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    連理の契りを君と知る episode4「思いは時を越えて」


    「これからしばらく、会いに来られません」

     突然告げられた言葉に、椿月はその大きな目を何度かまたたかせた。

     つい最近訪れたはずの秋はあっという間に夕刻を短くし、早くも劇場の外灯を灯らせている。

     宵闇の中、きらびやかに染め上げられた劇場。夜公演を待つ楽屋の、ある一室。

     端的にそれだけ伝えた誠一郎に、椿月が戸惑いながら尋ねる。

    「ええと……何かあるの?」

    「はい。ちょっと所用で」

     彼がそれ以上のことは口にしなかったので、椿月の中にはえも言われぬ心地の悪さが残った。


     勉学を想起させるような銀縁の丸眼鏡。着られればなんでもよいとばかりに年季の入った着物の中に立ち襟をのぞかせ、着古されたようなくすんだ色合いの袴をまとったこの男。名は深沢誠一郎(フカサワ セイイチロウ)と言った。

     普通の男より頭ひとつ高い長身であるし、その体躯も細すぎるわけでも太すぎるわけでもない。それなのに、彼は今ひとつ洗練されない野暮ったい雰囲気をまとっていた。

     きっとそれは服装や顔立ち云々(うんぬん)のせいだけでなく、これまで長いこと見てくれをまったく気にせず生きてきた結果なのだろう。

     駆け出しの小説家である彼は、弟子時代に巻き込まれたある事件をきっかけに、この目の前に立つ若手舞台女優・椿月(ツバキ)と知り合った。

     主に妖(なまめか)しい悪女の役として劇場で活躍する椿月。形の良い唇を艶めくように濃い口紅が彩り、胸元には大ぶりの宝石のあしらわれたネックレス。悪趣味なまでに主張が激しい。

     まとう細身のドレスは女の曲線を大胆にえがき出し、体の隆起をなぞるように生じるドレープには妖艶さが宿る。

     栗色の髪を顎のラインの辺りで挑戦的に短く整えており、切り揃えられた前髪のおかげで瞳の印象がより一層強く感じられる。

     細い鎖骨に、ドレスから伸びるしなやかな腕。輝くような白い肌を惜しげもなくさらしていた。

     ただ、この派手な姿は舞台に出るときのそれであって、本来の彼女とは全く異なるものであった。

     化粧を落とし、舞台用のかつらを外し、髪にリボンを結んでいつもの落ち着いた袴姿になれば、年相応の清純な娘の姿に戻る。

     少女と呼ぶには大人びていて、女と呼ぶにはまだあどけない彼女。

     普通の娘のようでいて、近くをすれ違うと思わず振り返ってしまうような可憐さを持っていた。

     しかしながら、彼女のこの本当の姿を知る者はほんのわずか。そしてそのわずか数人の中に、誠一郎も入っていた。

     これまで二人はどちらからともなく定期的に出かける約束を重ね、親交を深めてきた。最近では月に数度、誠一郎が観劇のためでなく彼女に会うために劇場を訪ね、二人のささやかな時間を共有している。

     しかし、二人は恋人関係というわけではない。傍目にはそう見えているとしても、本人たちにその意識はなかった。

     誠一郎は、自分が彼女に惹かれていることを自覚している。

     彼女と居るとわけもなく気持ちが高まるし、一緒にいる時間がもっと長く続けばいいのに、と常々思う。彼女に合わせて変わっていく自分の思考、行動。会っていない時も彼女のことが思考を占めるようになってようやく、このどうにも持て余す気持ちが彼女への恋愛感情なのだと理解した。

     一人前の男としてはかなり遅い初恋。しかもその相手は、冴えない見た目の駆け出しの作家には非常に分不相応な人だった。

     彼もこれまで、その事について何も考えて来なかったわけではない。

     誠一郎が心の中である考えを固めた頃に、ちょうど“ある話”が舞い込んできた。




     それは、一週間ほど前のこと。

     椿月を訪ねて昼下がりの劇場にやって来た誠一郎を、珍しくこの劇場の館長が呼び止めた。

    「深沢くん。ちょっといいかな」

     ライオンのたてがみを彷彿(ほうふつ)とさせるような髪型に、優しい性格を表すようにいつも穏やかな表情をたたえている館長。大柄な体はその立場ゆえ、かっちりしたスーツやタキシードに包ませていることが多い。

     今までこの劇場に関連するいくつかの問題を解決する手助けをしてくれた恩人として、館長は誠一郎にすっかり気を許している。

     一般客の一人でしかないはずの誠一郎がこうしてたびたび椿月の許(もと)に会いに行かせてもらえるのも、館長の裁量がかなり影響しているはずである。

     ちょうどそのくらいの年齢差ということもあり、館長は椿月のことを娘のように思っているようだ。それに椿月も館長に対し、父のように心を許しているように見える。

    「来たばかりのところ申し訳ないね。実はちょうどお客さんが来ていて。ちょっと深沢くんに聞いてもらいたい話があるんだけど……」

     そんな、劇場での椿月の父のような存在である館長の頼みを断るわけがなく。誠一郎はそのまま館長室に招かれることになった。

     先客は館長室内に設けられた応接間のソファに腰掛けていた。誠一郎の姿を確認すると、立ち上がって会釈をした。反射的に誠一郎も頭を下げる。

    「はじめまして。私が館長さんに頼んで、あなたを呼んでもらいました」

     顔を上げて改めて観察するその人物は、まったく見覚えのない小柄な老人だった。細められた目は、穏やかそうな人柄を物語っている。

     推定される年齢の割りに豊かな毛髪は、すべて真っ白で後ろになでつけられている。身なりも、ズボンや紐タイ、チョッキなど服自体はさほど高いものではなさそうだが、きちんと整えられ清潔感がある。隠居している同年代も多いだろうに、彼は腰は大分曲がり始めているものの、しっかりとした現役の雰囲気をかもし出していた。

     誠一郎は自分の人を覚える記憶力はかなり悪い方だという自覚があるが、「はじめまして」という相手の言葉からするに、本当に初対面なのだろう。同じように挨拶を返した。

     互いにソファに座って相対すると、小柄な老人は「小峰(コミネ)と言います」と名乗った。

    「突然の話で申し訳ないのですが、あなたに依頼したい仕事があります」

     初対面の人間に名指しで仕事を依頼されるようなことなどまったく心当たりがない。誠一郎は黙って話を聴いた。

    「私はここから少し離れた町にある、とある大きなお屋敷で住み込みで働かせてもらっています。そのお屋敷の旦那様の趣味が骨董品集めでして。お屋敷の部屋の一部を一般に開放して、旦那様自慢の収集品を飾った小さな美術展のようなものをやっているのです。私は多少古い物に目が利きますゆえ、その展示室の管理を任されております」

     話を聴きながら誠一郎は、骨董品集めだとか、収集品を展示とか、屋敷の一部を開放だとか、桁違いの金持ちの家の話がどう考えても自分に結びつかないと思っていた。

    「このたび、旦那様のご意向で本邸だけでなく離れにも展示室を設けるということになりまして。その新設する展示室の手配などで、私が本邸の展示室にいられない時間がかなりできてしまいます。高価な品物もありますので、開放中さすがにそこを無人にするわけにはいかず、旦那様は『必ず誰かしら人を置くこと』とおっしゃっていまして。それで、そこを見ていてくれる人を探しておりました」

     何となく話は見えてきたが、腑に落ちない点は多々ある。

     誠一郎は口を開いた。

    「そのような大きなお屋敷の方がおっしゃる“高価な品物”ということは、本当にかなりの値がするものですよね。そうなると、“見ていてくれる人”というよりほとんど“警備する人”に近いのでは? そういった専門の方に依頼するのが一番だと思うのですが」

     彼の意見に、小峰は「いやいや……」と首を横に振る。

    「たしかに一部かなり高価な品物もありますが、本当に大したことではないのですよ。展示室とは言っても、一日の来客数が片手で収まることがほとんどの寂れたものです。普段など、この年寄りが一人でぼうっと座っているだけなのですよ。言葉は悪いかもしれませんが、展示室が無人にならないよう形ばかり誰かが居てくれたら良いというだけなのです」

     小峰はさらに言葉を重ねるが、今度は少し声量が落とされる。

    「それに、専門の警備の方をお呼びできるような予算は旦那様からいただいておりませんので……。一般の方でどうにか、頭の切れそうな人に来てもらえないかということで……」

     ばつが悪いのかハンカチで頬や額を拭いながらそう話す小峰。

     要するに、屋敷の主人の考えとしては、ほとんど盗まれたりする危険性はほとんど無いだろうから余計なお金は掛けたくない。けれど、無人にするのは怖い。万が一何かが起こったときの損失が大きすぎる。一般人で何とか対応してもらえないか。できれば見張りに向いていそうな人で、ということなのだろう。

     誠一郎は頭の中でそう整理した。

     しかし、一番の疑問が残る。

    「それで、なぜ僕なのですか?」

     小峰は糸のように細い目を出来るだけ開くようにして、誠一郎の目を見つめた。

    「はい。実は私、この町には縁あってわりと頻繁(ひんぱん)に訪れておりまして。以前に訪れた際、この劇場でのある騒動を目撃しました。あなたが警察の方相手に毅然とした態度で立ち向かい、優れた観察力で少女の冤罪を晴らした一件です」

     “毅然と立ち向かう”“優れた観察力”などと言い飾れるような立派なものではまったくなかったはずなのだが。だいぶ美化されているようだ、と誠一郎は思う。

     あの一件のことは誠一郎もよく覚えている。傍目にはあまりばれていなかったようだが、忘れようがないくらい緊張していた。口がカラカラに渇き、ともすればその場に倒れこんでいたと思う。後先考えず椿月と少女のためにと、がむしゃらに起こした行動だった。むしろ、そのくらいの勢いがなければあんなことはできなかっただろう。

    「今回旦那様に言われて人を探すことになったとき、あなたのことをすぐに思い出しました。以前に少々縁があり面識のあった館長さんに頼んで、あなたのことを紹介してもらったのです」

     誠一郎は、小峰があの時の自分を期待して雇いたいと言っているのなら、大いに落胆させてしまう可能性があると説明した。

    「僕はぜんぜん頭が切れるような人ではないですし、あの時のあれはまぐれと言うか……本当に珍しいことだったんです」

     それでも小峰は折れない。

    「先ほども申し上げましたが、本当にそんな重圧を感じるような仕事ではないのですよ。それに、あなた以外にもう一人来てくれる方が居るんです。その方はまあ一応、警備関係は専門というかなんというか……」

