ただ、おまえの話を聞くことなら、できる。
私の?
私には、話すべきことなど、ない。
彼は苦い笑みを浮かべ、傾きかけた月を一瞬、降り仰いだ。
そうか。俺は、父上達によく話を聞き流されて、いやだった。
少年が身じろいだ。見開かれた瞳が、ゆれた。
俺はおまえということだから、誰も聞いておらぬと同じだろう。何を口にしたとて恥にもならぬ、ただの眠れぬ夜の独り言、とでも思えばよい。夜が明けるまででも、幾らでも。
貴方は。その。
不思議なものを見るように少年が問うた。……もしや兄上に似てこられたのか。
そうだとしたら嬉しい、とも、悔しい、とも取れるような言い方だった。
今度は彼が虚を突かれる番だった。
彼はふっと苦笑した。
落ち着いておるように見えるか?ならばよいのだが。
そういえば、兄がこうやって、傍に居てくれた夜もあったのだ。本心だったのか、打算と懐柔のつもりだったのか、今となってはもう知ることができないけれど。ずっと自分が追い付けないと思っていた兄もまた、異なるかたちで、あの家に囚われていた人だった。もっと早くに知ることができれば、分かち持つものがあれば、何か、変わったろうか。
彼の表情に何を見たのか、つたない不安を少年が口にする。兄上の話は、止したほうがよかったろうか。父上と伯父上のように、うんと仲が悪うなってしまうのか。追い落とされはせぬよな。
時めく藤原九条の血に生まれたのだから、そういったこと――他の血筋ばかりでなく、あるいはそれ以上に兄弟で相争うこと――は避けがたい、宿命のようなものだと、幼いころから「彼」は感じ取っていた。それゆえの重苦しさや、焦りが、あった。優しい兄が好きだった。嫌いになれればずっと楽だったろうに、そうなれなかった。完璧なのは兄で、期待されているのは兄で、そうでないのが己だった。疎むことすらできなかった。やり場のない思いが閉じ込められて凝っていったのだ。そうした身代わりのように、弟を憎んだ。
少年は、やおら、耐えがたいというように両腕で身を掻き抱いた。唇の色が、わるい。
奇妙に寒さの感覚がなく、すっかり失念してしまっていたけれど、いまは早春の深更だ。凍えるのはあたりまえだった。緊張がゆるんで、ようやく感覚が戻ってきたというところか。彼はあわてて少年の肩をさすった。振り解くだろうかとも思ったが、少年は黙って、されるがままになっていた。
気付かなんだ。すまぬ……寒かっただろう。
貴方は、と問い返す余裕もなさそうな表情で少年はふるえながら頷くと、襟首をちぢめて屋内に入った。
まして単衣ならとても歯の根が合わないだろうに、と訝しがられなかったのは幸いだった。己の呼気さえも、白くない。この夜が過ぎてなおそのままなら、己はどう身を処すべきなのだろう。腹の底に落ち着かぬものを抱えながら、彼は少年の細い背に目をやった。
ふだん雑色や女房に用意も始末も任せきりの炭櫃を、少年は躍起になって押したり引いたりしながら、どうにか簀子までそれを押し出す。慌ただしく室内にとって返し、奥の唐櫃をいくつかひっくり返していたが、やがて裘を二枚、抱えてきた。虫除けも兼ねて焚き染められていた香の匂いがふわりと鼻を衝く。一枚を彼に手渡し、少年もそれを肩に羽織った。炭櫃を前にして、肩を並べるように二人は坐り直す。少年が、ぎこちない手つきで火箸を取り上げ、埋火を掻き起こした。
闇に沈んだ灰の底に、紅がともってゆれはじめた。
片手で火箸を握り、もう一方の手をひろげて炎に翳しながら、長いこと少年は押し黙っていた。
パチ、と小気味よい音を立てて炭が爆ぜる。
ためらうように、時には迸るように、少年は彼に言葉を継ぎはじめた。父のこと、母のこと、兄弟のこと。