     肝心のもう一人の人物に関する説明で言葉尻を濁したのが気になったが、それよりも、誠一郎はその後に提示された数字に目を見開くこととなった。

    「お屋敷のある場所はこの町からはだいぶ距離があって通っていただくことが難しいので、期間中は客間の一つに泊ってもらうことになります。その間の食事等は全て提供します。あと、館長さんから少しうかがいましたがお仕事は文筆業をされているそうで。仕事がない時は執筆作業をしていただいていて構いません。それで、期間中の謝礼は合計このくらいの金額でいかがでしょうか……?」

     先ほど小峰は「専門の方が呼べるほどの予算はもらっていない」と言っていたが、そういったことに詳しくない誠一郎からすると、十分すぎるのではないかと思えてしまう金額だった。

     文字通り、金に釣られて心を動かされているわけなのだが。

     誠一郎は考える。ただいつものように家にこもって小説を書いていても、この金額は発生しない。この仕事を引き受けることで、これだけの金額が手に入ったなら。

     しかし、自分に警備の真似事のようなことができるのか。もし何かあったりしたら責任を取ることができるのか。いや、でも小峰はそんなに重圧を感じるような仕事ではないと言っているし。

     誠一郎がこれだけ悩むのには理由があった。

     今までの自分なら、「そういうことは僕にはできないと思います」と、いくら良い金額を提示されてもすっぱりと断っていただろう。

     しかし今の誠一郎には、心の中で決意していたことがあった。

     椿月に何か贈り物をして、正式に交際を申し込みたい。

     今のつかず離れずの二人の関係が、いつまで続いてくれるのか。自分では収めようのない不安が、ここ最近彼の心を静かに侵食していた。

     見た目も中身も、地位も財産も、人より優れたところなどひとつも見当たらない。何ひとつ魅力などないのに、会って話してくれるのはなぜなんだろう。そんなことを考えはじめていた。

     今の状況が、あの初めて会った日に彼女が興味本位で声をかけてくれたような気まぐれによってもたらされているとして、その彼女の気まぐれが終わってしまったらどうしよう。

     付きまとう不安を消したくて。非常に不釣り合いな自分ではあるが、それでも、彼女とのつながりを確かなものにしたかった。

     今まで恋愛経験など片思いすら皆無、色恋の話に混ざったことさえない彼にとって、交際を申し込むことなど空想の世界の話とほぼ同じだった。

     想いを寄せる女性に何を贈ったらいいかなどまったく想像がつかない。

     だが、女優という椿月の立場、小耳に挟む俳優の私生活の水準、劣っている自分、それらをいろいろと考慮すると、かなり高価なものを贈らなくては釣り合いが取れないのだろうなとは考えていた。

     そうなると、結構なお金が必要になるわけで。

     だからこそ誠一郎はこの小峰の仕事の依頼を、畑違いだからとすっぱり断れずにいた。


     結局その後、そこからさらに細かい話を聞いたあと、誠一郎はこの依頼を引き受けることを決めたのだった。

     何よりも高額の報酬に惹かれてということは言うまでもない。




     そして冒頭の会話に繋がるわけなのだが。

     誠一郎は椿月に、この仕事を引き受けた話を一切しなかった。

     もしかしたら何かを感づかれてしまいそうな気がしたのと、あとは単純に何となく気恥ずかしさがあった。

     誠一郎は楽屋を後にする前に、椿月にさりげなくこう尋ねた。

    「ところで……椿月さんは今、何か欲しいものや好きなものはありますか?」

     何の脈絡もない突然の質問に、椿月はきょとんとした表情で不思議そうに首をかしげるだけ。

     だが、そこで「ああ」とピンと来ていた人物が一人だけいた。

     ここは椿月の楽屋だが、自分も誠一郎と話したいからと押しかけてきた神矢が、少し離れたところで新聞を読んでいた。

     女性を中心に人気の美形俳優・神矢辰巳(カミヤ タツミ)。

     スラリと伸びた長い脚をテーラーメイドのスラックスで包み、糊の利いた白い襟付きのシャツに胸元のスカーフのえんじ色が映える。

     ゆるいウエーブをえがく髪は、男の体格に似つかわしくない繊細なイメージを与えさせる。涼しげな垂れ目がちの目元はつり気味の眉がきりりと締め、日本人離れした高めの鼻梁はすっと通っている。

     まだ若手と分類される経歴ながら、主役を務めることも多い彼。それは彼の演技の実力もさることながら、圧倒的に優れた容姿が物を言っていることもまた間違いなかった。

     年齢的に神矢は誠一郎と同じくらいなので、椿月は年下にあたる。だが、ほぼ同じくらいの時期からこの劇場に所属するようになったいわば同期のような関係にあたるため、神矢と椿月の関係はかなり砕けたものだった。

     誠一郎とは、椿月を通じて知り合ったばかりの頃は微妙な距離感だったものの、最近ではよく家を訪ねたり、本の貸し借りをするような関係だ。

     そして今や、椿月と誠一郎の手探りの歩み寄りを一番近くで見せられている人、と言って間違いないだろう。

     少し離れてやり取りを見守っていた神矢は、今までの誠一郎の言葉から、彼が椿月に贈り物か何かをするためにどこかへ働きにいくのではないかと、ほぼ正解の推測を導き出していた。

    「特になければ、別にいいんです。忘れてください」

     誠一郎はつば付きの帽子をかぶり直す。

     「それでは」と夜公演の準備の邪魔にならないよう早めに楽屋を去った誠一郎の背を、何も訊けないままの椿月が数歩、名残惜しむように追いかける。

     神矢は心の中でため息をつく。あーあ、あんな顔させちゃって、と。

     せめて何のためにどこでどうするのかくらい言ってやればいいのに、と神矢は思う。

     今の妖艶な悪女の姿にはとても似つかわしくない、寂しさと不安が入り混じった椿月の顔。

     その瞳は、去っていく誠一郎の姿を見えなくなるまで見つめ続けていた。







     誠一郎は広い部屋で一人、分厚い本を読んでいた。

     一般的に人が想像する部屋のおよそ五倍の広さを持ち、その高い天井を見上げるためには垂直方向にあごを上げなければならない。

     もはや部屋と言って良いのか分からないが、それ以外に適切な表現が見当たらないので彼はとりあえずここを部屋と呼んでいる。

     深紅のじゅうたんが敷き詰められた広い部屋。

     その部屋の中にあるものは、彼が座って読書をしている簡単な机と椅子以外だと、いくつもの石製の円柱状の台座と、その上に一つずつ載る壷(つぼ)の数々だった。

     調度品や壁の飾りなど無駄なものは他に一切なく、純粋に台座の上に置かれたものが一番目立つような配置。

     ここは、誠一郎の一時的な仕事場となっている、ある大きな屋敷の中の展示室だった。

     展示室だけでもこの広さ。さらにここを一般に開放する余裕があるくらいなので、屋敷全体の広さは相当なものだ。広さだけが取り柄の彼のボロ屋も完敗だった。

     はめ殺しのガラス窓はさほど厚いわけでもないのに、その構造のためか音をほとんど遮断し、静かすぎるほどに静かだった。ページをめくる音が室内に響いているような気がする。

     こんなにも静かである理由は窓以外にもある。彼以外の人がいないのだ。

     事前に言われていたように、本当に客が来ない。片手でおさまるほどの数の客、と言うのも今となっては見栄だったのではないかと思うくらい、誰も来ない日もあった。

     別に入場料や見物料などを取っているわけではない。儲けようとか何か採算を取ろうとしているわけではなく、言ってしまえば本当にただの道楽の展示だった。自分の自慢の収集物を飾っておきたい、出来れば誰かに見てもらえたら、ということなのだろう。

     室内の配置、展示物の管理・手入れまで、ここの管理を一任されている小峰が、初めにいろいろと説明してくれた。

     展示物は題を決めて定期的に入れ替えていて、今は「壷」にしているのだという。中でも抜きん出て高価なものを三つほど教えてもらったが、素人目には何が何だかさっぱり分からなかった。小峰いわく、実はこの三つ以外は金銭的な価値はさほどないのだという。でも、これは個人的な考えだけれどと前置きされた上で、古い品物の価値というのはお金ではかられるものが全てではない、ということも教えてくれた。

     初めは何かあったらどうしようと緊張していたのだが、その緊張感も一日目ですっかり溶解した。何せ、人がほとんど来ないのだから。

     動かない室内の風景、はめ殺しの窓で風もない。無性に動くものが恋しくなって、窓から広がる見通しの良い中庭を眺め、色づき始めた木々の揺れ動く葉などをぼうっと見つめたりもする。

     別に本を読んでくれていても良いということだったのだが、あまりの退屈さに持ってきた数冊はあっという間に二周三周読みきり、現在はこの屋敷の本を借りていた。


     彼の住む町から車でおよそ1時間走り続けてたどり着いた、流行の洋風建築を導入した和洋折衷の屋敷。玄関には立派な車寄せがあり、外壁は細長い板をいくつも縦に重ねた下見板張り。見上げるとガラス張りの塔屋があった。屋敷内の壁には部屋にも廊下にも腰壁があり、ちらりとのぞいた応接間には石膏飾りが天井に貼り付けられていた。一番長い廊下なんて、短距離走を行えそうなくらいだ。

     これが本当に個人の邸宅なのかと疑いたくなるくらいの豪華な屋敷。こんな屋敷を持つことができる人とは、一体どんな職業の人なのだろう。

     誠一郎は、歩き回るような仕事だったら迷子になりそうだと思ったが、基本的にこの展示室とあてがわれた客間、住み込みの手伝いの者たち用の食堂や洗面所くらいにしか用がなかったので助かった。


     出来事が何もなさ過ぎるということにさえ納得できれば、なんら問題のない仕事だった。こんなことで報酬をもらってしまっては申し訳ないと感じるくらい。

     ただ、一つだけ。面倒なことはあった。

    「交代しに来てやったぞ。根暗クン」

     偉そうな、馬鹿にするような言葉が部屋に響いた。

     展示室に入ってきたのは一人の男。ハンチングをかぶり、サスペンダーで吊った動きやすそうな洋風のパンツ姿でまとめている。

     整髪油でしっかりなでつけられた七三分けの短髪からは育ちの良さを感じさせる。でも、口元には人を小馬鹿にするような嫌味な微笑が絶えず湛(たた)えられていた。

     小峰が「一応、もう一人来てくださる方がいらっしゃいます」と言っていた人。その名を望月(モチヅキ)と言った。

     この男、齢(よわい)は一応誠一郎の二つ三つほど下に当たるらしいが、誰に対してもかなり上から来る性格だった。

     望月とはどうにも馬が合わなかった。

     それは初対面の時から感じていた。何せ初めに言われた言葉が、

    「なんだ。劇場関連での知り合いが来るっていうから、多少は見た目のいいのが来るのかと期待してたのに。パッとしない奴だな」

     だったのだ。しかも、なんの悪気も無さそうに。

     劇場関係での知り合いという説明は一応間違ってはいないのだが、誠一郎は劇場関係者などではない。それに、劇場関係者全員が主役級の役者のように見目麗しいというわけでは全くない。

    「ま。ここよりちょっと栄えたくらいの町の劇場なんて、案外大したことないんだな」

     そう言う望月は、どうやら自分の見た目を非常に高評価しているらしく、振る舞いがどうにもきざったらしい。しかも、悲しいかなそれはあまり様(さま)になっていない。

     望月が本当に格好いいのかどうなのかと問われたら、誠一郎には何とも言いがたい。身なりは高級品で完璧に整えているし、自信にあふれて堂々とはしている。でも、もし彼の目の前に、劇場で主役を張る美形俳優の神矢を連れてきたのなら、きっと裸足で逃げ出すだろうと思う。

     初対面の人間にここまで言えるのもなかなかすごいことだが、望月のすごさは止まらない。

    「見るからに貧乏人の顔をしている君は金目当てでこの仕事を引き受けたんだろうけど、僕は使命感からだからね。金は二の次だ。一緒にしないでくれたまえよ」

     浸るような笑みを浮かべてそう言い切る彼は、小峰の話によると「一応、警備関係の方」らしい。望月に関する説明には必ず“一応”という言葉が付くのが気になるところだ。

     そもそも今回の場合、“警備の仕事”などと言えるようなものでは全くないので、使命感に燃えるようなことは特にない。盗難に備えて気を張り詰めさせる仕事というより、日に日に過ぎる時間のことを考えないようにするのが得意になる仕事と言ったほうが良い。正直、仕事と称していいのかすら怪しい。

     さらには、誠一郎は自分が駆け出しの作家であることは黙っていてほしいと小峰に頼んだのだが、結果的になぜか無職という設定になってしまい、その件に関してもとても下に見られている。

    「君ねぇ。ただでさえもさっとした容姿と暗~い性格なんだから、せめて仕事くらいはしっかりやらないと。まぁ恋愛と違って仕事は、ダサかろうが暗かろうが出来るよ。頑張って、眼鏡クン」

     励まされているのか、けなされているのか。

     小峰やその他の周りの手伝いの人々は、立場上どうやら望月の横柄な発言をとがめることができないようで、あいまいな苦笑いを浮かべるばかりだった。一体どうしてこんな人を雇うということになったのだろう。

     展示室の開場時間を昼過ぎあたりで区切り、もっぱら午前の時間を誠一郎が、午後の時間を望月が見ることになっている。別に、人と分担するような仕事ではないのだけれど。

     よく分からない使命感に燃えている望月は、「僕に万が一のことは無いけれど、君の担当の時に何かあったら君だけの責任だからな!」と念押ししてくる。

     彼と顔を合わせるのは交代の時や、食事をとる時くらいなのだが、合うたびに何かしらズバズバと言ってくる。

     今日もまた、交代に際して、望月に上からものを言われるのだった。

    「まーたそんな分厚い本を読んで。さらに目が悪くなって、今にビンの底みたいなレンズをつけないといけなくなるぞ。そうしたら今よりもっと見てくれが悪くなるな。ハッハッハ」

     返事代わりに会釈だけして部屋を出て行く誠一郎に、

    「相変わらず陰気だなぁ」

     と、望月は言葉をこぼした。





     展示室を出た誠一郎は一人、立派な寄木張りの廊下を歩きながら考えていた。

     望月の言うことはけして間違ってはいないのだ。自分はパッとしないし、暗いし、見た目だって良くない。自分でも分かっていることだ。

     ただ、時に、事実をそのまま口にすることは人を不快な気持ちにさせる。

     ここに来てからというもの、望月の言葉で客観的な自分の評価を毎日毎日再確認させられている。

     自明なことを言われてそれに怒るのも何となくみじめな気がするので、とりあえず全て受け流してはいるのだが。受け流していたら受け流していたで、日に日に望月の口撃が増長している気もする。

     まあ、これから一生付き合い続ける相手ではないし。誠一郎はそう思うようにして、望月の存在や言葉になるべく心の焦点を合わせないよう努めていた。

     それでもやはり、こうして自分の現実をたびたび突きつけられると、椿月がこんな自分を選んでくれる可能性の低さを改めて実感してしまう。

     沈みはじめた思考。誠一郎は強引に舵を切る。

     そういえば。今まで女性に贈り物などしたことがないが、一体どういったものを選べばよいのだろうか。

     数少ない知人・友人の中でこういった相談ができそうな相手といえば神矢が思いつくが、彼はあまりに椿月に近い。それに、庶民の金銭感覚とはかけ離れた提案をされかねない。

     そんなことを考えながら、自分の客間に行くため階段を上っていく。

     すると、踊り場の壁をへこませて作られたささやかな空間に、何かキラリと光るものが飾られていることに気が付いた。

     今朝まではたしか古そうな扇子が飾られていたので、恐らくここも定期的に飾るものを入れ替えているのだろう。

     そう思って誠一郎が見つめた先には、金細工のほどこされたかんざしが飾られていた。きっと相当に古いものだとは思われるが、古さを気にさせない気品と高級感があった。

    「精巧でしょう。先ほど私が飾ったのです」

     突然かけられた声に階上を見上げると、小峰の姿があった。手すりをしっかりつかんで、一段ずつゆっくり階段を下りてくる。

    「展示室の方はどうですか? たまに顔を出そうとは思っているのですが、離れの新しい展示室の準備にかかりきりになってしまって……」

     踊り場まで下りてきた小峰の問いかけに、誠一郎は簡潔に答える。

    「特に問題ありません」

     仮に文句を言うなら、退屈すぎることくらいだ。

     すると小峰は唐突に声を落として、言いにくそうにこう詫びた。

    「あと、その……望月さんのこと。いろいろとご迷惑おかけしてすみません……」

     望月は誰に対しても上から偉そうに言ってくるが、今やその横柄な発言を誠一郎が一手に引き受ける形になっている。良くも悪くも何も反応しないので、言いやすいのだろう。

     小峰や他の手伝いの者たちが表立って望月を注意することができない事情がある様子なのは、誠一郎もなんとなく察していた。

     だからかこうして、本人が居ない時に謝られることが何度かあった。

     なぜ彼のような人を雇うことになったのかは心底疑問ではあるが、小峰たちが詫びるようなことではない。

     誠一郎はそれらの考えを上手く説明できる気がしなかったので、目の前のかんざしに話題を移すことにした。

    「……こういったものも、骨董品として飾ることがあるんですね」

     すると、古いものに目が利く小峰が、素人にも分かりやすいように砕いて説明してくれる。

    「ええ。かんざしはその細工や意匠、材質などによってとても高価なものもあって、こういうものは観賞用としても価値があるんなんですよ。これはきれいに保管されている方ですが、結構古いものなんですよ」

     誠一郎は改めてかんざしを見つめた。

     どのように作ったのか想像もつかないほど繊細な模様をえがく金細工は、立体的な蝶と花をかたどり、所々に光る小さな石がちりばめられている。たしかに鑑賞に堪えうるものだ。

     それにこういうものは、どのような人によってどういう気持ちで作られたのか、どのような人がどういう気持ちで贈り、どういう人がどういう気持ちで受け取ったのか、そして使っていたのか。この品物に関わった人々の思いに気持ちを馳せさせてくれるような気がする。

     そう考えると、使い込まれた年季やキズも、過ぎた時間を語る錆も、それも込みで見ていられる。

     誠一郎は、古いものを大事にそばに置いておきたい人の気持ちが少し分かった気がした。

     不意に、小峰が解説を足す。

    「そうそう。昔は女性にかんざしを送ることが、求婚の意になっていたそうですよ」

     その言葉に、誠一郎は思わず動揺してしまう。反射的に何を想像したのかは説明するまでもない。

     それを悟られたのか、「ふふ」と優しげに笑われた。

    「若いということは素晴らしいですね」

     小峰が漏らした言葉に、誠一郎は頬をほのかに紅潮させたまま、なんと返してよいか分からなかった。

     





     秋の長雨が、宵闇の劇場を包んでいた。

     細く開けられた窓から流れ込む生ぬるい湿気の中に、たしかな秋の肌寒さが感じられる。

     いつもの派手な化粧とタイトなドレスに身を包んだ椿月は、頬杖をついて窓の外を塗り潰す黒をながめていた。黒の中に薄ぼんやりと、雨ににじむ街灯の連なる姿がある。

     ゴブラン織りが張られたアンティークデザインの椅子に腰掛けた、非常に絵になるその姿。

     その横顔には憂いが翳(かげ)っている。それもまた絵になる理由の一つと白状してしまっては、本人に眉をひそめられるかもしれない。

     読んでいた雑誌から顔を上げ、彼女をちらりと横目に見た神矢はそう思った。

     ここは神矢の楽屋。夜公演を控える椿月が、珍しく彼の楽屋を訪ねてきたのだった。

     誠一郎が姿を見せなくなってから半月が経った。

     しばらく会いに来られなくなるということは伝えられていたが、具体的な期間と、肝心の内容をはっきり告げられていないせいで、椿月は様々な悪い想像に心を乱されていた。

     神矢の楽屋に来たのも、別に彼と話したかったというより、誰かと話すことで制御できない自動思考を止めたかったからだと思われる。

    「誰か、他の女の子のところに行っちゃったりしてるのかな……」

     椿月が誰にともなくつぶやいた一言。

     神矢は心の中で「んなわけないだろ」と瞬時につっこむ。あの一途で誠実な誠一郎に限っては、天地がひっくり返ってもそんなことはないと明言できる。

     「センセーは多分、椿月に何か贈り物をしたくて仕事でもしにいってるんだと思うよ」と椿月に教えてしまっても良かったのだけれど、どうにも誠一郎はその目論見を黙っていてほしそうで。