……父上の飼っている、鶏が居るだろう。尾黒と矢比古。鶏合わせで、闘って羽を散らして、餌を啄んで、眠って、また、闘って。人に見られて、闘うために闘って、それがために彼らは飼われておる。
あれを見ておると、だが、どうしようもなく苦しくなる。
少年は、口の端をかすかにゆがませた。
なにを、言うておるのだろうな。くだらぬことだろうに。文目もしらぬ子供のように……
神経質そうな線のするどい少年の横顔が、火影に淡く浮かび上がっていた。
ふと、ある光景がよぎった。いつの夏であったろう、地に落ちて砂埃と泥にまみれた羽根を彼は見下ろしていた。鋭い蹴爪を振り立て、鶏冠を捲り上げる二羽は、自らの身体から落ちたそれにまるで気付かぬように、踏み躙り続けていた。甲高い、短い鳴き声が耳を衝いたときの、あの、胸の底を擦った、そそけ立つような心地。
父のように、たのしむために鶏合わせを眺めることは、できなかった。
狭い庭に囲われ、一生を定められた闘いに明け暮れるほかない鶏たちに、知らず自らを重ねていたのだろうか。ただあの頃の己には、そのことはわからなかったのだ。まだ十七の、己には。
もう俺は十七で、と少年が唇を噛む。それというのに、官職もなく、文を交わせるような女子もなく、家中の誰にも、一人前の男と思われておらぬ。父上も母上も、いちばんに期待するのは兄上だ。早う立派になって、俺も、……俺が、父上をお支えできると、証さなければいけないのに。そればかり考えておるのに。
少年が、火箸をきつく握りこんだ。
なのに、あいつは、この家に生まれたことの覚悟のひとつも負おうとせずに、好き勝手に日を送っておる。勉学にも、武芸にも励まず、何もしておらぬくせに、あいつばかりが許される。いちばんに可愛がられる。あいつが心のままに生きておるのは許され素直と褒められて、なぜ俺はそうではないのだ。何が違う。いざ俺が心のままに気を治めようとすれば、それでまた、咎められる。ならばどうしろというのだ!?
――身分の低き者を殴って、私の気が治まれば、それでよろしいではないですか……
その声が、記憶の深いところで、弓弦のように鳴った。
そうして。……殴って、それで、気は治まるのか。
少年の、線の鋭く薄い肩がこわばった。
これは俺 の話だが、と、彼は言葉を選びながら続けた。
彼は今まで少年を遮らなかった。そうすべきかわからないまま、ただ傍で、受け止めていた。けれど、どうしても、伝えずにはいられなかった。
まるで己だけが惨めな者のように思っているとき、誰かを打ち据える。その誰かに、そうやって惨めを味わわせることができる。独りで惨めを抱え込まずに済んだと、どこかで安堵している。
だが、己の惨めは、消えなかった。そうせずにおられぬ人間という枠に、もっときつく己自身を押しこんでしまうから。惨めは酷くなるばかりで、また、誰かを殴って、蹴って……その堂々巡りは、苦しい。とても。
おまえはどうしてそうなのか、どうしてそんなことをするのか、と訊ねられるとき、誰もまことはその理由を知ろうとしてはいないのだ、ただ頭ごなしに説教したいときの空っぽの常套句なのだと、思い至ったことが、昔、あった。馬鹿馬鹿しくて、悔しくて、寂しかった。
だから、俺は、その理由こそすべて聞こうとしていたいと、今は思っている……
彼が口を閉じると、沈黙がひろがった。
握っていた火箸から手を放し、少年がぎゅっと眉根を寄せた。
わからぬ。さようなことは、今まで誰にも、言われなかった。
でも、と、引っかかったような声が溢れる。
でも俺は、惨めじゃない。……惨めになど、なるものか!