     神矢は同性の肩を持って何も言わないままだった。男として、誠一郎の気持ちは分かるつもりだ。

     恋愛経験に乏しくお堅い彼のことだから、きっと何か物を贈り交際を申し込むというような、もはや何時代の文化か分からないようなことを真剣に考えているのだろう。神矢はこれまでの誠一郎との付き合いから、そんなことまで見通していた。

     でも、それで好きな女を不安にさせたら意味がないだろう、とも思う。その不器用さも誠一郎らしさだとは思うのだが、そうだとしても。

     そもそも“交際を申し込む”だなんて、そんな形式ばったことに何の意味があるのだろう。二人が想いあっていることはもう、傍(はた)から見ても間違いないのに。

     というか、付き合うとは一体何なのだろう。互いが好き合っていると確認すること? 他の人とはデートをしないと約束させること? そんな約束なんてしなくても、二人は既にそうではないか。

     口に出せない分、脳内でいろいろ考えてしまう神矢。自分の思考がまるで誠一郎の小説の文章のようになってきたな、と気づく。

     ずっと伏し目がちの椿月が、しばらくぶりに口を開いた。

    「ねえ。……“しばらく”ってどのくらいだと思う?」

     いじらしい問いかけだった。

     誰かを想う横顔は、思わず横取りしたくなってしまうような危険な魅力を持っている。

     以前の自分なら見境なく動いていたかもしれないが、さすがに友人となった人の想い人に本気で迫るわけにはいかない。

     揺れてしまう自分の気持ちをごまかすように、神矢は話を逸らす。

    「……そういやセンセー、椿月に『欲しいものはないか』って訊いてただろ。もしかしたら近々何かくれるのかもしれないぞ。椿月もセンセーに何かあげてみたらどうだ?」

     思わぬ提案に、椿月は久々に神矢の顔を正面から見た。瞳をぱちくりさせる。

    「えっ、そうね……。何がいいのかしら……」

     小さなあご先に細い指先を添えて思案する。

     あまり高すぎるものを贈っても負担になるかもしれないし、そもそも男の人が何をもらったら喜ぶのかよく分からない。

     失礼ながら参考にはならないかもと覚悟しつつ、椿月は神矢に尋ねた。

    「辰巳が今欲しいものはなあに?」

    「ドイツ製の時計」

     本当に参考にならなかった。

     そんなもの、手が届く届かないという次元の問題ではない。

     椿月は質問の仕方を変えることにした。

    「じゃあ、今までもらって一番嬉しかったのは?」

    「そりゃあ、私を丸ごと――」

     途中まで言いかけた神矢の言葉を、椿月の軽蔑するような冷たいまなざしが押しとどめる。

     やはり全然参考にならなかった。

     椿月はふたたび窓の外に視線を戻すと、深いため息をついた。

     拭いきれない憂いを帯びたその横顔は、完全に悪女のそれではない。

    「……物なんて、いらないのにな……」

     ポツリとつぶやかれた本音。

     神矢は心から、美しい横顔だ、と思った。そして、こうやって少女は女になっていくのかと、妙に納得してしまった。

     センセー、こんな健気でかわいい子を放って、どこで何をやってるんだよ。

     神矢は何も言わず、ふたたび雑誌に視線を落とした。






     この仕事が始まってどのくらい経っただろうか。

     午前はほぼ無人の展示室で読書、午後からは自室で執筆。代わり映えしない日々。

     凪いだ水面のような生活がすっかり日常と化した、ある日のことだった。



     誠一郎は午前の当番を終え、いつものように望月に一方的に絡まれながら当番を交代した。それから望月と入れ替わるように食堂で食事をもらい、自室に戻ろうとしたところで、本を借りるつもりだったことを思い出した。

     展示室にいる間はずっと読書をしているので、信じられない早さで本を読みきってしまう。自宅から持ってきた本はとっくに読みきり、最近ではこの屋敷に置いてある本を片っ端から借りていた。

     二階の自分の客間へ向かっていた足を一階に戻し、本のある部屋へ向かうことに。

     長い廊下に広く取られた窓からは、日の光が差し込んでいる。

     この家は周りの家と距離があるためか、目隠しの樹木などがほとんど植えられておらず、どこも非常に見通しがいい。部屋の窓からは専属の庭師によって手入れの行き届いた和風庭園が見え、廊下側では西洋風に整えられた玄関前の広場が見える。

     そんな穏やかな景色を横目に、誠一郎が廊下を歩いていたとき。

    ――パリン。

     小さく何か聞こえた気がした。

     空耳と思うほど本当に小さな音だったので、ともすれば聞き逃していただろう。

     それでも彼が足を止めたのは、何となく嫌な予感がしたからだった。

     自分の身動きを止めて、音の再来を待つ。

    ――ガシャン。

     聞こえた。

    ――ガシャンガシャン。

     今度は連続して聞こえる。そのおかげで音する方角が何となく分かった。

     遠い。壁を隔てて音がくぐもっている。

     今いる廊下のもっと奥の方の部屋だろう。聞き逃さないように足音を殺しながら、音を頼りにゆっくりと歩みを進める。

     その不穏な音は勢いを増して何度か続いたかと思うと、その後は聞こえなくなった。

     廊下を探るようにゆっくりと途中まで進んでから、誠一郎はハッと気が付いて、駆けた。

     この廊下の一番奥は、展示室だ。

     飛び込んだ室内で、するはずのない風の流れを感じた。

     まず視界に飛び込んできたのは、ガラスを派手に割られた窓。

     慌てて部屋を見回すと。

    「小峰さん!」

     部屋の隅に腰を抜かしている小峰の姿があった。

     すぐに駆け寄り、小峰の背中に手を添えて支える。混乱と恐怖からか、小峰の体は小刻みに震えていた。

     小峰は誠一郎が駆けつけたことにも驚きつつ、震える指先で目の前の割れた窓をさし、次に展示物が飾ってある台座の一つを指差した。

    「窓ガラスを叩き割って、覆面の男が……。あ、あそこの壷を奪って……」

     誠一郎が午前にここにいた時、たしかに全ての台座の上に壷が飾られていた。それははっきり覚えている。

     しかし今、小峰が指し示した台座の上にあった壷は、跡形もなく奪い去られていた。

     誠一郎は小峰に断り、彼の体を壁にもたれさせ、空となった台座のもとに寄った。

     展示物が見やすいよう、大人の男のへそのあたりまでの高さがある石製の円柱状の台座。たしかこの上には、白地に青の模様が入った壷が飾られていたはず。

     壷は細身ではあったものの、ちょうど誠一郎の目の高さくらいまであったはずだから、大きさとしてはけして小さいほうではない。重さもあるし、小柄な者や力の弱い者が抱えて走るのは難しいだろう。

     そんなところに何もあるわけがないと分かっていても、とっさに台座のふもとや自分の足元を確認してしまう。

     誠一郎は割られた窓にも近づいた。窓の近くのじゅうたんの上には、弾け飛んだ小さなガラスの欠片が女性の耳飾りのようにキラキラ光っている。

     犯人は相当慌てていたのか、ガラスの割られ方はだいぶ雑で、まんべんなく窓枠内を全て割っているわけでなく、とりあえず人ひとりが何とか通れればいい、というような破壊具合だった。大きな尖りを持った窓ガラスが、まだいくつも窓枠に張り付いている。

     窓の外も覗いてみるが、やはり大きなガラス片が均(なら)された中庭の土の上に沢山落ちていた。

     これを不幸中の幸いと言ってしまっていいのか分からないが、盗まれた品は初日に小峰が説明してくれたいくつかある高価な壷の一つではなかった。

     事態をひとしきり確認して冷静になった誠一郎は、ふとあることに気が付いた。小峰のそばに戻り、目線の高さを合わせ、尋ねる。

    「あの……望月さんはどちらに?」

     この午後の時間帯は望月が展示室にいるはずだ。

     けれど、この部屋には小峰以外の姿はない。

    「それが……ちょっと外したいからと、たまたま見回りに来た私にここを頼んで、どこかへ……」

     戸惑いを含んだ小峰の答えに、誠一郎は再度問う。

    「望月さんとここを代わったのは、どのくらい前のことですか?」

    「二十分から、二十五分くらい前ですかね……」

     厠にしては少し長い時間だ。何か用事だったのだろうか。

     その時、ちょうど望月が戻ってきた。

     どことなく顔色があまり良くなかったが、彼は部屋の割れた窓を視界に入れるなり目を見張った。腰を抜かさんばかりに情けない声を上げる。

    「えっ、えぇええぇえ?!」

     そしてすぐに、壁に寄りかかる小峰とそばに付き添う誠一郎に気づいた。

    「えっ、えっ。な、何があったんだ……?」

     オロオロと慌てふためく望月。何か自分にとってまずそうな気配は感じとっているようで、及び腰になっている。

     今の小峰に答えさせるのは酷だと思い、誠一郎が代わりに口を開く。

    「……強盗が入ったようです」

     誠一郎は望月の様子をじっと観察しながら事態の説明をした。

     話を聞いた望月はサッと顔面を青くさせ、

    「う、うそだ……こんな、誰も来ないところに強盗なんて……盗まれたなんて、うそだろ。僕をからかってるんだろう? いつも僕に言い返せない憂さを晴らそうと、罠にはめようとしてるんだろう?」

     と、うろうろと歩き回って瞳をキョロキョロと動かし、室内をくまなく探す。

     だがそもそもこの部屋は、簡単な机と椅子、台座と展示物以外は何も置いておらず、収納するような場所やどこかに続くような扉もない。

     冗談でもいたずらでも、壷を隠せるような場所などあるわけがない。

     室内のどこを探してもその壷がないことで、ようやく盗難の事実を受け入れるようになったのか、望月は忙しなく歩き回る足を止めた。

     そしてブツブツと、自分自身と喋るように小声で何かを言い出す。いつもの上から来る態度が嘘のように、落ち着きなく親指の爪を噛んでいる。

    「困るよ……なんで僕の時なんだよ……冗談じゃないよ……」

     すると、ふと何か思いついたのか、望月は小峰に迫るように確認をした。

    「いや、待ってくれ……。盗まれたあのツボは、たしかそんなに高価じゃないんだよな? な?」

    「は、まぁ、一応は……」

     他の高いものと比べてさほど高価でないとはいえ、ここに展示されている以上骨董品としての価値はあるものなのだ。小峰はなんとも言えなかったようで、あいまいな言葉を返す。

     それだけ確認すると、望月は自分を落ち着かせるように「そうか、そうか。ならまぁ、きっと大丈夫……」とうなずきを繰り返す。

     そして。

    「ちょ、ちょっと失礼するよ。ハハ」

     あせりで足がもつれそうになりながら、急いで部屋を出て行ってしまう。

     余裕などまったくないはずなのに、何とか挟み込む乾いた笑いが痛々しい。

     そもそも、午後の展示室の当番は望月だ。こんな事態になっているのに、「失礼するよ」などと居なくなっていいわけがない。

     誠一郎は、自分の当番の時間帯ではないからと言い逃れるつもりはなかった。こんなことになってしまっては、担当の時間帯も何もないだろう。

     小峰の体を支えながら、壷のなくなった台座と、割られた窓ガラスを繰り返し見つめる。


     その目は真実の片鱗をとらえかけていた。







     かなり疲労の色が濃かった小峰を彼の自室に送り届け、誠一郎はこう言った。

    「小峰さんは部屋で休んでいてください。僕が報告をしてきます」

     それはもちろん、展示物の骨董品の持ち主であるこの屋敷の主人にだ。

     小峰は驚いて、

    「い、いやいや! そんなことを君に任せるのは申し訳ない!」

     と珍しく大きな声を出した。

    「いえ。小峰さんは体が辛そうですし、望月さんが担当していた時とはいえ僕に責任がないわけではありません」

     その望月はどこかへ行ってしまったわけなのだが。

    「いや、でも……」

     誠一郎は、小峰が自分をかばうように食い下がるほどに、この屋敷の主人は怒るとどれだけ恐ろしいのだろう、などと想像してしまう。

     そこからしばらく「一人で行く」「君は行かなくていい」という押し問答を繰り返したのち、結局小峰が折れた。

     小峰はとても申し訳なさそうに、

    「深沢くん、本当にすまないね……。こんなことに巻き込んでしまって」

     と、小さな老体を丸めて頭を下げていた。




     日の暮れかかった夕刻に屋敷の主人が帰宅した。

     玄関に車が滑り込む音が聞こえて、誠一郎は心を決めた。

     車を専属の運転手に任せ、一人で屋敷に戻ってきた主人を数人の女中が迎える。

     実は、誠一郎はこれまで一度も屋敷の主人と話をしたことがなかった。仕事の内容の説明も、屋敷の案内も全て小峰がしてくれたし、普段の生活でも広すぎる屋敷のせいですれ違うこともなかったのだ。

     初めて見た屋敷の主人は、誠一郎が話を聴いて想像していた通りの人だった。広い屋敷で骨董品を山ほど集めるようなお金持ちと言って庶民が想像する人物の平均を取ったような人。

     身の丈はさほど高くなく、恰幅(かっぷく)の良い体を高そうな着物と羽織りで包み、カンカン帽子を外した頭頂部は少し寂しい。どんな仕事をしているのか分からないが、感情の読みにくい表情からどこか狡猾なやり手という印象を受ける。

     帰ってきた屋敷の主人を女中らと共に迎え、自己紹介と報告したい件があることを述べた。初対面の自分へ向けられる捉えどころのない表情の中、目の奥が笑っていない気がした。

     そして、夕飯前に時間を取ってもらい、書斎で一連の報告をした。

     申し訳ありませんと直角に頭を下げるも、そこにかけられた言葉は意外なものだった。

    「そうか……」

     話を聴いた主人は、意外にも反応が薄かった。誠一郎は拍子抜けしてしまう。怒鳴り散らされる覚悟くらいはしていたというのに。

     自分の家で盗難があったという事実を知らされたら、多かれ少なかれ人はもっと動揺するのはないだろうか。おもてを上げ、ちらりと主人の顔色をうかがった誠一郎はそう思った。

    「……盗られてしまったものは、今さらどうしようもないな」

     太い葉巻の紫煙をくゆらせながら、大事な収集品を諦めようとするような発言をしている。

     いぶかしむような誠一郎の視線に気づいたのか、主人は言葉を重ねる。

    「いや、まあ……そういった本職の人にきちんと頼まなかったのは私の落ち度だ。これまで何も問題がなかったから、この先もきっと大丈夫だと思い込んでいたんだよ。うん。君や望月くんが気に病むことはない」

     どうやら望月のことは知っているようだ。それと、彼がここにいないことを責めたり疑問に思っているような口ぶりもない。むしろ、かばうような発言が目に付く。

    「そもそも……離れの準備で小峰が展示室を外すことが多くなると聞いたときも、私は別に見張る者の追加など要らないと言ったんだ。盗みに入る者なんているわけがない。この十数年、ほぼ放置していても何もなかったのだから。でも、小峰に『専門の方でなくても、どなたかいてもらった方が』と何度も進言されて、やっと折れたくらいなんだよ。私は無駄遣いをしたくない性格だからね……」

     誠一郎はこの発言にも違和感を覚えた。

     屋敷の主人は改めて誠一郎に向かい合うと、淡々と今後の話を始める。

    「当然だが、こんなことになっては報酬の件は無かったことにしてもらう。それから、物騒な者に狙われる可能性があると分かった以上、この家の警備を強化する。安全のためにも展示室は閉じるすることにする。もうこの仕事は終わりだから、明日、車で君の町まで送らせよう」

     こんな事態になっては報酬など出されるわけはないことは納得している。展示室を即時閉鎖することも当然の判断だ。

     しかし、あまりにすんなりと進む話に、誠一郎は当たり前の疑問を差し挟む。

    「あの、警察に連絡してきちんと捜査してもらわないのですか?」

     骨董品の盗難だけでなく、ガラスを割って屋敷に侵入されているのである。

    「あー……いや、まあ、それはいいんだ……うん」

     奥歯に物が挟まったような言い方でごまかされる。

     腑に落ちないが、それ以上踏み込んで質問できるような空気でもない。

     桁の違う金持ちにとって、安価な壷を一つ取られたくらいではさほど動揺などしないのだろうか。

     主人に「もう下がりなさい」と言われてしまうと、おとなしくそれに従うしかなかった。




     怒鳴り散らされたり、責任を取れと責めたてられたりしなかったことは本当に良かった。

     でも、なんとなく色んなことに違和感がして、気持ちが悪い。

     自分の客間に戻る薄暗い廊下をたどりながら、誠一郎は黙って考えていた。

     屋敷の主人は、盗難があったことをすでに誰かから聞いていたのだろうか。あまりに驚きがなかった気がする。それと、この件を警察に連絡できない事情でもあるのだろうか。

     また、先程の屋敷の主人の話は、ところどころ小峰の説明と食い違っていた。以前に小峰は「旦那様に必ず見張りの者を立てるように言われた」と言っていたが、今の屋敷の主人の説明では「小峰に言われて仕方なく雇うことにした」ということだった。

     そもそもあの展示室の様子もおかしかったのだ、と、さらに考え始めた時。

    「わっ! な、なんだよ、おどかすなよ……!」

     廊下を曲がって出会い頭にぶつかりかけたのは、あれから姿を見ていなかった望月だった。

     両手にはずいぶん大きな荷物が抱えられている。恐らくここに持ってきたものをすべてまとめたのだろう。

    「もう展示室は閉鎖してこの仕事は終わりなんだろう? 僕はお先に失敬するよ、ビン底眼鏡クン」

     決してビン底眼鏡などではないのだが、今はそんなことに構っている場合ではない。

     早足で隣をすり抜けて去ろうとする望月に、誠一郎は尋ねた。

    「明日、車で送っていただけるようですよ。もう日が暮れました。今からどうやって帰るんですか?」

     ここはあまり栄えた町とは言えないので、徒歩で公共交通機関の通っている所までたどり着くのはだいぶ時間がかかる。どこの住まいか知らないが、もしこの町の近くだったとしても、民家同士にも結構な距離があるので歩いて帰るのは大変だろう。

     望月はその疑問を鼻で笑って答える。

    「ハッ。貧乏人の発想だな。ここまで僕の家の車が迎えに来るに決まってるだろ」

     “僕の家の車”ということは、望月の家はここに負けず劣らず相当に裕福とか、良い家柄なのだろう。

     その時、誠一郎はある可能性をひらめいて、少し突っ込んだことを訊いてみた。

    「もしかして……望月さんのお父上は、警察関係の方ですか?」

     望月は、どうしてそんなことを知ってるんだ、とばかりに目を見開いた後すぐ、

    「この家の連中の誰かに聞いたんだな。小峰のじいさん辺りか? あんまり言うなって言っといたのに、有名人ってのはこれかから困っちゃうね。そう、僕はこの町の警察署長の息子さ」

     と、勝手に納得して、勝手に想像して、勝手に得意げに嘆いて、勝手に名乗った。

     誠一郎はこれでようやく合点がいった。小峰や他の手伝いの者たちがその横暴な発言や素行を注意できなかった理由。

     町の警察署長の子息、しかもこんな性格の人物に無闇に注意などしたらその後どうなるか。この町の人間でない誠一郎でも、十分に想像がつく。

     だからこそ彼は、これまで誰にもふるまいを正してもらうことなく、良い意味で鼻を折られることもなく、こんな性格に育ってしまったのかもしれないが。

     あとそれから、今のことからもう一つ推測できること。それを確認するためにさらに尋ねる。

    「強盗に入られてからすぐにどこかへ行っていたようですが、お父上に連絡を取りに行ってたんですか?」

    「ああ、そうだよ。もう終わりだしはっきり言うけど、僕は将来警察関係の上層部に就くことが決まってるわけなんだよ。こんな下らない仕事の失態なんかで、僕の経歴に泥を塗るなんて真っ平御免だ」

     そう言って、「ったく、よりによってどうして僕の当番の時にコソ泥が入んだよ……」と、顔をゆがめて悪態をつく。もし強盗に入られたのが自分の当番の時でなければ、きっと鬼の首を取ったように誠一郎を糾弾していたことだろう。