頑是ない幼子のように、少年は片膝を抱えて蹲った。
月はとうに沈み、青く冴えた暁闇が揺蕩っていた。夜明けが、静かに満ちてくる。
顔を覆い、肩で大きく息を吐きながら、少年は長いことそうしていた。
……今日の、ことを。
何もなかったように、何もかわらず時が経つのも、すべてがかわってしまうのも、まことは、怖い。
掠れた小さな声だった。そうか、と彼はただ、相槌を打った。
もうさわりたくない。刀も。弓も。俺が、このままの俺でいるのは、いやだ。
そうか。……そうだな。
父上は。
父上は、俺に、目を向けてくださるのか。
脈絡のない言葉だった。
あるいはそれは、呪いのようだった。大丈夫だ何があっても、ただ父上が目を向けて下さるなら、それを支えにして、己は生きてゆけるのだと。
それが望まぬ形で成就することを――けれどそれゆえに、「彼」の歪な誇りであったことを、彼は苦く噛み締める。
いつのことだろう、父の存在が、彼の心に杭を打ちこんだのは。杭はあるいは過誤そのものだったけれど、それに己のすべてを懸けて生きてきた。兄のようには期待されず、弟のようには愛されず、そうやって己だけのものになった「役目」を、兄弟には与えられなかった特別な父との絆だと、信じた。信じたかった。汚れ役の、泥の重みに撓んで支えきれなくなり、懸けた己という布地が薄く引き伸ばされ引き裂かれるに至ってまでも、なお、その杭に縋っていた。過誤を芯にした杭は、いつしか役目を為してきた自負に、矜持に、幾重にも塗り固められていた。それを今さら抜き去られて、ほかに何がある、どうやって生きてゆけようか。懸けたものには――賭けたものには、懸けて賭けただけの報いが与えられるはずで、そうでなければならなかった。
それでも……そうでなくなろうとも、己はその先を、生きた。
弟がいて、その向こうに、ずっと真っ直ぐ目を向けてこなかった人々がいた。幼い息子や、家司が。従者たちが。父を喪ってからの五年は、一針、一針を繕うような日々だった。
気休めと思うても思わなくても、構わぬ。
少年の裘を肩に掛け直してやりながら、彼はつぶやいた。
……遅すぎるということはない。辿り着くべきところに、辿り着ける。生きてさえ、いれば。
少年は顔を上げた。彼と目が合った。
その眼差しに息を呑み、何か言おうとしては、やめ、やがて唇を引き結んで、頷いた。
ひとすじの曙光が、少年の頬に射す。眩しかった。彼は目を細めた。――弟や従者を打たなくなった境目は、この夜だった。
ふいに、少年が声にならない叫びを上げた。彼の腕を取って、引き寄せようとする。
彼のてのひらが透けていた。その向こうの景色が半透明にみえている。てのひらだけでない、驚いて見下ろした身体のすべてがそうだった。叩かれたような衝撃が胸に走った。けれど、どこか、己はそれを予感していたようにも思った。
なぜ……!?
少年は、なおも懸命に、彼の肩を掴もうとする。だがその指は、あえなく何もない宙をすり抜けていった。ただひとつ形をとどめていた裘が簀子に滑り落ちる。
もののけではないと申したではないか。そなた偽ったのか……!?