    「連絡を取ったのは捜査の依頼のためではなく、この盗難の件をもみ消して欲しい、ということだったんですね」

    「そーいうこと。盗まれた壷の金額分は僕の父さんが支払ってやるって言ってるし。どうせこの家の主人だって、叩けばほこりが出てくるようなあくどい金の稼ぎ方をしてるんだ。それで波風が立たないならお互いにとって良い事だろ」

     とんでもない理論を振りかざしているが、誠一郎はいくつか分かったことがあった。

     屋敷の主人は誠一郎から報告を受ける前に、望月に泣きつかれた望月の父から既にこの盗難事件のことを聞いていたのだろう。

     被害を警察に届け出ないと渋々決めたのは、息子をかばう望月の父から警察沙汰にしないよう圧力がかかったから。盗まれた壷の代金は支払うし、望月いわく“叩けばほこりが出るような”やり口の家業にも目をつぶっておいてやるから、ということなのだろう。

     先程の屋敷の主人の口ぶりはずいぶん歯切れが悪かったが、こんなこと歯切れ良く説明できるわけがない。

    「君も、くれぐれも余計なことを口外しないでくれたまえよ。まぁ、そんな地位があるような大した知り合いも居ないんだろうけど。どうせ家族はみんな冴えないビン底眼鏡で、知り合いもみんな本だけがお友達の陰気な奴らなんだろ」

     いつものように悪気なく暴言を残してさっさと会話を切り上げようとする望月に、最後にもう一つ、気になっていたことを訊いた。

    「あの……最後にうかがいたいんですが。望月さんはどうしてこの仕事を引き受けたんですか?」

     今は“下らない仕事”などと言っているが、当初は誠一郎に嫌味を言うほどかなり使命感に燃えていたはずだ。警察署長の息子ともあろう人が、どういった経緯でこの仕事を引き受けることになったのか。

     少し話しにくそうに、望月は仕方なく口を開く。

    「ああ……。直接誘ってきたのは、小峰のじじいだよ。僕はしばらくちゃんと働いてなくて……いや、ずっと無職の君とは違うからな。何度か社会勉強がてら父さんの知り合いの会社とかに行ってやってたんだが、他の連中の程度が低いことに嫌気がさして、辞めたんだ」

     望月の主観を取り除いて要約すると、底抜けに悪い性格のせいでどこに行っても馴染めず仕事が長続きしなかった、ということだろう。

    「久しぶりにちゃんと働くってんで、父さんも喜んでいたんだ。小峰のじじいが『警察署長のご子息はきっと警備がお得意でしょうから』とか言うからせっかく来てやったのに。こんなことに巻き込みやがって……」

     そう吐き捨てるように言って、望月はうんざりしたのか、

    「もう迎えの車が玄関まで来てるころだから、帰る。余計な時間取らせるなよ」

     と不機嫌そうに去って行った。

     誠一郎はそれを引き止めることなく、黙って彼の背を見送る。



     望月との話で、いろいろな事が分かってしまった。

     しかし、分かったけれど、心の中の霧は一向に晴れていない。

     今の誠一郎の中にあるのは、ただ純粋な“疑問”だった。



     それから。

     誠一郎は夜を待った。

     消灯され、屋敷全体が寝静まったころ。

     部屋を抜け出し、ある人物の部屋の扉を叩いた。


    「夜分遅くに申し訳ありません。深沢です。少しお話よろしいですか」







    「深沢くん」

     誠一郎が思っていた通り、小峰は起きていた。

    「話を聞かせてもらえますか」

     まっすぐに見つめるまなざしに、小峰は聞こえないくらい小さくため息をつく。

    「……あなたにこの仕事を依頼したのは、やはり間違いでしたね」

     悔しがるもなく、笑うでもなく。諦めるように肩を落とした小峰は、誠一郎を部屋の中に招き入れた。

     寝床や机といった最低限の家具が備えられた簡素な室内には、卓上電灯だけが心細げに灯っている。光が届かない部屋の隅は闇に落ち、なおいっそう部屋を狭く見せていた。

     小峰は卓上電灯に一番近い椅子に腰かけると、言い逃れることもなく静かに尋ねた。

    「……なぜ、分かりましたか?」

     闇に落ちた場所から踏み出し、一歩光に近づくと、誠一郎は口を開いた。

    「……不自然な点は多々ありました。強盗がガラスを割って外から押し入ったというわりには、ガラス片は屋外側に多く散らばっていましたし、室内には外履きで踏み入ったと思われるような土や草のついた足跡はありませんでした」

     誠一郎は立ったまま、話を続ける。

    「加えて、割られていたのは大人一人が通り抜けるにはギリギリの大きさだったのにもかかわらず、割り落とされず窓枠に残っていた切っ先には、毛髪や皮膚、服の繊維も何も引っかかっていませんでした。あの大きさの隙間を慌てて出入りしたのなら、小柄な人であろうとどこかしらが引っかかってしまうと思います」

     小峰は否定することも、言葉を挟むこともなく聴いていた。

    「そして『覆面姿の犯人を見た』と言っているのは、今のところ小峰さんだけです。覆面をしてひらけた中庭から室内に乗り込み、両手が塞がる大きさの壷をかかえて、見通しの良い建物の外に逃げ出し、家などの物陰のないところを逃げたのなら、他のお手伝いの方々が一人も目撃していないというのは、いくつもの偶然が重なったとしてもいささか不自然です。
     強盗犯など本当は居なかったとなると、すべてはその場にいた小峰さんの自作自演ということになります。望月さんと当番を代わり――あの時の望月さんの顔色の悪さからするに、恐らく昼の食事に下剤か何かを混ぜたのではないかと思うのですが――、一人になってすぐ壷を隠し、金づちか何かで窓ガラスを派手に叩き割った。そこにすぐ僕が駆け込んできたのは、少々計算外だったのかもしれませんが……」

     誠一郎の言葉が終わると、小峰はすべてを受け入れるようにこう言った。

    「……慣れないことはするものではないですね。この歳になって。お恥ずかしい限りです」

     否定しないことですべてを認めた小峰に、誠一郎は問いかける。

    「存在しない強盗をでっち上げてまで、あの壷を盗まれたと見せかけた理由は一体何なのですか?」

     別に糾弾したいわけではない。純粋に、彼がこういう行動をとった理由が知りたかった。

     少し考えるような間を置いてから、小峰は誠一郎に椅子を勧めた。

     彼がそこに腰掛けると、ゆっくりと語りはじめる。

    「……この屋敷の旦那様は、庶民に向けた金融業をされています。平たく言えば、金貸しです。私が隠したあの壷は、旦那様がある方からあくどいやり方で奪ったものです。私はその方に、どうしてもあの壷をお返ししたかった」

     細い目をさらに細めるようにして、小峰は何かを思い出しながら語っていた。

    「以前より、どうにかあの壷を盗み出すことができないかと考えていました。でも、いつものように私が一人で管理しているときに犯行に及べば、私の自作自演が疑われる可能性が高いと考え、思いとどまっていたのです。今回の離れの展示室の新設は良い契機だと思いました。あなたや望月さんといった屋敷には無関係の人間を巻き込むことによって、強盗の存在に信憑性を持たせ、犯人の正体をぼやかしたかったのです」

    「……この町の警察署長の息子である望月さんを直々に呼んだのは、盗難が発覚したのち、警察沙汰にされることを防ぐためですね?」

     その指摘に、そんなことまで読まれていたのか、と自嘲するように弱々しい微笑を浮かべる。

    「何でもお見通しなんですね……。そうです。望月さんの性格なら、自分の経歴に傷がつくことを恐れてすぐに父親に泣きつくだろうと思っていました。でも、どう考えても性格や能力に問題のある望月さんだけを見張り役にしたなら、旦那様や周りの方に怪しまれる可能性があります。だから、見張り役としての体裁を整えるためにもう一人、理由をつけてあなたをお呼びしました」

     あんな暇な仕事をわざわざ二人の人間に分担させた理由が、ようやく分かった。それと、あんなに性格に難がある望月をわざわざ雇った理由も。

     小峰はぽつりぽつりと胸中を吐露しはじめる。

    「あの壷は……ある未亡人の方の、亡くなられたご主人が大切にされていた形見の品なのです。借金の返済の遅れにかこつけて持っていかれたそうで、借金をすべて返し終えた今も、理由をつけて返してくれないそうなのです」

     恐らく、望月が言っていた“叩けばほこりが出るような”というやり方の一端が、こういうことなのだろう。この豪華な屋敷を築いたのも、きれいなお金でだけではないということだ。

    「私はその方の昔のなじみのようなもの……いや、彼女は私みたいな者にとっては高嶺の花のような存在だったので、なじみなどと言ってしまっていいのか分かりませんが……」

     そう慎重に言葉を選ぶ様子から、小峰が本当にその人のことを、その人と昔の思い出を大事にしているのだということが伝わってくる。

    「取り上げられた彼女の壷のことを知り、私がこの屋敷の骨董品や展示室の管理を担当しているのは運命だと思いました。こんな私でも役に立てるのならば、何でもいいから、最後にあの方の力になって差し上げたかったのです……」

     遠い日の大切な気持ちを慈しむように、小峰はそう理由を告白した。

     少し間を置いて、ふたたび尋ねる。

    「……もし私がしらを切ったら、どうするつもりだったのですか?」

     迷うことなく、誠一郎は即答する。

    「小峰さんが隠した場所から、壷を持ってくるつもりでした。屋敷が消灯した後に、展示室から壷を持ち出すだろうと思っていましたので」

     そう答える彼を、小峰は試すようにじっと見つめる。

     盗難の発覚後、望月が部屋中を探し回っても見つからなかった壷。そもそも部屋には展示物の載った台座と、机と椅子があるだけで、隠せるようなところはなかった。

     誠一郎はそれに応えるように口を開く。

    「盗まれた壷が飾ってあった、円柱状の台座の中ですよね。あの台座は多分、どこかが開くような仕組みになっているんじゃないですか? 石製の材質らしくなく、叩いたら音が響きました。中が空洞になっているのでしょう。あの壷は細身だったので、十分入るはずです。恐らく窓ガラスを叩き割った道具も一緒にそこに隠してあるのでは」