彼の身体が、その輪郭が、陽炎のように揺らめいて、薄れていく。
彼は咄嗟に腕を伸ばした。少年を抱き締めた。
もう、触れられないはずなのに、温かかった。
温度を感じないこの身体で、少年のぬくもりだけが、彼の魂にじかに伝わってくる。
少年の身体がふるえている。泣いている。嗚咽を懸命に押し殺して、ただ涙を流している。
光と風に溶けて、己が消えていく。
それと同時に、なぜ、己がここにいたのか、立ち戻るように彼はさとった。
――この一夜は。
俺の、未練だったのだ。
悔いのない生涯など、きっと、ないのだろう。それでも、ここまで抱えてきたそれの、重さをずっと思っていた。息子として、父として、夫として、弟として、兄として、とうとう俺は不出来であった。……否、それよりさきに、俺というひとりの人間としての、歪。
為政者としてではなく、顧みれば己の在りようばかりになってしまうのは、それ自体が俺の幼さであったかもしれない。懐かしいと呼ぶにはあまりにも苦く、顔を背けたいほど幼かった己の、かつての日々。罪を犯す前には戻れないと痛いほど知っていて、取り返せぬものばかりがあって、それでも、どうにかしてやれたらと、思わずにはいられなかった。
だから、命が尽きるそのときに、俺はこの夜を冀ってしまったのだろう。
過去はおまえに追い縋る。
生きてさえいればと、おまえに言った。それは、俺が心から思っていることで、けれどそう思うたび、あの女は生きられなかったのに、辿り着くべき場所をおまえが奪ったのにと、囁く声がある。逃れることはできないと、誰より己が、知っていた。
その罪には、その罪にだけは、父のため家のためという言い訳などひとつもできなかった。どこまでも己だけの過誤であることに、いくたびも、半ば呆然として、立ち竦んで、あの刹那をまざまざと思い出しそうになっては、堪え難さに記憶の淵に沈め去ろうとした。
あの女にも家族があった。従者があった。何かの形で必ず償いをせねばならない。弟に訊ねなければ、調べさせるべきなのだ。そう思いながらも、一日一日と決心を延べ続けた。それは俺の、怯懦であったと思う。
関白として良きまつりごとを行おうとしたのは、罪滅ぼしのためではない。虫のよいことを望みはしない。それこそが己のすべきことだと、思い定めたからだった。消えぬすべての過去を負うてなお、歩んでゆける覚悟ができたのだ。だから、今なら。たしかに初めて、そう思えたのだ。それが、何も始めることすらできず終わると悟ったとき……罪だけを残して死んでいく己を思ったとき、凄まじい虚しさが骨身を貫いた。
人の、どれほどの思いにも、死は斟酌しない。ただこればかりが俺の、すべてなのだ。
浄土にはゆけないと、ずっと思っていた。神が、仏が許しても、己がそれをゆるせない、とも。けれど、その悔いや自責さえ、殺したあの女や死なせた袈裟や、騙した花山の院や害した円融の院、利用した陪膳の女房に寄せる思いであるよりも、先立つのは、有り得たかもしれぬ己に対する悔いなのかもしれなかった。
死にたくなかった。死ねばきっと救われることはない。眼前に突き付けられた恐怖に喘ぎ、浄土に縋ろうとする己の、なんと浅ましかったか。
父に拒まれ、父を、それまでのすべてを失って、生に未練などなかったあのとき、なおも空腹を訴える身体が、疎ましかった。身体も心に大人しく従って、何も感じず死んでゆけたらよいのにと、思っていた。ままならぬものだ。いまはどうしようもなく死ぬのがこわかった。生のほうへと手を伸ばさずにはおられぬ心に、けれど身体はもう、応えられなかった……
最後まで傍にいたのは、弟だった。
流れ出ていく生命をとどめることも、苦痛を和らげることも、砂粒のように身の裡が崩れ去っていくような、あの凄まじい虚しさを埋めることも、もはや誰にもできはしなかった。弟を政争の矢面に放り出して、何も返せないまま逝くことが居た堪れなかった。心残りばかりがあった。それでも、俺を掻き抱いてくれた腕の温もりは、あの刹那に己を繋ぎ止めた碇で、灯で、それはきっとどんな浄土よりも美しい、なにかだったのだと思う。
――それだけでよかった。充分だと思った。
もし、今、たったひとつおまえに残していけるものがあるなら、きっとその温もりだった。
鼓動がきこえる。これは俺のものだろうか。いいや生きているおまえのものだろうか。
おまえはこの夜のことを忘れる。俺と話したことを忘れる。俺のことを忘れる。
けれど、おまえを抱き締めた誰かが、温度が、祈りが、確かにここにあったことは、消えはしない。夢でも現でも構わない。
どうか、巡り来るその日まで、おまえがおまえを生きられるように。
やがて俺になるおまえの、その、道を。