     小峰はゆっくりうなずいた。その表情には悔しさのようなものはなく、どちらかといえば穏やかなものだった。

     もしかしたら、小峰は心のどこかで感じていたのかもしれない。もう一人の見張り役として誠一郎を呼んだときに、彼にすべてを見抜かれる可能性を。

     そして。

     顔を上げ、小峰は静かに言った。

    「……理由はどうあれ、これは窃盗です。覚悟はしていました。どうぞ、ご随意に」

     電灯だけが灯った部屋で、黙って向かい合う二人。

     聞こえるのは、窓の外の闇からもたらされる鈴虫と蛙の鳴き声だけ。

     誠一郎は、小峰を断罪する気にはとてもなれなかった。

     若かりし頃の小峰の気持ちを勝手に想像して、勝手に思いを重ねているだけなのだけれど。

     自分がもし、椿月が大切なものを理不尽に取り上げられて悲しんでいると知ったら。

     仮令(たとえ)誰か他の男の大切な人になっていたとしても、それを取り返してやらないではいられないだろう。自分だけがそれをできる立場なら、なおさら。

     しばしの沈黙の後。

    「……いえ。あれは、泥棒が入ったんです。こういう話もあるのかなと、僕が空想しただけです。どうか、今夜の僕の話は忘れてください」

     誠一郎の言葉に、小峰はじっと彼の目を見つめた。誠一郎もまた小峰の細い目を見つめ返す。

     小峰は何も発さぬまま、深く長く、頭を下げた。



    ――二人の会話はそのまま真夜中の闇に溶け、消えてなくなった。






     翌日。

     約束どおり車で町に送り届けてもらった。

     実に一ヶ月以上ぶりに戻ったこの町。

     誠一郎は自分が町を出る前とまったく同じ状況であることに、改めて深いため息をついていた。

     報酬が一銭ももらえないことに関しては、今さら何を言うつもりもない。そもそも、あんな暇つぶしだけで金銭が発生する方がおかしな話だったのだ。

     あの後、小峰が「あなたは私にだまされたようなものだ。申し訳ないので、心ばかりではあるが私からいくらか謝礼を支払わせてほしい」と言われたが、丁重にお断りした。あんな切実な思いをかかえていた年配の方からお金をいただくなんて、誠一郎にはとても出来ない。

     報酬のことは諦めるとしても。この町を出る前に、椿月に「何か欲しいものはありますか」などと尋ねてしまっている。彼女が忘れていてくれたらいいのだが、忘れていなければ余計な期待を与えてしまっているかもしれない。

     この町に帰ってきたらいの一番に椿月に会いに行こうと思っていたのだが、なんとなく気が進まない。

     早く、久しぶりの彼女の顔を見たい。でも、何の変化もない自分の現状が憂鬱で。

     劇場へ向かっていた足は、無意識に入り口を避け、誠一郎を裏手側に回らせる。

     劇場の裏口に通じる、これまで何度も椿月と歩いた人気のない小川沿いの小路。

     ここに来ると、彼女と交わした様々な言葉を思い出す。一人で訪れたのはこれが初めてかもしれない。

     ゆるやかな土手に腰を下ろす。

     さて、どうしたものか。誠一郎は考える。

     ふと目を周りにやれば、自分がここに来ていなかった間にもたしかに季節は移り変わっていて、気の早い木々たちは身を色づかせはじめている。

     強い花の香りがすると思ったら、近くで金木犀(きんもくせい)の花が咲いていた。濃い緑の葉の中にぽつぽつと、小ぶりの橙色が見える。

     ぼうっと自然を眺めていたせいで、誠一郎は自分の背後に現れた人の気配になかなか気がつけなかった。

    「誠一郎さん……?」

     名前を呼ばれ、振り返って見上げた先には。

     信じられない、という顔をしている椿月の姿があった。舞台の合間に散歩に来たのか、その身は舞台用の漆黒のロングドレスで、上に防寒のための肩掛けを羽織っていた。

     誠一郎と会えない間の椿月も、一人でよくここに二人の思い出をなぞりにやってきていたのかもしれない。

    「……ご無沙汰しています」

     まさかこんなところで鉢合わせると思っていなかった誠一郎の口から、当たり障りがないだけの言葉が飛び出す。

     椿月は驚きと嬉しさがこみ上げてしばらく何も言えないままだったが、すぐに彼のそばに近寄った。本当は隣に座りたいけれど、舞台用のドレスを汚してしまう。

     立ったままの彼女の困惑に気がついた誠一郎は、自分の羽織りを脱いで折りたたみ、土手の原っぱの上に敷いた。

     「ありがとう」と悪女の姿らしからぬ風にその頬を赤らめ、長い脚をたたんで遠慮がちにそこに座った椿月。

    「用事はもう終わったの?」

     誠一郎は「はい」と簡潔に答えた。

     彼の口数が少ないのは普段どおりのことなのだけれど、椿月はなんとも言えない、いつもと違う彼の様子を感じ取っていた。

    「……どうしたの?」

     椿月はそっと彼の顔を覗き込み、尋ねる。大ぶりの耳飾りがきらりと光った。

     久々に近くで見た椿月の顔はやはり息を呑むほど美しく、彼女のかけてくれる言葉はいつも自分の心のしこりを溶解させてしまう。

    「すみません。実は――」

     誠一郎は今までのことを正直に話した。

     椿月に贈り物をしたくて、しばらく仕事をしにこの町を出ていたこと。

     いろいろあって、結局その報酬はもらえなくなってしまったこと。

    「……期待させるようなことを言ってしまって、すみませんでした」

     話し終えると彼女にそう詫びた。

     椿月は彼の目をまっすぐに見つめる。

     白い手が、あぐらをかいた彼の膝の上にそっと載せられた。

    「会えなくなるくらいなら、贈り物なんていらないわ」

     ほほえみを湛(たた)えながらも真剣な瞳で、そう告げる。

     まっすぐ目を見て話す彼女の言葉に嘘はないのだろう。誠一郎には分かる。

     しかし、それでも払拭できない不安が心の内に存在することは、それとはまた別の問題で。

     彼の沈黙の中にまた何かを感じ取ったのか、椿月は改めてこう訊いた。まるで子を諭す時のように、とても優しい声色で。

    「ねえ。誠一郎さんはどうして私と会ったり、一緒にいてくれたりするの? 私が女優だから?」

     唐突な質問に、誠一郎はすぐに言葉が返せなかった。

     彼女の顔を見つめ返してから、

    「違います」

     とはっきり答える。

     眼鏡越しに見える彼女の端整(たんせい)な顔が、柔らかい笑顔に崩れる。

    「私もあなたと同じ気持ちよ。あなたが何者だからとか、何かをくれるからって一緒にいるわけじゃない。それだけじゃ、あなたの不安は消えないのかな……」

     そう話して彼の瞳をじっと見つめた。

     正直なところ誠一郎は、彼女がこうまで言ってくれても、心のわだかまりを完全に消すことはできなかった。

     でも。

     こんな自分にここまで言ってくれる彼女を心から信じないことは、とても悪い気がした。

     最近の自分は、少し先の方を見すぎていたのかもしれない。

     遠くに焦点を合わせすぎて、近くの大切なものが見えなくなっていた。

     だから、今だけでも。どうなるか分からない未来の不安ばかり見つめるのでなく、自分のすぐそばにいる彼女のことだけを見ていようと思った。

     誠一郎は勇気を出して、自分の膝に載る椿月の右手の上に、自分の左手をそっと重ねた。







     誠一郎がこの町に戻った、少し後のこと。

     二人は街中に出かけていた。

     いろいろな予定や事情が重なり、こうして二人きりで外出をするのは本当に久しぶりのことだった。誠一郎はいつもと変わらない表情の下で、いつにも増して胸を高鳴らせていた。

     少し早めに待ち合わせ場所に着いたはずなのに、そこにはすでに椿月の姿があった。誠一郎の姿を見つけると、胸の前で片手を振って駆けてくる。

     装いの色合いは秋を意識したのか、濃紺の袴の下にイチョウの葉のような黄色い着物。細かな模様を型染めされた長羽織は、紅葉を思わせる橙色。

     それから、普段はよく下ろしている髪を上げてすっきりとまとめていた。細い首筋があらわになっている。

     挨拶を交わしたのち、椿月が遠慮がちに「どうかしら?」と尋ねてきたので、誠一郎は「よくお似合いです」と答えた。

     椿月が今日髪をまとめてきたのは、以前彼の家に行った際、珍しく髪型を褒めてもらえたからなのだが。誠一郎はそんな理由だとは想像だにしないだろう。それに、あの時は改めて尋ねられたから口に出して「似合う」と言っただけで、普段から椿月はどんな格好をしていてもよく似合っていると心から思っている。

     ここしばらく劇場でばかり会っていたので、こうして普段の彼女を見るのは久しぶりだった。

     つやめく黒髪。白い肌に薄紅色の唇が映える。

     劇場での美しさとはまた違う魅力があった。

     現に、椿月はそばを歩く人によく振り返られることがある。遠目では普通の娘のように見えるかもしれないが、近くで見ると普通の娘とは一線を画することがすぐに分かるのだ。

     二人はいつものように目的なく歩き、会話を楽しむ。

     だが、今日は少しいつもと違っていることがあった。

     誠一郎が不意に、ある雑貨屋に入ったのだ。

     普段はあまり店を冷やかしたりすることがないので、珍しいなと思いつつ、椿月も素直に後に続いた。

     客は自分たちだけの、小ぢんまりとした店内。装飾品や服飾雑貨が多く取り扱われているようで、きれいな帯留めだったり、かわいらしい髪飾りだったり。男子用だと扇子やちょっとしたお洒落帽などが置かれていた。

     飾られている品物を見ながら、椿月は楽しそうに「あっ、これかわいい」「誠一郎さん、見て。とってもきれい」などと声を上げている。

     いつもは劇場で大人びたふるまいをしていることの多い彼女が、年相応の娘のようにはしゃいでいる姿を見ていると、それだけで誠一郎も楽しかった。たまにはこういうのもいいな、と思える。

     すると、仲むつまじい二人の様子を見守っていた店主が、「ふふっ」と笑った。

     誠一郎と店主の目が、ふと合う。店主の老婆は優しげにほほえんでみせる。彼は反射的に会釈をした。

     店は奥の自宅と繋がっていて、その畳の間から会計など来客の対応をできるようになっている。老婆は畳の間に座布団を敷いて座り、店内を眺めていた。まとめられた白髪は窓からの陽を受けて、銀のように光っている。

     老婆は椿月に声をかけた。

    「とってもかわいらしいお嬢さんね」

     狭い店内に、娘は椿月一人しか居ない。椿月は振り返ると、「いいえ……」と頬を赤らめた。褒められたこともそうだが、誠一郎の前でそう言われたことも気恥ずかしかったようだ。

    「これ、良かったら試しにつけてみて?」

     そう言って老婆が背後の小さな戸棚から取り出したのは、透き通るようなとんぼ玉があしらわれたかんざしだった。

     夕日のような色をした丸いとんぼ玉の中には、金箔と銀箔が練り込まれていて高級感がある。きっと値段も相応の額なのだろう。それでも、派手というより高貴な印象を与えさせる代物だった。

     椿月が「おばさまがそう言うのなら……」と遠慮がちにそのかんざしを挿してみる。

     服の色合いもあいまって、とてもよく似合っていた。

     少し恥ずかしそうに、誠一郎に向けて見せる。

    「……よくお似合いです」

     さっきと一言半句違わないセリフなのだが、本当にそう思っているのだから仕方ない。

     椿月は近くにあった鏡を覗いて、照れたようにほほえむ。

     老婆は嬉しそうに、何かを重ねるように目を細め、そのかんざしを挿した椿月と、そばで見守る誠一郎を見つめている。

    「ありがとうございます。こんな素敵なかんざしを試させてもらって、嬉しい経験になりました」

     椿月がかんざしを外そうとしたところで、老婆は笑顔で思いも寄らぬことを言った。

    「そのかんざし、差し上げるわ」

    「えっ。そんな、こんな高そうなもの、いただけません」

     驚いたのは椿月だけではない。誠一郎も不思議そうに老婆を見つめた。

     すると老婆はさりげなく、誠一郎の視線を店から繋がる家の奥へ誘導する。いざなわれるまま誠一郎がそれをたどっていくと、見覚えのあるものがあった。

     床の間に鎮座する、高さがあって細長い、白地に青の模様が入った壷。

     それを見て誠一郎はすべてを理解し、老婆の意を汲んだ。

     突然の厚意に戸惑う椿月に、老婆はにっこり笑って言葉を重ねる。

    「彼からの贈り物だと思って、受け取ってちょうだい。ね?」

     その発言で、ますます“はてな”が止まらない椿月。

     そこに、誠一郎が声をかけた。

    「椿月さん。この方のお気持ちです。頂戴しましょう」

     びっくりして誠一郎の顔を見上げる。彼の表情はほんのり優しげに染まっていた。

     老婆はそのかんざしにまつわる思い出を、穏やかな表情で語った。

    「……そのかんざしはね、私が若い頃、大事にしてくれた人からの贈り物なの。家の決め事があったから、その人と結婚はできなかったんだけどね。私にはそれを譲り渡すような子どももいないし、大事にしまっていてもあの世まで持っていけるわけじゃないし。若い人に使ってほしいの」

     そう言ってほほ笑んで、一度誠一郎に視線をすべらせてから、また続けた。

    「貴女もずいぶん大事にしてもらっているみたいだから、ちょうどいいわ」

     紅葉のように赤く染まる二人の頬。

     それを見て、老婆はまた幸せそうに笑っていた。

     何度も礼を言って、椿月はそのかんざしを受け取った。「必ず大切にします」と約束をして。

     椿月が店から出たあと、誠一郎は振り返って頭を下げた。


     そして、小峰から届いた手紙に「ぜひ一度、大事な人と寄ってください」と書いてあった雑貨屋を後にした。


     さまざまな人の思いが込められた素敵なかんざしを挿した椿月はとても嬉しそうで、その明るいほほえみをたたえた顔はいつもより一層輝いて見えた。

     誠一郎がそんなことを考えながら歩いていると、往来の向こうから、どことなく見覚えのある姿が現れた。

     人のことを覚えるのが苦手な誠一郎が記憶をたぐり寄せるより早く、相手のほうが声を上げる。

    「あーっ!! なっ、君はこの町に住んでたのか……!」

     目をむいて大声を上げた目の前の男。ぴっちりなでつけた七三分けの髪に、今日はかっちりとしたスーツに身を包んでいる望月だった。

     あの町よりもこちらの方がはるかに栄えているので、「大したことない都会」といいつつ、いざ出てくるとなると気合を入れて身なりを整えたのだろう。

     誠一郎に喋る間を与えさせず、望月の独擅場は続く。

    「久しぶりだねぇ。僕が今日この町に来たのは何のためだと思う? そう、見合い、見合いなんだよ。君と違って僕には毎月山のように釣書が届くのでね。選び放題なんだ。父さんも、家柄があれば仕事より先に結婚でも別にいいじゃないかと言ってるし、ね……?」

     巻き時計が止まる時のように望月の勢いが止んだのは、不意に視線を落とした先にいた一輪の花、もとい、椿月と目が合ったからだった。

     椿月はその澄んだ大きな瞳で望月を見つめると、

    「誠一郎さんのお知り合いの方ですか? はじめまして」

     と、ほほえんだ。

     対する望月は挨拶を返せる余裕もなく、彼女のあまりの美少女っぷりに衝撃を受け、ただただ言葉を失っている。首を振るようにして、誠一郎と椿月を繰り返し交互に見てしまう。

     椿月は説明を求めるように、隣に立つ誠一郎の顔をさりげなく見上げた。

    「あ……彼は、この間まで行っていた仕事で一緒になった方です」

     うながされて説明するも、非常に簡潔だった。人に話せるような思い出もないので仕方がないが。

    「まぁ、そうなの。誠一郎さんがお世話になりました」

     話を聞いて、椿月は改めて望月に深く頭を下げる。

    「い、いや、とんでもない……デス」

     望月の顔は赤面と驚きが入り混じり、今まで誠一郎が見たことのない顔色になっている。それに、誰に対しても偉そうな口を利く彼が、慣れない敬語など使おうとしている。

    「あ、の、ふ、二人のご、ご関係は……」

     そう尋ねようとしたところで、望月の背後から彼の家の者らしき人が、「ぼっちゃまー!」と彼を呼んだ。すぐに行かなくてはならないようだ。

    「あ……。じゃ、じゃあな。ネクラ……じゃなかった、ビン底……でもなくて、深沢クン……」

     去り行く彼の姿を見ながら誠一郎は、初めて本名を呼ばれたな、とさほど感動もなく思っていた。


     ちなみにこの後の望月はというと、自分が心底見下していた相手に戦わずして完敗した気分で、見合いというのにまったくやる気を出せなかったという。


     望月と別れて、またぶらぶらと街を歩き出す二人。

     椿月は先程の望月の反応に少し思うところがあったようで、いぶかしげに疑問を口にする。

    「あの人、急に挙動不審になってたけど、どうしたのかしら」

     たしかに、ものすごく動揺していたし、ものすごい切り替わり方だった。

     その疑問に誠一郎は素直に答える。

    「椿月さんがとてもおきれいだから、驚いたんですよ」

     誠一郎は誰もがそう思うであろう客観的事実を言ったつもりなのだが、椿月は彼の言葉にびっくりして、どぎまぎしながら彼の方をちらりと見上げる。

    「……あなたも、そう思ってくれてるの?」

     もちろんそう思っているのだが、改めて訊かれるとなんだか照れくさい。反射的に「えっ」と驚いたあとで、恥ずかしさを押し殺し、正直に言った。

    「……はい。もちろんです」

     そのあと、椿月が何と言葉を返したら良いか分からなかったせいで、二人はしばらく黙って道を歩くことになった。

     その間、数組の恋人や夫婦と思われる男女が二人の視界を通り過ぎる。

     それを見たからか、ふと椿月が先程の望月の発言と行動に関して、また疑問を口にする。

    「ねえ……。私たちって、そんなに似合ってない……変な組み合わせなのかしら?」

     少し表現を修正しながら、椿月は言った。

     あんなに露骨に交互に見られたなら、口には出されずともさすがに察するところはあるのだろう。最後には二人がどういう関係なのかを問われかけていたし。

     この質問に対しては、誠一郎はなんとも答えがたい。釣り合いがとれているとは自分でも思っていないが、「それは当然そうですよ」とはなかなか言いにくい。

     何も答えない誠一郎に、横を歩く椿月はおもむろに彼の腕に手を伸ばした。

     右手は彼の左腕の内側の袖を、左手は彼の腕の外側の袖をつかみ、悪女役の女優姿の時のそれとは全然違うぎこちない仕草で、そっと腕に寄り添った。

     びっくりする誠一郎に、椿月は顔を見上げないまま、恥ずかしそうにこう言う。

    「こうしてたら、ちょっとはそれっぽく見えるかな……」

     誠一郎から見える、椿月の耳の端が赤い。

     声が裏返りそうになりながら、

    「は、はい……」

     と、なんとか返事にもならない返事をした。

     それっぽく、というのはどう言うことだろう。もしかして、もしかすると、恋人のように、ということだろうか。

     誠一郎はこれまでの椿月の発言や行動を振り返り冷静に分析してみようとしたが、左腕の温もりと椿月の今の言葉に神経のほとんどを奪われてしまい、今はそれ以上のことを考えるのは無理だった。

     見下ろした椿月の髪に、透き通った秋の色をしたトンボ玉のかんざしが、近づいていく若い二人を応援するように、美しく飾られている。







    (終わり)
    izumixizumi Link Message Mute
    Sep 13, 2018 1:24:35 PM

    連理の契りを君と知る episode4「思いは時を越えて」

    各話お読みくださっている方、本当にありがとうございます!(*^^*)
    とっても嬉しいです!


    ☆あらすじ☆

    開国から半世紀ほど経ち、この国にもすっかり西洋の文化が染み渡り始めた頃のお話。

    駆け出しの小説家・深沢誠一郎は、思いを寄せる人気女優の椿月に交際を申し込むため、彼女に贈り物をしたかった。
    そこにふとした縁で舞い込んだ畑違いの仕事の依頼を、破格の報酬に惹かれて引き受ける。
    嫌味な同僚にネチネチ絡まれながらも、あくびが出るほど容易な仕事と思いきや、事態は急展開を迎えてしまう。
    誠一郎は無事、椿月に贈り物をすることが出来るのだろうか――?


    (2018年4月6日発表)


    #オリジナル #創作 #小説 #短編小説 #完結 #男主人公 #恋愛 #大正浪漫 #近代 #女優 #作家 #劇場 #シリーズ #連理の契りを君と知る

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